
「自利と利他、どっちが大事


以前、僧堂安居中にある方から「深山幽谷に籠って坐禅ばかりしていてどうする


その時から喉元に刺さる魚の小骨のごとく、その種の指摘を受ける度にその時の感覚が蘇るようになりました。
例えば、以前とある研修会にて、現代の檀家制度の是非に関する議論を耳にする機会がありました。
それは即ち「僧侶は既存の檀家制度にばかり胡坐をかいていて良いのか


住職の身なれば、檀家は寺になくてはならない存在でありますし、「檀家」の語源ともなる「ダーナ दान」(施す)の意味が示すがごとく、檀家は外護者以外の何物でもありません。
その外護者を無下にする態度は、ややもすると布施者の功徳を損なう行為にもなり兼ねず、その外護者(檀家)を法施の対象に据えること自体「胡坐をかく行為」と規定されてしまっては、二進も三進もいかない現実があるのです。
しかし、だからといって無条件に社会に無関心な僧侶を擁護する気もないし、施財の偈に反して極端に世間に媚を売る僧侶も如何なものかと思います。
こんなことを書き綴ると、「じゃぁ、お前は一体どっちやねん

話をかなり端折りますが、要は両者を「どちらが是で、どちらが非」という天秤にかける問題でもないと思うのです。僧の身なれば、「檀家」も「社会」もどちらも大事であり、同時に「坐禅」も「済度」もどちらも大切な仏教の眼目と言えます。また「自他一如」という言葉が示す通り、自利利他円満の世界を目指すのが仏教本来のあり方だと思います。
となると、私などは以前からこの「設問の仕方」に問題があるのではないかと思っておりました。とくに最近、その設問の仕方に違和感を感じるテーマや議論が多いような気もします。
我が宗門では周知の通り、『正法眼蔵御抄』にて経豪禅師がお示しの如く、「能所の見解」(相反する主客の論理)から離れる態度を常としております。いわゆるこの種の議論で語られる構図というのは、常にこの能所の見解に陥る可能性を孕んでいるのです。
例えば、我が宗門で「出家」の尊さを説くと一方で在家軽視という批判が生まれ、道元禅師が説く貧学道に関する議論では「努力して富を築く行為(正当な経済行為)を今の資本主義の世の中で否定して良いのか

個人的に残念に思うのは、この「落とし穴」に陥った議論からは決して生産的なものが生まれてこないということです。例えば、ここで言う「坐禅⇔済度」、「自利⇔利他」、「檀家⇔社会」という対立の構図からは、どちらが是でどちらが非といった不毛な議論しか生まれてきません。要は、議論が水と油の如く交わり得る可能性が極端に少ないのです。
我々にとって、衆生済度の価値をもって坐禅修行の尊さを否定することは本末転倒ですし、また坐禅修行の尊さを以て衆生済度を否定することも土台無理な話です。また、ここで言う「坐禅修行」と「衆生済度」という言葉はそのまま「自利」と「利他」という言葉に置き換えられ、さらに檀家の一人がいつ社会のなかの悩める衆生にカテゴライズされるか分からない現実もあります。そもそも、最初から悩める衆生を「檀家」や「社会」といった枠組みに分けて論じること自体が不自然でありましょう。
要は、我々僧侶にとって重要なことは「どっちが大事?」ではなく「どっちも大事」というスタンスだと思うのです。その時々でどちらを優先させるかは、自らの立ち位置やご縁の深浅によって決まる問題だということです。決して是非やプライオリティを競う問題ではないような気がします。
やはり大事なことは、既述もしたように自利(坐禅)は利他(済度)を否定する際の根拠にはなり得ないし、利他(済度)も自利(坐禅)を否定する際の根拠にはなり得ないということです。だとしたら、最初からその両者を対立の構図で計ること自体無理と言えましょう。
先の檀家制度の是非を論じる研修会でも、我が国の檀家制度の起源や歴史を示す資料の提示がありましたが、問題の核心は制度そのものの正当性ではなく、その「檀家」と「社会」とを分けて論じるスキームそのものにあるような気がします。
既述もしたように、確かに物理的な事情(住職の体はひとつしかない

まさに、これらの問題を「対立の構図」の中で議論する落とし穴はその点にあり、それはややもすると議論の本質を見誤る要因にもなり兼ねません。大事なことは、やはり両者の立場を互いに尊重し歩み寄ることであり、各々の役割分担を計る体制を整えていくことなのではないでしょうか。その協働体制が整うことで、自利利他一如の世界観を具体的に社会に提示していくことも可能になるのだと思います。
ここで言う「どっちも大事」というスタンスは、決して欲張りや優柔不断の象徴として語られるのではなく、既存の檀家制度を新しい時代に即した枠組みに変えていく際の起爆剤にしなければなりません。何とか現状の檀家制度がもたらす既存のご縁というものを、安易に破棄する方向に議論していくのではなく、リサイクルにも似た発想で新たに生かす方向を摸索すべきではないでしょうか。「檀家」布教と「社会」活動の共生を計ることが、既存の檀家制度を蔑ろにせず、かつ社会に開かれた寺院運営を目指すひとつの核になり得るものと思います。



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> 欲張りや優柔不断の象徴
ホントこの辺は難しいですよね。いや、我々自身の実践レベルでは、そう難しいことではありません。ですけれども、ご理解いただけるのは難しいですね。ですけれども、そういう分かりやすさは、我々人間性の深みを消してしまうと、我々は強く思い、繰り返し説いていく必要があると思います。
記事の中でも触れた先の研修会の内容に触れておかないと、意図が伝わりにくい記事になる恐れも出てきますね
要は、エンゲージドブディズムに象徴される「社会参画型仏教」は、既存の「檀家制度」を批判する際の論拠にはなり得ないし(また、していけない)、逆に既存の「檀家制度」をもって「社会参画型仏教」を否定することも無理があると思ったまでです。
それは即ち、昔から続いている自利と利他を競う議論の構図と全く一緒のような気もします。