
本作のイヴァン・アタル監督の俳優としての出演作「哀しみのスパイ」(1994)を、劇場で観たのを微かに記憶している。イスラエルの諜報組織モサドで活動する若き青年の苦悩を描いた映画だが、監督自身がイスラエルのテル・アビブ出身のユダヤ系移民である。俳優としては、「愛さずにいられない」(1989)でセザール助演男優賞を拝して強い印象を残した。主に恋愛映画に出演していたイヴァン・アタル氏は、初の監督作として、喜劇映画「ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール」(2001)を監督した。実生活でも妻である女優のシャルロット・ゲンズブールを配しており、夫として自身も出演している。今回の第二作目でもこの設定は同じである。本作では「彼らは結婚して子供がたくさん(原題)」な生活の中での「フレンチなしあわせのみつけ方(邦題)」が喜劇調に描かれる。それでは、Amelie Chauvetの記事を紹介しよう。
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いつも愉快な映画だが、決して道徳がましくない
批評家や観客から拍手を受けた一作目のあと、第二作目の長編映画は、いつも慎重な冒険となる。監督は新しい公開を実に待ち望まれ、そして失望させてはならないのである。
この挑戦の旗を掲げるため、イヴァン・アタル監督は自分自身を攻撃した「ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール」(2001)という素晴らしい映画の後、カップルの間のデリケートな話題、つまり、全てのよくある形而上学的な命題―(断固として滑稽な調子で)彼らの結婚―をあらゆる視点から成功であると証明する。脚本は流暢で、知性に溢れ、ガブリエルとヴィンセントのカップルに集中する時、また二人のうち片方が他の登場人物へ移る時と、うまく分岐させる術を心得ている。会話は、洗練され、重みがあり、その筋では有名なアマチュアコメディアンによって無駄なく選択している。印象に残るシーンを挙げるならば、店でシャルロット・ゲンズブールと謎の客が、会話もせずに、レディオヘッドのCDを聞くシーンや、アパートで食べ物と羽毛が舞う、ガブリエルとヴィンセントの夫婦喧嘩のシーンである。
アタル監督の全ての映画の強さは、カップル、夫人、愛人の関係のものと同じくらい平凡な題材を、独自性を持って語るところにあることが知られている。映画は、なにか教訓を与えるとか、問題に応えるつもりはなく、しかしながら、ある視点を持ってくる。そして観客のそれぞれが、ある関心を感じる。また、観客は、一人、または数人の登場人物に容易く共感できる。もし、イヴァン・アタル監督が、妻であるシャルロット・ゲンズブールをガブリエルに再び選んだとしても、映画「フレンチの・・」の中の彼の妻は、自伝的ではない。監督は、映画の発案に、彼の日常生活や夫婦の関係が、ある程度は影響があることを初めに認めた上で、それよりも彼らの周辺環境からの影響の方が大きいと語っている。そして、彼の妻である素晴らしい女優を非常にうまく映画に撮影し、指揮することができる監督は彼しかいない。
男性の肩を持つわけでもなく、女性の肩を持つわけでもない。この映画は、男女それぞれが共感できるものを残してゆく。妻が誤った道へ導かれる、または、未亡人になるというような物語ではない。この物語は、人生のある一瞬に、誰しもがよぎり、執着し、離れ、そして出会う、そんな小さな物語である・・・
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参考
1. CommeauCinema Ils Se Marierent Et Eurent Beaucoup D'enfants
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いつも愉快な映画だが、決して道徳がましくない
批評家や観客から拍手を受けた一作目のあと、第二作目の長編映画は、いつも慎重な冒険となる。監督は新しい公開を実に待ち望まれ、そして失望させてはならないのである。
この挑戦の旗を掲げるため、イヴァン・アタル監督は自分自身を攻撃した「ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール」(2001)という素晴らしい映画の後、カップルの間のデリケートな話題、つまり、全てのよくある形而上学的な命題―(断固として滑稽な調子で)彼らの結婚―をあらゆる視点から成功であると証明する。脚本は流暢で、知性に溢れ、ガブリエルとヴィンセントのカップルに集中する時、また二人のうち片方が他の登場人物へ移る時と、うまく分岐させる術を心得ている。会話は、洗練され、重みがあり、その筋では有名なアマチュアコメディアンによって無駄なく選択している。印象に残るシーンを挙げるならば、店でシャルロット・ゲンズブールと謎の客が、会話もせずに、レディオヘッドのCDを聞くシーンや、アパートで食べ物と羽毛が舞う、ガブリエルとヴィンセントの夫婦喧嘩のシーンである。
アタル監督の全ての映画の強さは、カップル、夫人、愛人の関係のものと同じくらい平凡な題材を、独自性を持って語るところにあることが知られている。映画は、なにか教訓を与えるとか、問題に応えるつもりはなく、しかしながら、ある視点を持ってくる。そして観客のそれぞれが、ある関心を感じる。また、観客は、一人、または数人の登場人物に容易く共感できる。もし、イヴァン・アタル監督が、妻であるシャルロット・ゲンズブールをガブリエルに再び選んだとしても、映画「フレンチの・・」の中の彼の妻は、自伝的ではない。監督は、映画の発案に、彼の日常生活や夫婦の関係が、ある程度は影響があることを初めに認めた上で、それよりも彼らの周辺環境からの影響の方が大きいと語っている。そして、彼の妻である素晴らしい女優を非常にうまく映画に撮影し、指揮することができる監督は彼しかいない。
男性の肩を持つわけでもなく、女性の肩を持つわけでもない。この映画は、男女それぞれが共感できるものを残してゆく。妻が誤った道へ導かれる、または、未亡人になるというような物語ではない。この物語は、人生のある一瞬に、誰しもがよぎり、執着し、離れ、そして出会う、そんな小さな物語である・・・
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参考
1. CommeauCinema Ils Se Marierent Et Eurent Beaucoup D'enfants
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ブログに書いたことは長い前置きで、
それから評を書こうかと思いましたが、
そのままになっています。
わたしも、仏映画好きなのですが、
アルノー・デプレシャンの新作、
見てみたいですね。日本で公開
されますかね・・・。
早速、こちらからもさせていただきました。
ワタシとしては、この『フレンチな~』は結局、男目線の映画なんじゃないのかな~と思いました。
女性にはちょっと共感しづらいというか。
ま、国の違いもあるのかもしれないですけどね…。
(部屋の掃除はちゃんと夫婦でしたんだろうか~とか、妙なことが気になってしまった(^_^;))
監督の男目線が抜け切れてないように、感じられましたかー。日本人女性の常識からは、そう見えてしまうの可能性があるということ、貴重なご意見ありがとうございます。