名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ヘッセン大公家 呪いのうわさ

2016-01-28 11:17:31 | 出来事
ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ
その生涯と周辺の数奇な不幸




前の記事のデンマーク王女アレクサンドラやダウマーによっても囁かれていましたが、その時代、ヨーロッパの王室ではヘッセン大公家には不幸な出来事が多く、婚姻関係を結ぶのは不吉を呼ぶと心配されていました。
確かにその当時までに、いくつかの不幸がヘッセン大公家で起きていましたが、むしろその後に数々の不幸に見舞われました。
19世紀から20世紀に移る時代は、ヴィクトリア女王崩御でヨーロッパがバランスを失い始めるとき。
その時代を生きたヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒを中心に、ヘッセン大公家が被った不幸な出来事(それが呪いであるかどうかはおき)を追います。


Ernest Louis Grand Duke of Hesse
1868~1937(1892~1918)





序 ヘッセン大公国とは
1806年、神聖ローマ帝国解体後、ナポレオンがそれまで存在したヘッセン=ダルムシュタット方伯を大公に格上げし、ヴィルヘルム10世が初代大公ヴィルヘルム1世として即位しました。1816年より国名をGroßherzogtum Hessen und bei Rhein(ヘッセンウントバイライン)とし、1871年よりドイツ帝国の構成国家となりました。1918年、第一次大戦後に大公国は廃止され、共和制のヘッセン民主国となりました。
その間、ヴィルヘルム1世、ヴィルヘルム2世、ヴィルヘルム3世、ヴィルヘルム4世、エルンスト・ルートヴィヒの5代が治めました。
1代目からエルンスト・ルートヴィヒに繋がる本家と、第2代大公ルートヴィヒ2世の四男アレグザンダーの貴賎結婚によって分家したバッテンベルグ家があります。
ただし、アレグザンダーとその妹マリーは母が夫と別居してから生まれた不義の子でしたが、大公は認知しています。マリーは、14歳の時に結婚相手を求めてドイツを旅していたロシア皇太子の目にとまり、周囲を押し切って結婚。アレクサンドル2世皇后となったが、皇帝の度重なる愛人問題に苦しみながらも、アレクサンドラ、ニコライ、アレクサンドル3世、ウラディミル、アレクセイ、マリア、セルゲイ、パーヴェルを生みました。
これらのうち、ニコライはデンマーク王女との婚約後に急逝、セルゲイはモスクワ総督退任直後に爆殺され、パーヴェルはロシア革命で銃殺、息子の1人もボリシェビキによって殺害されました。


第5代ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(1868~1937)は、父ルートヴィヒ4世と母アリスの第4子、長男として誕生します。
母アリスはヴィクトリア女王の第3子、血友病遺伝子の保因者でした。そのことから、エルンストは初めての悲しみに直面しました。エルンストの唯一の弟フリードリヒは血友病でした。




1.弟フリードリヒ、血友病による死
エルンストの兄弟姉妹は、
①ヴィクトリア(ルイス・バッテンバーグ妃)
②エリザベータ(ロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチ妃)
③イレーネ(ドイツ皇帝の弟ハインリヒ・フォン・プロイセン妃)
❹エルンスト
⑤アリクス(ロシア皇帝ニコライ2世妃)
❻フリードリヒ
⑦マリー
ですが、フリードリヒが血友病、イレーネとアリクスは保因者でした。もちろん、誰もそのことは知りえない事実でしたが、1873年2月、すでにフリードリヒは血友病であると診断されていました。

母アリスとエルンストと五姉妹

ヴィクトリア、エリザベータ、フリードリヒ


1873年5月、5歳のエルンストは2歳半の弟フリードリヒと母の寝室で遊んでいたが、窓際の椅子からフリードリヒは窓の手摺子をすり抜けて6メートル下に転落、外傷はなく無事であったのですが、血友病の致命傷となる脳内出血が原因で程なくして死亡した。
間近に弟の死と直面し、エルンストは死を強く恐れて看護師に、

When I die,you must die too,and all the others.
Why can't we all die together?
I don't want to die alone like Frittie!

と訴えたといいます。
この、「1人で死にたくない」という言葉が、のちに現実化してしまいます。




2.妹メイと母のジフテリアによる死
1878年、エルンスト10歳。ジフテリアがダルムシュタットで流行し、エリーザベトを除く兄弟姉妹全員が罹患しました。エリーザベトは父方の祖母エリーザベトを訪ねていたため、罹りませんでした。また、同じときに父ルートヴィヒも病気になり、母アリスは皆の看病につとめていましたが、最年少のマリー、愛称メイは亡くなってしまいました。メイをとても可愛がっていた病床のエルンストを気遣い、数週間の間、母はその死を伏せていたのですが、姉から聞いてその死を知り、エルンストはひどい悲しみに打ちひしがれたのです。気の毒なエルンストを慰めるために、母はエルンストにキスをしてあげたのですが、おそらくそれによって母は感染し、看病疲れで抵抗力が低下していたために、あっという間に母も亡くなってしまいました。11月6日に妹メイ、12月14日に母アリスがジフテリアで死亡。まだ幼かったエルンストやアリクスにとって、母の不在は大きな悲しみとなりました。

アリクス、エルンスト、メイ

母の葬儀の記念写真
中央はアリスの母ヴィクトリア女王


後列左から、エルンスト、ヴィクトリア、ルートヴィヒ4世、エリザベータ
前列左、アリクス、イレーネ


アリクスとエルンスト




3.不幸な結婚、娘エリザベスの腸チフスによる死
1892年、エルンストは大公国を継承しました。1894年、母方の祖母ヴィクトリア女王の強い勧めにより、従妹のヴィクトリア・メリタと結婚します。ヴィクトリア・メリタは、エルンストの母アリスの弟アルフレート・ザクセン=コーブルクとその妻、アレクサンドル2世の娘マリア・アレクサンドロヴナ(「美しきデンマーク王女アレクサンドラ」参考)の次女であり、よって祖母マリア皇后からヘッセン大公家傍系のバッテンバーグ家の血を引いています。ヴィクトリア・メリタの妹マリーはのちにルーマニア王妃となっています。長身で、おとなしい性格だったヴィクトリア・メリタ、愛称ダッキーですが、エルンストとは合わず、皿を投げ合うほどの激しい喧嘩をしていました。ダッキーによれば、不仲の主因としてエルンストの男色を理由にしています。



エディンバラ公アルフレート・ザクセン=コーブルク侯爵夫人マリア・アレクサンドロヴナと子女
(年齢順)アルフレート、マリー、ヴィクトリア・メリタ、アレクサンドラ、(男児死産)、ベアトリス
この写真では右端がダッキー


アルフレートとヴィクトリア・メリタ
公世子アルフレートは梅毒による麻痺生痴呆などで両親の銀婚式式典を欠席中拳銃自殺を図り翌月24歳で死亡。ある令嬢との秘密結婚を両親に咎められた事を悩んだ末の行動だったとされている


2人の間には、1895年に娘エリザベスが生まれましたが、1900年に生まれた息子は死産でした。
エルンストは娘エリザベスを溺愛しましたが、夫婦仲は悪化し、ヴィクトリア女王亡き後間もなく、正式に離婚しました。幼いエリザベスは母に捨てられたと思い、怒りを抱きました。半年ずつ父、母の元で暮らすことになっていたのですが、母方へ行くときにはソファの下で大泣きするほどでした。

