いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(416)「非合理的な愛」

2014年12月18日 | 聖書からのメッセージ
 「ローマ人への手紙」8章31節から39節までを朗読。

 32節「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。
 
 「ローマ人への手紙」8章は大変恵み豊かな、励ましを与えられ、望みを与えられる記事で満ちております。この章を通して語られていることは、私たちが主イエス・キリストの十字架のあがないによって新しい者とされたことを細かく語っています。イエス様の救いは、度々申し上げておりますように、私たちが神様の子供として、神様と密接な信頼関係を築くためのものであることに他なりません。

 そもそも聖書の初めに語られているように「人は神によって造られたもの」です。神様によって私たち一人ひとりが造られ、生かされております。ところが、私たちはそれを忘れています。しかも、造られた私たちは、ただ単に神様の何か……、おもちゃといいますか、神様の手慰み、そういう種類のものとして造られたのではなく、私たち一人ひとりを神様の尊いかたちにかたどって、神様に似るものとしてくださった。では、なぜ私たちを造られたか? それは私たちを通して、神様の栄光、神様の恵みを明らかにしようとするためです。全ての創造物、神様がお造りになったものは、この目的に集約されます。森羅万象、ありとあらゆるものを神様はお造りになられましたが、それらの全てが、ここに神様がおられる、神様が恵み豊かな御方で、力にあふれた御方、また全てのものをご支配くださっておられることを、言わず語らず絶えず語り続けているものであります。ですから、この講壇に飾られている花もそうであります。また、山や海やいろいろな所で見る様々な自然の生き物も全てがそうであります。自然界といわれる一つの大きなシステム、一つの仕組みも、これまた神様の不思議な御業を褒めたたえる、喜びを語る道具ととして存在しているのです。普段はこういう人工的な人が造った町の中に住んでいますから、ともするとそういうことを忘れてしまいますが、家族と共に郊外へ出掛けたり、野山に出かけると、普段と違った風景に出会います。そこで非常に感動を覚えます。「何とこんな広大無辺な、大きな世界があるのだろうか」と。ましてや宇宙にまで思いをはせるならば、私たちの想像が及ばない程の大きな世界が広がっているのです。それらの一つ一つも神様の大きな御手によって、神様の栄光のために存在している。それらのものは別に語るわけではありません。いま私たちが見る草花にしてもそうであります。しかし、庭のあるお宅に住んでいる方などはよく不平を言われます。特にこういう時期になると「雑草が生えて困る」と。一人の姉妹は、「もう、先生、大変ですよ、うちは庭が広いもんですから……」と、どちらを自慢したいのか分かりませんが、「このところ雑草が生えて、本当に草抜きだけでも大変です」と。私は「いいじゃないですか。それも神様が生えさせていらっしゃるのだから、楽しめば。草ぼうぼうでいいじゃないですか」と、すると「そういう苦労を知らない人が言う」と言われる。なるほど、私は庭がない生活ですから、こんな楽なことはないと思って感謝していますが、そういう人にとって、草花は雑草でしかありません。雑草という言葉自体が神様をないがしろにしているのです。道の端っこに人知れず咲いているいと小さな花ですらも、実は神様の作品です。そういうことを感じられなくなった人間、これが聖書で言う罪の姿です。私たちもまたそういうものとして造られました。しかも、神様は全ての造られたものの中で最も神に近いもの、神に似たものとして造ってくださいました。

