山崎 巖の、ひとこと言わせてくれ!

団塊の世代より一足早く生まれた私にだって、言いたい事はいっぱいあるのだぁ!

これからが面白い

2008年09月29日 11時08分29秒 | 芸術


 さて、これからが面白い!
というものの、これからが大変なのである。
 歩くにしろ、俳句を作るにしろ、きり絵作
品を作るにしろ、すべてが私の頭の中のこと
だ。即ち、白であり、無であり、自由なのだ
、それに文句を付ける人はいないはすだ。
 人間はバカだ! 私お含めての話だが・・。
必ず死ぬくせに上下がある。運不運もある。
浮気もダメだという。他人の不幸を喜ぶのは
人の定めだと思うがね。

 それは激しい出来事だった。静かな田んぼ
の中の出来事だった。稲の葉にとまって空を 
見てた蛙に、蛇が近ずいてきた。蛙は気がつか
ないが、、蛇は明らかに蛙をねらっている。
 蛙よ逃げろ!しかし蛙は逃げなかった。
大地はどちらの見方もしないのである。
いずれにせよ、蛇は蛙を捕獲してたべてしま
ったのだ。蛇の食事は蛙だとすると、蛇の食
事は生き物であり、蛇からすれば普通のこと
である。

 互いの立場で想像しよう。最初は蛇。
 食べ物を探す時間である。食べ物をみつけ
るために、ウロウロしている。
少し行くと大きな田圃にでた。稲はまだ穂が
出ていない、水が張られている、稲のかぶつ
をよけて行くと蛙がいた。今日の昼はこれ一
匹で出よい、相手はまだ気ずいていない。そうと
近ずいて後の方からかぶりつく。蛙は一瞬動
くが後の祭り。蛇のニョロ太は咽に下がって
ゆく味を楽しみながらニュロニュロと動いて
行った。

 つぎは蛙だ。
 蛙のピョン吉は、どうしていつ頃生まれた
かはわからない。しかし今日は上天気で風も
ない。空は美しい青さで、白い雲が一つ二つ
浮かんでいる。稲の葉にチョコンとすわって
空を見ていると鳶が現れた。鳶はゆっくりと
舞い始めた。それを見ていると自分も空へ行
ってみたくなった。鳶は下に青田原 村の家
 山々が見えるだろう。そんな事を考えてい
た時だった。少し離れていた仲間がとぶのが
見えた、その時目の前が真っ黒くなって何か
が迫ったきた。

おわりに

2008年09月24日 15時50分29秒 | 芸術



 独立して30年以上が過ぎたと思う。
 いま私は70歳、晩年になってこれほど老い
が、人生を左右するとは思わなかった。
 独立してからお世話になった人達は多い、そ
の中でも、新井茂という人は面白かった。

 亡くなった人も又多い
 談議所浩二
 大島明
 貝沢洋次
 滝沢常務
 など各氏がいる。
私もそれ以上ではないはすだ。

独立

2008年09月18日 10時14分52秒 | 芸術




 江戸屋織物(株)は(株)エドヤと名義を
変更し、山崎は次長になっていた。組織はデ
ザインルームとなり、それを取り仕切る立場
にいたが、上に部長がいて山崎は思うように
は行かなかった。それでも第一から第八事業
部まであり、山崎は実力のある事業部として
人生の花の時代を過ごした。
 エドヤは二代目が入社してきた。
 山崎は「独立」という事を考えるようにな
っていた。
 そして、三十代で独立したのである。

江戸屋からエドヤへ

2008年09月15日 15時03分29秒 | 芸術



 後藤電機を退職し江戸屋に入った。
 当時の十日町は着物の全盛で、江戸屋織物
もその中にあってう売上を伸ばしていた。
 江戸屋織物は本命の織物の他、特染と言っ
て後染めものにも手を出していた。
 加賀友禅である。蝋けつの塩瀬帯で挑戦した。
それが加賀友禅に向かう第一歩となった。その他
神戸大丸の商品を見本として中振袖に向かった。
 それが当たりに当たったのである。山崎巌は押
しも押されもせず中心人物になった。

光がさした

2008年09月13日 14時47分04秒 | 芸術



 絵の仲間は沢山いた。朔風会という現代美
術の会を作り、皆で勉強した。その中でも
藤本みち則、村山正彦、又美術学校では、高
橋久雄、森屋清(後に死亡)など、忘れられ
ない人も多い。
 十日町では藤本みち則、の後に 山崎巌
村山正彦がついて現代美術のあり方を勉強し
た。
 25~6歳のころと思う、江戸屋織物(株)
より入社の誘いが来た。この時点で巌に光が
さしこみはじめる。江戸屋織物(株)に入社
したことにより人生に光がさした。

高根団地

2008年09月11日 17時16分09秒 | 芸術




 武蔵野美術学校を卒業した巌は美術の絵
かきになるべく、千葉の高根木戸(高根団
地)の団地建設現場にいた。弟は集団就職
で東京にゆき、十日町には母ひとり残して
いた。その時に電気工事の仕事を覚えたの
である。後藤電機では事務として入社。現
場には忙しいほかは現場に出ることはなか
った。この高根台団地での経験は巌にとっ
て大いに役立つことになったはず、この時
の経験が、彼の人生におおいにプラスした
のである。

巌の青春

2008年09月04日 10時32分06秒 | 芸術




 十日町高等学校の定時制課程(四年)を卒
業したその年、武蔵野美術学校の洋画部門に
通信で入学した。スクーリングは四十日間、
講堂で寝泊まりし、初めて女性の裸のデッサ
ンをした。青春の真っ只中だった。
 そして四年間を真面目に勉強して、美術学
校を卒業した。自由美術展にも出品した。
 後藤電機に就職して8年間、十日町の定時
制高校を出て東京の武蔵野美術学校を通信で
卒業、後藤電機には迷惑をかけたと思う。