いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(276)「真の命に生きる」

2014年07月31日 | 聖書からのメッセージ

 「ヨハネによる福音書3章1節から8節までを朗読。

 

 5節「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない』」。

 これはイエス様とニコデモ先生との会話であります。彼はイエス様の所に夜訪ねて来ました。ニコデモ先生は「パリサイ人」と語られていますから、その当時イエス様とは敵対関係といいますか、パリサイ人はイエス様を憎んでいました。ですから、彼らがイエス様と親しくする、交わりをすることははばかられる間柄でもありました。ですから、ユダヤ人の指導者ともありますし、教師ともいわれているニコデモさんは、夜ひそかにイエス様の所へ訪ねて来たのです。彼はイエス様が何かほかの人とは違うと感じるものがあった。だから、その秘密はいったい何だろうかを知りたいと思いました。それでイエス様の所へ来たのです。 

 

そのとき、イエス様は、3節「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』」と言われました。「神の国を見ることはできない」と、また5節には「はいることはできない」とも語られています。「神の国にはいる」、「神の国を見る」とは神の国の民となることです。その国に入ること、これが大切だというのです。

 

私たちは本来神様のものであったのです。神様によって造られて神様の所有であった私たちが神様から離れて、サタンの支配、サタンの力に捕らわれてしまったわけです。サタンの力とは私たちを神様から引き離す力のことです。私たちが神様に近づくのを妨げようとするのです。神様を求め、信じさせまいとする力、これがサタンの力です。私たちの中に絶えずそのような力が働いていきます。私たちはそのサタンの支配に囚われていました。サタンは神様を見せまい、神様の恵みを隠そうとしてきました。だから、私どもは神様を知らなかった。ところが、神様のほうがサタンの力を取り除いて、私たちが神様に近づく道を備えてくださったのです。幸いにも、いま私たちは神様を信じる者とされたということは、サタンが負けたのです。その代わり、神様が私たちを捕らえてくださった。ですから、私たちは自分の力や努力でイエス様を救い主と信じたわけではなくて、神様が私たちに信じる力を与えてくださった。今、私たちは人のあるべき姿に立ち返ったのです。創世記に語られているように、人が最初に造られたとき、神と人とが共にあって、何の陰も不安も恐れも失望もなかったのです。実に、最高に平安な恵みの中にありました。神と人とが裸で恥じないという、神様と同じ光の中にあったのです。「ヨハネの第一の手紙」にあるように「神が光であって、神には少しの暗いところもない」(Ⅰヨハネ1:5)と書いてあります。だから、神様と共にあるとは、天地神明恥じる所がないということです。一点の曇りもない神様との関係です。では、自分を考えてみたらどうかというと、なかなかそのようには言えない。自分の心を探ってみると、澄みきったわき水のごとく何一つ汚れたものがないと言えない。神様の前に今日立たせられて、大丈夫と言える人間がいるかと言われると、言えないですね。私たちは、ただ、主イエス・キリストの十字架によって、その執り成しによって、いま神様の前に立つことが許されているのです。だから、イエス様によらなければ神様に結びつくことも、神様に近づくこともできないのです。そのような私たちですが、本来はそうではなかった。そもそもがエデンの園にあったように、神様の前に裸でも恥じない、どこにも隠れたところのない汚れのない者でありました。ところが、サタンの働きによって人が罪を犯し、神様から切り離されてしまう。そのとき彼らは神様の前に立てなくなったのです。隠れてしまいました。主の顔を避けて木の茂みの中に自分を隠してしまった。そして、それ以来ズーッと人は神様を拒む、あるいは神様に顔が向けられない、神様と顔を合わせられない存在になりました。それはサタンが私たちを握ってしまったからです。そのような私たちの姿を「エペソ人への手紙」に「罪過と罪とによって死んでいた者」(2:1)と言われています。そして、そもそも私たちは神様から呪われて滅ぼされるべき者、「怒りの子であった」(エペソ 2:3)と語られています。そのような私たち、そこからは何一つ良きものは出てこないどころか、「荒野のような塩地に住む者」(エレミヤ17:6)といわれています。その行く末は永遠の滅びであります。ところが、神様は憐(あわ)れんで、私たちをこの救いにあずからせてくださいました。私たちは神の世界に入らないことには、神様との正しい関係に立ち返らないことには、どうにもほかに生きる方法がないのです。どんなことをしてみても、私たちの安心、望み、力は、神様に帰る以外にどうにも仕様がないのです。

