空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

レベッカ 【エッセイと詩】

2021-02-06 16:16:59 | レベッカ


レベッカ【poem】


大邸宅をめぐる怪奇な事件
大金持ちであることはいいことなのか
ポーの話もそうだった
出だしが友人の大邸宅に向かう陰鬱な美しい文体
このレベッカの話もそうだった
貧しい新妻を迎える多くの人の冷たい視線

禅は貧しさを勧める
杜甫も良寛も貧しかった
キリストの聖句にもある
しかし、豊かさは人を救うことが出来る
貧しくては何も出来ぬ
満月を見て、ビルの窓のそばでため息をつくのも
生きて息をしているだけで良しとする立場もある。
それはそうだ、病気になれば,健康で歩くだけで良いと思うものを

レベッカの話もロマンスのあとに、
奇怪なダンバース夫人が出る
魂がここまで落ちるということがある
新妻の幸福を喜ばず、死を願うダンバース夫人のおぞましさ

魂は上がったり、下がったりする
そしてレベッカの話のようだと、落ちっぱなしになる魂も出る
最後は 大邸宅の火事

魂を向上させ、この娑婆世界から浄土を見ることも出来るというのに、
自ら地獄の墓穴を掘るとは
このような話はニュースにも出る

朝日が緑の丘陵の上に立ち上るごとく
人は修行によって輝くことも出来る
あなた方は世の光であるという聖句もある
座禅は満月のようだとも言われている

ビルとビルの暗い狭間で
仕事をしていても、それが修行になれば
魂は階段をのぼることができる

格差のない社会をつくることも、多くの人の魂を救う

いつの日か、丘陵の大地から、夕日の沈む町を見るように
荘厳な浄土を見ることがある




レベッカ【エッセイ 】

 レベッカという映画を見た。
広大な屋敷、自然、そうしたものが人々の周囲にある。
この映画を見ていると、どうも「嵐が丘」と「ジェイン・エア」という名作を思い出してしまう。貧しい娘が貴族のような大金持ちと結婚するというところでは、ジェイン・エアと。最後に、大邸宅が火事になる悲劇も似ている。

マクシムという主人公の男はハンサムな大富豪の貴族。彼は最近、愛妻を亡くした。愛妻を亡くすという物語となると、どうしても「嵐が丘」を思い出してしまう。
その愛妻の幽霊が真夜中に出てくるという出だしの傑作「嵐が丘」を思い出し、ヒッチコックという監督の名前を重ねれば、いずれ、この映画の最初の豪華ホテルの華やかな雰囲気とは異質の暗い何かが登場すると想像してしまう。

レベッカが死んで、悲しみに暮れてはいるが外見は紳士と分かるハンサムなマクシムという男。服装も一分の隙もない。町に出た男はそこで若い娘マリアンを見染める。アルバイトで老婦人の相手をしていた貧しい娘マリアンは男に優しくされ、夢中になる。最初の出だしはそうしたありふれたラブロマンスを描き出すヒッチコック監督。

男は結婚式なしの結婚に踏み切り、新妻を屋敷に案内するが、その屋敷が並みではない。門から屋敷まで車でかなりの時間がかかる、周囲は森などの自然一杯、そこに現れたのは城のような巨大な屋敷。

屋敷に二十人近い召使が出迎えるが、それを取り仕切っているダンバース夫人という女が新妻を冷たく迎える。この女は男の前妻レベッカに心酔していたが故に、この新妻マリアンを面白く思わない。男の前妻レベッカは、絶世の美女で才色兼備だったという。ここで、私はエドガーアランポーのリージアを思い出す。この短編小説は完璧な才色兼備の妻が死んでいく様子を描いたもののようで、ポーの筆は女の美しさ、学問の深さがどれほど深かったかということを極限にまで描き出す。

