空華 ー 日はまた昇る

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白鯨

2020-04-09 13:47:52 | 映画と小説「白鯨」

白鯨【小説と映画】

 

まずメルビィルの「白鯨」という小説を読み、そのあとに映画を見た。この二つはかなり違う。小説は芸術という感じがして、映画はエンターテイメントつまり、楽しむという所に重点の置かれたよく出来た作品という風な感じがした。


小説でどうしてそんな風に思ったかというと、まず文章が凄い。まあ、長編の散文詩という感じで、流麗な文章に圧倒される。それから、小説にはエイハブ船長や主人公【イシュマエル】その親友クィークェグ、一等航海士などの登場人物の強烈な個性の描写があると同時に、抹香鯨という生物の克明な説明、さながら人間の解剖学講義のようである。そして、文章に、メルビィルの哲学を感じさせる独特のものがある。これらが一個の小説になった時に、そこには巨大な生命の神秘が読者にひしひしと迫ってくるのである。
映画は小説のストーリー【抹香鯨に足を食いちぎられた船長エイハブが復讐に燃える物語】だけを追ってつくられているし、原作と違う点もいくつかある。例えば、小説では最後の場面に、エイハブの人間味が描かれている。気の狂った黒人ピップに投げかけるエイハブの温かい心の会話は感動を誘う。

 

それから、船長の白鯨モービー・ディック追撃という危険な航海をやめさせようとしていた一等航海士スターバックの最後の場面は小説と映画ではまるで違う。小説ではエイハブは、愛する家族のもとに帰りたがっているスターバックを本船に残し、自分はボートに乗り、モービー・ディックと戦う。
映画ではエイハブがモービー・ディックに殺された様子を見て、皆が引き返そうとする。ところが、ボートに乗っていたスターバックがそれを見て、ただの鯨なのだから、鯨捕りは戦うべきだと主張する。その結果、白鯨と戦った全てのボートはひっくり返されて、海のもくずとなって消える。


この物語は船長エイハブと白鯨モービーディツクの戦いで、一等航海士、スターバックの忠告どおりの悲劇となった。はたしてエイハブをどう評価すべきなのか。

乗組員の或る者は、復讐の念に燃えた気ちがいだとか言いながら、エイハブの圧倒的な迫力の前に、彼に引きずられていく。
或る者はエイハブを偉大な魂だという。確かに、黒人少年との対話は、エイハブの魂の気高さを物語る。
しかし、このように、多くの船員のいのちを自分の意のままにあやつり、白鯨モービー・ディックを悪の化身と決めつけ、執拗にいのちをかけてせまるというのは、どうであろうか。自分だけなら、まだ勇敢で凄い人だということになるが、多くの人をまきぞえにすることが最初から分かっていた筈ではないか。

こうしたエイハブのような精神が第一次大戦、第二次大戦を引き起こしたのではないか。
偉大で、勇敢な魂であると言われて、多くの人達が消えて行った。これは映画「西部戦線異状なし」でも、教師が学生を戦場に駆り出すために使われていた言葉とあまりにも似ていないか。
そのために、西部戦線で、二百万の若者のいのちが散った。そのような意味のある戦いだったのかという疑問はヘミングウェイの「武器よさらば」にも沢山の庶民の言葉の中にあったではないか。


二十一世紀はこうした自我の拡大を抑えなければ、人類が滅びる所まで来ている。英雄はいらない。多くの庶民が利口になることこそ、地球を守ることになる。

 

もう一つ、白鯨という抹香鯨の方から見る見方がある。
鯨は自然が生み出した偉大な生物として、広い海を悠々と泳いでいる。そこに人間が船でやってきて、銛で刺し殺そうとする。鯨から見れば、人間は殺し屋ということになる。
鯨は哺乳類で、大きな身体を持ち、その中身がどんなものであるかということが克明にメルヴィル【語りてイシュマエルという主人公の口を借りて】という作家の筆で描かれる。確かに、その筆は捕鯨船の立場から描かれているが。
だが、人間の身体の仕組みを少し学ぶと、その偉大な生命の仕組みに驚かされる。例えばDNA。あるいは免疫の仕組み。遺伝子工学の専門の方は神業と言っておられた。まさに、神業は鯨の身体の中にもあるのだ。
生命というのは神秘なものなのだ。

