福島原発事故メディア・ウォッチ

福島原発事故のメディアによる報道を検証します。

福島原発事故メディア・ウォッチ:毎日新聞記者の狂った目

2011-03-25 18:19:28 | 新聞
原発の危機が深刻度を増しつつあるとき、すでに私たち一人ひとりが、排出された放射能にさらされ、自分や家族や近しい者たちを守るには、この状況をどうしのいで行動すればいいのか、不安と迷いの中で様々な選択肢を考慮しなければならないとき、何百万という人々の情報源となる大新聞の記者の役割とはなんだろうか。「正確な情報を伝えること」?いいえ、まったく違います。

毎日新聞の斗ヶ沢秀俊氏は、「記者の目」というコラム(注)でそうではないと言い切っています。数日前、3月15日の朝からは2号機の爆発・破損,4号機の火災と危機的な出来事の連続で、私たちはいよいよ最後のときが来たかと思い始めた。15日昼前に、原発3号機周辺で400ミリシーベルト/時の放射線量が測定されたことが報告され、それについて官房長官が「身体に影響を及ぼす可能性のある数値」と言及した。このとんでもない数値に接して、私たちはうろたえ、不安にかられた。原子炉が、人の制止がきかないとてつもない破局に向かっていよいよ走り始めたかと・・・。しかし、斗ヶ沢氏によれば、福島の人々が「『今受けている放射線量は健康に全く影響しません。安心してください。』と断言」することができるのだそうだ。

えっ、ホントですか?どうしてですか?、と科学オンチで無知な大衆は問うであろう。氏によれば、400という値は、放射線の発生もとである原子炉近くで測定された「特殊な数値」であり、その地点から遠ざかれば放射線量も減るからだ。これが科学が教える「法則」でありそれを理解しないで軽率に行動すること、たとえば「東京を『脱出』する」などというのは愚かなことで、いま「私たちに必要なことは事態を冷静に見守ることだ」ということになる。

400ミリシーベルト/時が観測されたところに1時間いることになった人がいなかったのは不幸中の幸いというべきだ。そこから離れるにつれて、その時確かめられたのと同じ量の放射線にさらされるわけではないことは、わかる。しかし、そのことがどうして「健康に全く影響しませんと断言」する根拠を与えるのだろう。

斗ヶ沢氏は、当面問題になる「外部被ばくは2通り考えられる」、と教えてくださる。すなわち、「(1)直接、原発から放出される放射線による被ばく(2)原発から放出された放射性物質が各地に降り、これが放射線を出しているために起こる被ばく--の二つだ」。さて、これに続く以下の文をよく味わってください。いわく、

『放射線量は「距離の2乗に反比例する」という法則があり、避難範囲である周囲20キロの外側では、(1)の原発からの放射線は無視できる線量になる。』

前半は法則、そして後半は、「3号機付近で3月15日午前10時22分に記録された放射線量400ミリシーベルト/時」の放出に関して言われた見通し・推測である。しかし、ここでは、「周囲20キロの外側では原発からの放射線は無視できる線量になる」という言明が、前半の法則との並置されることで、その法則の帰結であるかのような印象を与え、それ自体法則性を付与されるかのような誘導効果(文末の「~になる」という理系的断言調に注意)が現れ、どんなに放射線量が上がっても、周囲20キロの外側では被害はないという暗示を与える。そして、この「無視できる」という法則性が、たまたま観測された「特殊な数値」の一時的・偶発的な性格を強調する効果を生む。観測データ・数値に「特殊な」という形容を付すことはよくある決まり文句ではない。私たちはそれを解釈することを迫られる。合理的に考えれば、この表現は数値は一地点における「個別(particular)」なもの、というふうに解釈されるが、これには数値が「特別な・例外的な(special)」という別の解釈が重なる。もちろん筆者はこうした意味のずれ・重なりが読者に生ずるのを意図している。

しかしこんなことは、単なる前振りに過ぎない。斗ヶ沢氏は原発放射線レベルをCTスキャンの放射線量と比べるという(この点については後日コメントします)、ここ数日、新聞テレビでさんざん繰り返された比較をした後、いよいよ本題に入る。

『新聞やテレビの報道で、必ず出てくる言葉がある。「ただちに健康に影響するレベルではない」。この表現は科学的には正しい。私は知人に問われた。「ただちに影響しないということは、後で影響するかもしれないということでしょう」。実際には、合計の被ばく量が100ミリシーベルト以下では、将来がんになる確率が高まることはないとされる。いま必要なのは「科学的に正確な情報」よりも「的確な情報」であり、現在の放射線量であれば、「健康に影響がない」と言い切ってよい。』

「ただちに健康に影響するレベルではない」ということは、ただちに健康を損なう急性障害は出ないが、時間が経った後にガンになるなどの「晩発(ばんはつ)障害」の形では「健康に影響する」ということで、斗ヶ沢氏も認めるとおり、彼の知人は全く正しい。これが「科学的に正確な情報」だ。しかし氏は、そんな情報はいらないという。なぜなら、それは「的確な情報」ではないからだ。では、「いま必要な的確な情報」とは、いったいどういう情報なのか?

