車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

リオ・パラリンピック閉幕

2016年09月20日 22時24分35秒 | 日記
リオデジャネイロ・パラリンピックが閉幕した。

卓球だけでなく様々な競技の選手たちの活躍というか、努力の成果を拝見させていただきました。

もちろんその努力の成果を十分に発揮できなかった不本意な結果に終わった選手も大勢いると思います。

その理由がどこにあるのか、体調やメンタルを含めた個人的なものかもしれないし、環境面などによる二次的なものもあったのかもしれないけれど、いずれにせよスポーツという勝負の世界、結果がすべてものを言うわけだし、そこまで含めて「努力の成果」となるのでしょう。

今回このような感覚でオリンピック、パラリンピックを観戦したのは初めてでした。

競技に取り組むものとしてだけでなく、一社会人、一日本人としても、ものすごく、本当にものすごく良い勉強をさせていただきました。



また、2020年の東京があるからこそパラリンピックのメディアの取りあげ方も今まで以上でしたし、様々な競技の選手たちのメディアへの露出もすごかったと思います。

だからこそ、障害者競技への関心もケタ違いに高まり、その結果様々な角度からの注目度が飛躍的に伸びているとも思えました。

「様々な角度」、それが重要ですね。

一般人への知名度が高まり、応援してくれる方々が増え、個人なり団体なりがスポンサーを獲得しやすくなり、競技レベルを上げていくために指導してくださる方々、また競技運営を行うためのボランティアの確保がよりスムーズになるなど多方面からの援助協力を得られるようになると想像します。

でも「様々な角度」というのはなにも自分たちにとって都合のいいものだけではないと思います。

現にあるメディアで専門家による以下のコメントを拝見しました。

「(パラリンピックにおいて)すでにすさまじいレベルに達している競技も、アスリートもいる。尊敬するし、感動もする。ただ、選手の肉体を見ていて、たとえ障害があっても、もう少し鍛え上げられたのではないかと感じることもある。時に感動しながら、時にここはまだやれるだろうと思いながら観戦している。」

露出が増え関心が高まると共にシビアな視線も当然増すということです。

自分たちにとって都合の良いことばかりではない。

スポンサードされるとしても、スポンサー側も費用対効果が最重要でありそれに見合った対象でなければならないはず。

よりハイレベルな指導を受けようとしても、それに見合ったモチベーションで指導を受ける資格の有無を見抜かれ、また素質(フィジカル面も含む)も同時に見抜かれるでしょうし、それについていけるだけのポテンシャルを見定められるなどするかもしれません。

「障害者が一生懸命頑張っている」と温かい目で見てくれるというだけでなく、「障害があったってまだまだ出来ることはあるだろう?それをしっかりやっているの?」とシビアに、より現実的に見る方も当然増えていくことが考えられます。

というか、これまでもそうした方々は少なからずいたはずです。

でもそれを口にしなかった。

だから当事者には聞こえてこなかった。

でも実際には多くの方からそう思われていたのだと思います。

だから関心度が低かったのかもしれません。

だって気を遣うことになりますから。避けて通られた結果だったのかもしれない。

社会弱者である障害者にそうしたシリアスな言葉を投げかけるのはタブー視されていたが故だと思いますが、2020年のパラリンピック開幕決定を機に、そうした障害者への視点そのものが今まさにターニングポイントを迎えているように思えました。

その表れが先述のコメントであり、その流れはスポーツに限らずこれから加速していくものだと思います。



リオではかっこいい障害者アスリート、「パラリンピア」を多数拝見しました。

僕も仲間内だけでなく一般の人からもかっこいいと思ってもらえるような、「あいつはアスリートだな」と言っていただけるような、そういう活動とプレーをしていくべきだと良い意味で危機感と、そして目標を得ることが出来ました。

自分に出来ることを最大限に努力していく。

幸い僕にはそれを応援してくれる人たちが周囲にいてくれるので、その力を借りてどんどんステップアップしていけるよう頑張ります。



それにしてもパラリンピアは本当にかっこよかった!

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