巻き髪の愛らしいエリザベスは明るく華やかな少女だった



ロシア皇女オルガ、タチアナと


1903年10月6日、傍系バッテンバーグ家の長女アリスとギリシャ王子との結婚式がダルムシュタットのヘッセン大公家で行われるため、エリザベスは父方の叔母アレクサンドラ皇后に連れられ、ポーランド、スパラの、ロシア皇族らの狩猟用の宮殿で、歳の近い従姉妹オルガやタチアナとともに過ごしていました。
ところがそこでエリザベスは腸チフスに罹り、瀕死になります。医師は速やかに母親を呼び寄せるように言ったにもかかわらず、ダッキーを嫌う皇后アレクサンドラはなかなか電報を出しませんでした。何も知らず、狩猟のバカンスに合流しようと準備していたダッキーが受け取ったのは、娘の死の報せでした。
この死については謎があり、腸チフスに罹ったのがエリザベスだけであることから、毒の盛られた物をエリザベスが誤って食べてしまった、などとも言われています。

スパラの宮殿 山荘風の外観

内部

ニコライ皇帝は狩りが好きで何ヶ月も狩猟場に逗留した


なお、エリザベスの死の翌年1904年に生まれたロシアの待望の皇太子アレクセイが、1912年にこの宮殿でのバカンス中に、血友病で瀕死の状態になり、皇帝皇后は隠蔽に追われつつも息子の危篤に直面し、絶望のなかから一縷の望みをかけてラスプーチンに縋り、彼からの一本の電報によって死の淵から息子を引き戻したのでした。これ以後、皇帝一家はスパラ宮殿を訪れようとはしませんでした。
一命を取り留めたアレクセイは、翌年まで脚が曲がったままになってしまいましたが、快復を遂げ、皇后のラスプーチン崇拝は高じていきました。


翌年1913年はロマノフ300年祭であったが、皇太子の曲がった脚を隠すのに必死だった
記念写真ではポーズや立ち位置で巧みに隠しているが、この写真では脚の異常がそのまま見て取れる


皇太子は足首捻挫のため歩けない、ということにしていた

スパラ宮殿のバルコニーで休むアレクサンドラ皇后 平静を装いながら瀕死の息子を見守ることで急激に年老いていった
これほどの一大事が起きていたにもかかわらず、1912年のスパラ滞在時のスナップ写真(テニスや狩猟に興じる家族写真や馬車で出かけるアレクサンドラの写真など)が思いの外、多数存在する



血友病はイギリス王室からヘッセン大公家と、傍系のバッテンベルグ家によって拡散していきました。
ヘッセン大公家からは女系で、アリクス(アレクサンドラ皇后)を経てロシア皇太子アレクセイへ、イレーネを経てヴァルデマール王子へ、ヴィクトリア女王の娘ベアトリスからバッテンベルグ家男系で、レオポルト王子、モーリス王子、娘ヴィクトリア・ユージェニーからスペイン王室へと遺伝していきました。



4.姉エリザベータ、妹アレクサンドラがロシア革命によって殺害される
娘エリザベスの死に打ちひしがれながらも、歴代の大公として世継ぎをもうけなければならないエルンストは、1905年、ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ侯の娘エレオノーレと再婚しました。この結婚により、1906年に長男ゲオルク・ドナトゥス、1908年に次男ルートヴィヒが生まれ、ようやく幸せな家庭に恵まれました。



ベビーカーのルートヴィヒ、ゲオルク、ゲオルクの2歳上のアレクセイ皇太子

ロシア皇女マリア、アナスタシア、アレクセイとゲオルク

ギリシャ王女マルガリータ、テオドーラと
ゲオルクはこの2人の妹のセシールと結婚する







第一次世界大戦が始まると、ドイツ帝国軍に加わり、従軍します。ロシアとは敵国になり、エリザベータやアレクサンドラ皇后とは会えなくなりました。しかし、大戦中にロシア国内で革命が起き、妹の皇后や、可愛がっていた姪達は2月革命では臨時政府に捕らえられて軟禁され、10月革命後は修道女になっていた姉エリザベータまで捕らえられてしまいました。
この経緯のなかで、ロマノフ家の人々はそれぞれいろいろな運命を生きるわけですが、一人、非難を浴びる動きに出たのはキリル・ウラディミロヴィチです。キリル大公はアレクサンドル2世の三男ウラディミル・アレクサンドロヴィチを父に、マリア・パヴロヴナを母に持ち、1905年に周囲に嫌悪されながらも、エルンストと離婚したダッキーと再婚しました。皇帝により皇族の権利を剥奪され、国外へ逃れましたが、父ウラディミル死去により、皇帝の弟ミハイルに次いでキリルが帝位継承第3位となるため、許されて帰国し、権利も取り戻しました。大戦中は従軍しましたが、革命が起きると臨時政府に忠誠を誓うなど、帝室への裏切りとも取れる行動をとったため、ロマノフ家の人々は憤慨し、キリル及びその後裔をロシア帝位継承者として認めない立場をとりました。
これ以降もキリルは逃亡先で「全ロシアの皇帝」を自称、現在もその後裔らが係争しています。

キリル大公とヴィクトリア・メリタ夫妻
娘のキーラとマリア


逃亡先のフィンランドで生まれたウラディミル


エルンストにとって悲劇なのは、妹らの惨殺に乗じて厚かましく帝位継承を宣言したのが、ダッキー夫妻だったということでしょう。
また、皇女アナスタシアを騙る女の正体を、私立探偵を雇って突き止めたのはエルンストであり、エルンスト亡き後に高額な裁判費用を支払ったのはヘッセン大公家に繋がるルイス・マウントバッテンでした。


5.妻・息子・息子の妻・孫の飛行機事故死
エルンストは1937年10月9日、長く患った後、68歳で病死しました。すでに大公国は存在せず、君主としての大公ではありませんが、大公家家長は長男ゲオルク・ドナトゥスに継がれました。

3人の孫ルートヴィヒ、アレクサンダー、ヨハンナと晩年のエルンスト

ゲオルクとセシールの結婚式


ゲオルク・ドナトゥス

ゲオルクの家族写真


ゲオルク・ドナトゥスはこの年5月に、妻とともにナチス党員になっています。
家督を継いだ翌月、ロンドンでの弟ルートヴィヒの結婚式に参列するため、ゲオルク・ドナトゥスと母エレオノーレ、妻セシール、子供達は、まだ幼い娘ヨハンナは預けて同行せず、6歳の息子ルートヴィヒ、4歳の息子アレクサンダー、そのほか数人の友人とともに飛行機で向かいました。
しかし、途中、工場の煙突に激突して墜落死、乗員乗客全員即死しました。妻は妊娠8ヶ月でした。
ただ一人、幼くて何もわからないヨハンナだけが生き残り、ルートヴィヒ夫妻が引き取って養育していたのですが、不幸にも髄膜炎により事故の1年半後に亡くなりました。
ヨハンナの母方の祖母アリス・オブ・バッテンバーグ(セシールは母からバッテンバーグの血を引いています)は、「目を閉じて動かなくなったヨハンナは、同じくらいの年齢の頃のセシールとそっくりな顔立ちをしていた」と話していました。セシールはエリザベス女王の夫フィリップの姉の一人です。

ヨハンナ

弟の死に直面したとき、「僕が死ぬときは一人で死にたくない、みんな一緒に死んでよね」と哀切に懇願していたエルンストでしたが、まさか家族のほとんどがすぐに自分を追うように亡くなるとは、想像もしなかったでしょう。
ゲオルク亡き後家督を継いだ次男ルートヴィヒは子に恵まれず、ヘッセン大公の称号は遠縁の者が継ぎました。



