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年越しすば

2004年12月31日 | 日々の出来事
今日は、ひさびさに手間をかけて料理をつくる。
丁寧に鰹節で出汁をとり、
ソーキ(スペアリブ)を弱火でとろとろと煮込む。
出汁を味見してみる。

うんまい!

そば屋やろうかな?おれ。。

出汁の味わいが十分に出ているので、
味付けはしょうゆ少々塩少々でじゅうぶん。
薬味に下仁田ねぎをそえて、
コーレーグース(島唐辛子を泡盛につけた調味料)をたらして、
あつあつをはふはふとたいらげて、
今年の呑み収めに、いざ出陣!





本年は、心身ともに充実した一年を送ることができました。
これもひとえに、皆様のおかげさまでございます。
ほんまにほんまに、ありがとうね~。
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飛翔

2004年12月29日 | 随想
空を切り裂いてぐんぐん上昇してゆく飛行機を見つめながら

ふと この島から飛び立って世界を旅する夢を見る

穏やかな暮らしをしたかったはずなのに

すでに心は浮き足立って 僕を旅に誘っている

いまかいまかと僕の心が待っている

心は時として勝手なもので

つかみどころなく飛び回り

僕を見果てぬ旅へ誘おうとする



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芸人はロケットサラダを植える

2004年12月28日 | 八重山のいきものたち
昨日、ロケットサラダを植えた。
家の近くの売店で、種を買った。
315円だった。
まえに、サンエー(沖縄ローカルのスーパー)
で求めたときには、確か一束298円ぐらいだったように思う。
うまく育てることができれば、
その何倍もの量を収穫することができる。
しかも、とれとれのぴちぴちを毎日食すことができるのだ。


ロケットサラダは、別名をルッコーラまたはエルーカとも呼ばれ、
イタリアンサラダには欠かせないハーブです。
プランターでも簡単に、また室内ならば冬でも
栽培することができます。
そのふくよかなゴマの香りを存分にお試し下さい。

そうだ、そうなのだ。
ふくよかな、ゴマの香りがするのだ。

じつは、俺は何を隠そうゴマ好きなのだ。
どのぐらいゴマ好きかというと、
ゴマスリ器をわざわざ女のコひしめくクロワッサンの店で買い求めた程の
熱の入れようなのだ。
しかも、白ゴマではなく金ゴマを使う。
金ゴマは、食欲を誘う優美な色彩もさることながら、
すりたてのあの香ばしい香りがたまらないのだ。

あ、ちなみにゴマは好きですが、人にゴマをするのは嫌いですよ。あしからず。

売店のおばちゃんに
『大きくなるまでプランターで育てたほうがいいさー。
じかに畑に植えると、かたつむりにたべられるさー。』
と言われた。
むむぅ。

以前、毛虫に『からし菜』を俺が食べるより先に
食べられてしまったという苦い記憶があるので、素直におばちゃんの言葉に従うことにする。

近くの浜を歩きながら、プランターになりそうなものを物色する。
ちょうどよい大きさの発砲スチロールの長方形のケースをGETした。
庭の畑の土を、発砲スチロールのケースに移し変える。
土の中に、数匹のミミズがもぞもぞとしていた。
昨年、有機肥料と無農薬で野菜を育てた成果が如実に現れている。
土を手に取ると、やわらかくそれでいてしっとりとした感じが伝わってきた。
ミミズや微生物たちが土壌を豊かに、ふっくらと仕上げてくれたのだ。

おいしく育てよ、ロケットサラダ。
八重山の太陽と大地の恵みを、からだいっぱいに感じながら。
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なんという蔦

2004年12月27日 | 八重山のいきものたち
今日庭の畑の草取りをしていたら、隣の家のおじいに声を掛けられた。
先日ビーバー(草刈機)で刈った庭の草の山を、トラクターでかたずけてくれるのだという。
伸び放題に伸びていた草がうず高く積もった山たちをどうしようかと思案にくれていたところだったので、
まさにおじいの一言は『渡りに船』というものだった。
物言わぬクールなおじいを乗せた赤いトラクターは、
『ういんういん』と図体を軋ませながらあっというまに草の山たちをかたずけてしまった。

