いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(312)「試練をも喜びとし」

2014年09月05日 | 聖書からのメッセージ
 「ヤコブの手紙」1章1節から8節までを朗読。

 2節「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。

 「試練に会う」ことは誰だってうれしいことではありません。できるかぎりそれを避けて通りたい。試練は嫌なものだ、というのが世間の通り相場、多くの人がそう思っている事です。ところが、「それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」というのですから、これはちょっと意外な言葉だと思います。「非常に喜ばしいこと」、なぜ喜ばしいのか。3節に「信仰がためされる」とあります。私たちはイエス様の救いによって神様を信じる者とされ、神様のもの、神の子と言われて、素晴らしい身分としていただいています。ところが現実の生活で、私たちが神の子であることは、なんのご利益もありません。世間で「あなたは神の子でいらっしゃいますか。じゃ、ひとつこちらへどうぞ」と特別席に入れてくれるわけではないし「あなたは神の子ですか、では入場料はただですから、どうぞ」と、そういう特典もありません。むしろ老人手帳のほうが有益かもしれません。だから、自分がそういう信仰を与えられていることの喜び、言うならば、ご利益はいったい何だろうかと思ってしまいます。
信仰が必要な場面はどういう時かというと、まさに試練に遭ったときなのです。物事が順調で思いどおり願いどおり事が進んでいるとき、案外信仰を実感していない、忘れたわけではないが、取りあえずちょっと棚に仕舞い込んで……、という状態になりやすい。何か問題があると熱心になって祈りますし、心の大嵐を静めたいと願いますから、せっせと集会にも励み、お話を聞くにも真剣になります。眠っておられないという感じです。ところが事がうまくなってくると、だんだんと心が「まぁ、いいか。ああ幸せや、私は」と思ってしまい、私たちの思いが神様から離れていってしまう。

私はこうやって牧会伝道をさせていただいている中で、そういうケースに時折出会います。熱心に、礼拝のみならず伝道集会、祈祷会にと欠かさず来ておられる方がいると思って話を聞くと、家庭に一つの問題、悩みがある。それで一生懸命に励んでおられて、しかもご夫婦そろって来られる。私は感心しまして、こんなに求める方がいるなんて……と、随分こちらも励まされて力が入り、お祈りをしていました。半年、8ヶ月ぐらい続きましたかね。ある日曜日の朝、ニコニコしてお二人が来られた。話を聞いてみると「今まで悩みの種であったすべてが、先生、神様の恵みによって全部解決しまして、本当に久しぶりに心が晴れた思いがします」と言ったきり、その次の週からパタッと姿かたちが見えない。私は“来る者は拒まず去る者は追わず”であります。神様のなさることだから、きっとまたその時になったら、神様は捕らえてくださるに違いない。その姿を見ながら、その人だけの問題ではなく、私もそうだろうと思うのです。私たちは皆同じです。どこかで自己本位と言いますか、自己中心です。「神様だ」と言いながら、神様を中心にしない。だから繰り返し神様は「わたしは主である」と言わなければおれないのです。私たちはいつも「自分が主だ」と思っていますから、自分の都合の良いようになったら、気持ちも変わってしまう。