6.マウントバッテン・キャリスブルック侯家の血友病
傍系のバッテンベルグ家の不幸な出来事について。
アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットのユリア・ハウケとの貴賎結婚による長男ルイスは初代ミルフォードヘイブン侯ルイス・マウントバッテン、三男ハインリヒ・モーリッツ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットはイギリス王女ベアトリスと結婚、長男アレクサンダーが初代キャリスブルック侯アレクサンダー・マウントバッテンです。
ミルフォードヘイブン侯側には血友病は出ませんでしたが、キャリスブルック側はベアトリス王女によって血友病をもたらされたのです。
ハインリヒ・モーリッツの男3人女1人の子息のうち、アレクサンダーを除いて皆が遺伝子を引き継ぎました。詳しくは「王室の血友病 全体像」に書いています。

マウントバッテン家のアレクサンダー、レオポルト、モーリス、ヴィクトリア・ユージェニー
右下が後継者アレクサンダー


スペイン王家 ヴィクトリア・ユージェニーと子女 長男と四男が血友病


7.ルイス・マウントバッテンのIRAによる爆殺
ルイス・マウントバッテンは父方がバッテンベルグ家でヘッセン大公家の傍系であり、母はヘッセン大公女ヴィクトリア、ヘッセン大公エルンストの1番上の姉です。ヴィクトリアの子孫に血友病は1人も出ていません。
この事件に関しては、過去の記事「皇女マリアに恋したルイス・マウントバッテン」に書いています。ヘッセン大公家に連なるから殺害のターゲットになったわけではなく、イギリス王室や政府に向けての抵抗運動であり、ルイス個人を標的に狙っていたわけではないですが、たまたまアイルランドの拠点の近くでルイスが警戒する素振りもなく、悠然とバカンスを楽しむことへの憤りが殺害実行を後押ししたと言えるでしょう。ルイス自身はIRAの活動を批判したことはありませんでした。
百戦を戦い抜いてきたルイスのこと、狙えるものなら狙ってみろ、と開き直るかのような行動を示したのでしたが、まさか娘の姑と孫1人と孫の友人を道連れにしてしまったことは大誤算だったことでしょう。
同じくヘッセンの家系の従姉、若い頃に恋心を寄せていたロシア皇女マリアと同様、暗殺によって召されたルイスは、イギリスのために命を落としています。

左からチャールズ、ルイス、フィリップ
ルイスはフィリップの叔父だが、フィリップはルイスの母(フィリップの祖母)に引き取られて育てられていたため、フィリップにとって兄のような父のような存在であり続けた。チャールズにとっては祖父がわりだった。


事件のあった海岸付近




結び 呪いとは
ヘッセン大公家にまつわる人々の不幸な運命から、呪われていると囁かれていたのですが、何かの結果として呪われていたわけではなく、不自然に感じざるをえないような不幸が度重なっただけだと思われます。それは、ロシア革命のように、ただそういう時代だったということで説明のつくものもあります。
また、王宮の複雑な社会の中で生きることの過酷さから、ヴィクトリア・メリタの兄アルフレートの自殺や、オーストリア皇后エリザベートの息子の自殺(他殺?)や狂王ルートヴィヒの生涯など、呪わしいといえる運命は、この時代には珍しくはありませんでした。

強いて言うならば、子供の悲痛な恐れから飛び出した「僕が死ぬときは‥」の言葉が、まるで呪いの言葉のように、事態に合致してしまったと言えなくはないでしょう。


ゲオルク・ドナトゥスを抱くエレオノーレとエルンスト

ゲオルクと父母

事故で一緒に亡くなったエレオノーレと孫









美しきデンマーク王女三姉妹 テューラ

2016-01-20 14:49:43 | 人物
デンマーク王女続き





Thyra of Denmark
1853~1933


⑶三女テューラ
三女テューラは6人兄弟姉妹の5番目で、長女アレクサンドラとは9つ違い、次女ダウマーとは6つ違い。年齢が離れているので、一緒に遊んだり学んだりという間柄ではなかったと思うが、成人してからは共に仲睦まじい姉妹であった。









テューラも母親譲りの美しい顔立ちで、やはり姉達とも似ていた。相次いで大国に嫁いで行く姉達を見てきて、自分の将来をどのように思っていただろうか。テューラの下に5つ離れた弟がいる他には、10歳上の兄王太子フレゼリクがいたが、当時はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に従軍していた。8つ上の兄はギリシャでゲオルギオス1世としてすでに即位していた。ちなみに、ゲオルギオス1世こと次男ヴィルヘルムは17歳で即位したのに対し、兄フレゼリクのデンマーク国王即位は64歳。在位は6年間、1912年病没。弟は在位50年、1913年、67歳で暗殺されている。


17歳の悲恋
18歳のテューラは1871年に、黄疸のためギリシャの兄の元に身を寄せ、人に会わず静養していた。と、世間には公表されていたが、実は秘密裏に出産していたのである。
デンマーク宮廷に仕える中尉と恋仲になり、身籠ってしまった。12歳年上のヴィルヘルム・マーシェル中尉は宮廷内の蝋燭を消灯する係に従事しており、各部屋を廻る中でプリンセスにも接する機会があった。このことはもちろん、家族の他には極秘にされ、事実が知れないようにギリシャで出産するよう兄が計らったのである。
テューラは娘マリアを出産したが、名前をカーテと変えられ、ある夫妻に預けられた。マーシェルはデンマーク国王に謁見した直後、自殺した。
このあとテューラは体調を崩し、腸チフスも患った。


マーシェル中尉?

このことは他国はもちろん国内でも知られていない。ヴィクトリア女王の適齢期の次男アルフレートがこの頃に、テューラに関心を示していたらしいが、そのことからも窺える。
なぜ中尉は自殺したのか、謁見の内容の記録はもちろんないのでわからない。自らの意志による自殺か、あるいは半ば強要されたものなのか。中尉にとって不幸なことであった。
娘のカーテはごく普通の生涯を生きて、1964年に亡くなっている。彼女が自分の出自を知っていたかどうかもわかっていない。

カーテと養母

カーテ 1896年


結婚
1878年、テューラは元ハノーファー王太子エルンスト・アウグストと結婚。三男三女を得る。
オーストリアのカンバーランド城にて家族と共に暮らした。


子女
テューラの三男三女は以下。カーテは除く。

①マリア・ルイーゼ 1879~1948
❷ゲオルク・ヴィルヘルム 1880~1912
③アレクサンドラ 1882~1962
④オルガ 1884~1958
❺クリスティアン 1885~1901
❻エルンスト・アウグスト 1887~1953













男子は3人。しかし次男クリスティアンは虫垂炎から腹膜炎を起こし、1901年、16歳で亡くなった。
嫡男ゲオルク・ヴィルヘルムは、1912年5月、叔父のデンマーク国王フレゼリク8世の葬儀に参列するため、自らの運転する自動車で向かっている途中、交通事故死した。テューラにとっては、兄に引き続き、その兄の死のために息子を、しかも嫡男を亡くしてしまった。

ゲオルク・ヴィルヘルムは自動車好きでカー・レースにもよく参加するほどだった。31歳の事故死はウィリアム王子を思い起こさせる(別記事)。
このポートレートカードには既に亡くなっているクリスティアン王子も描かれていることに注目


しかし、これが元となって一つ幸せが訪れた。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から亡くなった兄宛に弔文を賜った返礼に、三男エルンスト・アウグストが皇帝を訪れた際、皇帝の末子で唯一の娘ヴィクトリア・ルイーゼと出会い、互いに魅かれ、翌年1913年5月に結婚した。ハノーファー家にホーエンツォレルン家が嫁いだことになり、両家の融和を象徴するものとなった。そしてこの結婚式は、翌年勃発する第一次大戦を前に、ヨーロッパ王族が一堂に会した最後のときであった。

