
実は、前にも似たような記事を載せた記憶があります

まぁ、今回はその続編のようなものと捉えて頂ければ幸いです。
皆さん、「神聖な場所」と言うと何処を想像するでしょうか?
殆どの人が寺社仏閣などの宗教的空間を思い浮かべるのではないでしょうか。
最近ふと考えたのは、この「宗教的空間」という言葉の意味についてです。
さらに言えば、ここで言う「宗教的空間」とは単なる「場所」を指して言うものなか

ちょっと分かりづらい問題提起ですね......

いや、何を言いたいのかというと、人は「神聖な場所」に立つと自ずと祈りを捧げたくなる(手と手を合わせたくなる)と思うのですが、厳密に言えば、実はその手と手を合わせる行為そのものが、その場所を神聖ならしめているという機能の問題についてです。
「神聖な場所」という時には、実はその「場所」そのものが神聖というばかりでなく、手と手を合わせる「行為」そのものにその機能があるという事です。
我々はその視点をも併せ持つべきなのだと思います。
道元禅師が説く日々の修行の意味とは、まさにその部分に通じてくるのではないでしょうか。
確かに、そこが「神聖な場所」だからこそ、人はその場所で手と手を合わせる衝動に駆られるのだと思います。
しかし、その「神聖」という概念は、ある意味「場所」という空間に制限されるものではありません。「場所」という空間より「行為」という概念が先立つ場合もあるはずです。
前にも述べましたが、道元禅師は我々が当たり前だと思っている構図自体を敢えて逆に捉える傾向があります。
「神聖」という概念が、「場所」といった空間のみに制限されるものではなく、手と手を合わせる行為そのものに関連してくる構図にも我々は気付くべきなのです。
道元禅師は日常の立ち振る舞い(所作進退)全てが修行であると説かれました。
さらに、それらは悟りを得るための目的ではなく、その修行(行為)の積み重ね一つ一つが悟りそのものであるとも示されました。
「修行」と称される日常の行為(所作進退)が「悟り」だとすれば、その行為の積み重ねそのものが「悟り」を現成ならしめると言っても過言ではないでしょう。
人は、行き着く先に「悟り」があるから「修行」をするのではなく、それそのものが「悟り」であるから「修行」に勤しめるのです。
それと同様に、そこが「神聖な場所」だから手と手を合わせるばかりでなく、手と手を合わせる行為そのものがその場所を神聖ならしめるとも言えましょう。
最近、日々の修行の意味をそこに見出しながら、地道な行為を積み重ねている日々でもあります。



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