koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

Tokyo,1964

2012年10月12日 21時44分12秒 | スポーツ
週末疲れで著しく執筆意欲が減退しているので,かつて某サイトに掲載した駄文を再掲載して,お茶を濁します・・・。
一昨日エントリするのをうっかり忘れていたので・・・。
 

1964(昭和39)年10月10日。
終戦より19年目,当初1940年に予定されていた東京オリンピックが開幕。
二週間にわたる熱戦の幕を開けた。

この大会に関してのエピソードは枚挙に遑がない。
例えば,私が若い頃「新人類」なる言葉が流行したが,新人類であるか旧人類であるかの基準の一つはこの東京五輪を知っているか否か,と言われていた。
また,1940年に開催することが1936年のIOCの会議で決定したものの,WWIIの為中止。ついでに代替開催地のヘルシンキでも中止となり,その4年後のロンドン五輪も中止。
戦後1948年ロンドン,52年ヘルシンキ,56年メルボルン,60年ローマを経て,ようやくの開催となった。

この五輪の為に突貫工事で作業が進められたのが東海道新幹線である。
若い方々は,生まれた時既に新幹線は博多及び盛岡まで開通していたのだろうが,当初は東京-新大阪間だった(岡山まで延伸が72年,博多が75年,東北・上越の大宮以北開通が82年)。
さらには,浜松町の世界貿易センターと羽田の東京国際空港を結ぶ東京モノレールや(当時は青い車両だった),名神高速道路もこれを契機に,急ピッチで整備された(東名は69年)。

そして,メインスタジアムである国立競技場もこの時建造されたのである。
参加国で特徴的なのは,WWIIの後米ソのご都合主義により二つに分断された東西ドイツが,同一国として選手団を送り込んだことだった。
2000年のシドニー五輪で南北朝鮮が合同選手団を送り込んだ時,私はこのことを思い出した。
尤も,共産主義の瓦解により東西ドイツが統一するには,そこから26年もの年月を要することになるのだが・・・。

種目としては,柔道が初めて正式に採用されたことが特筆されよう。
中量級で岡野功,重量級で猪熊功(浦沢直樹作「YAWARA」で,主人公の柔ちゃんに柔道を教える祖父の猪熊治五郎の名は,この猪熊選手と近代柔道の父加納治五郎からとったものと思われる)が金メダルを獲得。
無差別級の神永昭夫は,惜しくもアントン・ヘーシンク(蘭)に敗れた。
後は,「東洋の魔女」と称された女子バレー(男子は銅メダル),ウェイトリフティング・フェザー級の三宅義信(宮城県出身)等の活躍で16個の金メダルを獲得。
これは,昨年のアテネ五輪まで更新されなかった(次のメキシコで11個,ミュンヘンで13個)。

海外勢で印象的だったのは,何と言ってもマラソンのアベベ・ビキラ(エチオピア 1932-1973)と体操の「女王」ベラ・チャスラフスカ(チェコ 1942-)だろう。

アベベは,先のローマ五輪の際に履いていた靴が壊れ,ローマの遺跡を裸足で走って優勝したことから「裸足の帝王」などと呼ばれ,この東京五輪でも見事金メダルを獲得。
次のメキシコ五輪では36歳ということで出場せず(替わって代表となったマモ・ウォルディが優勝し,エチオピアは五輪三連覇を達成する),翌年交通事故を起こし半身不随となり,不幸な晩年を過ごして41歳で死去。

チャスラフスカは「東京の恋人」とも言われたが,赤軍が突如プラハを占拠した「プラハの春」と重なった4年後のメキシコ五輪では共産主義及び赤軍へ敢然と抗議。
黒いレオタードで演技し,五輪二連覇を達成する。
民主化後は家族の不幸等精神を病んで療養所に,という話を聞いて久しいが,どうなったのだろう・・・。

マラソンで見事銅メダルに輝いた円谷幸吉については多くを語るまい。
しばらく前にTVで特集を組んでいたのを見たが,次のメキシコ五輪を前に自ら命を絶つことになったことは,気の毒を通り越している。
遺書にあった「もう走れない」のひと言があまりにも痛切だ・・・。

聖火リレーの最終ランナーは,1945(昭和20)年8月6日広島市に生まれた坂井義則(現フジTV社員らしい)。
被爆の日に生を受けた若者が平和の祭典でもあるオリンピックの聖火をともす,ということで,恒久平和への願いと敗戦による荒廃からわが国の見事な復興を象徴することとなった。

公認テーマソングである「東京五輪音頭」は,三波春男が歌ったが,オリジナルは三橋三智也が歌ったらしい。
勿論作曲は古賀政男である。
そして,開会式・閉会式で選手団入場に際して演奏された「東京オリンピック行進曲」。

以前述べたことがある隣県出身の作曲家古関裕而の最高傑作である(個人的には,これと「六甲颪」と「長崎の鐘」が三大傑作と思っている)。

・・・と,まだまだこの手の根多なら出そうだが,ただでさえ長ったらしくて,
「読むのが厭になる」と評判が悪いので自粛するが,体育の日だった10月10日は,この東京五輪にちなんで制定されたのであった。
尤も,平成12年から10月の第二月曜,と変更になったが,7年前の2005年はずばり10日となった。

そして,私自身東京五輪のライブの印象は殆ど無いものの,翌年公開されたこの記録映画によって当時に立ち帰ることが出来るというものだ。

私は父に連れられて封切りを見たが,何とこれが私の映画館デビューだったりする。
制作を依頼したサイド(JOC?)は記録フィルムを,監督の市川崑は芸術的な「絵」を撮りたかったらしい。
そんな矛盾の交錯するドラマティックなフィルムは,確かにあの時代へ回帰させてくれると思う。
今から48年前の燃えた東京へ・・・。

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