即位1日 本当の最後の皇帝
ロマノフ王朝の終わりの日
ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
Mikhail Aleksandrovich Romanov
1878~1918
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ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフはロシア最後の皇帝ニコライ2世の末弟であり、前皇帝アレクサンドル3世の四男である。
アレクサンドル3世には4男2女の子があり、男子は長子がニコライ2世、次男アレクサンドルは早逝、三男ゲオルギーは結核で28才で他界、そしてニコライから10才年下の四男ミハイルである。ミハイルの上と下に姉妹がいる。
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ミハイル 右端
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早逝したアレクサンドル 唯一残っているのが死後に撮影されたこの写真
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姉クセニアと
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ミハイルの顔をロックしているのが父皇帝アレクサンドル3世
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若いころのアレクサンドル3世(左)と弟キリル
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本題から逸れますが、ニコライの若い頃は父アレクサンドルに似ていますが、父が193㎝で巨漢だったのに対しニコライは169㎝中肉中背でした
ロシア帝国崩壊時にこの家族で存命していたのは、ニコライ、ミハイル、姉クセニア、妹オリガ、そして母マリアであった。クセニアはフェリックス・ユスーポフの妻イリナの母。このうち、革命を生き残ったのはマリア、クセニア、オリガ。つまり、アレクサンドルの家系の男系はニコライ、ニコライの子アレクセイ、ミハイルが殺害され、ミハイルの子ゲオルギーが唯一生き残ったが、不幸にも20才のときに交通事故で亡命先のパリで他界した。1931年。ただし、先記事のウラディミル同様、正式なロマノフ嫡子ではなく、姓はブラソフ伯である。
⑴幼少時
父アレクサンドル3世は国政においても家庭においても厳格であり、ニコライとゲオルギーは父を怖れて暮らしていたが、少し歳の離れたミハイルとオリガにはそれほど厳しくなかった。見るからに怖そうな父皇帝は、息子達ばかりでなく諸外国人、側近、民衆皆から怖れられていた。にもかかわらず、ミハイルは父に平気でいたずらした。
ミハイルの写真には兄二人と異なり、屈託ない笑顔と剽軽なポーズのものが多く見られる。ミハイルは、兄達よりは妹のオリガと共に過ごすことが多かった。
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妹オリガと
⑵成年後~第一次大戦
成年後はロマノフ家の倣いに従い、ミハイルも軍に入隊、砲兵としてキャリアを積んだ。1998年に兄ゲオルギーが亡くなると、皇位継承権第一位の皇太子となった。その後、1904年にアレクセイ皇太子が誕生したため皇太子の位は返上、アレクセイが18才になるまでの間は摂政となる権利を持った。
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ミハイルの人生の番狂わせは、恋愛から起こった。
24才のときに従姉妹ベアトリスとの結婚を望んだが、皇族の従兄妹どうしの結婚は原則として認められないため、兄皇帝は許可しなかった。
その後、1905年、妹オリガの侍女で平民の女性と結婚しようとしたが、これも平民であることにより許可されなかった。
1908年、今度は平民でかつ人妻、すでに離婚歴もあり、当時は自分の連隊の大尉の妻で1女の母であったナターリヤ・シェレメーティエフスカヤとの結婚を望む。多額の手切れ金を支払い、離婚直後に男子も誕生、ミハイルは再びこの結婚の許可を求めるが、この結婚を皇帝が認めるわけもなく、ミハイルらは国外で生活した。ロシア国内での結婚は皇帝に絶対に阻止されるため、海外で挙式する機会を狙っていた。
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1912年、皇太子アレクセイの危篤を新聞で知ったミハイルは慌てた。アレクセイが亡くなれば自分が皇太子になり、そうなればロシアに連れ帰されてナターリヤとは結婚できなくなる。ならば速やかに挙式し、既成事実化せねば!