斗ヶ沢氏も、知人と同じように「将来がんになる確率」を問題にする。しかし氏は知人とは違って、現在の放射線量では将来も「健康に影響がない」と言い切る。なぜなら「実際には、合計の被ばく量が100ミリシーベルト以下では、将来がんになる確率が高まることはない」からだ。しかし、この文には二重の瞞着がある。まず、第一に、被爆量と発ガン確率の関係が、段差の上と下のような不連続なものと想定されている。たとえば、この文は、「合計の被爆量が99ミリシーベルトの場合、将来がんになる確率が高まることはない」という命題を含意する。しかしこれは「科学的に正確」ではない。原子力資料室のレクチャーで、元放射線医学総合研究所主任研究員・崎山比早子氏は、発ガンリスクについて「1万人あたりの発ガン数」と「被ばく線量」との間には正比例関係があるという「国際放射能防護委員会」によるグラフを示し、ここから先は発ガン効果があるがそれより前はない、という決定的な限界点は存在しないと言っている。それは「国際的な合意」である、と。同じことをフランスの民間原子力研究組織クリラッド(CRIIRAD)は、3月20日付の「日本の放射能汚染に関する警鐘」で次のように言っている。

『国際放射線防護委員会(ICRP)はいかなる量の被爆も、たとえ自然界にある放射線量に比べられるほど少量だとしてもガンのリスクを増やすものだという見解を示しています。特に広島、長崎の原爆被害者の経過を見てもICRPは死に至るガンにかかるリスクと被爆量には明らかに比例関係があり、少量であってもリスクがあるとしています。』

100ミリシーベルト以下であろうと、99なら99なりの、1なら1なりの比例的なリスクがあるのだ。したがって、30マイクロシーベルトは30マイクロシーベルトなりのリスクがあるのだから、「「健康に影響がない」と言い切ってよい」わけがない。

斗ヶ沢氏の第二のトリックは、一時的に観測された放射線量と、時間の経過による被爆の堆積の関係をごまかすことにある。氏は自分が100ミリシーベルトに設定する限界点が、福島で17日に観測された値(「最大でも30マイクロシーベルト」)に程遠いことを示唆し、それを「現在の放射線量であれば、「健康に影響がない」と言い切ってよい」と言明する根拠としている。氏のこの言い切りは、「現在の放射線量であれば」という仮定を前提にしている。つまり、放射線量が最大で30マイクロシーベルトぽっきりならば、という仮定で、これには、現在の放射線があすは奇跡のように消えているという論理的にはありえても、福島原発の現状からはまず考えられない状況を想定しなければならない。なるほど氏はこの蓋然性のきわめて低い仮定を利用することで、この点ではうそつきと呼ばれるリスクをヘッジしている。しかし、現実には今日の30マイクロシーベルトに加えて、今日の水や食物、さらには11日から17日までの過去被爆、明日からこの事故が過ぎ去った悪夢となる時まで引き続く放射線被爆が連続するのだ。そして言うまでもなく、今日の30マイクロシーベルトはそうした堆積のそれなりの一部をなすのだ。累計で、氏が勝手に設定した100ミリシーベルトの「限界点」さえ超えることも不幸にして起こってしまうかもしれないではないか。その時斗ヶ沢氏はなんと言うだろう。放射線がこれほど強くこれほど長く出てくるとは、「想定外」だったとでも言うのだろうか。

こうしてみると斗ヶ沢氏がいう「的確な情報」の正体がみえてくる。「科学的に正確な情報」は放射線の影響を危惧する人々の「不安を高」め、「事態を冷静に見守る」ことを不可能にし、「東京を「脱出」する」ような愚かな行為に走らせる。それに反して「的確な情報」は、時間や量の概念を不誠実に操作して、「科学的に正確な情報」から私たちを傷つけるとげを抜き、きびしい現実から目をそらさせる。それは、不安と無力感にさいなまれている私たちを、地震+原発事故が起こる前の平穏な日々へのノスタルジーを通して眠らせ、とりあえず「安心してゆっくりご飯を食べ」る日常を擬似的に取り戻させ、思考や行動や議論や批判への気力を麻痺させる。ジャーナリストの役割は、どうやらこういうところにあるらしい。