ところが、いろいろな試錬に遭うことは、その意味において、私たちの信仰という面を見るならば、これほど幸いな時はないと思う。だから2節に「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」と言われる。なぜなら、その後に「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである」。信仰と忍耐は一体のものです。「主を待ち望め」と言うでしょう。待ち望む、期待するとは、じっと待つのです。犬がえさを目の前にして食べようとすると、飼い主から「待て!」と言われる。すると犬はよだれをたらし、じっと見ながら待つでしょう。私たちが主を待ち望むとはここです。神様が「食べよ」と言われる時まで待つのです。信仰は忍耐です。だから忍耐と信仰は同義語、同じものと考えたらいい。信仰があるとき、私たちは忍耐できます。だから、なんかいらいらして、焦(あせ)って「早く何とか、早く」と焦る気持ちが心にワサワサしているとき、信仰が消えかかっているときだと判断したらいい。自己診断の一つの規準です。「早くせんと間に合わんかもしれん。あれもしなければいけない。これもしなければいけない」「どうしているのだ!あの人は、こんなに遅くなって」と、イライラとしているとき、忍耐ができないでいる。そのとき、信仰が薄らいでいると言いますか、神様に望みが置けなくなるのです。自分の手で何とかしようと走り出す。「イザヤ書」30章にあるように「われわれは馬に乗ってとんで行こう」、更に「速い馬に乗ろう」(16節)と、穏やかにより頼んで落ち着いていることができない。これが不信仰の証詞です。だから、3節に「信仰がためされる」ことが大切です。試練がないと試すことができません。いろいろな問題や事柄に遭うと、祈らなければおれない。御言葉を求めなければじっとしておれない中に置かれます。だから、神様は私たちを様々な問題や事柄の中に置かれるのであります。その問題や事柄を通して初めて自分に信仰があるのかないのか、自分にとって信仰はいったいどういうものであったのか、赤裸々に目の前に見えます。順調で事もないとき、物事が思いどおり願いどおり進んでいるとき、「感謝、感謝」と言っていますが、いざ問題が起こったときに、どのように神様に求めていくのか。実はこれがもっとも大切なことなのだと思うのです。

病気で入院される方のために祈ることはこのことです。何とかその病を通して神様に近づくことができるようにと。なぜなら、試練に遭った場合、これが最高の恵みなのです。私たちは悩みに遭うと、神様から離れやすい。時にはそういう方がいます。先ほどお話しした方は悩みがあったから一生懸命に主を求めました。その結果、神様がその悩みを取り除いてくださったと同時に、神様を離れて行きました。逆に一生懸命に励んで、順調なとき、物事がうまくいっているとき、一生懸命に教会に来ているのですが、ある時パタッと来なくなる。いつも冬になると、その方は「私は今から冬眠します」と言って教会をお休みになる。高血圧だから寒い時に出歩いてひっくり返ったら困るから、12月のクリスマスを最後に、「これから春まで冬眠」とか言って来ない。そのうちどうも入院したらしい、という話が聞こえてくる。私も心配になって「どういうこと?」と聞いたら、「いや、実は『黙っとけ』と言われたんですが、これこれの病院に入院している」「どんな病気ですか?」「それが、すい臓がんですよ」「それは大変じゃないですか」。でも本人から「来てくれ」とも言われないのに押しかけるわけにもいかないし、「先生には、言うな」と言われているのに、「聞いた」と言ったら、言った人も気の毒だし、悩みます。どうすべきかと、私は3週間ぐらい祈って、やはり放っておけないから、あるとき、病院へ出かけて行った。「追い返されてもいい」と思って行きました。すると病室は4人部屋ぐらいだったと思いますが、扉の入ってすぐの、今でも忘れませんが、左側のベッドに眠っておられた。手術の後でしたから、いろいろな管が付いていました。名前を呼びました。パッと私の顔を見るなり、「ワーッ」と泣かれたのです。「しまった。やはり来てはいけなかったのだ」と思った。私も来た以上、今すぐに帰るというわけにもいかないし、ちょっと様子を見ておこうと立っていました。しばらくして、泣き終わって「うれしい!」と言ったのです。「ああ、良かった」と。ホッとしました。「まさか、先生が来てくれるとは思わなかった」と。「『思わなかった』と、あなたが『来い』と言わないからよ」と言ったのです。「誰にでもいいから『来てくれるように』と伝えてくれればすぐに来るのに……」。そうですよ、皆さんも来てほしいときには「来てくれ」と言ってください。そうでないと行かれませんから。今も入院している方がいますが、「行きましょうか」と言ったら「来ないでくれ」と言うから、私は行かないのですけれども……。その姉妹は大変な苦しみの中におられたのです。もっと早くに神様のところへ来て、与えられている問題、試錬といわれる事を、神様と私という関係の中でとらえ直すことが必要です。神様抜きで、この世の人と人との関係の中で、自分のそういう問題を握っているかぎり、そこには解決がありません。

