Since1994 "ROCK BAR" GLASSONION 高田馬場

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2014年GLASSONION‼︎😊

2014-12-29 | 街の灯 "A Day In The Life"
さて、この年末は、満20歳となる高田馬場GLASSONION。

今年は、年明けから、"脱ブタ郎"
それをスローガンに、頑張ろうとし過ぎたダイエットの結果。

見事、腰痛…正式には、腰回り筋肉疲労からの激痛、な~んてことになりました(^^;;

その結果…
そのリハビリのために、腰を固定しながら、年末を締めくくる結末と、相成りました。👏😄🎊

2014

"腰痛&我がロッケンロール人生‼︎
おっちゃんもう歩けへん…"

(^^;;もう、無理はできん年令なんすかねぇ。

…で終わっては、あまりにも、今年の締めくくりが切ないので…、あれこれ書き残しておきま~す(^_^)


今年も、世の中では、たくさんの大事件や大事故、大きな紛争、戦争、大きな自然災害で、多くの人々が犠牲となりました。

その犠牲者の家族や友人や身近な人々の、その苦しみや悲しみは、無限大であること。
それを、決して、忘れてはならない。

そして、当然これは、イレギュラーな大事件だから、大ニュースとして、メディアが抜粋して伝えているにすぎないことも承知の上として…

震災以来、どうしても、そんなニュースを通り過ごせなくて、例え、それが全く見ず知らずの国や地域の出来事であろうと、合掌している自分がいます。

特に今年は、身近なところでも、大きな出来事が、たくさんあったからでしょうか、2014年は、とても印象に残る、大きな一年になりそうな気がします。


こうして、人生を体感することで、この世の諸行無常と、つくづく、人の有難さが身に染みるようになるものです。

と同時に、人の気持ちにも、思いを
寄せるようになるものです。


結局、それが、孔子言うところの、恕《ジョ、ゆるす、相手の気持ちを思いやる》なんでしようね。


社会に暮らすとは、白黒つけることではなく、曖昧こそがバランスなんじゃないのか、今は、とても、そう思うようになりました。

その曖昧の真ん中を、推察しながらする会話こそが、日本語の技であり、日本文化の極みなのだと思うのです。




所詮、飲み屋風情が、国だ政治だ、口にしたところで、豚に真珠みたいな会話にしかなりませんが、もしも、安倍晋三と言う国の代表に、お願いするならば…

無理に白黒つけようとすると、社会の成り立ちには、様々な要因が絡み合うから、白黒では、ただ矛盾がぶつかり合うだけで、余計に、収拾つかなくなります。

そう、問いたいと思うのです。

まあまあ~、そこそこに~とか、そんな日本語があるように、日本人は、そうしてノラリクラリと、どんな強力なパンチをも、最小限に受け止めながら、数々の難題を、上手に乗り越えてきたわけです。

戦後の日本人の賢さは、まさに、そこにあると思うのです。

パワーしか信じない奴は、相手からノラリクラリやられていると、やがて、必ずバテてきます。
必ず空きができるもんだから。
それを、待てばいいだけのこと。

日本には、武道と言う、民族の真髄があります。
これぞ、ウェイティングの妙です。



宮崎弁では、まぁ適当にね、それを、てげてげ、と言います。
実に曖昧な言い方ですが、これぞ、深い愛情のこもった意味あいなのです。

そもそも、曖昧とは、見て見ぬ振りではなく、それも愛、これも愛、きっと愛、たぶん愛…

なんですよ。

世の中は、持ちつ持たれつで、成り立っていると言うことへの、寛容さと許容範囲、なんだと思います。

右か左かではなく、左右なんです。

言葉一つ、言い換えたり置き換えたりするだけでも、相手への伝わり方は、どうにでも変えられるのですから…。






我らがロッケンロールを、時々、とどのつまりが、所詮、西洋文化の借り物なんだなぁと、ショボンとすることが、あります。


それでも、今更、我らがロッケンロールが、僕には、それなしでは生きてはいけないように、そんなもの全く必要ない人もいれば、聖なるXmasも、Valentine's DayもHalloweenも、なくてはならいとする日本人も、たくさんいるわけです。


そのどの人にも、そこに、生活が、雇用が、お茶の間が、そして、それぞれの都合が、あるわけです。


民主主義とは、人が食うため生きるための、万乗雑多あってこその社会だと思うのです。


だから、まとめよう、なんてしてはいけなくて、その都度、起きる問題に時間をかけながら、ノラリクラリと、社会の自浄作用を待つこと。

それが、最良の解決法だと思います。






この世で、人が、最も幸せを感じる瞬間とは、自分の思いが相手に伝わった時。

なのだそうです。

今年最も、ドキッとした発見でした。

人生の全ての答えを、言われてしまったような、驚きでした。

そして、もう一つ。

自分の中には、もう一人の自分がいる。

悩み事や、腹の立つ時は、一人で考えるな、二人で考えろ。


日常なんて、悩みと怒りで、できてるようなものです。

だから、その都度、その言葉を、思い出し実行するようにしたら、なぜか、思い出すだけでも、気持ちがスーッと軽くなるのでした。

一人で考えると、どうしても、一方通行になってしまうけれど、もつ一人の自分と考えると、心が円滑になり軽くなるのです。

まるで、呪文みたいな言葉です。

今だから解る、この二つの大発見も、30年前の僕には、おそらく、馬耳東風、だったはずです。

…あれから、30年

1991~こんな商売やってるからでしょうが。

人種の違いとは、外見からの違いではなく、中身の違いだと、それだけは、ハッキリと、わかってきました。

実は、この違いの認識こそが、これから、重要だと思うのです。

それを、認め合うことが、民主的、なのだと思うのです。

実際に、ここでは気狂い呼ばわりされる人が、あっちでは、天才と尊敬される、そんな人が、世の中には、たくさんいるではありませんか。

いろんな中身を持った、違う人種がいることを、みんなが、相互理解することが、みんなが、仲良くやっていけることなんだと。



その始まりがどんなに、仕組まれたものだろうと、商業主義的な産物であろうと、そこに生活が根づくと、それが、結果的に文化なんです。


人間関係も、世界も、政治も、社会も…
料理のレシピみたいなもので、いろんな嘘と、いろんな本当とが混ざり合い、とりあえず今日の味になるわけです。


人生やってると、本当なんて、怖くて口にできなくて、嘘とわかりながら、嘘を本当のように語りあう。
そんな場面って、誰にでもあるはずです。

そうすることで、誰も傷つかない。

今日の味が、美味い不味いを決めつけるより、明日は試しに、もうちょい何か足してみよう。

なんだと思います。


無理して、白黒つけようとすると、人間関係なんて、すぐに壊れます。

社会も世界も同じで、ギクシャクして、バランスが壊れてしまいます。


先日、TVドキュメンタリーで、狂言師のをやってましたが、狂言の話は、狐に始まり狸に終わる、のだそうです。



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