 

 いま、私どもの住んでいるこの世の中を見ますと、いろいろな問題が次から次へと噴き出してきます。人が一生懸命にああもしようか、こうもしようかと、ない知恵を絞ってあれこれとします。政治家も経済学者も教育家もいろいろなことをしますが、どれひとつうまくいかない。それは当然です。そもそもの土台が欠けてしまっている、本来正しくあるべきいちばんの土台がゆがんでしまっているから、いくらその上に良い事をしようとしてもうまくいかないのです。家を建てるときでもそうですね。いちばん最初の土台、基礎をきちっと正しく建てると、後はことごとくうまくいくのです。ところが、ボタンの掛け違いといいますか、いちばんの土台がきちんとなっていなければ、いくらその上に良いものを建てようとしても、良くならないのです。

 

 だから、しばらく前に教会の改装をしました。そのとき大工さんが困ったのです。「家がゆがんでいますよ」と言われる。見たって分からない。普段、生活をしている分には何の不都合もなく分からない。ところが、扉を取り替えることにしたのです。きちっと機械で測っていくと、手前から奥に向けて下がっている。何ミリか微妙に下がっている。だから、そのまま扉を付けたら途中で止まってしまう。それで大工さんが二人で一生懸命に頭をひねっている。こちらは早く仕事をしてもらいたいから、「何か問題がありますか?」と尋ねたのです。「いや、先生、ここは全体がこんなに下がっているから、どうしようかと今思案しています」と言う。「いいじゃないですか。下がっていたらひし形の扉にしておいたら」と言ったら「そうは行きませんよ。先生、こちらの方が今度は何とか……」と、素人判断はそんなことですね。それで半日ぐらいいろいろとやって、いい案が出て結局きれいになりましたが、そのとき、大工さんが「先生、これはもう建て替えた方が早いですよ」と言う。確かに土台がゆがんでいると、後いくらどんなことをしても、これは難しい。だから、よくいいますね。改装をしたり、部分的に手を入れることのほうが費用が掛かり、手間も掛かると。そのとおりでやはり土台をきちっと正しく置いてしまうと後がいいのです。

 

 私たちの人生もそうであります。人が本当に大切なのは、神様と私の関係がきちっとできていることです。それはどういう関係かというと、神様の前に罪を消された者、神様に対してはばかることなく心から信頼できる関係です。神様は知っているが、どうも怖くて仕方がない。普段はできるだけ遠ざけておきたいというのは、日本人の神様に対する考え方ですが、本来そのような神様との関係ではない。神様と人とは本来共にあるべきものなのです。それによって初めて人が人たるものになるのです。それは創世記にあるように、私たちが神様のいのちによって生きる者となることです。神様からのいのちを頂いて人は初めて生きるのです。ところが、人が罪を犯して神様のことが煙たくなって、敬遠して、主なる神の顔を避けて隠れてしまったところから、人のいのちが消えてしまった。本来、生きるべき人のいのちが無くなってしまった。そのいのちとは肉体の命ではありません。もっと肉体と違った、私たちに生きている喜び、望み、感謝、平安、そういうものを与えてくれるいのちが欠けてしまう。そして、「肉の力」と聖書にありますが、神様から切り離されたサタンの力、本来神様が与えてくださるいのちではない別の力に私たちが支配されてしまっている。その結果がいま直面している世の中の様々な問題です。

 

