いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(495)「神の子の力」

2015年03月11日 | 聖書からのメッセージ
「ヨハネによる福音書」1章9節から13節までを朗読。

 24節「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。

 聖書には『創世記』という、旧約聖書の初めに万物創造の記事があります。これは聖書の根本土台、ひとつの方向付けといいますか、基礎であります。それはまた私たちの存在、生きることの根本の土台とも言えます。まず、神様がおられた、ということが全ての中心です。神様がおられて、その後に全てのものが神様によって創(つ)りだされた、このことがいろいろな形を変え、状況、条件を変えながら、いろいろな形で語られているのが聖書の世界であります。神様が根本にあって、その後、私たちの生活から、ありとあらゆる全てのものが神様のご支配の中に置かれている、と徹底して語り続けられています。
その中でまず人が創られたことについて神様は語っておられます。森羅万象、ありとあらゆるものを創られて、最後のわざとして人を創られたのです。人をお創りになられたとき、他の被造物、森羅万象、木々や動物、生きとし生けるものの創造とは全く違った方法を用いられました。それは土のちりで人のかたちをまず造られました。それまでは全てのものが神様の言葉によって造られました。「光あれ」と言われたら光があったというように、天と地を分け、そこに全てのものを言葉によって存在させています。ところが、人に関しては違っています。土を取って形を造り、なおかつ「そこに命の息をその鼻に吹きいれられた」(創世記2:7)とあります。そればかりか、「われわれのかたちに、われわれにかたどって」人を造ろうと言われました。これは他のどんな被造物にもない決定的な違いです。だから、 “人間は万物の霊長である” よく言われるように、全ての被造物の頂点に立つ者として神様が人を創ってくださった。しかもその人は「他の動物とは違うものとして造られたものである」と語られている。その後、進化論であるとか、いろいろな仮説が立てられ、「人間も動物も同じだ」と一緒くたになりますが、しかしそれはあくまでも仮説であります。決して何もかもきちんとそれで説明がつくわけではありません。進化論が出たからといって、聖書が否定されるわけでも何でもありません。それと聖書の語っていることとは全く違う事であります。ですから、聖書のお言葉に従うならば、「私たち一人一人が実は神のかたちにかたどって造られた」と宣言されている。そして創られた者がエデンの園に置かれました。エデンの園での生活は、神と共に生きる生活です。神様と人との間に何一つ妨(さまた)げるものが無い。いうならば、裸の付き合いといいますか、全く裸で恥じないというわけです。だから、「恥ずかしい」とか、「これは隠しておきたい」という思いを、つい私たちは持ちますが、かつて人はエデンの園に置かれたとき、まさに神様と裸の付き合いです。裸の付き合いができるのは、親子でもあります。そもそも神様が私たちを神のかたちにかたどって、似た者にしてくださったのは、ご自分に最も近しい者、親しい者として人を造ってくださったことに他なりません。敢えて言うならば、ご自分の子供として私たちを造ってくださった。世間でも “親に似ぬ子は鬼の子”と言いますが、大体子供は親に似るものです。いくら「似てないね」という親子であっても、やがて似て来ます。私も年を取って来るとだんだんと「親に似て来たな」と、殊に「悪い所が似たな」と思ったりしますが、確かに似るものですね。恐らく皆さんもそういう思いを深くしているだろうと思います。地下鉄で座っていますと、向かい側の窓ガラスが鏡のようになります。座ってホッと前を見ると「何か見たような人が……」「見たことがあるな」と思って見ると「親父に似ているな」と思う、そういう自分がいます。だから、子供は親に似るものです。神様が「われわれにかたどって人を造ろう」と言ったとき、それは神の子供として、しかも愛する者(対象)として造る。私は子供を育てた経験がありませんが、結婚して子供ができたとき「よし、この子を将来俺の奴隷にしてやろう」と思って育てる人はいないでしょう。「こいつを将来しっかり働かせて俺は左うちわで過ごせるように、そのためにこいつを育ててやろう」と思ったことはないでしょう。ただ可愛い、愛する者として子供を育てるものです。教会に来られる若いお母さん方が一生懸命に子育てしている姿を見ていると、「よくあんなことまでできるなぁ」と思うぐらい、昼も夜も子供の世話をしています。「何の見返りがあるのかな」と思う。やがて、悪態をつくようになるでしょう。「くそばばあ」と言われるに違いない。そのうち「どうして私を産んだんだ」などと言い出す。やがて「こんな家になんかおられん」と言って飛びだして行く。そういう過程を取るだろうと、見えているのですが、若いお母さんたちはそんなことは分かりませんから、ひたすら可愛くて、愛するゆえにその子供を育てます。