私は映画を見ながら、富豪の男の死んだ妻もさぞやリージアのように素晴らしい女で、その死を悲しんで、その寂しさのあまり、心の穴を埋めるために、若い平凡な娘マリアンを新妻にしたのだろうと、映画に登場する周囲の人間が評するように思っていた。


やがて、マクシムの姉夫婦が来る。意外に良い夫婦なので、若いマリアンは安心する。


そして、マクシムと新妻。新しい夫婦の散歩道は、海の近くだった。犬が先に行くので、マリアンは追いかけていく、マクシムは「行くな」と言ったのだが。
犬は小屋の入り口の所で座り込んでいる。怪しげな小屋の中をうかがうような雰囲気。マリアンはあとから、たどり着き、その小屋に不思議な気持ちを抱いていると、中から、浮浪者のような男が出てくる。この小屋の中にレベッカのものがある。
もしかしたら、先妻レベッカの死は事故や自殺でなく、奇妙な事件が隠されているのではないかという気持ちに、映画を見る者はなる。
ミステリーとかホラーというイメージが頭に浮かんでくる。


財産管理人フランクは真面目な良い男で、主人マクシムとも友人のようであるが、マリアンも親しく話せるようになる。
マリアンはこの小屋の話を聞く。そしてレベッカがどんな女性だったか、と。
「絶世の美女でした」
「でもあなたのような誠実な方がマクシムの救世主になる」と彼は答える。

マリアンは「誰か西館をつかっているの」とダンバース夫人に聞く。
レベッカの部屋だった。レベッカのいとこファヴァル【独身】が突然に窓に現れて、「俺が来たことを秘密にしてくれ」とダンバース夫人の前で言う。
マクシムはロンドンにいる。

ドアを開けると広い部屋に白い美しいカーテン。マリアンは好奇心でレベッカの部屋の中を見る。
急に音がしてダンバース夫人が入ってくる。死んだレベッカの豪華な衣服と下着を見せる。
どんなにレベッカが皆に愛されていたか、そして自分が刺繍してプレゼントした下着も見せる。

マリアンは憂鬱になる。


そしてマリアンは一人前の女主人になるためにも、「仮面舞踏会」をやりたいとマクシムに言う。
そして、召使のかしらであるダンバース夫人は新妻を相変わらず、冷たくあしらい、仮面舞踏会を準備の最中に、新妻に間違ったことを教える。
ダンバース夫人は壁にかかっている絵画の一つであったレベッカの肖像を一族の貴婦人といつわり、それを着ればマクシムが喜ぶと言い、マリアンにその衣装をつくって着ることに勧める。

仮面舞踏会が始まり、新妻マリアンはレベッカそっくりの衣裳で出ると、富豪の男マクシムは混乱して逆上し、服を着替えてこいと怒鳴る。

ダンバース夫人は新妻マリアンが幸福になることを許さないという思いを行動に移す。悪人の本性を現してくる場面だ。ただ、ここまでは富豪の男マクシムはやはり、亡くなった先妻の思い出にひたり、その悲しみのために、逆上したと見る者には思える。

マリアンは着替えのために、あわてて戻るが、そのあとにやってきたダンバース夫人に「あなたはわざとレベッカの衣装を着るように勧めたのね」と非難するが、ダンバース夫人はショックを受けているマリアンに耳打ちする催眠術師のように、あなたが二度目の奥様になるなどというのはありえないという風に言い、窓から飛び降り自殺を勧める。魔性の本性があらわれたということであろう。
あなたにはレベッカの真似はできないと。


その時、突然 先妻レベッカの舟が海底から引き揚げられたニュースが伝わる。そして事件の真相を恐ろしいものに変える。

映画では、富豪マクシムが疑われるのだ。最終的に妻が癌であったことが分かり、そのことにより、レベッカの自殺と判明する。新妻を陥れようとしたダンバース夫人は、マクシムとマリアン夫婦の幸福な姿を見るのは耐え難いということて゛あろうか、そんな理由で、最後、城のような館に火をつける。