 

それから、この小説で素晴らしいのは海という大自然の描写だ。あれほど、海を巧みに描いた作家はメルヴィル以外にいないのではないかと思われる。
それはともかく、人間も抹香鯨も海も大自然そのものが生み出したものだ。

そこには陽と陰がある。海の描写一つとってみても、そこには美しい天国とも見間違えるような穏やかな日和もあれば、船にとっては恐ろしい嵐もある。
大自然の陽と陰の神秘は 人間にも抹香鯨にもある。人間の場合はエイハブ船長に代表され、抹香鯨の場合は白鯨モービー・ディックに代表される。

 

近代はエイハブが多かった時代とも言える。沢山のエイハブがいて、自我の拡大をはかる。その狂気の最先端はヒットラーだろう。一人の変な勇敢?さと狂気のために、多くの人をまきこむ最悪の悲劇となった。


国家のエゴと国家のエゴの衝突もそうだった。そして大きな戦争が起きた。恐怖の連鎖の社会だった。

現代はこの歴史から学ばねばいけないと思う。このままでは、船長エイハブに導かれた捕鯨船が白鯨モービー・ディックに撃沈されたように、人類の生きる地球という惑星は危うい。

人類の危機という視点からすれば、現代つまり二十一世紀はエイハブの良い所は取り、悪い所は捨てて、エイハブ性を薄めていく時代ではないか。

 


東洋の哲学は、真実の人間は無我の中にあると教える。滅私奉公ではない。滅私奉公は強制されたものである。それに、この場合の「公け」が怪しげなものだった。権力の亡霊みたいな「公け」だったということが歴史で証明されている。
自由なる精神が修業によって、無我をめざして新しい霊性を探し求める。魂を磨くということであろうか。その中に真実の自己を見つけることが出来る。そうした自由な人間と自由な人間が新しい絆をつくる。そういう新しい本物の絆こそ、が二十一世紀の絆ではないか。


ただ、言えることは エイハブ船長が鯨捕りという仕事の最中に、モービー・ディックという抹香鯨に片足を奪われたということを理不尽に感じ、白鯨を悪の化身と考えた。確かに、世の中には、被害者でなければ、分からないような酷い心の痛みを感じさせる悪が山ほどある。だからこそ、司法警察があるのだろう。
ただ、巨悪となると、さらに問題は大きい。核兵器、戦争、ありとあらゆる陰険な犯罪、環境破壊、地球温暖化、食糧や水や地下資源の問題。  

人類はそこで争う。そこから、悪が出てくる。そうして、人類はその悪におびやかされてしまうことになる。

その悪の象徴と戦おうとしたエイハブ船長の勇敢さだけを取り上げるならば、エイハブは称賛されるべきなのかもしれない。

しかし、白鯨モービー・ディックは本当に悪の化身なのだろうか、と言う問題は残る。

現代は複雑であるから、それ故、巨悪は何なのかという問題をはっきりさせる必要がある。

生きる視点によって、違った風に見えることもあるからだ。

だからこそ、話し合う必要があるのではないか。この「白鯨」という物語では、エイハブ船長と一等航海士スターバックは徹底して話し合うべきだったのだ。話し合えば、スターバックが愛する家族のもとに戻れるチャンスは何度もあったのだ。

二十一世紀は対話と友情の時代なのではなかろうか。地球は一つになろうとしているが、今までの長い歴史の中であまりにも多くの宗教の違い、文化の違い、その違い故の争いも多い。しかし。この相違は話し合い理解しあえば、お互いの文化への興味となり、底に流れているものには人間としての共通性が見出さられる。争う必要などない場合が多いのではないだろうか。争いは過渡的なもので、やがて、相互の話し合いによって、相互の理解、友情が生まれるのではないだろうか。【強い圧力をかけなければならない場合でも、それは話し合いへの道に至るためであり、話し合いこそ、平和につながるということでしょう】

この「白鯨」という物語はそんなことを深く考えさせてくれる大傑作であると思う。

 

辻井伸行 in ウィーン ♪ラ・カンパネラ♪