おじいは、庭の草だけではなく家の裏の巨大なハイビスカスの垣根もかたずけてくれた。
なにしろこの垣根。
一番高いところでは瓦屋根のてっぺんまで届かんがばかりに、伸び放題だったのだ。
台風が来るごとにどんどん家にしなだれかかってきて、かっこうのネズミの棲家となっていたのだ。
垣根の根を取り払って土を耕せば、また新たに畑を増やせそうだ。
来るべき飢餓の時代に備え、鍬を入れるとしようか。

電話線に蔦がこんがらかっていた。
これが野生の力というものだろうか。
今までの記事やコメントやトラックバックがこの蔦の中を通過して発信されていた事を思うと、
不思議と感慨深い気持ちがこみ上げてきたのだった。
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追憶の彼方に煌めくもの

2004年12月25日 | 震災について
神戸より南西へ遥か1500キロの亜熱帯に浮かぶ石垣島に暮らす毎日の中で、
神戸の事を想わない日は1日としてありません。

生まれ育った北海道からなにもわからないままにやってきて、
瞬く間に駆け抜けた神戸での7年間。

あの震災から10周年という節目を目前に控え、
これまでに己の描いてきた軌跡を顧みる現在。

汗をかいて仲間達と共に生きたちびくろという座標軸は、
僕の胸中でその煌めきを増すばかりなのです。





※阪神淡路大震災『ちびくろ救援ぐるうぷ テント村だより震災10周年記念号』によせて
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湧き上がってくるものたち

2004年12月14日 | 随想
沖縄出身の詩人に、山之口獏という人がいた。
彼の著作は長らくの間絶版となっていたが、近年改めて評価され、
相次ぐ復刻が続いている。
当ブログのサブタイトル『凍てつく新潟の夜にぬくもりを』は、
新潟中越大震災発生以前は『石垣島に暮らす毎日の生活の柄』としていた。
彼の詩作『生活の柄』にあやかり、
石垣島にゆかりの深いこの放蕩詩人へのリスペクトの気持ちを込めたかったのが本意だ。
山之口獏は実に四十年に及ぶ詩人生活において、僅か百九十七編をこの世に遺したのみである。
しかしながら一編の詩に費やす時間や原稿用紙の枚数は、膨大なものだったという。
決して多くない彼の詩作は、ものの数時間もあれば読み終えてしまう。

しかし、である。
とっくに読み終えてしまったはずの彼の詩文集を、僕は今日もまた手に取るのである。
中には、そらで暗誦できるほどに愛撫した詩もある。
石垣島の青い空やそよぐ風に抱かれる時、僕は彼の遺した詩作を静かに呟いてみる。

それにしても、である。
僕は当ブログに一週間に一度の割合で随想を上梓しているのだが、
そのペースを保てば、四年足らずで彼と同じ百九十七編を書き上げることになるのである。
四年といえば、彼が費やした詩人生活の僅か十分の一である。
僕は果たして、百九十七編のうちどれだけ人の心をうつ作品を書くことができるだろうか。
どれだけ真摯に、自らに向き合うことができうるだろうか。
彼の詩作に眼を通すとき、そのような想いがめらめらと胸中から湧き上がってくるのを感じるのだ。

以上が、僕がやみくもにブログに記事を上梓しようとしない理由のひとつであり、
それは己の人生に処する姿勢においても、また然りなのである。




トラックバック:『コメントの書けないブログ記事』@アグリコ日記
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ダイムバッグ・ダレル倒れる

2004年12月13日 | 音楽、映画について
ダイムバッグ・ダレルが、ライブ中にファンの凶弾に倒れたのをついさっき知った。
12月8日。
よりによって、ジョン・レノンと同じ日に。
すげぇ、ショック。
PANTERA大好きだった。
高校生のときにハマって、フルボリュームでドラムをコピーしてた。
今宵はライブアルバムをフルボリュームでかけて、ダイムバックを追悼するとしよう。
なんか、力抜けてもうたわ。
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テンプレートのCSSをカスタマイズしました