そういう重篤な病気になりますと、「どうしてこうなったのだろうか。私だけがこんなひどい病気になって死にそうだ」。そうすると「何かいい方法はないだろうか」「民間療法はないだろうか」「どこかにいい先生はいないだろうか」「『神の手』と言われる人はいないだろうか」と、探し回って、何とか手術をして、薬を使って、あれをして、これをしてと、言うならば、人と人との、この世の事に一生懸命になる。それで神様を忘れる。そうすると、その試練がいつまでも大きな重荷になってくる。人の心を押さえつけてくるのです。決してそこからは希望がわいてきません。確かに、何かすると、ちょっとした拍子に症状が軽くなったり、気分が変わったりして、先が開けたようなほのかな光を感じて、ホッとするかもしれませんが、また次なる心配がドーンと押し寄せてきて心を重くします。そういう人のわざの中で、人と人とのかかわりの中で、問題を処理したい、解決しようとする限り、いつまでたってもその悪循環から逃れられない。そこでもう一度、主に帰るのです。神様のところへ立ち返って、神様と私との関係の中でいま与えられている問題はどういうことなのだろうか、主を主とする、神を神とする姿勢に自分を置き直してみると、物事が違った角度から見える。そして「なるほど、これは感謝だな」と言えるものに変わっていく。

「ホセア書」6章1節から3節までを朗読。

1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。すぐ前の5章15節に語られているように、あまりにも神様の言う事を聞かないイスラエルの民、ユダの民に、神様はいろいろなことをして、何とか「神様に立ち返ったほうが幸いだよ」と呼び掛けるのですが、それに耳を貸そうとしない。それで、これ以上何も言うまい、黙っておこう、わたしはわたしの所へ帰っていようと、神様は心に決めなさった。5章15節の終わりに「彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う」とあります。そして6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」。きっと、彼らが悩みに遭い、試練に遭うに違いない。そのときに、神様を必ず求めてくれるに違いない。これが神様の御思いです。神様が私たちに試練をお与えになる一つの目的は、まさにここにあるのです。私たちがその事を通して主を求めることです。あるいは主に帰ること。私たちの思いを変え、自分のあり方、神様と私との関係をきちっと整えるために試練を与える。6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。今、受けている試練は神様から出たことであって、神様が私を打たれた、私をかき裂かれたが、その神様はまた癒してくださるに違いないと神様に期待していく。信仰に立ち返っていくこと、これを神様は私たちに求めておられる、願っていてくださるのです。その後3節に「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」。主のご愛と力と、主の御思いを私たちが深く知ることができる。これは試練に遭う者の恵みであります。だから、何か問題や試練に遭うとき、いよいよ熱心になって、神様を求めようではありませんか。順調なとき、事のないとき、物事がうまくいっているとき、一生懸命に神様を求めますけれども、試練に遭うときはなお更です。実はそれが恵みの時だからです。私たちに信仰を与え、更に新しい恵みの高みへと引き上げてくださる。そのための「時」であります。だから、神様は1節「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」と期待している。必ず神様は恵んでくださる御方だと、神様のわざに期待する。これがいま私たちに神様が期待されている事です。ところが、なかなか私たちはそこへ行こうとしない。そういう悩みにあったり、思い掛けない出来事や事柄に遭うと、すぐ神様を抜きにしてほかのものへと心を向けてしまう。神様はそのことを誠に残念だと思っているのです。どんなことがあっても、まず神様に立ち返ること。そのために神様はいろいろな問題や事柄に遭わせなさる。