神様が私たちを創られたのは、私たちを神様の奴隷として、使い走りをし、何かの役に立てようと、そういう目的ではありません。神様は「ご自分の栄光のため」に造られたとあります。「栄光のため」とは、神様の素晴らしさをあらわすことです。神様たる由縁(ゆえん)を子供を通して証ししようとなさるのが、人を造られたご目的であります。だからご自分のかたちにかたどって人を神に最も近い者とされたのです。詩篇8篇には「ただ少しく人を神よりも低く造って」とあります。決して神様と同じものではありません。私たちが神様になるわけではありません。しかし、神様のほうが私たちをご自分に近いものとして取り扱ってくださいます。そういうものとしてくださる。それが人と神様の関係であります。しかも、人が創られたとき「命の息を吹きいれられ」とありますように、人間の親子関係のような、肉的な関係で造りだされたものではなく、神様からの命、霊的な目に見えないものをもって、人が神に近いものとして創られた。これが人の創られた姿です。私たちは土で造られた者でありますが、土に属する者としてではなく、神様の霊に満たされた者として、霊によって生きる者として造られ、神様に結び付く者とされたのです。だから、神様と私たちが親子の関係にあるというのも、人間の親子関係のようにドロドロとした親の情、子の情けといいますか、情欲・情動によって結び付いた関係ではありません。霊的な神様とのつながりの中に人は置かれていました。だから、神様はエデンの園に置かれたとき、「してはならない」という禁止条項を設けました。それは神様との霊的な関係、約束としての関係を現すものです。その関係を明らかにするために一つの禁止条項を置いているのです。「これを守りなさい」という神様のご命令に対して、人が神様を大切にし、自らの自由意思をもってそれを守ることによって、神様との間に霊的なきずな、つながりが完成するからです。そういう形に神様は人を創ってくださいました。ところが、ご存じのように、へびの誘惑、サタンの誘惑に負けて人は神様とのつながり、親子の関係を壊してしまった。肉にある親子関係では、少々事があろうと、結局は「親やないか、子やないか」とあいまいになる、どこかそういう所があります。出来損ないの息子であろうと、娘であろうと、親にとっては「私の産んだ子」という血のつながりです。よく言われますけれども“血のつながり”ほど汚いものはないともいいますが、神様とはそういう関係ではない。これが大きな違いであります。それで、私どもは、神様との霊的なつながり、祝福に満ちた神様との交わり、栄光の器として神様に愛される存在でした。その関係が壊されて、残ったのは人間の情動、血のつながりといいますか、そういうものだけで人が生きる者となってしまった。
これは人として決して幸いな生き方ではありません。やがて彼らはエデンの園を追放されました。その後、まさに神なき世界に人は生きる者となってしまった。あるのは「肉の力」、いわゆる血のつながりといいますか、ドロドロした関係の中で人は生きるようになり、やがてカインが弟アベルを殺すというような凄惨(せいさん)な悲劇的な現実に人は生きるようになった。ところが、人をお造りになられた神様はご自分のかたちにかたどり、命の息、霊をもって私たちを生きる者としたことを惜しんでくださる。私たちの罪のゆえにエデンの園から追放され、永遠の滅びに定められたのですが、しかし、何としてもそれを惜しんでくださいました。滅ぼすことを良しと思わない御方です。それはなぜか? 愛だからです。理由はそれしかない。神様は背いた者を一潰(つぶ)しに潰して、造り替えることだっておできになったわけですが、そうするならば、神様はご自分を否定してしまうことになります。神様がご自分にかたどった者が罪を犯したから捨ててしまうならば、ご自分の不名誉なことであります。それどころかご自分が愛する対象として造られた人ですから、何としてももう一度回復しようとなさいました。失った楽園を取り戻すことを、神様は創世の初めからご計画してくださったのです。神様との関係を取り戻す、すなわち、私たちをもう一度、神様との親子関係に立ち返らせてくださる。聖書を読みますと、父親と息子という関係のたとえがよく出てまいります。その意味合いは、人と神様、これが親子の関係にもう一度きちんと整えられることを願っているからです。