 経済問題でもそうですし、いろいろな貧困の問題でもそうですし、環境問題でもそうです。問題の帰するとことは、「伝道の書」にあるように「神を恐れ、その命令を守れ」(12:13)、神様が万物の造り主であって、私をも造られた御方、その真(まこと)の神様がいらっしゃることを認めて、その神様と私とが密接な関係、裸の付き合いができるようになることです。隠して、いい格好をして、よそ行きの姿だけを見せていては駄目です。人付き合いもなかなかそこまではいかないです。同じ屋根の下に住んでいる親子であろうと、夫婦であろうと、やはりどこかで隠すところがお互いにありますから、なかなかストレートに物も言いにくい。奥歯に物が挟まったようなことしかお互いに言いません。ところが、神様との関係がそのようなものだったら、それは正しい関係とはいえない。人と人との関係はそうであったとしても、神様に対しては何一つ隠すところがない者でありたい。それが本来の私たちの生きる生き方なのです。ところが、それが失われてしまった。死んでいた者、罪ととがとに死んでおった者と言われています。考えると、私たちは死んだはずはない、肉体をもって肉の力では生きてはいるのです。しかし、不安があり恐れがあり心配があり、神様と親しくなれない。神様を信頼できないでしょう?神様がいて、すべての事を備えてくださるのに、ああでもない、こうでもないと思い煩う、心配する。そして、失望したり落胆したり憤ったり怒ったり、様々な不安と恐れとに悩まされる。実に情けないといいますか、そういう生き方しかできなくなっている。だから、もう一度新しいいのちに私たちを生かしてくださる。言い換えると、創世の初め、エデンの園での神様と人とが共にいた幸いな恵みの中に、私たちをもう一度引き返してくださる。そのために、神様の御子であるイエス様をこの世に遣わしてくださった。そして、イエス様が十字架に死んでくださった。それは誰のためでもない、実は私たち一人一人のためです。私たちの罪を赦してくださった。それは、私たちがもう一度神様に帰って、正しいいのちに生きるためです。

 

この5節「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない』」。「神の国にはいること」、これが神様との交わりを得るただ一つの道、神様と共に在る場所、そこが神の国です。それに相応しい者として私たちを造り替えて、新しいいのちを与えてくださる。だから、イエス様の救いにあずかって、私たちの何が変わるといって、私たちの生きるいのちが変わるのです。新しいいのちによって生きる者となる。

 

ローマ人への手紙6章4節を朗読。

 

ここに「わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」とあります。「新しいいのち」とは、「イエス・キリスト」なのです。イエス様が私たちのいのちとなってくださる。いのちといいますのは、私たちの中にあって、私たちを動かし、すべての力となるものです。かつては肉の力、サタンの力が私たちを支配してきた。ところが、イエス様を信じて救いにあずかるとは、イエス・キリストが私のいのちになってくださることです。だから、いまイエス・キリストが私のいのちなのです。ほかのものではありません。「コリント人への第二の手紙」に「自分のために死んでよみがえったかたのために、生きる」(5:15)とあります。イエス様のために、主のためにという言い方は、別の言い方をしますと、イエス様が私のいのちなのだ。だから、いつもイエス様に結びついておかなければ、私たちにはいのちがないのです。肉体の命はもちろんあります。体が健康であるとか、病気をしないとか、社会的な活動ができる、動けるという、そのような命はありますが、それは本当の意味での命ではなくて、私たちにとって大切なのは、ただに生活できるというだけではなくて、その生活の中に喜びがあり、満足をし、感謝ができる。そのようなどんな境遇にあっても生きるエネルギー、力、それを与えてくれるものがはいのちです。皆さんとって明日を生きる力はどこから来るか?いろいろなことがありますね。子供のためであるとか、自分のためであっても、自分のこういう夢が実現するとか、願いがかなうとか、明日はこういう行事があるとか、こういうことがあるから、私は楽しみだということをいいます。いろいろな目に見える事情や境遇や事柄が、自分を喜ばせてくれる、自分に生きがいを与えてくれることはありますが、しかし、もしそれがなくなったら、人は何によって生きるのか?若いときはあれもしたい、これもしたいと夢がたくさんあるし、選択肢がたくさんありますから、生きることがをどういうことかあまり考えませんが、だんだん年を取ってくるとお先真っ暗です。あれもできなくなる、これもできなくなる。いろいろなことができなくなり、楽しみもなくなってくる。せいぜいテレビを見るぐらいでしょう。しかし、テレビだって最近のドラマなんてよく分からない。初め見たストーリーを忘れますから、登場人物を見ていても「あの人誰?」と何度でも尋ねる。名前も分からなくなりますから、楽しみもない、喜びもない。何が喜びなのか、私にとって何が喜びなのか、生きる喜びを与えてくれるものはいったい何なのか、それがいのちなのです。