「実地訓練」ということをよく言います。私は最近思いますが、信仰は本人が実際にそれに当たらないと、分からないのだなと思う。いくら言葉を尽くして説明して、分かったようであっても、やはり現実の生活の問題や事柄に会って、そこで聞いたことを自分で確かめていく。信仰を働かせると言いますか、応用する、用いていかなければ、それを知ることができません。だから、いくら言葉を尽くしても仕方がない。そのために神様が一人一人を導いてくださって、いろいろな事の中に置いてくださる。人は愚かな者だなと自分自身も含めて思うのです。と言うのは、実際にその事に当たって、そうなってみないと、知り得ないことがたくさんある。最近の若い人たちの生活ぶりを見ていてそう思うのです。いろいろなことを見ていると危うい。「あんなことをしていたら、きっとこうなるに違いない、ああなるに違いない」と、老婆心が先立つ。皆さんもそうでしょう。恐らくご家族の若いお孫さんや子供さんやそういう人たちのやり方を見ていると、「あんなことをしていて、大丈夫かな」と、つい一言二言と言いたくなる。でもいくら言っても分からないのです。これは仕方がない。だから、私も最近あきらめたとは思いませんが、ある種の悟りの境地です。言っても仕方がない。実際に自分がぶつからないと分からない。私はその様子を見ながら、神様も私たちを見てそう思っているだろうなとしみじみ思います。でも、行く所まで行って、転んでみたり、すりむいてみたり、痛い思いをして泣いてみると、何が大切で、何が本当に必要なものであるかが初めて分かるのです。そうやってぶつかって痛い思いをしたときに「やはり、こうでしょう」と一言言ってやると、スパッと悟られるのです。神様はまさにそうやって私たちを教育してくださっている。自分の思いどおり願いどおり、いろいろな事が順調に行ってほしいと思いますが、そんなことばかりやっていたら、私たちは神様のことを知ることができません。神様がどんな思いで、どんな大きなご愛をもって私たちを愛してくださっているか、そのことも実は問題や事柄に会うことを通して初めて知ることができる。

だから、6章1節「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。いろいろなことを通して初めて、それが分かる。だから、よく“子を持って知る親の恩”と言いますが、若いときは「親は私のために何もしてくれない」とか「あれもしてくれん」「これもしてくれん」「私はきっとまま子であろう」とか、ひがみ根性の塊(かたまり)になっていますが、やがて自分が親の立場になっていろいろなことをやってみると、自分に対して親がどんな気持ちであったか、どういう思いで接してくれたか、後になって分かるのです。そして、墓の前で泣いてみたりしますが、遅いのです。人と人との関係でもそうですが、まして神様は、私たちに神様の何たるかを深く知ってほしい。神様のご愛と恵みと、今も主の大きな御心によって、私たちがここに生かされていることを感謝してほしい、喜んでほしい。これは神様の願いであります。

だから、ヤコブの手紙1章2節に「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。私たちはいろいろな問題に遭い、あるいは様々な思いも掛けない事柄に遭う。これからまさにそういう日々に入ってくるに違いない。そういう年代になってきます。そのようなとき、一つ一つ与えられた事の中で、神様の御心、神様の御思いにつながっていくこと、その事を切に求めていく。「私は、もうこれで大丈夫」ということはないのです。私たちの信仰は卒業するときがありません。この地上の生涯の使命を終えて、神様の前に立つその日まで、私たちはなお主を知る恵みの時を、この地上にあって生かされているのです。だから、どんなことがあってもそこで信仰が試される。いろいろなことがある度ごとに、信仰に立って、主を求めていくこと。その後に「忍耐が生み出され」、4節には「だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように」とあります。神様は私たちを清め整えて、神様の恵みにあずかることができるようにしてくださる。