仏教では人間は無明にあるというらしい。つまり真実の自己を知ることなく、幻の自我にしがみつき、罪におぼれていると

レベッカを見ていると。つくづく人間は煩悩が深いと思う。
ダンバース夫人のようになることは魂の堕落であろう。しかし、ニュースを見ていると、これに近いものもいくつかあることに気がつく。

仮に、人間の魂は階段のように、下から上に上がっていくとする。それが魂を磨くことであり、修行ということであると仮定する。宗教の多くがこういうイメージのことを言っているから、こういう話を持ち出したみた、仮にという仮定の話として持ち出したのは、そういうことを信じない人もいるし、また修業の中身については修行そのものが既に悟りの世界に入っているとする禅のような教えもある。このように階段のような例えはとらない場合もあるからだ。
ただ、階段の例えは空海のように、十段階に分ける話のイメージとしては分かりやすい。その場合、階段の下の方に転げ落ち、ダンバース夫人のようになりたくないものだと多くの人は思うだろう。源氏物語の最初に出てくる「嫌がらせ」から今を騒がすハラスメントそしてさらに飛躍して、現実のニュースの中に出てくる恐ろしいこと、昔はヒットラーのような男から、今はこの間、若い男が座間で死にたいと悲痛な声をあげた若い女性を殺したことから、障碍者の人達が元職員に殺されたり、本当にうんざりするほど、映画の中のダンバース夫人に似たような魂を発見するではないか。

勿論、世界中に、日本中に立派な人も沢山いらっしゃる。

その間に、ごく普通の人がいるということであろうが、これを仏教では娑婆世界という。そして、今では、この世界は金と権力をめぐる競争の場と化して、激しい競争ゆえに、自殺者までかなり出ているという現状。


私は禅を勉強したが、多くの人があの禅のいう真実の自己に耳を傾ければ、世界観はひっくり返ると思う。今の日本は、「幻の自我を肯定する文明」にひたり、エゴを追及し、金銭や競争が重んじられ、多くの人は絆を求めているにもかかわらず、ばらばらにされている。「言論の自由」という立派な看板はあるが、裏でこそこそと弾圧しようとする一部の動きがある。こういう危機を乗り越え、新しい優れた価値観を築くために、禅はおおいに役に立つと思う。いかがであろう。
禅の世界観の中心には、人間は仏性であるという悟りがあると思われる。仏性とは不死のいのちである。

このことが分かれば、人は魂をみがくようになるであろう。
競争はほどほどにして、同じ地球人の仲間。仲間を大切にしようではないかという気持ちになる。あなた方は世の光であると言ったキリストの言葉。私は仏性であると禅の五祖が言った言葉をかみしめて、愛語を大切にして、平和を大切にして、格差のない社会をつくっていく価値観を広めていくべきではないか。


   魂という町(poem)
魂という町があって
そこに、澄んだ青い湖があり
その周囲には沢山の花が咲いている
そこで、見つけた一輪の赤い花
あまりにも美しくて
僕はそれを写真に撮り、大切にして
ことあるごとに、その花を見詰めていた。

魂という町があって
僕がそこでコ―ヒーを飲む時に
いつも決まって日の当たる椅子に座り、
赤い花の写真を見る
すると、花が話しかけてくるのだ
「あなた、どなた?」

魂という草原があって
そこの一軒家に泊まることがあるのだが
その夕日がとても美しくて
僕はうつとり夕日を見ながら
写真の花に語りかける
「どうだい? あの夕日は」

ある夜、黄金の満月がこうこうと照っていて
花は喜びに目を輝かして、飛び出てきて
天の川の一つの星を指さして
「あれが、あたしの星よ」
どんな所だと問うと
花は「魂の星なのよ。生きているの」

ある日。魂という星に向かって
僕と花は旅をした
それは夢のように美しい旅だった
愛と大慈悲心という小さな星が
無数にちりばめられていて
不思議な銀河の旅だった





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