
先日、當山各寮のブログ記事に、「八大人覚」に説かれる「少欲知足」の教えを引用したら、ある方から個人的に問い合わせを頂きました。
その詳細については触れませんが、要は「少欲知足」という教えに関する理解と説き方について意見交換をさせて頂いたという事です。
現在我が宗門においては、この「少欲知足」という教えに関して組織を上げてその理解と参究に努めております。
なぜなら、この「欲望が少なく足ることを知る」(『禅学大辞典』)という「少欲知足」の教えが、その説き方と解釈如何により、現実に権利の迫害を受けている方々に対して安易な現状肯定を促したり、差別是認の誤った宗教的価値を押し付ける要因になり兼ねないとの指摘があるからです。
本来、自らの宗教的動機により「足ることを知る」と主体的に自覚していく教えが、恣意的な解釈のもと第三者に安易に指し向けられると、「足ることを知れ」といった諦めを強いる論理に摩り替えられる恐れがあるという事なのでしょう。
これだと、本来の意味と大きく乖離していくことは避けられません。
我々はそのリスクを十分に考慮しつつ、この教えの意味を流布しなければならないという事です。
そうこう意見交換しているうちに、私はある本の存在を思い出していました。
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皆さんは、だいぶ前に『世界がもし100人の村だったら』という本が注目を集めたのを覚えているでしょうか。
かく言う私も読者の一人であり、初めてAmazon.comで購入した本もこれであったと記憶しています。
本の内容を、一部要約をしながら抜粋してみたいと思います。
世界には約63億人の人がいますが、もしもそれを100人の村に縮めるとしたらどうなるでしょう。
想像してみて下さい。全く違った世界が見えてきます。
もしあなたが、戦争や紛争の危険に心配する事なく生活できるのであれば、
あなたは村人100人のうちの20人より恵まれています。
もしあなたが、逮捕や拷問の心配なく、教会のミサに行く事ができるなら、
あなたは村人100人のうちの50人より恵まれています。
もしあなたが、屋根付きの家に住み、明日の食べ物の心配なく、生きていけるならば、
あなたは村人100人のうちの75人より恵まれています。
もしあなたが、銀行に預金があり、財布には常に小銭がある生活をしているのであれば、
あなたは村で最も裕福な上位8人のうちの1人です。
この本に述べられている「恵まれない立場にある人達」の中に、我々日本人を含む、いわゆる先進国の人たちは殆ど入っておりません。
裏を返せば、我々先進国以外の人の殆どが、常に戦争や民族紛争の危険にさらされ、信仰の自由をも許されず、寝食が保証されない生活を送っているということです。
このような裕福な日本村に住む我々が、これ以上モノのみを求めて、貪り続ける生活を続けていくのであれば、今後我々は他の村人92人とどの様なお付き合いをしていけば良いのでしょうか。
既述もしたように、仏教には「少欲知足」という教えがございます。
これはお釈迦様の遺言として、残された弟子たちに最後に説いた教えとして今の時代に伝わるものです。
地球で上位8人の生活を甘受できる日本村の住人として、この仏教で説く「少欲知足」の教えはどのように理解されるべきなのでしょう。
それは、「欲」というものに対して決して溺れる事なく(貪る事なく)、他の村人92人の苦しみを自分の問題として受け止め、今の自分に感謝をしながら日々謙虚に生きていく姿勢を指して言うのだと思います。
これは別に「仏教の世界」のみに特化した教えではなく、平和、人権、環境問題が深刻化している全世界、全人類共通の課題でもあると考えます。
「日々感謝を忘れずに、謙虚に生きる」
この姿勢こそが、私は結果的に「少欲」(感謝)となり「知足」(謙虚)になり得るものと個人的に考えています。



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いろいろ巡っておりましたら、何となくここにたどり着きました。よろしくです。
そうですねぇー、和尚さまがおっしゃるように、一つの言葉や考え方を提起する際には、他者がその解釈や説き方に対してそれをどのように受け止めるのか、ということは大事なことですね。
例えば、結婚式などで「次は元気なお子さんを!」とは当たり前に言われることですが、これも言っている本人や大多数の方にとっては心地よくても、様々な事情を抱えている方々にとってはプレッシャーやストレスを誘発することになりかねないとの認識も必要でしょう。
また、人権や差別にかかわるような問題がおこった際には、我々は誰しも「複合差別」の日常にあるという認識を持ち、その問題解決の場で「理性の祭典」のような状況を生み出してはならないということも私自身は大切なことだと思っております。