そういう私たちが罪を犯したのです。何を罪と言うか? 実は、私たちが神様を認めることができない。どんなことでも自分で何とかしようとする。自分で事を導こうとする。そういう思いが私たちの心にいつもあります。自分が中心になる。全てのことの中心に自分を置いている。「私がしたんだから、私がこれをしなければ……」「私がこうして……」と、そこには神様が導かれるという思いがない。最近一つのことを通して教えられることですが、私たちが何かの問題にあたります。経済的な問題、人間関係の問題、仕事上の問題、家庭の問題、いろいろな問題が必ず起こります。その問題を解決するとき、どういう手順、経過をたどって解決しようとしているかを顧(かえり)みていただきたい。何か突発的な出来事が起こる。家族が病気になった。あるいは、交通事故にあったり、いろいろなことがあるかもしれません。自分自身の健康上に問題が起こってくるかもしれない。そのとき「さぁ、これをどのように解決しようとするか」というときに、まず考えるのは自分でしよう。「しまった。何とかしなければいけない」「大変なことになった。これをどうしようかしら」。そのときに「いちばん手っとり早い方法は何だろうか? 」「早くこの問題が解決される手段はないだろうか」といろいろなことを模索します。あれを試してみる、これをやってみる。そして、何とか自分でこの窮地を、その行き詰ったところを打開して、早くその場を逃げ延びるといいますか、そこから逃れようと努めます。そして、努力してやり遂げて、その問題を解決した暁には、「私がこんなに努力したから」「私がこんなに頑張ったから」「やはり私が前もってこういう手を打っていたから、ああいうことをしていたから良かった」と、そのプロセスを振り返ってみると、神様がいらっしゃる場所がない。神様の働かれる所がどこにもない形で終わる。ただ最後には付け加えますよ。「先生、こうやって解決しまして、これも神様だと思います。感謝します」と。これはデコレーションケーキの上に乗った飾りのようなものです。ここが問題なのです、実は。いろいろな問題を解決していくときに、そこでまず神様の所に来て、主を求めることが大切なのです。というのは、いま起こっている出来事、確かに目の前のあの人がこうしたからとか、自分が至らなかった所があったからという原因と思えるものがあるでしょうが、本当の原因は神様にあるのです。病気を起こすことも、それを癒すこともできる。またいろいろな事故を起こすことも、それを解決なさるのも神様です。だから、何か事があったときにそこで「そうでした。これはあなたがこの試練、患難といわれる問題を置いてくださった」ことを認めて、まず神様の前に自分を置く。このことが実は大切なことですが、どういうわけかそれをしない。これが罪と言われている事なのです。私たちは神様がいらっしゃって、神様が全てのものを統べ治めておられると認めることをしない。それが罪です。そういう問題のときに神様の前に自分を置いて、「今こういう問題をあなたが与えておられますが、ここで私は何をすべきでしょうか? 」「私はここからどう歩むべきでしょうか? 」「どういう道を、神様、あなたは備えてくださいますか? 」「あなたが解決してくださる道はどこでしょうか? 」と、神様に問う。神様にその問題を持って行くこと、これが実は私たちの最も大切なことです。なぜなら、神様に造られた人としての生き方なのです。ところが、私たちは自分の浅はかな考えや人の世の知恵や知識や手段、方法をもって事を治めよう、それを切り抜けようと頑張る。それは涙ぐましい努力、けなげな努力に見えますが、しかし、神様の目からご覧になったら、誠に残念至極です。「なぜ、わたしに求めないのか。わたしが主であるよ」と。神様を神様としていく。人はいくら頑張ってみてもあくまでも造られた被造物にすぎない。このことを認めることができないがゆえに、私たちは苦しんでいるのです。自分ができないわけであります。能力、力がないのであります。知恵もない。そこへもってきて、自分が神様に成り代わろうとするから苦しい。そうではなくて、自らが本当に造られた者であることを認めて、神様の前に謙遜(けんそん)に出て行く、へりくだる。そのとき神様は私たちに道を示してくださる。きちんと神様がその歩むべき道を備えてくださるのです。というのは、神様は、決して私たちをいじめたり、懲らしめたり、苦しいつらい中に置いて楽しもうという御方ではありません。それどころか、最初に申し上げたように、神様の栄光をあらわすものにしようとしてくださる。神様が私たちを喜び楽しませ、感謝賛美させようとしていらっしゃる。これが神の栄光なのです。神様の栄光をあらわすとは、「コリント人への第二の手紙」に「感謝が満ちあふれて神の栄光となる」(4:15)とあります。私たちが喜び、感謝し、望みに輝いていること、これが神様の求めておられることです。しかし、私たちは「お前がそうなれ」と言われたって、なれないのであります。皆さん、そうでしょう。誰一人「今日、一日憂鬱(ゆううつ)な一日でありたい」「絶望的な一日を過ごしたい」とは願っていません。それどころか「今日こそ、一日人生最高の一日でありたい」、「喜び感謝し輝いて生きたい」と、朝目覚めるじゃないですか。ところが、どういう訳か、夕方になるとしょぼくれて、不平ぶつぶつになるわけですが、それでは神様の栄光にあずかることはできない。なぜそうなってしまうか、そこが問題です。それが罪です。ですから、もう一度神様は私たちを信頼する者に造り替えてくださる。神様は私たちに「どうしてわたしを信頼しないのか」と問われます。自分が何とかしなければと突っ張る。神様に信頼することができないのは、私たちが神様を信用していない、信じようとしないからです。だから、神様はあえてひとり子イエス様を世に遣わしてくださったのです。それは神様が私たち一人ひとりを愛しておられることを証詞するためです。