ヴィクトリア・ルイーゼ

エルンスト・アウグスト



なお、エルンスト・アウグストとヴィクトリア・ルイーゼの娘はのちのギリシャ国王パウロス1世妃フレデリケである。フレデリケと弟クリスティアン・オスカーについては、別記事「ヒトラー・ユーゲント」に少し書いている。

テューラの息子夫妻と孫達

孫フレデリケとクリスティアン・オスカー

晩年
第一次大戦では、姉達の住む国とは敵国になっている。戦後は、姉ダウマーが最大の不幸を抱えることになってしまい、また兄達も既に戦前に他界し、デンマークもギリシャも次世代が王になっている。特にギリシャは政情不安定となり、甥達は危険にさらされていた。

3人とも6人の子をもった。
アレクサンドラとテューラは成人した嫡男を若くして喪った。また、アレクサンドラとダウマーは生まれて間もない息子を亡くしている。正式な子ではないが、出産後まもなくテューラは初めての子と別れねばならなかった。
共通しているのは、3人とも80歳前後に亡くなっていること。
長い一生において、幸せばかりということは誰にもないが、デンマーク王女の3人も、それぞれが苦しみや悲しみに直面しながら強く生き、母となり、祖母となり、子や孫を世に残していった。
そして3人に共通していたこと、それは美しい笑顔を絶やさない優しい人だったということである。

母と三姉妹

テューラと3人の娘達 やはりこの三姉妹も美しい










美しきデンマーク王女三姉妹 ダウマー

2016-01-17 22:01:23 | 人物
デンマーク王女 続き



⑵ダウマー
アレクサンドラの3歳年下のダウマーは兄弟姉妹のなかの4番目、1847年に生まれた。ダウマーは家族からミニーの愛称で呼ばれた。
姉のアレクサンドラとはとても仲が良く、幼少期からともに過ごし、なんでも相談していた。
姉がイギリスへ嫁いで行ってしまう時、ミニーは涙を流して見送ったのだった。






婚約
それから2年、今度はミニーがデンマークを離れることになった。婚約の相手はロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ。皇帝アレクサンドル2世の長男であった。

婚約したロシア皇太子ニコライ

中央にニコライ、手をつないでいるのがダウマー、母、兄、妹、弟と

政略結婚ではあったが、ニコライが婚約のためにデンマークを訪れ、ミニーと初めて面会した時、2人はよく笑い合い、すぐに親しくなった。小柄で愛くるしく、誰とも打ち解けやすいミニーは、言葉の違いも障壁にならず、たちまち周りの人の心を融かしてしまう。婚約者は2人の将来に希望をふくらませ、帰国していった。ミニーも幸せな結婚になることを思い描いていた。
翌年1965年、南欧旅行中のニコライは髄膜炎を起こしたが、医師の誤診でリウマチと診断され、そのまま旅を続行。しかし症状は悪化し、フランスで客死した。ニコライを手塩にかけて育てた母マリア皇后はもちろん、ミニーにとっても深い悲しみとなり、ミニーの両親は落ち込む娘に何と声をかければよいか途方にくれたという。
ニコライは死の間際に、帝位継承者となる弟のアレクサンドルに、自分が死んだら代わりにミニーと結婚するように頼んだといわれている。皇帝もミニーに手紙を書き、ロシアに迎えたいと懇願した。姉や母の後押しもあり、ミニーもその言葉に従い、ロシアに嫁ぎ、アレクサンドルと結婚することになった。

アレクサンドル3世

結婚
ロマノフ家の男性はほとんどが190センチ前後の長身。しかもアレクサンドルは体格もしっかりしていて、巨熊と言われていた。その横に、小柄で華奢で、少女のように可愛らしい花嫁。帝位継承者になるのも結婚するのも兄の代わりで、自分にとって予想してなかった筋書きだったが、アレクサンドルはたちまちミニーの虜になり、不安がいっぱいの帝位にも勇気をもらって臨もうとした。なにしろ威圧的で強面のアレクサンドルがミニーには優しい。明るいミニーは、夫だけでなく、身分の隔てなく周囲の誰とも打ち解けて魅了した。ロシア国民にも愛され、帝政反対派もしばらくは活動を控えるようになった。
ロシア語を学び、正教に改宗し、義理の母マリア皇后にも受け容れられた。ミニーの姉アレクサンドラは、夫と相思相愛で義父母とも睦まじいミニーのことを羨ましがっていた。








子女
4男2女。ただし第二子アレクサンドルは早逝した。

❶ニコライ 1868~1918
❷アレクサンドル 1869~1870
❸ゲオルギ 1871~1899
④クセニア 1875~1960
❺ミハイル 1878~1918
⑥オリガ 1882~1960

後にロシア革命を生き残ったのはミニーと娘2人だけである。

ニコライと

ニコライ、ゲオルギ、クセニアと

ミハイル、オルガを含め5人の子供達と

ミニーの義弟セルゲイ・アレクサンドロヴィチの結婚式で、新婦エリザヴェータの妹のヘッセン大公女アリクスと出会った息子ニコライは、彼女を将来の結婚相手にしたいと望んだ。これにはミニーもアレクサンドルも大反対だった。度重なる不幸で、呪われていると噂されるヘッセン大公家の出自はエリザヴェータも同じだが、アリクスの様子を姉から聞いているミニーは強く反対した。固執し続けるニコライの気を変えさせるために、アレクサンドルはバレリーナのクシェシンスカヤを遊び相手にさせ、仮初めの恋に溺れさせたりもしたが、ニコライはアリクスを諦めなかった。アリクスに目をかけているヴィクトリア女王も反対したし、アリクスの姉エリザヴェータすらも、ロシア皇后はアリクスの性格では務まらないと反対した。にもかかわらず、強靭だったアレクサンドルがあっけなく腎臓を病み、予後が危ぶまれるようになって、ニコライは帝位を自分が継承するならアリクスとの結婚を認めるよう、さもなければ自分は皇室から去ると父に迫った。その時点でニコライの弟ゲオルギは結核だったし、ミハイルはまだ若すぎた。弱みを突かれて、やむを得ずアレクサンドルはニコライの望みを認めたが、ミニーは反対し続けた。
アレクサンドルは49歳で崩御。葬儀に引き続いてアリクスとニコライの結婚。終始暗い表情の新皇后は周囲の空気を重くした。

婚約したニコライとアリクス

アリクス改めアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后は、ロシア語が不自由なため会話したがらず、笑顔もないのでどんどん人が遠ざかる。アレクサンドル3世の葬儀からしばらくしてミニーが晩餐会を開き始めると、皇后は非難した。ロシア宮廷の晩餐会は減り、社交界は機能しなくなり、それは皇帝を孤立させることにもなったが、ニコライも非社交的な側面があり、不利益とは感じず、むしろうるさい連中と関わらなくて済むと考えた。
まさに水と油のミニーとアレクサンドラ皇后であったが、ミニーもアレクサンドラにだけ招待状を送らないなどの姑息な意地悪をし、ますます溝を深めることになった。母を愛するニコライは、頻繁に母を訪れ、政治や諸々のことを相談をする。人と会いたくないため、ツァールスコエのアレクサンドル宮殿に子供達とともに引きこもるアレクサンドラ。子供達をかわいそうに思うミニーの娘オルガ、子供達にとってのオルガ叔母さんは、週末に子供達を連れ出してミニーの所で一緒に昼食を取らせ、サンクトペテルブルクの街で遊ばせてやった。たまの外出を、子供達は片時も無駄にしないよう、目を輝かせていたそうだ。ミニーは大好きな孫たちにはこうして接することができた。

