
寒い修行道場での安居経験のある私は、よく「あんな寒い場所で、いつも裸足で過ごしていたなんてすごいね」と声を掛けられます。
この種の言い回しは、厳しい修行を意味する言葉として用いられ、厳しい環境に耐えることが修行の眼目であることを意味しています。
確かに、酷寒の修行道場にて裸足で過ごすことは辛く厳しいことです。それに耐えるためにはある種の精神力も求められましょう。しかし、いつも違和感を覚えるのは「厳しい寒さに耐える=修行」という安易な構図そのものです。
厳しい寒さに耐えること自体は修行の過程にあって当然ですが、それのみを以て修行の全てが語れる訳ではありません。要は、厳しい寒さに耐えること自体が修行の全てではないということです。
しかしながら、叢林における厳しい修行を語る際には、殆どの方が我慢大会の如くの厳しさを頭に浮かべるのではないでしょうか。坐禅を語る時もそうです。坐禅は「安楽の法門」と説きながらも、みな頭を過るのは「あの足の痺れに耐えることが修行」という想いなのだと思います。しかも寒さの厳しい12月の臘八摂心ともなれば、足の痺れプラス寒さにも耐えなければなりません。ゆえに、坐禅は厳しい修行の代名詞ともなるのでしょう。
しかしながら、道元禅師が遺した『正法眼蔵』「坐禅儀」巻や、瑩山禅師が遺した『坐禅用心記』にも、「冬暖夏涼」という言葉を用いて坐禅修行が決して寒さに耐える我慢大会ではないことを明示しておられます。要は、寒さが厳しければ服を着て暖を取れば良い話なのです。道元禅師が『普勧坐禅儀』において「飲飡(食)節あり」と説いておりますが、まさにそれは節度の問題とも言えましょう。
と、ここまで来ると、寒からず暑からずの中道に則した修行の話で終わるところですが、今回はもう少し話の幅を広げてみたいと思います。
以前の記事でも触れた「是非に関する議論」についてですが、ややもすると我々の世界では是非に関する議論が不毛な対立の構図のみで語られることが多々あります。もちろんそこから派生する建設的な議論はあって然りです。ここではその良識ある議論をも阻害する意図はありません。
しかし、一部の方々の大小乗に関する議論を見ると「今の日本仏教は釈尊在世当時のあり方から乖離し過ぎていて真の仏教とは言えない」という論調が実しやかに語られています。特に世に蔓延る日本仏教叩きの本は、全てとは言いませんが目に余るものがあります。
中には誰もが知っている著名な学者の著書でも、客観的な検証作業を経ずして世に出るものも少なくありません。出版社も営利企業である以上、売上部数は決して無視できない要素でしょうし、不景気の煽りもあってかプライドよりも数字を優先するメディアが多くなってきました。しかし、その風評被害の煽りを喰うのは我々です。批判をするなとは言いませんが、もっと批判に値するような論旨を提供頂きたいと思います。
......話を元に戻しましょうか

タイトルにもある「人は寒けりゃ服を着る」という言葉の意味は、仏教の教えも環境や条件が変わればそのカタチも変わってきて当然だということです。温暖なインドの地から四季のある日本に移れば、それに応じて威儀も変わって当然であり、頑なに当時の身嗜みを変えないことが「正しさ」の根拠になり得ないということです(ここで言う「威儀」はあくまでも譬えの話です

素肌の上に袈裟を身に纏うスタイルも、日本では環境の変化に伴い襦袢や着物、直裰を身に付けるようになりました。また逆に、日本の叢林では目にすることがなかった応量器にパスタが盛られる光景も国によっては当たり前の話です。
もちろん全てとは言いませんが、一部の大小乗に関する是非の議論の中には、極寒の修行道場でも素肌の上から袈裟を纏わなければ不如法だ



カタチを変えざるを得なかった理由はどこにあるのか


もちろん「人は寒けりゃ服を着る」という論理が何でもありの仏教の免罪符になってはいけません。しかし頑なまでの原理主義で思考が硬直し、結果的に仏教のダイナミズムが失われてしまっては本末転倒です。そうならぬよう、我々はじっくり吟味検証したうえで「冬暖夏涼」の精神に倣う柔軟性が必要なのだと思います。



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先日はお疲れ様でした。
ところで、この記事を拝見しまして、そういえば、自分のところでもこんなの書いたっけ、と思いだしたのがありましたので、リンクだけ置いていきます。
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/465e54ad99eff09dc98b41fc2c7bf9bd/20
こちらこそ先日は大変お世話になりました。
提唱のみならず、夜話も非常に有意義な時間だったものと思います。
今回の記事も、その夜話の一部に触発されて想うところを述べてみました。
>リンクだけ置いていきます。
そのリンクがエラーが出るのですが......コピペミスでしょうか???
tenjin様のコメントを拝読してから…と思いましたが、上手く作動せず、失礼ながらコメントさせて戴きます。
…と入力していた途中に、何故か文章が全部消えてしまいました(泣)
今回は、宗教についての話題の展開でしたが、私は、宗教も社会も、「核」となるべくもの(教儀や法制度)をきちんと護りつつ、「時代のニーズ」と「地域性」に合わせて変容していく事はごく自然の流れだと考えています。
ただし、あくまでも「核」となるべきものを護る事が大前提です。
故に寒冷地の道場に志を持って上山される方々にとっては、その選択はごく自然な事なのでしょう。
ただ、残念な事は、地道に研究されている方々の成果が一般社会に正確に伝わる場が少なく、「大衆ウケ」する著作を垂れ流す「研究者」とメディアのバイアスがかかってしまい、本来身近にあって然るべき「宗教」と一般の人々との距離が開いてしまっている現状が常態化してしまっている事です。
我々一般人の側も、情報を判別する能力が問われているのだと考えます。
…という趣旨だったような(汗)
失礼致しました。
>ただし、あくまでも「核」となるべきものを護る事が大前提です。
それが大前提ですね。もちろん「核」の部分の参究も踏まえての話ですが。
>ただ、残念な事は、地道に研究されている方々の成果が一般社会に正確に伝わる場が少なく、「大衆ウケ」する著作を垂れ流す「研究者」とメディアのバイアスがかかってしまい、本来身近にあって然るべき「宗教」と一般の人々との距離が開いてしまっている現状が常態化してしまっている事です。
これもご指摘の通りですね。
この「大衆ウケ」という部分が利益に繋がり、ゆえにメディアとしての誇りやプライドが二の次になる現象が一部で起きているものと危惧します。
同時に、その悪循環は我々の世界にも当てはまるものがあり、どのへんでバランスを取っていくかも今後の課題かと思われます。
地道にやっていくい他ありませんね。
リンクが誤っていたようですので、再度リンクします。失礼いたしました。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/da79c63c06597ed7b61596df5c5df58b