「ヨハネによる福音書」3章16,17節を朗読。

16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。これは神様の素晴らしい恵みのお言葉であります。「この世」というのは、私たち一人ひとりのことです。だから、ここに自分の名前を入れて読んでください。「この世」というと、漠然としてつかみ所がありませんが、「榎本和義を愛して下さった」と私は読みます。神様は私たちを愛してくださった。その愛の深さ、高さ、それをどう言い表すか言葉がありません。「海のように広い」とか、あるいは「山のように高い」とか、いろいろなことをたとえて言おうとしても、神様のご愛は到底言い尽せない。「ひとり子を賜わったほどに」と、このように言う以外に表現できない。神様は私たちを愛して、ご愛のゆえに尊いご自分のひとり子、イエス・キリスト、神の御子を人の世に下してくださった。私たちの罪のあがない、私たちが当然払うべき神様に対する犠牲のいけにえとして御子を遣わしてくださった。「ここに愛がある」と、「ヨハネの第一の手紙」に語られています。「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(4:10)。神様は十字架を立てて、ひとり子イエス様をここに遣わして、「あなたをこんなに愛しているよ」と、今も絶えず語り続けられている神様からのメッセージであります。神様以上に私たちを愛してくださる御方はいません。神様は「ひとり子を賜う」ほど、尊いご自分の愛する子、イエス様を惜しまないでこの世に下してくださった。それによって、私たちに対する愛を明らかにしてくださった。

そればかりか「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と。神様に背いて、神様を認めることができずに離れてしまった私たち、永遠の滅びに落ちるべき者をして、そこから救い出し、キリストを信じる者に永遠の命を、とこしえの命の生涯に私たちを入れてくださる。そのために私たちの所にひとり子・イエス様を遣わしてくださった。いま私たちはイエス様を信じる者としてくださいました。イエス様を信じるとは、それによって神様を信頼することができる者としてくださった。それは私たちをして万物の創造者、父なる神様を私たちが全く信頼することができる者としてくださったのであります。私どもが神様を信頼する者となるために、神様のほうが私たちにひとり子を賜うほど大きなご愛を注いで愛してくださった。ところが、私どもはなかなか神様に向かって心を開かない。堅く閉ざして、まだ何か神様を疑っているといいますか、信用しないところがあるのではないでしょうか。だから、何か自分でしなければならない、自分が頑張らなければいけない、と思う。そうではなくて、ひとり子をもって私たちの罪を赦し、私たちをして神様の大きな限りないご愛の中に取り込んでくださったのです。だから、イエス様が「わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ15:9)とおっしゃる。イエス様が私たちのためにしてくださったことは、私たちをもう一度父なる神様に連れ帰って、何があっても神様が全てのことを備えて導き、私たちを喜び楽しませ、日々輝いて生きることができるようにしたい、と願っているのです。その神様の御思いをしっかりと感謝して受けようではありませんか。今何か問題がありますか。あるいは思い煩うことがありますか。それならば早く神様の所へ帰ろうではありませんか。ひとり子を賜うほどに愛してくださった神様は、私の今のこの悩みを知っておられる。そして、私の願うことも、思うことも全てご存じでいらっしゃる。

 「マタイによる福音書」6章31節から34節までを朗読。

 これはイエス様が私たちに対して「思いわずらうな」と繰り返し語ってくださるお言葉であります。私たちが思い煩うことを神様は好まないのであります。なぜならば、思い煩い、眉間(みけん)にしわを寄せて悩みの中にいる姿を神様は決して喜んでいるのではありません。なぜならば、神様は「わたしに任せなさい」、「わたしがあなたの父ではないか」とおっしゃるのです。どうでしょうか? 私たちは万物の創造者でいらっしゃる神様を身近に「私の全てです。この神様こそが私を今日も支え、助け、守ってくださいます」と信頼できているでしょうか?