 

そうなると、私たちにはいったい何があるのでしょうか。実は、イエス様が私たちのいのちなのです。だから、4節に「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」と。イエス様が十字架に死んでくださった。これは私たちの罪のあがないとして、罪を赦す犠牲として、私の変わりに死んでくださった。それで、私たちは罪を赦されたのです。しかし、イエス様は死んで墓に葬られた後、三日目によみがえってくださった。「どうしてイエス様はよみがえるのだろう?死んだら死んだままでいいではないか」と思われるでしょうが、そこが素晴らしいことなのです。イエス様がよみがえったのは私たちのいのちとなるためなのです。罪を赦された私たちが、今度はキリストのいのちによって生きるものとなること。キリストが私のいのちとなってくださるのです。だから、主と共にあることが生きる喜びであり、それが目的であります。だから、何かができるとか、できないとか、そのような事情や境遇、生活のことではなく、私はキリストのものとなり、イエス様が私のいのちとなってくださっていることを、絶えず覚えていかなければならない。それを忘れたら命が消えるのです。だから、イエス様を失ったら、私たちはいのちがない。だから、どんなときにも、いつもイエス様が私のいのちなのだと知っておいてください。パウロが「テモテへの第二の手紙」に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と勧めている。「これがわたしの福音である」と(2: 8)。「福音」とはイエス・キリストをいつも思うこと、言うならばいのちとなるためによみがえって、今も私たちの内に宿って、共にいてくださる。そのイエス様によって生きること、これがいのちです。いのちであるイエス様によって絶えず生かされていくことです。

 

 「ガラテヤ人への手紙2章19節から21節までを朗読。

 

 19節以下に「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」。サタンに縛られていた、捕らえられていた私たちは、イエス・キリストを信じることによって、イエス様が十字架に死んだごとくに私も死んだ者です。これを絶えず自覚して、私はすでに死んだ者。だからパウロは「わたしは日々死んでいる」(1コリント 15:31)とも語っています。毎日、毎日、私はまず死ぬのです。では、何によって今生きているのか?その後に「キリストが、わたしのうちに生きておられる」と。キリストがいのちとなって、私を生かしてくださる。だから、絶えずイエス・キリストを思っていくこと。イエス様のために生きる者とされることです。これが神の国に生きることであります。私たちの日々の生活の一つ一つどんなことも、昨日の今日、今日の明日と惰性(だせい)で生きるのではなく、一つ一つのことの中で、主が、イエス様が私を生かして、いま私にこのことをさせておられるのですと、絶えず自覚していくこと。主のいのち、キリストのいのちによって私たちが生きている。だから、一瞬たりとも、ひと時も、イエス様から離れては生きられないのです。いのちを失うのです。だから、今こうして御言葉を通して、私たちの心が主に向いています。イエス様の霊に私たちの心を委ねていきます。ところが、教会を出た瞬間から、それをポッと忘れてしまったらいのちを失います。どうぞ、どんなときにも絶えずキリストが私にあって生きてくださっている。イエス様を信じること、イエス様が私を今日も生かしてくださっていることを認めていく。人のわざや自分の努力や自分の力で生きているのではなく、世の誰かによって生かされているのではなく、キリストによって生きる者とされている。これが私たちの新しいいのちに生きる生き方、新しい生き方です。

 

 「ヨハネによる福音書3章5節に「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない』」。イエス様が「だれでも新しく生れなければ」と言われたときに、ニコデモ先生は「どうして人は新しくうまれることができましょうか」と言った。今更死んで、お母さんのおなかからもう一度生まれなおすなんて、これはできません。しかし、ここでイエス様が言われるのは「だれでも、水と霊とから生れなければ」と。「水」とはキリストのこと、イエス様のことです。それはまた御言葉でもあります。キリストのお言葉です。聖書のお言葉と「霊」。そのお言葉に伴って働かれる神様の力、神様の霊によって、人は初めて神の国に入ることができ、神と共に在る生活を送ることができる。だから、キリストがいのち、新しいいのちとなって、私と共にいてくださる。私たちの日々の生活、毎日の生活一つ一つどんなことも、キリストが私の主、いのちであって、キリストによって生かされていくのです。だから、私が好きだからするとか、嫌いだからしないとか、これが欲しいとか欲しくないとか、そのような自分の感情や、生まれながらの人の情欲、そういうもので生きているのではない。キリストによって生きる者とされているから、どんなときにも主の御心はどこに?神様が私に今求めていらっしゃることは何だろうか? イエス様が私に今させようとしていることは何だろうか? と、常にキリストのものとなりきって、主を自覚していくこと。これがいのちです。だから、どんなことをしていても絶えず私たちの心はキリストと共にあるのです。そうしますと、おのずから生活の一つ一つの中に喜びがわいてきます。望みが与えられ、また感謝することができ、輝いて生きることができるのです。