ニコライの子女 左からタチアナ、オルガ、アレクセイ、マリア、アナスタシア
家族全員が惨殺された
最も若いアレクセイはまだ13歳だった


革命後
しかしやがて、革命によりニコライ一家が監禁されるようになると、ミニーもクリミアに娘の家族たちとともに身を潜めざるをえなくなった。
そんななかでもニコライとは頻繁に手紙のやりとりを続けていたが、孫たちは他の知り合いや家臣に手紙を書いてもミニーには手紙をよこさなかった。アレクサンドラが書かせなかったようだ。もちろん、手紙魔のアレクサンドラだがミニーには一通も書いていない。ミニーはアレクサンドラの姉エリザヴェータとは親しく、そのこともアレクサンドラには不愉快であった。

ミニーが革命政府によってクリミアに幽閉されていることを知ったアレクサンドラ(姉)はジョージ5世とともに奔走し、軍艦を黒海に送りミニーと家族を脱走させた。ミニーは祖国デンマークに亡命。共同で持っていた別荘で暮らすようになった、社交的なミニーを訪れる人は多く、晩年も賑やかだったが、皇帝一家やミハイルの殺害の知らせが入っても頑なに信じず、彼らは生きていると周囲に言った。にもかかわらず、自分はアナスタシアである、と訴える人たちには決して会おうとしなかった。
亡命の際に持ち出した宝石類はイギリス王妃メアリーに巻き上げられている。メアリーは「良く言っても泥棒」とささやかれる変わった性癖があり、人の物で高価な目につくものは何でも自分のものにした。ミニーに限らず、イギリスに亡命したロマノフの生き残りは、どんなに隠してもメアリーにまんまと貴金属を奪われてしまったそうだ。
ミニーは姉アレクサンドラと同様、80歳で亡くなった。

ロシアをどんどん傾けてしまったのはミニーの息子のニコライだが、ミニーが嫁いでくる前からロシアにはその兆しがあった。ロマノフの最後の光をしっかりと受け取ったのはミニーが最後だったし、息子達の悲劇をその目に見なければならなかった。たとえ見ることを知ることを拒絶していたとしても。
三姉妹のなかでは最も悲しい宿命を最後に背負ったことになった。

左からダウマー、アレクサンドラ、テューラ

デンマークの別荘で

デンマークの別荘で姉と




tumblr









同時代、この美貌のデンマーク王女姉妹と競って美しいと評判だったのは、オーストリア皇后エリーザベトである。アレクサンドラよりも7つ年上で、三姉妹が騒がれる頃には既にその美しさで名を馳せていたため、アレクサンドラは「デンマークのエリーザベト」などと囃された。
172センチ、50キロ、ウエスト50センチ。
エリーザベトは美しさを維持するために、ダイエットなどにも気を配り、大変な努力をしていた。スタイルは維持できたが、肌の美しさは失われ、隠すようにしていた。



当時噂のアレクサンドラやダウマーのこともつよく意識していたらしい。しかし、顔は美しくても小柄で胴長な彼女達にスタイルでは圧倒的に優っていた。
ある公式行事で初めてアレクサンドラと会った時は、お互いに声を交わしたそうだが、別の機会にダウマーと会った時は、話しかけられなかったらしい。
少し怠け者で享楽的な彼女は、エドワード7世や凶王ルートヴィヒとも親しかったそうだ。彼女にとって最大の不幸は、跡継ぎの一人息子が自殺してしまったことである。喪服で通した傷心の後半生のなかで、彼女は旅の途中、無政府主義者に暗殺された。1898年、60歳没。


美しきデンマーク王女三姉妹 アレクサンドラ

2016-01-17 14:36:52 | 人物
イギリス、ロシア、ドイツに嫁いだ
美しきデンマーク王女三姉妹
ヨーロッパの王室を彩る

⑴アレクサンドラ



Alexandra of Denmark
1844~1925
Dagmar of Denmark
1847~1928
Thyra of Denmark
1853~1933




デンマーク王家
19世紀中頃に生まれたデンマーク王女の三姉妹、アレクサンドラ、ダウマー、テューラ。
父クリスティアン、母ルイーゼのいずれも家柄はデンマーク王家に繋がる名家だが財産はなく、コペンハーゲンの借り物の邸宅で暮らした。家庭教師も雇えず、子女の教育は自らが行った。
しかし嗣子のいないデンマーク国王フレゼリク7世の後に王位を継承することになり、1963年にデンマーク国王クリスチャン9世になった。子女は以下の通り。

❶フレゼリク 1843~1912
デンマーク国王フレゼリク8世

②アレクサンドラ 1844~1925
イギリス国王エドワード7世妃

❸ヴィルヘルム 1845~1913
ギリシャ国王ゲオルギオス1世

④ダウマー 1847~1928
ロシア皇帝アレクサンドル3世妃

⑤テューラ 1853~1933
元ハノーファー王太子エルンスト・アウグスト2世妃

❻ヴァルデマー 1858~1939
フランス、オルレアン家の娘と婚姻


次男ヴィルヘルムは1963年に17歳でギリシャ王に即位。父が同年にデンマーク国王に即位するより早く国王になった。ゲオルギオス1世の娘アレクサンドラはロシア大公ドミートリ・パヴロヴィチ(別記事)の母、息子アンドレオスは現エディンバラ公の父である。
17歳で即位した弟とは対照的に、兄フレゼリクは64歳でデンマーク国王に即位しており、在位期間は6年のみ。1912年没。弟は1913年に暗殺されるまでほぼ50年在位していた。
なお、歳の離れた末弟ヴァルデマーは、ブルガリアやノルウェーの君主候補になっていたが実際に選ばれることはなかった。
6人の子女は、イギリス、ロシア、ギリシャ、ドイツ、フランスに関係を持ち、父クリスチャン9世は「ヨーロッパの義父」とあだ名されていた。

デンマーク国王クリスチャン9世と王妃ルイーゼ


美しい母ルイーゼ譲りの美貌を誇るデンマーク王女を求めて、ヨーロッパ中の王室が縁談に乗り出した。少し歳の離れた三女テューラはさておき、財政難だったデンマーク王家としては、長女アレクサンドラを強国イギリスの王太子に、次女ダウマーをヨーロッパ随一の大富豪ロマノフ家の皇太子に相次いで嫁がせることができ、非常に幸運であった。
しかし、当の王女たちにとっては、国外の、しかも大国の嫡子に嫁ぐことは大きな心の負担になったに違いない。いずれもまだ18歳での結婚。そして時は激動の時代の幕開けでもあった。


長女アレクサンドラ

母、妹テューラと



婚約したイギリス王太子アルバート・エドワード

結婚
とても美しく、明るく華やかなアレクサンドラはイギリスに嫁いでからも皆に愛された。ただ、最も残念なことに、夫との関係は冷めたものとなった。アレクサンドラには首に結核性リンパ腫瘍切除手術の痕があり、巧みに髪やアクセサリーで隠していたのだが、夫バーティーはその痕を見るのが嫌だったのか、妻を遠ざけるようになり、愛人のもとに走った。
アレクサンドラは子供達には深い愛情を注ぎ、夫は愛人に好きなようにかまけさせた。
もともと女性関係がふしだらで、ヴィクトリア女王を立腹させ、父の早死を誘発したバーティーは、王太子時代から宮廷内にも女性を囲い、アレクサンドラの面前でも平然と情事に耽ったという。こうした愛妾たち、「ロイヤル・ミストレス」は王室の公式行事にも席が与えられ、列席していたという。なかでも長く仕えた代表的な愛妾は3人おり、アレクサンドラに礼を尽くすもの、立場を無視するものとさまざまで、アレクサンドラの方でもそれぞれに好き嫌いがあった。