だから、イエス様は26節に「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」と言われる。「どうして生活のことで思い煩うのだ。何が心配なのですか? わたしがついているじゃないですか」と神様はおっしゃる。「空の鳥を見てご覧なさい」と、朝から晩まで飛び回って何をしているのか分かりませんが、だからといって、ノイローゼになったという話は聞きませんし、心身症で入院したスズメがいるとも聞きません。精いっぱい神様に養われているのです。私たちもそうです。今日こうして健康でいられるのは、毎日頑張って健康食品をたくさん食べているからではない。ただ一重に神様が憐れんで「今日も生きよ」と、生きるべき命を、エネルギーと力を与えてくださるからでしょう。時たま病気を与えて楽しませなさいます。ところが、私どもは何もかも身の回りを自分でやり遂げなければいけない、完結させなければいけないと思い込んでいる。「私が頑張らなければ」「私が何とか……」と。その必要はないのです。皆さん、肩の力を抜こうじゃありませんか。神様に、それこそ丸投げですよ。全部お任せ。だから、どんな時にも、どんなことも神様の所へ持ちだしていく。26節に「あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる」とあります。「あなたがたの天の父」と、「あなたがた」とは誰のことか。私たちのことです。「あなたの天のお父様でいらっしゃる神様がスズメですら養っているのにどうしてあなたを見捨てるはずがあるでしょうか」と。ここでしっかり信じるようにと、イエス様は十字架を通して神様の愛をあらわしてくださった。「あなたをこんなに愛しているよ」と。そして十字架で命を捨ててくださった。私たちはそのことをいとも簡単に忘れやすいのです。そして自分の責任だから、私は親だから、私は何とかだからと、できもしない癖に偉そうなことを言う。そうではなくて、神様が与え、神様が取られるのであります。初めであり終りであり、アルパでありオメガでいらっしゃる神様によって私たちは支えられて、その神様はひとり子を賜うほどの大きなご愛を注いでくださる。「何も心配するな」とおっしゃるのです。

「マタイによる福音書」6章28節から30節までを朗読。

ここに「ああ、信仰の薄い者たちよ」とあります。これをしっかりと心に刻んでおいていただきたい。このとおりであります。講壇に生けられているきれいな花でも、これは神様が装ってくださる。神様は「これは店先で売るにはちょっと安くなりそうだから少し色を抜いておこう」とか、そんなことはなさらない。安かろうと高かろうと、徹底して神様は惜しみなくご自分の力を注がれる。それは、ご自分の名誉のため、栄光のためなのですから、決していい加減なことをなさらない。

先日もある番組を見ていましたら、韓国の町に行く旅番組がありました。韓国の人間国宝的な陶芸家のうちに行きました。たまたま窯出しという、焼き上げた陶器を出すところへ遭遇するのです。それでどのようにするかと見ていると、出てくる物、出てくる物、その人が割るのです。「あら……!」と日本人のレポーターの人は「もったいない」と言う。陶器を惜しみなく割る。「どこがいけないのですか? 」「色むらがある」と、何かちょっと気に食わない。それでその方が聞いたのです。「全部の中でどのくらい残りますか? 」と「10個のうち2個か3個しか良い物はない」と。あとは全部たたき割ってしまう。なぜならば、下手に傷物を出したら、その作家、陶芸家の名に傷がつくじゃないですか。たった一つでも評判を落としたならばとんでもない不名誉なことですから決していい加減にはしない。だから、他の人に任せません。直接その陶器師の方が全部一つ一つ手に取っては判定するのです。大雑把に下の者にやらせておいて、その後で自分が適当にというようなことはしない。なぜならば、自分の陶芸家としての名誉や命がそこに掛っているからです。