 先だってもある一人の方が「先生、私たちは神の証人として選ばれたと言われています。確かに神様のことを証しするということは最高の恵みであろうと思うのだけれども、証しをするということはどうすることなんでしょうか」と言われる。何かしなければいけないのじゃないかと、その方はちょっと気になった。なるほど聖書を読むと、使徒行伝ななどに、ペテロやパウロにしろ、キリストの証人となっていろいろなことをしています。パウロにいたっては地中海沿岸の各地を回ってイエス様の福音を宣べ伝えました。ひとつ私もそういうことをしなければいけないのかと思う。しかし、そうではないのです。キリストの証人、主の証人となる、証し人となるとは、神の国の住人になることです。私たちの生きるいのちがキリストであることを証ししていくのですから、そのためには日々の生活で絶えずキリストと共に生きていること、そのことを努めていく。そうするとおのずから神様のほうが私たちを造り替えてくださる。主が共にいてくださって、これはもう神様としか言い様がないという証しを、神様のほうがなさるのです。だから、私たちが神様のことを伝えてあげましょうなどと、それはおこがましい。だから、私はその方に「何かするよりは、私たちは常に神と共にあること。キリストのいのちによって生かされていることを努めていく。これ以外にありません」と申し上げました。

 

ヨセフがそうでした。お兄さんたちからエジプトのポテパルの家に売られました。だからと言って、ヨセフはそこでふてくされて、神を呪ったわけでも何でもありません。彼はポテパルの家で忠実に与えられた務めを果たしたのです。そこに「主はヨセフと共におられて」とあります。神様がヨセフと共にいてくださった。ヨセフもまた「神われと共にいます」と信じたのです。主が共にいると信じて、神様の前に生きたのです。そのとき神様は彼のなす手のわざを祝福して、栄えさせてくださった。それを見ていたポテパルは「この人はちょっとほかの人とは違うぞ。この人には神様が付いている」と思った。まさに、ヨセフは神様の「か」の字も言わないけれども、見る人をして「神ここにいませり」と、はっきり証したのです。私たちにもそのような生き方を神様は求めてる。と言うのは、それが本来の生きる姿だからです。だから、ヨセフはポテパルの家で大層重宝され、ヨセフがいればこそ、この家庭が恵まれました。

 

どんな境遇に置かれても、そこで「神われと共にいます」、神の国の民として生きることを努めていく。これが証し人としての使命です。イスラエルの民が他の民族と違って神の民であると言えたのは、とてつもない大事業をしたわけでも何でもありません。モーセが語ったように「主よ、あなたが私たちと共におられるがゆえにほかの民とは違った者ではありませんか」(出エジプト33:16)。言うならば、神がここにいますと言うことだけです。

5節に「だれでも、水と霊とから生れなければ」と言われますが、「水と霊」とは、イエス様のお言葉です。イエス様は「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)と言われます。そのイエス様のお言葉、神様のお言葉を信じて、神様の霊に満たされていくことです。御霊の力、神様の力によって、キリストの思い、御心に絶えず従って励んでいくこと、これ以外にないのです。そうするときに、神様は私たちに思いも掛けない、考えもしない驚くべきことをして、神の栄光をあらわしてくださる。私たちが喜び感謝し、輝いていることが神様の与えようとしてくださる、神様が私たちに与えてくださる祝福と恵みでもあります。

 

どうぞ、もう一度私たちは新しく生まれるということは何なのか?いま私は何をいのちとして生きているのか、自分の思いを整えて、神様の前に水と霊によって生きる者、キリストによって生きる生涯を全うしていきましょう。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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