ゆっくり、のんびり、あせらずに♪・・「ここから」

「ここから」前に向かって踏みだそう

肢体不自由児養護学校

2005年05月17日 21時19分32秒 | バリアの中のバリア
この学校は、今の学校も学年で分かれてない。
能力別にグループ分けされている。
肢体不自由だけ、軽度知的障碍重複、中度知的障碍重複、
重度知的障碍重複、肢体不自由も重度重複
入学した小学部には肢体不自由だけのクラスはなく重複児ばかりだ。

学年は無いから人数によって高学年、低学年と分けられることもあれば、
1~6年生が一緒の時もある。

肢体不自由としての障碍の程度もバラバラ寝たきりから歩行器で歩ける
もしくは車椅子を自分で操作できる子どもまで幅広い。
そこに重度知的障碍が重複する子どものグループもいる。

知的障碍の程度や体力で分けられているのかもしれない。

親としても葛藤がある。上のグループに上がる子もいる。
歩けなかったのに歩けるようになっていく子もいる。
いつまでも、座ったきりの笑顔君それ以上にはならない。
目が見えないから怖くて歩けないのかもしれない

ここの親は、自分の子どもを基準として他の子を判断する傾向がある。
重度自慢してどうするのだろう?
自分の子と同じか程度が下だと思う子の親にはやさしい。
少しでも上だと思う子の親にはやさしくない。

笑顔君は療育Aの重度だから身体手帳も1級なのが気に食わないらしい。
でも、全面介護だよ。てんかんもあるし、肘ばいもしないし、
まあ、姿勢良く座ってるから(笑)、手は使えない。手遊びはしないよ。

同じ障碍と言われても肢体不自由の中身はいろどりみどり。
こんなところにもバリアがあるのが恐ろしい
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見返してやるつもりだった

2005年05月16日 21時20分32秒 | バリアの中のバリア
笑顔君小児療育センター時代
担当の医師が「歩けるようになる」と言って、
歩かないのは「怠けてる、やる気が無い」と言った。

周りのスタッフもみんなそう言って私を苦しめた。
他の子の親達も笑顔君は知的障碍児だから私たちの子と違って
何でここに居るのだと言う目で見ていた。

だから一年で療育センターの通所をやめて
知的障碍児通園施設に行った。

心が育ち、やる気が育てば歩けると信じて。

そして、歩けるようになってみんなと違う知的養護学校に入って
ざま~みろと言って見返してやるつもりだった。

でも、歩けるようにならなかったし、またみんなと同じ学校へ行くことになった。
見返すことが出来なかった。

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知的障碍児通園時代

2005年05月08日 22時42分53秒 | バリアの中のバリア
笑顔君はやる気さえ出れば歩くんだな
ってことで療育センターの通所を1年で退所して、
市内の知的障害児通園施設
母子通園することになった。
歩けない子と3歳未満は母子通所が原則だった。

でも、日程君が普通の子だと思っていたから
決心したんだけど、分かっていたら退所しないで
日程君にもっといろいろな道を選択できたかもしれない。
後悔しても仕方が無いがこの頃から日程君はおかしくなった。
週2回だけ笑顔君は通所していた。
帰ってくると日程君は、笑顔君にたいして熱烈歓迎で迎えてくれた。
なのに、ある日突然笑顔君は毎日でかけるようになると言う環境の変化が
日程君に大きな影響を与えたのかもしれない。
私と日程君との母子関係が希薄にになった。

知的障害児として入ったつもり
だったのだが、施設側は肢体不自由児としてみていたらしい。

入園の頃は歩けなくても後から入ってくる子たちが、
歩けるようになると母子分離が始まって単独通所に、
笑顔君は一向に歩けるようになる気配は無かった。
母の休息の時間は笑顔君の食事介助をして、
自分が控え室でお弁当を食べるほんの20~30分だけだった。

他に母子通園は筋ジス兄弟、歩けるけど頭の手術を受けたため
なにかあったら責任が取れないからと言われた子だった。

それで、みんなで市に陳情してみた。
回答は
ここは、知的障害の施設です。
あなた方身体の方は前の園長先生のご好意で入っているのです
と言われました。

いったい笑顔君は何者なんだろう

結局母子分離が叶うことなく卒園することになる。

日程君もこの頃には「自閉的傾向」と言われていたから笑顔君最後の年には日程君もこの施設に入ることになっていた。

園長先生はやっと国レベルで、そうできないか話し合いが持たれたばかりです。
園としては受け入れるつもりで研修などに行ったが市が「うん」と言わないんだ、
それにあなた達を受け入れるためには今の定員を50から30にしなければならないと言われ
じゃあそうして下さいとは言えなかった。
笑顔君のために日程君のような子が20人入れなくなるなんて
絶対言えない日程君の母としてがーこは言えませんでした。

そして、翌年二人の子どもと母子通園が始まりこの頃から回転性の眩暈に悩まされることになった。
コメント (1)
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小児療育センター通園時代

2005年04月29日 21時19分17秒 | バリアの中のバリア


世の中バリアフリーと言って障碍を持ってない人と障碍を持っている人との間に
バリアを作らないようにと言うことはある程度浸透しているみたいだけど
ところが、障碍の世界の中にバリアが有るのです。

縁あって障碍の違う子どもを授かってそれぞれの親の会に首を突っ込むことになって
思うんですけどね、お互い知り合う機会が少ないってことも原因だ。
都市部になるとくっきりと分けられちゃうでしょ療育の場、学校などが障碍ごとに。

うちの笑顔君は、どっちつかずの障碍だった、とりあえず歩けないから療育センターに
母子入所、母子通所をしました。ここは当時は肢体不自由児中心のところだった。
笑顔君は肢体不自由と言われたことが無かった。「歩けるようになるでしょう」って
言われてたけど、今現在12歳歩けません、立てません、手も使えません(麻痺は無い)
全面介助の必要な座位はとれるけど身体1級療育Aの立派な重度心身障害(重心)

通所時代「なんで笑顔君ここにいるの?」って脳性まひの子の母に言われました。
「歩けるようになるって言われたんでしょいいわね」
将来はどうであれ今現在歩けないから訓練に通ってるんじゃないかい
先生達も「怠けてるから歩けない、歩く気がないからだ」とひどいもんだった。
産まれてから一回も歩いたことも立ったことも無いんだぞ経験も無いのに歩けるかーーーー!!

不謹慎かもしれないけど歩けなくても保育師さんの声に反応して笑う子ども達が
うらやましかった。
意外にも当時笑顔君は笑わない子だった。てんかんの薬が強くて笑えなかったのかもしれない。
だって、薬が足りなくなって(体重などにより)発作が増えるとそれはそれは良く笑った。

つづく
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