アリス・ケッペル
プリンス・チャールズの妻カミラ夫人の曽祖母にあたる


国王の、最後の、また最愛の「お気に入り(ラ・ファボリータ)」といわれたアリス・ケッペルは奇しくもアレクサンドラと同じ名前であり、控えめで大らかな態度が周囲の人びとに好感を与えたが、豊満な彼女を夫とあわせて「豚のつがい」とアレクサンドラは喩えた。国王の臨終のときも、お気に入りを呼び寄せたい国王の意向に取り合わず、死に目に会わさなかった。アリスを嫌っていたジョージは即位するとすぐアリスを宮廷から追い払った。

家族関係
コペンハーゲン時代は全く裕福でなかったので、英語はイギリス人看護婦や牧師から教わっていた。言語ではそれほど不自由はなかったと思われる。
ただ、大らかで家庭的なアレクサンドラは、王室に厳格さを重んじる義母ヴィクトリア女王とは波長が合わないところもあった。

センスの良いファッションは宮廷内での憧れにもなり、彼女が首の傷を隠すために首元にチョーカー形のネックレスを飾るとそれが流行り、後年、出産時の影響で脚を引きずるようになってからはパラソルを杖変わりにファッションに添えるようになると、それも皆が真似をした。
ロシアに嫁いだ妹のダウマーことロシア皇妃マリア・フョードロヴナとは大変親しく、パリでおちあって買い物をしたり、デンマークに別荘を共同購入して互いの家族とともに休暇を過ごした。
アレクサンドラの美しさは年齢を重ねても衰えることなく、夫エドワード7世の戴冠式当時は50歳を越えていたにもかかわらず、30歳代のような美しさであったらしい。

アレクサンドラと妹ダウマー(ロシア皇后マリア・フョードロヴナ)








夫や姑ともどうにかうまく表面的に折り合いをつけてやっていたアレクサンドラだったが、義妹との関係は複雑だった。義弟アルフレートの妻は当時ロシア皇帝アレクサンドル2世の娘マリアであった。皇女と王女とでは皇女の方が位が高い。ロシアからの莫大な資産とともにイギリス王家に嫁いだマリアは、本来ならそれまでの「皇女」から「王女」に格下げになるのだが、アレクサンドル皇帝は娘に結婚後も皇女の称号を使わせることをイギリス王室に要請した。しかしそれを不服とするヴィクトリア女王は当然の如く、マリアに王女の称号を使わせた。マリアの方でそれに合わせて振る舞えば良かったのだが、彼女自身が自分を高位の者と見做すようにと周囲に威丈高に振る舞い、たちまちイギリス王室で嫌われ者になるとともに、マリアはイギリスを憎むようになった。
ヴィクトリア女王在位50周年の式典において、その席次争いが起こった。マリアは女王の次男ザクセン=コーブルク=ゴーダ公妃で、ドイツの公国の妃。アレクサンドラは王太子妃であるから、アレクサンドラのほうが上だとするのがアレクサンドラの考え。他方で、マリアはロシア皇女、アレクサンドラはデンマーク王女だったから、マリアのほうが上とするのはマリアの考え。現在の位か出自の位かの争いになり、これはヴィクトリア女王が間に入り、アレクサンドラに折れさせた。

アレクサンドル2世と最愛の娘マリア・アレクサンドロヴナ

晩年は難聴で生活に支障をきたしたが、それでも明るい性格はそのままだった。孫で後年のエドワード8世は回顧録に祖母アレクサンドラの年を経ても変わらぬ美しさと愛情を記している。ヴィクトリア女王に倣い王室の厳格さを重んじて子供の養育をかえりみなかった嫁のメアリーに、もう少し子供達と過ごすようにしてはどうかとすすめたこともあったが、自分はイギリス王室のしきたりに従うまでだと一蹴されてしまった。アレクサンドラは寂しそうな孫たちを自分の城に度々招き、祖父母は話し相手になってやった。自閉症のジョン王子のために庭をきれいにさせていたのもアレクサンドラの心遣いによるものだった。

エドワード誕生
母メアリー、祖母アレクサンドラ、曾祖母ヴィクトリア


孫のエドワード8世


子女
エドワード7世とアレクサンドラの子女は以下。

❶アルバート・ヴィクター 1864~1892
❷ジョージ5世 1865~1936
③ルイーズ 1867~1931 ファイフ公爵夫人
④ヴィクトリア 1868~1935
⑤モード 1869~1938 ノルウェー王妃
❻アレクサンダー・ジョン 早逝

三女モードはアレクサンドラのデンマークの甥、フレゼリク8世の次男カール王子と結婚、のちにカールはノルウェー国王ホーコン7世となる。このホーコン7世と、兄であるデンマーク国王クリスチャン10世の第2次大戦時下の振舞いはよく比較対照される。

息子2人と

5人の子供達

家族

王太子の家族と

三女モードの一人息子、のちのノルウェー国王オラーフ5世と


アルバート・ヴィクターの妃選びに、ヴィクトリア女王は自分のお気に入りの孫アリクス(ヘッセン大公女)を推した。アルバート・ヴィクター自身も乗り気であった。しかしアレクサンドラは強く反対し、この話を阻止した。アリクスはヨーロッパ随一の美女と言われたエリザベスの妹であり、エリザベスによく似て美しかったが、内向的で頑固、ときに癇癪を起こすと知られていた。母を喪い、祖母であるヴィクトリア女王の元で暮らしているアリクスをアレクサンドラは見知っていたはずだ。自分とは正反対の気質のアリクスを嫁に迎えることと、将来のイギリス王室の妃を務める資質と、主観的、客観的に判断して、アリクスでは不適であると考え、猛反対してヴィクトリア女王の望みを覆させた。最も、当のアリクスもこの話を敬遠した。

また、次男ジョージが従妹のマリー・オブ・エジンバラ(エジンバラ公アルフレート、ザクセン=コーブルク=ゴーダ公の娘)と恋愛結婚を望んだ時も、周囲はみな祝福したがアレクサンドラは強く反対し、そのためにこれも破談になっている。マリーの母は例の元ロシア皇女マリア・アレクサンドロヴナ。イギリスに嫁ぎながらイギリス嫌いの母も、アレクサンドラに反対されるまでもなく、この結婚には大反対した。

息子アルバート・ヴィクターは1892年、肺炎を起こして亡くなり、婚約していたテック公メアリーは王位継承順位とともに弟ジョージに引き継がれたが、大切に育てていた息子を喪ったアレクサンドラには大きなショックであり、癇癪持ちの次男ジョージが王位継承者になることにも心を暗くした。


晩年
1910年に夫エドワード7世が他界し、王太后となったアレクサンドラはサンドリンガムで暮らした。サンドリンガム城のあるノーフォーク周辺は故郷のデンマークと景観が似ているので、かつて結婚当初はここに新居を構えた。
夫亡き後1923年に80歳で亡くなるときまで、この城で過ごした。その間にはイギリスの内政も大きく揺れ、世界も大戦を経験した。