「エペソ人への手紙」1章3節から5節までを朗読。

4節「みまえにきよく傷のない者となるようにと」、いうならば、神様が私たちの犯した全ての罪を清めて、「天地の造られる前から」、私たちがこの地上に命がなかったとき、まだ姿も形もなかった前から、やがて生まれるであろう私たちのために「キリストにあってわたしたちを選び」と、キリストによって私たちを神の子にしようと決めてくださった。ご計画してくださった。5節に「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」と。素晴らしいですね。イエス・キリスト、やがて遣わされるはずの救い主イエス・キリスト、神の御子ご自身をこの世に遣わして、私たちをもう一度神の子たる身分、神の子としてくださるために計画し、私たちを選んでくださった。それは「御旨のよしとするところ」、それを神様の喜びとしてくださった。神様がうれしい、そうなることを切なる願いとしてくださった。これが「御旨のよしとするところ」です。神様は私たちを愛して「あらかじめ」、前もってそのようになるようにと「定めて下さった」。いま私たちはイエス・キリストを信じる者とされた。これは自分の努力や自分のわざによるのではなくて、実は生まれる前から天地の創られる以前から、神様が「この者をやがて私の子供にしたい」と決めてくださった。しかも、それは「愛の内に」とあります。神様は私たちを愛するがゆえに、であります。私たちを自分の奴隷、あるいは使役人のようにこき使うためにではない。愛のうちに、愛する者として私たちにその道をご計画してくださった。選んで、決めてくださった。「あらかじめ定めて下さった」。一方的ですよ、神様は。私たちに相談したわけではありません。「そのうちお前を救いにあずからせるけど、どうだろうか、良かろうか」なんておっしゃらない。愛するがゆえに一方的に神様はそのように定めてくださったのです。そのご目的は「神の子たる身分」、ここです。私たち一人一人を神の子にしようというわけです。それはかつて私たちが創られたエデンの園にあったときの神様との関係、そこに私たちを立ち返らせて下さるためです。新しくしてくださるのです。
そのことはイエス様が語られた「ルカによる福音書」15章にある放とう息子のたとえでもあります。息子は自分がもらうべき財産をもらって遠くの町へ出て行ってしまいました。好き放題使い尽して無一文になったとき、悪いことに飢きんになった。とうとう彼は豚を飼う者として雇われる。ところが、豚のえさすらも食べたいぐらいにひもじい生活、空腹を覚える。そのときつらつらと考えて、自分はいったいこんな所で何をしているのだろうか。お父さんの家にいたならばもっと豊かな生活が保障されていたはず。雇い人ですらも私よりももっと良い生活をしている。私は息子でありながらどうしてこんな者になったのだろうかと、彼はそこで悔い改めたのです。「本心に立ちかえって」とありますように、目が覚めて、「こんな状態になった最大の原因は自分であった」と彼は認めたのです。

私たちもそうです。かつて神の子供であった私たちがその身分を忘れてしまった。神様に似る者とされた神の子供であった者が、神様の子としての身分を忘れて、ただ人の子として生きている。肉にある関係だけで生きる者となった。その結果、私たちの人生は余程バラ色かといえば、とんでもない、次から次へと悩みや悲しみや苦しみ、肉の様々な責め苦の中に生きている。そういう中を通して、あの放とう息子がそうであったように「本心に立ちかえって」、悔い改めて、神様に立ち返る道を備えてくださった。そもそも人は神と共に生きる者として、エデンの生活、何一つ不自由のない神様の恵みの中に生きる者であったそこにもう一度帰って行く。これが私たちに与えられている救い、また私たちが求めているもの他なりません。