2004年12月08日 | 日々の出来事
とりあえず、現在のところはこんな感じです。
goo IDを他に取得して練習してみたんですが、
思い描いていた基本的なレイアウトが一応できるようになったので、
細かいところは実際に使いながら修正していこうと思っています。
いままでプログラムをいじったことがなく、
自分のサイトのHTMLもHPビルダーで作成していたので、
いろいろと勉強になりました。

自分としては、はじめに思い描いていた形にどうにか
できたので、まぁ及第点かなというところです。
はい。

CSSカスタマイズ記念にブログのタイトルを、
「島だより -石垣島生活記-」から「North latitude 24°石垣島生活記★★★」
に改めました。
今後も変わらぬご愛顧を賜りますようお願い申しあげます。

モニターを見すぎて、眼がしょぼしょぼして限界なので
今宵はこれまでに致しとうござりまする。


質問:
左サイドバーのリンクの色の変え方がいまいちわかりません。
他の「カスタムテンプレート(ブルー)」を使用しているブログにも
左サイドバーのリンクの色が変わらない所が多く見受けられます。
どなたか知恵を貸して下されい。




おおいに参考にさせて頂いた、えっけんさん略さん南無さんの記事に
トラックバックをお送り致します。
ありがとうございました。
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一休さんの袈裟

2004年12月06日 | 随想
今から8年程前、神戸に住み始めた頃の話だ。
当時夜な夜な神戸の繁華街、三宮の街角でタイのハスキャンという名前の笛(パンフルート)を吹いていた。
ある夜のこと。いつものように笛を吹いていると、一人の男性が目の前に立ち止まった。
彼は、演奏が終わるとさかんに拍手をしてくれた。

「兄ちゃん、ええ音出しようなぁ。」

「わしも吹いてみたい。教えてくれんか。」

古びたママチャリに、ジャージに、ツッカケという風体のその男性は、
人懐っこい気さくな人柄で、いかにも「神戸の下町のおっちゃん」という印象を受けた。

話が弾んだ僕たちは、街頭で30分以上も立ち話をしていた。

「兄ちゃん。兄ちゃんはな、世の中の事よう見とう思うねん」

「わしの屋敷は○○町にある」
そこは、神戸の下町の中でも屈指の「ガラの悪い」といわれているだった。

「わしはな、こないな恰好して世の中を見とうんよ」
「いつもみたいにパリッとした背広着とったら、みいんなそないな眼で見ようからなぁ」

静かな口調で語り続ける男性の眼は、もう笑ってはいなかった。
男性がただの下町のおっちゃんでないことは、出逢った瞬間からなんとなしに判っていた。
現に10分おきの間隔で、屈強なパンチパーマの若者がすれ違いざまに男性に挨拶をしにきていた。

「わしのボトル置いてる店が近くにある。今度一緒にそこで呑まんか。」

「そのときに、わしの名前を教える」
明らかに男性の口調が変わったのが判った。
眼光の底に光る鋭いものを感じた。
その眼光はまるで、道を究めた職人のそれのようだった。

「ほんなら、またなぁ。」
男性はもとの柔和な下町のおっちゃんの表情に戻り、
再びゆっくりとした足取りで自転車を押しながら歩いていった。

僕は次第に遠ざかってゆく男性のうしろ姿を見送りながら、
何故かちいさいころに読んだことのある一休さんの伝記を思い出していた。

裕福な檀家の屋敷に、一休さんが見るからに貧相なぼろぼろの袈裟を着てゆくと、
「なんだなんだ、この乞食坊主。ここはお前なんぞの来るところではない」
と足蹴にされた。
しばらくして後に、今度はきらびやかな袈裟を着てゆくと、
「これはこれは、一休様。ようこそおいでくださいました。」
と手厚いもてなしを受けた。
一休さんは「あなたは私にではなくて、この袈裟に来て欲しかったのでしょう」
と檀家の屋敷の玄関に袈裟を置いて帰ってしまったという話の内容だった。

男性は僕に何を感じて、足を止めたのだろうか。
魑魅魍魎行きかう、あの三宮の雑踏の只中で。
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