ましてや、神様は私たち一人ひとりをご自分の栄光のためにお造りになったのです。だから、何としても素晴らしい神様の名誉になるようにしたい。今のままで神様の作品と言ったら、たたき割られて当然だった。ところが、神様は私たちをもう一度造り替えて、神様の喜ぶ作品、神様の御心にかなう者に私たちを造り替えるためにあがなって罪を赦し、ご自分のものとしてくださった。だから30節に「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」と。神様が私たちにいちばん善いことをしてくださる。だから、神様の手に自分を捨てて丸投げしていくこと。自分の仕事も、自分の生活も、自分の老後も、自分の健康も、自分の何もかも、これは全部神様、あなたの手に握られていること。「神様、どうぞ、あなたの手に握ってください。あなたの御心のままに私はお従いしてまいります」と、神様の手に委ねてしまう。そのために十字架が立てられたのです。イエス様は命を捨ててくださった。それは私たちが父なる神様に心からご愛に信頼することができるようにしてくださった。もう一度「今私は何を信じているのだろうか?本当に神様を信頼しているのだろうか」。殊に、いろいろな事に当たって、問題を解決して行こうとするとき、私どもはすぐ己(おのれ)が出る。たとえ自分の問題ではなく、家族に問題があってご覧なさい。「それじゃ、私がやってやるわ」と、おじいちゃんおばあちゃんが出なくてもいいのに出てくるじゃないですか。息子の話などに母親がしゃしゃり出るじゃないですか。そんなことをしたって何も役に立たないのです。神様が主なのですから、「わたしが主である」「今より後もわたしは神」とおっしゃるのです。神様が私たちを徹底して握ってくださるのです。

「歴代志下」25章7節から9節までを朗読。

これはアマジヤという王様の時代であります。ユダの国の出来事ですが、アマジヤという王様は25歳で29年間王の位にとどまった人物だといわれています。そして、この王様は大変信仰深い人物で、神様が「良し」とおっしゃるところに従う。しかし、徹底して信仰に立つことができなかったのです。2節に「アマジヤは主の良しと見られることを行ったが、全き心をもってではなかった」と記されています。彼は取りあえず神様を大切にする、神様が良しと見られることをまんべんなく、そつなくしていたのですが、彼の心が「全き心」、100パーセント神様に信頼したわけではなかった。どこか私たちと似ているところがある。私どもも信仰をもって、神様を信じているようだけれども、肝心なところではチョロッと神様から離れて行きやすい。全き心になりきれない。だからといって、アマジヤ王様は神様から嫌われたわけでも離れたわけでもない。ちゃんと神様が「よし」とおっしゃることはやっている。ところが、自分の国に戦いがあったときに備えて、どのくらいの人数が集まるか、彼は調べてみました。ちょっとそこを読んでおきたいと思います。