「ヨハネによる福音書」1章12節に、「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には」と、ここに「彼を受けいれた者」、イエス・キリストを私の救い主と、私の罪を清めて神の子供としてくださったと、イエス・キリストを信じる者が「彼を受けいれた者」です。「イエス様は私の罪のためにこの世に下って、十字架の責め苦を受け、命を絶たれ、墓に葬られ、三日目によみがえって、今も私と共におられる」ことを信じる。これが「彼を受けいれた者」ということです。そして「すなわち、その名を信じた人々には」「名を信じる」とは、イエス・キリストを救い主、私たちを救ってくださる御方と信じる。私たちの罪を清めて永遠の滅びから救い出してくださるばかりか、日々の生活のどんなことの中にもそこによみがえって、共にいてくださる。病気であろうと、病気を癒すことがおできになる。人間関係で悩んでいるなら、主に立ち返って、イエス様にすがって行くならば必ずそこから道を開いてくださる。どんなことにも、主でいらっしゃる御方を認める。「その名を信じる」というのはそういう人々です。イエス様のことは知っているが、しかしやっていることは自分中心、自分の好きなように自分の計画に従って、自分、自分で肉にあって生きているかぎり、イエス様の名を信じる、受け入れることにはなりません。どんなことにもイエス様が主になってくださる。これが「その名を信じた人々」です。その人には「彼は神の子となる力を与えたのである」。「神様の子となる力って何だろう? 」と思う。これは聖霊です。神の御霊が私たちのうちに宿ってくださる。御霊が私たちのうちに宿ってくださるのは何のためか? 私たちを神の子に造り替えてくださる。神の御霊が私たちのうちに宿ってくださるとき、エデンの園に神様が置いてくださったときのように、人が神と共に生きる者と変えられるのです。

