
道元禅師が、釈尊の説いた教えやその人柄に対して、熱き信仰を寄せていたことは前回述懐した通り。
それは、『正法眼蔵』等の著書の中で、自ら説いた教えを繰り返し「釈尊正伝の仏法」と標榜している点からも明らかであろう。
要は、道元禅師は熱烈な釈尊信奉者の一人だったのである。
また、宗門において「隨身」という修行形態(正師たる禅師家に参じる修行)を重んじる意味というのも、その正師の日常底を通して釈尊の教えを学ぶためのものでもある。
言わば道元禅師は、師の正師たる如淨禅師を通して、時空を超えた釈尊の教え(仏教)を学んでいたのだと思う。
この歴史的事実は、宗門において決して看過してはならない重要な意味を持つ。
で、ここからが今日の本題。
「坐禅は何のためにするのか ――

この種の質問は、宗侶である以上必ず避けては通れない関門であり、それは同事に自分自身への「問い」としても機能する。
私は今でもこの種の「問い」に自問自答する時があるが、最近では揺れていた振り子が次第に中央に収まるように、自分なりの確たる想いを以て日々の坐禅に行じられるようになった。
冒頭述べた想いを踏まえてこの種の「問い」に自答するのであれば、それは歴史的に一佛両祖がこの坐禅を行じてきたという事実以外に他ならない。
道元禅師は正師たる如浄禅師の「只管打坐」を通じて、そこに生きた釈尊を観てきたのであり、時空を超えた釈尊の仏道に触れていたのだと思う。
「参学」とはこれを意味する言葉だと思うし、この参学に通じる「隨身」という修行のダイナミズムはそこにあるとも言えよう。
つまり道元禅師にとって、正師たる如浄禅師に参じるということは、釈尊に近付こうとする誓願を成就させるために必要不可欠な行為だったのであり、生きた釈尊に直接参学できない物理的条件をも凌駕する「はるかなる仏道」の体現だったのである。
そこに、道元禅師の釈尊に対する崇敬の念と憧れの感情が見て取れる。
ゆえに、我々も仏道に参じ、釈尊と同じ生き方を成就したいと思うのであれば、その同じ生き方を今の時代に体現する正師に随身をして、地道ながらも日々の日常底を共に勤める事から始めれば良いのだと思う。
それが、時空を超えた今の時代に釈尊と出会うための方法であり、釈尊と同じ生き方を成就するための唯一の道標でもあるのだ。



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色々と見ていますと、たとえば『正法眼蔵』「面授」巻の説示を見ていくと、こちらが正信の礼拝をした場合、こちらが釈尊を見ていることになるのですが、同時に釈尊からこちらが見られているという説示があります。その時、ただ空想の目線を確定するのではなく、あくまでも師の目線に、釈尊の目線を見ていく必要があるようです。この相互的関係に面授が現成します。随身というのも、そういう相互的関係の基本を作るものとして、理解されると良いのでしょうね。
こういう確認作業も非常にためになりますね。
先日個人的に話を交わした礼拝の意味なども現在摸索中です!
っていうか、相変わらずのアンテナですな(笑)