 「ヘブル人への手紙」12章5節から11節までを朗読。

 ここに神様は私たちを愛するがゆえに訓練をなさると語られています。私たちを試錬の中に置かれるのは何のためかと? 私たちを訓練し、整え清めて、完全なものになるように、栄光の姿を私たちの内に作り出してくださるためです。だから、いろいろな問題や悩みに遭うとき、一生懸命に神様を求めて、ただその問題が取り除かれることだけではなく、主を知ろうと、切に主を知ることで、神様との交わりをいよいよ深めていくのです。私たちは試練に遭ったり、困難に遭うと、早くこれから逃れたい、早くこの問題を解決してほしいと、そのことばかりに心がいきます。しかし、神様がその試練を与えているのは何のためか、私たちの内なるものを清めて、栄光の姿に造り変えてくださる。これが神様の最終目的であります。その栄光の姿にとは、私たちと神様が一つになっていくことです。言うならば、神様の霊に私たちが満たされて、神様と同じ思いに変えられていくことであります。10節に「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるため」とあります。私たちの益のため、私たちにとってよいことを神様はしようとしてくださる。これは世の人が善いということとは基準が違います。あるいは、自分が考えて、これは私にとって善いこと、私にとって利益となる、これは私の願っていること、私の好きなことですということ、それが善いことではなくて、神様が私たちに備えてくださること、私たち一人一人に神様が与えようとしてくださることが、実は最高にして最上のものなのです。だから、その私たちの益のため、私たちが喜び、感謝することができるように、しかも「そのきよさにあずからせるため」、神様のきよい者、聖なる者に、私たちも神の子にふさわしく、名実共に造り変えてくださる。そのために神様はいろいろな問題を起こして、そこで一生懸命に熱心に主を求める者とされるのです。私たちがいよいよ深く主に交わり、主を求めていきますと、神様からの霊が、聖霊が、御霊が私たちの内に働いてくださる。そして、「コリント人への第二の手紙」にありますように、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(3:18)。主と同じ姿に私たちを造り変えてくださる。「これは霊なる主の働きによる」とあります。神様の霊による働き、これが私たちを造り変えてくださる。霊の働きが私たちを造り変えてくださる。だから、ここにありますように「そのきよさにあずからせるため」というのです。だから、問題や悩みに遭うとき、いろいろな痛いことに遭ったり、苦しいことに遭ったとき、私たちは主を求める。神に立ち返って神様を求めていく。そして、主の霊に満たされ、主との交わりを欠かさなくなる。確かにそうですね、私たちは悩みに遭うと、一生懸命に祈らなければおれなくなります。そして各集会に励まざるを得なくなります。そうやって神様と交わって、深く主を知り、主を求めていきますと、主の霊が私たちの内にあって、私たちの思いを清めてくださる。私たちの考えを清めてくださる。心に平安を与え、望みを与え、私たちの思いを絶えず新しくしてくださる。ついには私たちの思うことが神様の御心と一つになっていく。そうすると、どんな境遇や問題の中に置かれても、絶えず喜びと望みと力が与えられる。その問題を問題としないでいくことができる。悩みの中にありながらも、もはやそれは私たちを損(そこ)なうことができないのです。これが私たちの受くべき、求むべき最終的な目的であります。

ですから、11節に「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる」と。「しかし後になれば」とあります。初めのうちはうれしくはないでしょう。初めから「先生、今度は良いプレゼントをいただきました。こんな大きな病気を……」と、大喜びをする方を見たことはないから、「当座は、喜ばしいものとは思われず」です。私もそう思います。けれども、その後に「後になれば、それによって鍛えられる者に」と。鍛えられるのです。そのことを通して整えられ、思いを清められて、神様の御心と一つに合わせられていくとき、そこにありますように「平安な義の実を結ばせるようになる」。泰然自若(たいぜんじじゃく)と言いますか、何が来ても動じない、動かされない。そういう不動のものとしてくださるのです。これが私たちの試練の恵みであります。

 「ヤコブの手紙」1章2節に「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。試錬から逃げないで、それを嘆(なげ)かないで、悔やまないで、そこで主に立ち返って、そこから「神様は何を私に与えようとしてくださるのでしょうか」と、神様を求めて、神様との交わりの中に自分を置いていきたいと思う。そして、内なるものを清めて、いよいよその忍耐力を働かせ、信仰を働かせて、内も外も清い者、神様の恵みに生きる者へと造り変えられていきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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