結婚後の新居にしたサンドリンガム城にて

アレクサンドラを苦しめたのは、やはりロシア革命で皇太后だった妹マリア・フョードロヴナの安否だったようだ。クリミアに避難していた妹とその家族を救出するべく、アレクサンドラは手を尽くし、息子ジョージ5世の差し向けた軍艦によって保護された。憔悴した妹に、皇帝一家の悲惨な最期のことを話さなければならないのは身を切られる思いだったようだ。

イギリス王室の重い空気のなかで明るく振舞い、強く生き、短い王妃時代には国民のために家族協会や看護施設を築く貢献を見せ、何より子や孫たちに愛情を教えた。王侯にありがちな自分本位の態度をとらないあたたかな心は、見た目のクールな印象の美しさとは異なる、優しい心根から生まれるものだった。
この人の美しさと気丈さには心底惹きつけられるものがある。









このあとにダウマーとテューラを続けます。




20世紀前半の英王室(5)エドワード7世

2016-01-11 17:49:43 | 人物

醜聞多く母女王に怯えた長き皇太子時代
10年足らずの国王時代は見事な外交
“ピースメーカー”エドワード7世





Albert Edward
King Edward vii

1841~1910
在位1901~1910


1841年、ヴィクトリア女王と王配アルバートの第二子、長男として生まれる。ヴィクトリア女王の子女は以下のとおり。

①ヴィクトリア 1840~1901
ドイツ皇帝フリードリヒ3世皇后

❷アルバート・エドワード 1841~1910
英国王エドワード7世

③アリス 1843~1878
ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃

❹アルフレッド 1844~1900
ザクセン=コーブルク=ゴーダ公
エディンバラ公

⑤ヘレナ 1846~1922
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアン夫人

⑥ルイーズ 1848~1939
アーガイル公爵ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人

❼アーサー 1850~1942
コノート公

❽レオポルト 1853~1884
オールバニ公

⑨ベアトリス 1857~1944
バッテンベルク公子ハインリヒ・モーリッツ夫人


16人の子を産んだ女帝マリア・テレジアよりは少ないが、女王ヴィクトリアは18年間に9人の子を産んだ。このうち、第8子レオポルトが血友病、第3子アリスと第9子ベアトリスが血友病保因者であったため、女系子孫の婚姻先のドイツ、ロシア、スペインの王家に血友病の王子が現れた。

ヴィクトリア女王

アルバート・エドワードとアリス
アリスは女王の子女のなかで1番最初に亡くなった
ロシアに嫁いだエリザベータ・フョードロヴナや皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの母


生まれながらにして王太子であったアルバート・エドワード、愛称バーティーは、姉ヴィクトリアの才媛ぶりとは対照的に、女王には「出来損ない」と目されていた。厳格な父母や家庭教師の下で教育を受けるも、はかばかしい成果はなかった。ただし語学には優れ、ドイツ語、フランス語は流暢に操れるようになった。これが将来に生きることとなった。

1852年、初めての国外訪問でナポレオン3世に会い、子供のいなかったナポレオン3世はバーティーを大変可愛がり、バーティーは馬車に同乗した際に「あなたの子供だったら良かった」ともらしたという。その後、1959年にイタリア留学するも、イタリアの政情不安で帰国、オックスフォード大学に王族として初めて入学した。1961年には英国陸軍入隊、同年ケンブリッジ大学へ転校。転校後たちまち学友と連んでの不良行為で問題となり、病をおして父が訪問、厳しく説教して帰ったが、このときの心労がたたり、翌月に父は亡くなった。
女王は、最愛の夫は不徳な息子のせいで亡くなったと激怒し、息子を公務からも遠ざけた。自身も落胆のあまりワイト島のオズボーンハウスに籠るようになった。
「女王は姿が見えず、王太子は尊敬されていない」と当時の首相グラッドストンは語っている。

王太子時代

バーティーはカナダ、アメリカを訪問。帰国後復学し、ある女優と交際し、またしても目に余る不良行為に耽った。女王は、バーティーを美しい妃と娶せればこのような行為は慎むだろうと、一計を案じた。
その頃、美貌のデンマーク王女姉妹が内々で騒がれており、女王は重い腰を上げ、バーティーを連れて会ってみることにした。イギリスはかねてからプロイセンやドイツの各国と親密な関係があるため、プロイセンとの間でホルシュタイン=シュレースヴィヒを争っているデンマークと関係を結ぶことには慎重だった。そういう状況も考え、面会はヴィクトリア女王の叔父レオポルト1世のベルギー王宮で行なわれた。

アレクサンドラ・オブ・デンマーク

デンマーク王女アレクサンドラ、愛称アリックスは当時18歳。父は即位したばかりのデンマーク王クリスチャン9世、弟は少し先にギリシャ王に即位したゲオルギオス1世。余談だが、エリザベス2世の王配フィリップはゲオルギオス1世の孫である。
女王とバーティーは噂以上の美しさに目を奪われ、大変気に入り、妃として英国に迎えることを望んだ。経済的窮地にあったデンマーク王室にとってこの縁談は大変良い話だった。早速、翌年には結婚し、英国に王太子妃を迎えることとなった。
アレクサンドラの兄弟姉妹は兄1人弟2人妹2人。
上の妹ダウマーは、のちのロシア皇帝アレクサンドル3世皇后マリア・フョードロヴナ。最後のロシア皇帝ニコライ2世の母である。アレクサンドラとダウマー、三女のテューラは母譲りで皆大変美しく、容姿もそっくりであった。ニコライ2世とジョージ5世がそっくりなのもそのせいである。
この姉妹については次記事にて述べる予定。





女王の計画も空しく結婚後すぐにバーティーの女遊びが始まってしまった。アレクサンドラには頸部に手術痕があったのだが、どうやらそれを見たバーティーは興ざめしたらしい。生涯で娼婦を除き101人の女性と関係したといわれる王太子の不貞ぶりには、王太子妃もあきれるほかなく、子育てに専念して気を紛らした。

第一子アルバート・ヴィクターとアレクサンドラ妃

三男三女をもうけたが末子アレクサンダー・ジョンは早逝した

子女は年齢順でアルバート・ヴィクター、ジョージ5世、ルイーズ、ヴィクトリア、モード


皇太子時代の公務
女王からは相変わらず信頼のないバーティーは、重要な国家機密は知らせてもらえないことも多かった。女王は、無能な息子が自分より長生きしないことを望んでいた。アレクサンドラ妃は子供達に、「お父様のように愚かな人間になってはなりませんよ」と繰り返し諭していた。確かに、家庭人としての品行は最悪で、モンダント離婚訴訟事件では当の身分では考えられない証人喚問を受けたり、ロイヤル・バカラ・スキャンダルでも王室の恥を上塗りすることになり、ますます女王の怒りを買った。50の歳を過ぎても、母女王の前では萎縮して身を硬くしている有様だった。
ただし、与えられた条件のなかでではあるが、公務において、とくに外交においてはなかなかの手腕を発揮するようになっていた。

アレクサンドラの弟が治めるギリシャを公式訪問することに意欲を抱いていたが、その頃エジプト、トルコ、ギリシャの間で対立が起こり、親族といえどギリシャを選んで訪問すれば良からぬ問題が起こりそうだった。バーティーはそこで3つの国を全て連続訪問することで対立を和らげられる可能性を示し、女王と首相を説得した。どの国とも対等に友好的に接したことで、この外交は成功だった。

ウィーン万博やパリ万博へも英国が積極的に参加することを望み、首相に頼み込んで助成金を倍増してもらい、イギリスをアピールするだけでなく、各国との友愛関係も築き上げた。また、近隣国の冠婚葬祭にはイギリスの代表として列席し、礼儀を尽くした。得意の外国語を生かし、必ず好感を抱かれた。