注:リンクが死んでいるので、記事を引用します
記者の目:福島第1原発の放射性物質漏出=斗ケ沢秀俊

 16日、ラジオ福島の電話インタビューに応じた。福島支局長と東京本社科学環境部長を務めた縁で依頼された。私は「皆さんが今受けている放射線量は健康に全く影響しません。安心してください」と断言した。「安心しました」というメールやファクスがたくさん寄せられ、ラジオ福島は何回も再放送したという。人々が放射線の影響をどれほど心配しているのか、改めて痛感した。原子力開発史上前例のない重大な事態であることは言うまでもないが、東京を「脱出」する人もいると聞くにつけ、私たちに必要なことは事態を冷静に見守ることだと思う。
 ◇特殊な数値で不安高まる 

 不安が高まったのは15日午前、枝野幸男官房長官が「東京電力福島第1原発3号機周辺で、1時間当たり400ミリシーベルトの放射線量が測定された。これは健康に影響を及ぼす可能性がある数値」と発表した時からだ。この放射線量だと、1時間そこにいた場合、白血球の一時的減少などの症状が出る可能性がある。

 これは3号機の損傷箇所のがれき付近で測定されたとみられる特殊な数値で、同じ敷地内でも第1原発正門の放射線量は同10ミリシーベルト程度だったことが後に分かったが、「400ミリシーベルト」の数値と、健康への影響に言及した枝野長官の姿が繰り返し放映された。

 さらに同日夕、東京都内で原発から飛来した放射性物質が検出されたことが明らかになり、人々の不安は募った。

 実際に、健康影響はあるのか。放射線を人体が受ける「被ばく」には、外部被ばくと内部被ばくがある。外部被ばくは放射線を直接受けることであり、内部被ばくは放射性物質を含む空気を吸い込んだり食品を摂取することによって生じる。当面、問題となるのは、身体が直接受ける外部被ばくだ。

 外部被ばくは2通り考えられる。(1)直接、原発から放出される放射線による被ばく(2)原発から放出された放射性物質が各地に降り、これが放射線を出しているために起こる被ばく--の二つだ。放射線量は「距離の2乗に反比例する」という法則があり、避難範囲である周囲20キロの外側では、(1)の原発からの放射線は無視できる線量になる。
 ◇現時点では健康に影響ない

 各地で測定されている放射線量のほとんどは、(2)の飛来した放射性物質に由来している。福島県のモニタリングで測定された17日夕までの最高線量は最大でも30マイクロシーベルト(マイクロはミリの1000分の1の単位)以下で、多くは2~5マイクロシーベルト。胸部エックス線CTを1回受ける被ばく量が約6900マイクロシーベルト。仮に30マイクロシーベルトが続いたとしても、230時間にわたって外にいてCT1回と同程度という計算になる。

 新聞やテレビの報道で、必ず出てくる言葉がある。「ただちに健康に影響するレベルではない」。この表現は科学的には正しい。私は知人に問われた。「ただちに影響しないということは、後で影響するかもしれないということでしょう」。実際には、合計の被ばく量が100ミリシーベルト以下では、将来がんになる確率が高まることはないとされる。

 いま必要なのは「科学的に正確な情報」よりも「的確な情報」であり、現在の放射線量であれば、「健康に影響がない」と言い切ってよい。

 燃料棒の水面上への露出などにより、放出される放射性物質がもっと増えるなど、事態が深刻化した場合は被ばく量が増える。そうなったら、その時点で避難すべきかどうかを判断しても間に合う。

 もう一つの不安は「チェルノブイリ原発事故のようになるのか」ということだ。チェルノブイリ事故では、運転中に核分裂が制御できなくなり、出力が急上昇して、大爆発、大火災が発生した。膨大な量の放射性物質が上空に達し、世界全体に降り注いだ。

 福島第1原発は1~3号機は地震直後に自動停止して、制御棒が挿入された。4号機は定期点検中だった。いずれも、今は核分裂反応が起こっていない。「チェルノブイリとは全く状況が異なる」というのは、多くの専門家の共通認識だ。

 考えられる最悪の事態は、圧力容器、格納容器内の圧力が高まって損傷し、内部の放射性物質が外部に出ることだが、その場合でも大爆発には至らず、放射性物質の大半は敷地周辺にとどまるだろう。放射線量はかなり高くなるが、それでも「距離の2乗に反比例」するから、20キロ以上離れた地域の住民が致死量に達する放射線を受けることは考えられない。まして、一部の人々が言う「首都圏壊滅」はありえない。

 ラジオ福島でこうした話をした後、福島市の男性がツイッターで「ほんと安心してゆっくりご飯を食べました。久しぶりに味のするご飯でした」と書いていた。被災者にとって的確な情報がいかに必要かを物語っている。

 現場では東電や協力会社の社員、自衛隊、警察関係者らが懸命に放水作業などをしている。冷静に事態を見守ろう。私は現場の努力が実を結び、事態が打開されることを切に願っている。(東京編集局)


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