「ローマ人への手紙」8章12節から17節までを朗読。

14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」と。神の子はどういう人か? それは「御霊に導かれている者である」と。先ほどの「ヨハネによる福音書」1章12節のお言葉には「神の子となる力を与えたのである」とあります。その「力」は「神の御霊」です。いま私たちにキリストの霊を注いでくださった神様は、その霊に従う者をして神の子にしてくださる。神の子に造り替えてくださるのです。霊を受けた私たち、聖霊が私たちのうちに宿ってくださった、それはまだ出発点であります。大切なのは、内住してくださるキリストの霊に私たちが従って行くことです。日々の生活の一コマ一コマ、なすべき業の一つ一つで御霊に従う。聖霊の導かれる所に従うことによって、神の子としての内実、内容が整えられていくのであります。ただ単に「キリストの霊が私のうちに宿ってくださった。万々歳」と安どして、「後は私は知りません」というのでは、御霊の実を結ぶことができません。神様は肉にある私たちをキリストの姿かたちに似る者へと造り替えて下さる。私たちの模範となる長男はイエス・キリストです。私たちは兄弟でありますから、親子も似た者でありますが、兄弟だってお互いに同じ親ですから似る者となる。イエス様が神の子と呼ばれるならば、私たちも神の子であります。ということは、私たちはみな兄弟姉妹です。だから「兄弟姉妹」と言うでしょう、教会では。よその人が聞いたら「何のことかな? 」と。「え!あなたがたは兄弟だったのですか、名前が違う、異母兄弟ですか? 」なんて尋ねられるかもしれません。しかし、そういう肉の兄弟ではありません。霊にあって一つです。キリストが私たちのうちに宿ってくださる。ですから、私たちはみなキリストを模範として、長男のお兄さんに似る者、兄弟はみな似る者となって行くのです。だから、14節「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」と。神様の霊に私たちが常に従って行く。これが神の子となる力です。私たちは自分の力で神様らしい人間に、神様に似る者になろうとどんなに磨きを掛けようと、何もできません。私たちを造り替えてくださるのは神様の力です。その神様の力はまさに聖霊です。霊が私たちのうちに働いてくださるとき、私たちを自分では成り得ない、自分では変わりようのない自分に全く変わっていくのです。これがキリストの霊の働きです。15節に「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである」と。ここにも「子たる身分を授ける霊」とあります。私たちをして神の子供に造り替えてくださる霊、言い換えると、力を神様は私たちに与えてくださる。ですから、私たちが愛せない人がいる、あるいは受け入れることができない人がいる。「あいつさえいなければ」と思う自分の心がどうしても変われない。そのとき神様の霊に自分を委ねて行くとき、愛せない心が愛せる者に変わっていくのです。自分の力ではどうにもならない者がイエス様の力に頼るとき変わっていく。もっとも「あいつは憎たらしいから私は変わりたくありません」と言う人は論外ですが、しかし、いつも人を憎んだり、あの人がチクチク心に引っ掛かったりすると、自分自身が苦しいでしょう。優柔不断な自分、あるいはしようと思ってもできないでいる自分、いろいろな意味で自分の不足を感じます。それで何とか頑張ろう、と思って自分を励ますけれども、所詮(しょせん)肉の力は何の役にも立ちません。「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)と主は言われます。キリストの霊を頂いて「イエス様、私はこんなです。どうぞ、私の心を造り替えてください」と、祈って求めてご覧なさい。私たちの心を造り替えてキリストの思いに一つとしてくださる。常にキリストを心に思って行きますとき、私たちは神の子です。そうすると、今よりもっと美しく変わるのです。だから、私たちは「子たる身分を授ける霊を受けたのである」。そして「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」。その御霊が私たちをして父なる神様を心から信頼する神様の臨在に触れる者にしてくださる。「なるほどここに主がおられる」、「神様がここに働いてくださっておられる」と言い得るのは、霊の働きによるのです。そのために私たちのうちにキリストの霊が宿ってくださっておられる。それがまさに「彼を受けいれた者」といわれている事です。「その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。16節に「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」。人からではないのです。私たちの心のうちに「本当に神様は私を子供としてくださっておられる」、「天のお父様」と心から神様を信頼して祈ることができる。そして「神様はお父さんですから、私たちにいちばん良いことをしてくださる御方です」と信頼する関係、これがこの「神の子であることをあかしして下さる」ということです。これはうれしいことです。だからイエス様は「あなたがたの天の父は……」と繰り返し語っておられます。イエス様は「あなたの天の父が報いてくださる」(マタイ6:4,6,18)「あなたがたの天の父はあなたがたを顧(かえり)みていてくれる」と(マタイ 6:26以下)、何度もイエス様は「あなたがたの天の父は……」とおっしゃる。私たちは肉の父ばかり求めるから失敗する。イエス様は「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:9~)と。「私は神の子です」という自覚をもって、「天のお父さんは私の責任者」という、イエス様の霊を私たちは受けている。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」(Ⅰヨハネ 3:1)とあります。聖書には、何度「あなたは神の子だよ」と言われているか分かりません。神の子であることを宣言してくださるためです。「いや、神の子供というのは霊の子供であって、私のようなこんな肉体を持った……」などと拒みますが、イエス様はそのために敢えて人のかたちをとって世に来てくださった。肉にある人のかたちをもった者ですらも神の子たり得ることを証しするためです。だから、マリヤさんのおなかに宿ってくださって、この世に生きてくださったイエス様は、私たちと同じように肉にあって生きてはいますが、しかし、イエス様は宿っている霊に従って生きてくださった。だから、バプテスマを受けて水から上がったとき「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ 3:17)と父なる神様が宣言してくださった。ところがイエス様は荒野に導かれて試練に遭います。まさに、私たちと同じであります。

私たちも「神の子だ」と、イエス・キリストを信じて洗礼を受けて、神の子供にされたはずですが、それを忘れてしまう。そして世の中の様々な誘惑に負け続けています。ところが、イエス様はそこで勝利してくださった。「わたしはこのようにして勝つのだから、あなたも見習いなさい」と。イエス様は何によって勝利したか? 御言葉をもってサタンに打ち勝ったのです。私たちのうちに働いてくる悪の霊、サタンに対してキリストの霊に頼って、御言葉に立って反撃する。それが「御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。イエス様は「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5:19)と言われます。自分の力ではない、神様の力です。私たちもいま生きているのは自分の力ではなくて、神の子とされたキリストの霊が私を生きる者としてくださっている。パウロが語っているとおりであります(ガラテヤ 2:20)。

 「ヨハネによる福音書」1章12節に、「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。「神の子となる力」を受けています。その力を大いに振って、神の子にふさわしく、名実ともに整えられて主の栄光をあらわす者と変えられて行きたい。13節に「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」と。神様が私たちを神の子供として生んでくださったのです。神の子となる力を与えられている自分であることを堅く信じて、その力により頼んで行こうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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