ともかく、これからちょくちょく覗かせていただき和尚さまにはいろいろと学ばせていただきますので、よろしくお願いします。
こちらこそ初めまして。
結婚式での話はありえる話ですね。
自らが発した言葉がどのような影響を周囲に与えるかは常に注意していきたいと思います。
今後とも宜しくお願いいたしますm(__)m
通常、『遺教経』や『眼蔵 八大人覚』をsの典拠として話すことが多いと思いますが、果たしてそれで良いのかどうか正直疑問に感じました。特に『遺教経』の説明は循環論法的であるだけに、ツッコミどころが一杯と言えると思います。他の大乗経典や阿含経典等にも典拠を求めることも必要だとは思っております。しかし、何分不勉強のためそちらの方までは手が回りかねるというのが、正直なところです。
『八大人覚の巻』は『遺教経』だけを典拠として著述されたのでしょうか?他にも明確な典拠となる経論があったのでしょうか?また、『遺教経』以前に八大人覚を解説したものがありましたら、ご教示ください。
大変ご無沙汰をしておりました。
最近立て込んでおりまして、コメントの返事が遅くなり恐縮です。
さて、貴師のブログも拝見いたしました。
偶然、「少欲知足」に思考を巡らした時期が重なったという訳ですね。
裏を返せば、それだけ周囲から正しい理解が求められているという事でしょうか。
まさにこのテーマは、未だ宗門において喫緊の課題とも言えるのでしょう。
> 『八大人覚の巻』は『遺教経』だけを典拠として著述されたのでしょうか?
私も不勉強で限られた内容しか答えられませんが、『正法眼蔵』「八大人覚」巻に限って言えば、本文中の引用やその記述、また「奥書」の内容からも、当巻が『佛遺教経』を典拠にしている点は疑う余地がないものと思われます。
また、當山助化師さまのWiki(http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/FrontPage)にも指摘があるように、道元禅師の「八大人覚」理解において、『大乗義章』巻13の「八大人覚義」が大きく影響している点も見逃せない事実かと思われます。
これらの点に関しては、當山助化師さまが専門でもあるので、ブログやWikiを通して理解を深めて頂ければと思います。
その他の点に関しても、必ずや有益な情報が得られるものとお勧めいたします。
>他の大乗経典や阿含経典等にも典拠を求めることも必要だとは思っております。
『正法眼蔵』「八大人覚」巻の典拠といった問題のみならず、「少欲知足」という教義自体の解釈までテーマが及ぶのであれば、確かにその視点も必要になってくるものと思います。
正直、そちらの方も門外漢なので、今後多くの方々の力を借りながら理解を深めていければと思っております。
聞きかじりの知識で恐縮ですが、今の時代に伝わる『佛遺教経』とは鳩摩羅什訳の漢本である訳ですが、そこから遡源できるテキストには限界があるという話を以前耳にした記憶があります。
また、大乗以前に遡れば、釈尊は「少欲知足」の教えを出家者に限定して説いていたという指摘もありますし、「少欲」という部分は漢訳以前「無欲」という言葉が当てられていたという事も併せ聞きました。
その意味から言えば、『佛遺教経』や他の大乗経典と合わせて、上座部経典も参究していく事は不可欠なものと思われます。
>他にも明確な典拠となる経論があったのでしょうか?また、『遺教経』以前に八大人覚を解説したものがありましたら、ご教示ください。
教示できるほどの知識もなく、直接的な回答にも及びませんが、大乗以前で八大人覚(少欲知足)について触れられているのは、
①原始仏典『長部経典』「十上経」
②原始仏典『増支部経典』「居士品」
③『阿毘達磨大毘婆沙論』巻41(但し、「八大人覚」としての少欲知足ではない)
であることが、既に宗門内におけるPTにより指摘がなされております。
また、既述もした『大乗義章』巻13における八大人覚解釈、『大般涅槃経』「獅子吼菩薩品」における十法なども参考すべき資料になるものと思われます。
如何せん勉強不足で、ご期待に沿える回答が適いませんでしたが、現時点で知り得る情報のみご報告まで。
但し、大正蔵経を開いた経験があまり無い人間にとって、該当箇所を探すことがかなり難しいですね。学生時代の勉強不足がこういうところで露呈されますね。
今後とも、ご教示の程よろしくお願いいたします。
今回ご指摘を頂いて、改めてこの教義の奥深さを知ることができました。
いま、手元にある資料等を改めて読み直しているところです。
もう少しお時間を頂けないでしょうか。
今回読み直しを計るきっかけを与えて下さったことに感謝申し上げますm(__)m