ロシアからミハイルの挙式を阻むべく差し向けられていた者たちをカーチェイスのように巻いて、ウィーンのセルビア正教会で結婚を果たした。
皇太子の一大事で疲労していた皇帝にその報せが届いたとき、温厚な皇帝は怒り、ミハイルの国外追放、摂政の権利を剥奪。さらに皇位継承権の放棄を要求したがミハイルは放棄を拒否した。もともと皇帝になりたくないと思っていたミハイルであり、皇太子時代にアレクセイが誕生したときは大いに喜んでいたのだが、子供や妻を抱えると考えが変わるのか、あるいは妻の差し向けか。
1914年、第一次大戦が始まると、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ同様ミハイルも大公として復権、帰国が許され、従軍した。ミハイルは幼少時を過ごしたガッチナ宮殿の居住を認められたが、ナターリヤと息子の居住は認められなかった。ただし、妻子に爵位が授けられ、ブラソワ伯となる。息子ゲオルギーはこれまで私生児だったがミハイルの子として認知された。
ミハイルはイスラム教徒で構成される北カフカス師団の軍団司令官、騎兵総監として敢闘し、ゲオルギー十字勲章を授与された。
⑶即位
成年後のミハイルは善良でリベラルであったと言われている。内政に混乱をもたらす皇后アレクサンドラには反対しており、兄皇帝に進言することもあったが、ミハイルでさえも状況を変えることはできなかった。
1917年、皇帝は内政の混乱から逃げるように本営で最高司令官として戦争の指揮にのめり込んだ。皇后の錯乱した国政により崩壊寸前の内閣と、台頭する新勢力により、帝政は最大の危機にあった。
状況を放置する皇帝を支えるため、ミハイルは内閣や議会の意見を聞き、国会に譲歩して新政府をつくることを認めるよう皇帝に電話で進言を試みたが、皇帝は電話には出ず、40分も待たされた挙句拒否を伝えられた。2月27日のこと。
反乱軍に鉄道が押さえられ、帰れなくなったミハイルはその晩を冬宮で過ごしが、翌朝の首都は混乱状態、海軍省から将軍たちが冬宮へ移ってきて、ミハイルに軍を指揮して首都を守るよう進言したがミハイルは拒否して、冬宮を出て身を隠した。
3月2日、皇帝はとうとう退位を受け容れる。皇帝ニコライ2世の退位、ミハイル大公を摂政として新皇帝アレクセイ2世の即位は議会ソヴェトで承認された。しかし、手続きに時間を要している数時間のうちにニコライは病の息子の即位を心配し、息子アレクセイにではなく弟ミハイルに譲位すると決めた。
これを受けて、議会はもはや帝政を捨て、共和制を求め出した。
3月3日、会議では新皇帝ミハイルを宣言したものの歓迎されるはずもなく、ケレンスキーに「帝位についてもあなたはロシアを救えない。あなた個人がどんな危険にさらされるか、わたしはあなたの命を保証できない」と発言され、部屋を出てミハイルは考えた挙句、退位を表明した。
過去、16才のミハイルが即位して304年、ロマノフの幕を閉じたのも同じ名のミハイル、38才。法的にたった1日だけの、幕を閉じるためだけの即位であった。
ニコライはこの日の日記にミハイル退位のこともロマノフ朝の終焉のことも、何も書かなかった。
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⑷ミハイル殺害
退位後のミハイルはガッチナ宮殿に自宅軟禁された。7月になって首都の情勢が不安定になり、皇帝一家はシベリアに移されることになった。前日の8月12日はアレクセイの誕生日(これが最後に迎える誕生日となった)で、感動的な一日となった。翌日、支度がほぼ整った夕方にミハイルが現れた。ニコライの書斎に通されたミハイルは、ケレンスキーも立ち会っていたためもあって、もじもじして取り留めのない話をしていた。10分後、涙を流しながら部屋を出たミハイルを、待っていたのはアレクセイだった。ミハイルは彼を固く抱擁しキスをした。これがミハイルと皇帝一家との最後の時間だった。
10月革命によりボリシェビキが実権を握ると、皇帝一家がエカテリンブルグへ移送されたように、ミハイルもペルミに送られた。英国人秘書のジョンソンも同行し、ペルミのホテルに軟禁されたが、地域のチェカ議長には自由を保証されていた。
しかし、自らの手でロマノフを殺害して気鋭を上げたいウラルの幹部たちは、手近な所でまずミハイルを殺害し、モスクワの反応を見ることにした。1918年6月11日23時頃、4人がミハイルの宿泊しているホテルへ押し入り、抗議、抵抗するミハイルを外へ連れ出す。秘書も連行される。2台の馬車にそれぞれ乗せられ、人気のない所で降ろされる時、秘書が頭部を撃たれた。ミハイルも撃たれたがかすり傷だった。「秘書と別れをさせてくれ」と駆け寄ってくるミハイル。頭を撃ち抜かれて死亡した。
遺体はその日は叢に隠し、翌日の夜に、酸をかけられ、灰になるまで焼かれた。
エリツィンの時代に、エカテリンブルグのイパチェフ館が証拠隠滅するように壊され、上に教会を建てて封じ込めたように、ミハイルの埋められたあたりも鉄道を上に通して、決して掘り返すことはできないようにされた。
皇帝一家の遺体はその後発見され、鑑定も進んだが、ミハイルの方は全く難しいだろう。
ミハイルの息子ゲオルギーが、行方不明の父に宛てて書いた手紙がある。チェカは、ミハイルの殺害は公表せず、ただ、行方不明になったとのみ報じた。そのため、近親者はミハイルが国外脱出に成功したのだという期待も抱いた。
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この手紙が書かれた頃はミハイルは既に殺害されていた
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ミハイル殺害から1ヶ月後、ウラルのチェカはモスクワの暗黙の了解を取り付けて、今度は残り全てのロマノフを殺害した。
殺害された者たちは、先立ってミハイルが殺されていたことを勿論知らなかった。
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母の談では、3人の兄弟のうち最も皇帝に向いていたのはゲオルギー。ニコライは気が小さく、ミハイルはもっと気が小さい、とのこと