「歴代志下」25章5節6節を朗読。

神様を信頼してはいるけれども、「もし敵が攻めてきたらたたけるだろうか」と、まずもって国の戦力を調べてみたら30万人くらいの人しかいない。「これじゃ、ちょっと心もとない。何とかこれをしよう」と、彼は銀百タラントをもってイスラエル国のエフライムに住む人々10万人を雇うわけです。傭兵(ようへい)にする。何か事があったらこれで戦いに出ようと準備していました。これはある意味では、この世的に言うと「実に先見の明がある賢明な王様」と言えば言えます。平和な時から既にその備えをしていく。「こうしておけば大丈夫」。皆さんでもそうだと思うのです。「今のうちにこれをして、あれをして……」「これじゃ足りそうもないから、もう少しこれを蓄えて」と、この時のアマジヤもそういう思いで銀百タラントをもって10万人の兵隊を雇ったのです。そのときに神の人が彼の所へ来た。7節に「王よ、イスラエルの軍勢をあなたと共に行かせてはいけません」。いうならば、雇った10万人と一緒に戦いに行くようなことをしてはいけない。それを使ってはいけない、と言ったのです。その後に「主はイスラエルびと、すなわちエフライムのすべての人々とは共におられないからです」と。雇った10万人をあなたが使うならば、神様はあなたを見離すに違いない。その傭兵10万人と神様は共に働くことができない。確かにそうだと思う。人の知恵、人の業、それをもって神様を助けてあげようなんて、そんな神様をないがしろにするような、軽んずるようなことは許されない。これが神の人が伝えたことであります。だから8節に「もしあなたがこのような方法で戦いに強くなろうと思うならば、神はあなたを敵の前に倒されるでしょう。神には助ける力があり、また倒す力があるからです」と言われたのです。そのとき9節に「アマジヤは神の人に言った、『それではわたしがイスラエルの軍隊に与えた百タラントをどうしましょうか』」。このアマジヤという人は私たちによく似た人です。そんなに言われたら怖くなって「10万人雇ったのだけれども、これはもう帰そう。戦いに使わないでいいから帰そう」と。「帰すはいいけれどもせっかく払ったあの百タラントはどうなるだろうか」と。皆さんもそういう経験があると思うのです。「せっかくあそこまでしたのに、しなくていいと言われたら、もったいない。あれを何とか取り戻さなければならない。どうやったら戻ってくるだろうか」と。アマジヤもそういう考えでした。そのとき神様は、9節の後半に「神の人は答えた、『主はそれよりも多いものをあなたにお与えになることができます』」。神様はそれよりももっと多くの物をあなたに与えることだってできるのですよと。私は思いますが、合理主義という考えが私たちの中にある。できるだけ少ない労力でより多くの効果を得たい。そのためにはどうするかと考えます。神様を信頼していくとき、案外と無駄なように思えることがいくらでもあるのです。回り道といいますが、でもそれを通ることのほうが実はいちばん恵み豊かな道筋です。このときのアマジヤは「神様が付いてくれることは有難いことや、それで費用が軽減されて出費が少なくなるのだったらそれは助かる。神様が付いていてくれるなら十万人帰してしまおう。でも使った百タラントはどうする? あれは返ってこないがもったいないことをしたな。あれを何とか取り戻す方法はないだろうか。せっかくならそれを使ったほうがいいのではないか」と考える。そのとき、そこに神様が働いておられることを忘れている。たとえ百タラントを捨てることがあっても、神様はそれを倍にしようと、幾らにでも大きく満たすことがおできになる御方。どこまで私たちが神様を信頼しているか。

「ローマ人への手紙」8章32節に「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。「御子をさえ惜しまないで死に渡された」。言い換えると私たちを限りない愛をもって愛してくださる神様が、どうして私たちの小さな日常生活を養われないことがあるでしょうか。このアマジヤのように神様を信頼するはいいけれども、どこかでいよいよというときに神様を離れてそろばんずくになろうとする。

私がこちらへ遣わされてしばらくして、家内がどこか海外へ何かの都合で行かなければならなかったのです。それで父にそのことを相談しましましたら「行ってきなさい」と言う。それで家内はいろいろとインターネットなどで調べまして、この時期にこの費用だといちばん安い。だから、このときに行ったほうがいい。それで父の所へ来て「お父さん、良い方法が分かりました。実はこの時だとこれこれの値段で普段よりも安く行けますからこの時に行こうと思います」と言ったのです。すると父が「文子さん、神様は必要ならばどんなことも満たすことができる。安売りだから行こう。普段は高いからやめておこうと、そんなことは関係ない」と言われました。家内は喜んでもらえると思って「こんなプランで行けます」と言ったのですが、父から一喝です。

確かに合理的に考えることがベストだと思いやすいのですが、そこに神様の働き給うこと、神様の備えられる時があり、事があることを忘れている。

32節に「御子をさえ惜しまないで」と、ご自身の尊いひとり子すらも惜しみなく十字架に釘付けなさった神様が、あなたが求めている小さなことすらも「それはできんよ」とおっしゃるはずがない。いや、願うよりも思うよりももっと多くのものを与えることができないことがない。アマジヤが百タラントを惜しんだ。それに対して神様は「それよりも多いものをあなたにお与えになることができます」と。誠にそのとおりです。神様に信頼していく。だから「御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」です。

もう一度「いま私は神様にどう信頼しているか。何を期待しているか。その神様はどんな御思いをもって私を扱ってくださるか」。十字架の主を仰いでいこうではありませんか。イエス様が私のために命まで捨ててくださった。そこまでしてくださった神様が今日もわたしに生きる力を与え、糧を与え、生活の場を与え、仕事を与え、ことごとくをご存じで御手のうちに導いてくださることを感謝し、喜んで主の手に日々委ねていきたいと思う。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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