パリ万国博覧会

1888年、オーストリア訪問時に、この年新しくドイツ皇帝に即位した甥のウィリーことヴィルヘルム2世を通じて、オーストリア皇帝との三者で会見をしたいと打診したが、このときウィリーは失礼なやり方で断ってきた。ウィリーにとってバーティーは叔父(ウィリーは姉ヴィクトリアの息子)ではあるが、王ではなく王太子であり、皇帝である自分が物申されるのは不服だったのだろう。「他国の地で別の国の代表と会見するのはおかしい」という理由で断ったのだが、この経緯をヴィクトリア女王は激怒し、後でウィリーに謝罪文を書かせた。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世

そんな中、最大の不幸が起きた。1892年、長男のクラレンス公アルバート・ヴィクター(愛称エディ)が肺炎で急死した。クラレンス公は遠縁のメアリー・オブ・テックと婚約したばかり。長男を目をかけて育てていたアレクサンドラ妃の落胆もはげしかったが、バーティーも「自分の命に何の価値も見出せない私としては、喜んで息子の身代わりになりたかった」と吐露していた。

幼少時のアルバート・ヴィクター(エディ)

エディの隣はのちのロシア皇后アリクス
ヴィクトリア女王はアリクスを可愛がり、エディと結婚させたいと考えていたがアリクスは拒んだ


婚約したエディとメアリー・オブ・テック

メアリーを王室に迎えることを強く望んでいたヴィクトリア女王の思いもあって、メアリーはエディの弟ジョージと結婚した。気が強く、王室のしきたりに厳格に従うメアリーは、家庭的なアレクサンドラとは合わなかったが、バーティーやヴィクトリアの信頼を勝ち得ていた。アレクサンドラは孤立を深めたが、放任された孫たちをいたわることで自らも安らいだ。

孫 エドワード8世、ジョージ6世、メアリー、ヘンリーとエドワード7世


国王時代
1901年、20世紀の始まりとともにヴィクトリア女王は姿を消した。20世紀の始まりは、10年に足らない歳月であったにもかかわらず、華やかで多分に女性的なエドワーディアン・イーラから明け染めた。即位したバーティーことアルバート・エドワードが自分の国王名をアルバートとせず、エドワードに決めたのは、アルバートという名は自分の父アルバートと真っ先に結びつけて欲しかったからだという。
即位時で既に59歳。在位期間が短いのは仕方のない成り行きだが、その短期間に国王エドワード7世の成し遂げたものは大変価値あるものであった。

内政においては、議会が大きく揺れ動き、その在位期間のあいだに保守党から自由党に交代した。議会に口出しはできないものの、なるべく過激な展開を起こさないよう、国王として口添えしていた。外交においては、まだこの当時のヨーロッパでは王族が外交カードを持っていた。イギリスの方針を首相らと確認した上で、エドワードは平和的な外交に奔走した。ドイツ皇帝もロシア皇帝もエドワードの甥であり、「ヨーロッパのおじさん」と呼ばれたエドワードは、ドイツやロシアの拡張主義が加速しないようバランスをとっていた。
長期にわたっていたボーア戦争を終結させた。
日本との友好も重視し、1904年に日露戦争が起きたときも、心情としては甥のニッキーを応援したかったが、日英同盟を重んじ、仲介役をニッキーに申し出たが断られた。この年8月に、ロシアに待望の皇太子が誕生すると、英露関係改善を願って、自分や王太子ジョージ、デンマーク王クリスチャン9世らも誘い、皇太子の代父となった。
一方で、勝つと思っていなかった同盟国日本が勝利するとそれを祝福し、同盟延長を前向きに考えた。
日露戦争後はロシアとの関係改善のために英露協商も結び、英仏協商、日英同盟も合わせ、英仏日露関係は安定した。


1908年、ニコライ2世の求めにより英露の直接会見が持たれることになったが、専制君主国でユダヤ人迫害もあるロシアへの訪問はイギリスでは反発が強く、会見はロシア上陸を避けて、バルチック海レヴァル沖停泊のインペリアルヨット艦上で会見が行われた。姉妹であるアレクサンドラ王妃とマリア・フョードロヴナ皇太后、アレクサンドラ皇后もニコライ皇帝も幼い頃から見知った顔ばかりで、大変和やかな会見であった。

英国国賓を艦上に迎えるニコライ皇帝





アレクサンドラ皇后に挨拶するエドワード7世





ニコライ皇帝とアレクセイ皇太子



一方、ヨーロッパの雲行きを妖しくするのはドイツ、オーストリアだった。ドイツによる第一次モロッコ事件、ブルガリアのオスマン帝国からの独立、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合など、野心的なこれらの動きをロシアもイギリスも抑えきれずにいた。エドワードもドイツとの関係改善を図り、外相や皇帝と会見を重ねたが、溝は埋まらなかった。1909年、エドワードは重い体で再び訪独したが心労は深まるばかりであった。

このようなこともあって体調を崩したエドワードは、思えば内政に外交に、休む間もなく働き続けていたのだった。
1910年に入っても調子は戻らず、休養に入ったが、混乱する内政に、病をおしてロンドンに向かわねばならなかった。5月には床に伏すようになり、それでも体を起こして仕事を続けた。5日にはひどく衰弱し、見舞いに駆けつけたジョージが、エドワードの愛馬がレースで勝ったことを告げると嬉しそうにしていた。
翌日、昏睡のなかでの最後の言葉は、
「いや、私は絶対に降参しない、続けるぞ、
最後まで仕事を続けるぞ」
であった。

ヴィクトリア女王の最後の言葉は、
「バーティー」
だった。
父アルバートは最期の時、駆けつけたバーティーの姿を見て嬉しそうにした。
父母に心配をかけていたバーティーは、最期の時まで立派に国王の務めを果たした優秀な国王だった。

1902年




愛人問題を考えればとても評価はできないが、バーティーはどのような相手とも心を通わせようとする温かい心があり、またそれを相手にうまく届ける術も自然な形で心得ていた。
インドや南アフリカを訪れた時に、有色人に対する軽蔑的な態度をとる人達が理解できなかった。ウィリーのような黄禍論も持ち合わせず、日本との外交にも友好的で、伊藤博文がロンドンで会見を求めた時、クリスマス時期であったにも関わらず休暇せずに会見し、英語の堪能な伊藤に気を良くし、たちまち親しくなったという。
また、国王就任間もない頃にフランスを訪れた時には、心温まる演説を行い、フランス国民の心を1日で掴んでしまった。帰国を見送る沿道の市民からはなんと、「国王陛下万歳!」との声がかかった。
愚かしい面も多々あったが、素直な愛情を振り撒き、思わず素直に返されるような、慈愛溢れる国王だったようである。実際には、20世紀始めの妖しくなりつつある世界のなかでどうにか安定を維持していたのはエドワードの、水面下の水鳥の足かきの如き努力のおかげもあった。



しかし、ウィリーことヴィルヘルム2世にとってのエドワードは最悪だった。
「悪魔め!彼は計り知れないほど恐ろしい悪魔だ」と。ドイツ包囲網の中心人物だとして恨み、第一次大戦の元凶だとも叫んだ。
むしろそれはウィリー自身ではなかったか?と私は思うのだが。
エドワードの死後数年のうちに、独墺が大戦を挑発した。ロシアは挑発に乗ってしまった。イギリスは慎重だった。ジョージ5世はいきなり混迷の世界に立つことになった。