いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(221)「心を主に向けよ」

2014年06月06日 | 聖書からのメッセージ

 コリント人への第二の手紙3章12節から18節までを朗読。

 

 18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。

 この箇所に「顔におおいがかかっている」と語られています。モーセの記事を通してのことですが、旧約聖書の出エジプト記を読みますと、モーセが神様から招かれてシナイ山に登り、40日近くイスラエルの民から離れたことがあります。シナイ山で神様からの律法、戒めの言葉を頂いた。その代表が十戒と言われるものです。それを頂くにあたって、神様はモーセだけをご自分の所に招かれました。ほかのイスラエルの民は山のふもとから決して中に入ってはいけない。なぜなら、そこは神様の臨在、神様がいらっしゃる場所だから聖なる清い所であって、人がむやみに近づくわけにはいかない。というのは、神様は聖なる潔(きよ)い力ある御方ですから、私たちが「神様、ちょっと」と、友達のように近づくことができない。もしそうするならば、汚れた者である私たちは、即座に殺されてしまう。神様と人との関係はそのような相交わることができない厳しい関係なのです。

 

初めからそうではありません。皆さんもご存じのように、人は神によって造られて、エデンの園に神と共に生きていたのです。ところが、罪を犯した結果、人は神と共に住むことができなくなった。あるいは神様を直接見ることができない者となった。これは誠に人にとって不幸な出来事だったと思います。その後ズーッとその状態が続いているのです。ところが、神様はやがてご計画の下にイスラエルという民を興して、ご自分の救いを明らかにしようとなさいました。その具体的な一つの実験例と言いますか、実例として、旧約聖書が書かれているのです。神様がどのような思いをもって、ご自分の造った民、人々、人類を救いにあずからせるか、そのことが述べられているのです。しかし、だからといってイスラエルは神様の民ではありますが、神様の前に罪を赦された者ではなかった。ただ、神様はある選ばれた人たちだけを神様に仕える者として祭司の勤めを与えました。その中でも、モーセは神様に許された存在でした。モーセは40日間シナイ山にあって神様の臨在、神様との交わりの中にありました。これは最高の名誉、栄誉だったと思います。モーセは神様の恵みに満たされて山を降りて来たとき、その顔が輝いていた。神様の栄光の輝きで、太陽のように輝いて、罪ある人々は彼の顔を見ることができない。目がつぶれるといけないので、とうとうモーセの顔にハンカチでしょうか、布をかぶせて光を遮(さえぎ)るような状態だった。

 

そのことが今読みました12節以下に記されています。13節「そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない」とあります。なぜおおいを掛けなければならなかったのか?素晴らしい神様の恵みにあずかって輝いたモーセが真近にいるのだから、自分達も同じ輝きの中に入ったらよかったのですが、それが出来ない何かがあったのです。そのためモーセの顔に覆いを掛けるという行為になった。モーセの顔に覆いを掛けなければならなかった原因は民の罪です。私たちの罪のゆえに神様の栄光を見ることができない。その事はローマ人への手紙にも「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(3:23)と記されています。私たちは神様の力、恵み、神様の宝を受けることができない罪が、私たちと神様との間を阻(はば)んでしまった。完全に隔離されてしまった。これではいつまでたっても、私たちは永遠の滅びに定められたままです。ところが、神様はそのような私たちを憐(あわ)れんで、罪の覆いを取り除く素晴らしい恵みを与えてくださったのが、主イエス・キリストです。

 

だから、14節「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている」。「古い契約を朗読される」と言うのは、神様の律法の書を読んで、律法の書をいくら聞いても、神様の前にこうありなさい、こうしなさいと言われても人の罪は消えない。いや、それどころか、律法に従えない罪の姿があきらかになってくるのが現実です。私たちでもそうですね。自分でできない、守れない。律法の求められる標準に自分の力では達し得ない。それであるかぎり、いつまでも罪の覆いを掛けられたままで過ごすしかありません。だから、当時のイスラエルの民は神様の選びの民ではありますが、律法を聞く度ごとに自分たちの罪が明らかになることはあっても、それが消えることはなかった。では、何によって取り除かれるかと言うと、「それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである」。キリストにあってはじめてその罪の覆いが取り除かれる。これは素晴らしい恵みです。何をしても罪を消すことができない、取り除くことができません。どんな聖人君子と言われる人でも、人の目には立派な非の打ち所のない人物であっても、神様の目からご覧になったら、どこを取っても一つとして「よし」と言われるところがない。永遠の滅びで失望落胆するしかない。絶望のふちにあるではないかと、そのとおりです。ただ神様はひとり子を賜うほどの限りない愛をもって私たちを愛するがゆえに、イエス様をこの世に遣わしてくださった。罪のあがないとして十字架に釘付けてくださいました。イエス様は私たちすべての過去現在未来にわたる罪を一身に負うてくださって、父なる神様ののろいを受けて、罪を赦してくださった。このイエス・キリストに心を向けるとき、私たちの罪は消え去っていくのです。16節「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」。私たちの罪が取り除かれ、神様と直接相まみえる、顔と顔を合わせて主を見上げることができるのはイエス・キリストを通してしかあり得ない。イエス様が私たちの罪のあがないとなって十字架に死んでくださった。私たちが「感謝します、主よ、あなたは私のために命を捨ててくださった御方です」と、信じて心を主に向けることです。心が主に向くとは自分の罪を認めることです。本当にどうにもならない自分であること、かたくなであり、強情、従い得ない者、自己中心であり、自分の利益を求め、自分の楽しみのため、自分の名誉のため、自分のメンツのため、自我のために生きていることを認めて、神様の目的にかなう者に変えていただく。「主よ、憐れんでください」、「イエス様、どうぞ助けてください」と、私たちが主にすがること、これが心を主に向けることです。「あなたこそ生ける神の子、キリストです」とペテロが告白したように、イエス様を「あなたは私の主、救い主です」と信じて、「あなたの十字架によって今日も私は罪を赦された者、赦され、生かされている私です」と感謝して、主に心を向けるときに、私たちの心の覆い、罪は消え去っていく。取り除かれるのです。私たちの罪は自分で取り除くことはできませんが、神様がそれを取り除いてくださるとき、これはきれいになる。

汚れたシャツや下着が勝手に洗濯機に入って自動で洗われて、朝見たら「あ、きれいになっとった」となれば、こんな楽なことはありません。しかしいくら自動洗濯機であろうと、そんなことにはなりません。やはり、人がちゃんと汚れものを洗濯機に入れて、洗剤を入れ、洗ってやったらきれいになる。同様に、私たちも自分の力ではきれいになれない。では誰がしてくださるか?イエス様があの十字架に流した血潮をもって清めて、洗ってくださる。だから、イエス様の手に自分を委ねること、任せること、これが心をキリストに向けることです。17節「主は霊である」とあるように、神様は霊なる御方です。「そして、主の霊のあるところには、自由がある」。霊が働かれる時、人は自由なものとなります。イエス様は私たちを清めて、御霊を私たちのうちに宿らせてくださる。今、主は霊となって私たちのうちに宿っている。イエス様は弟子たちの見ている前で、天に帰られましたが、ペンテコステの出来事を通して今は聖霊の時代、私たち一人一人に神様は霊となって宿ってくださる。その主の霊に導かれ、主の霊に結びついて一つとなって生きるとき、私たちは誠に自由なものとなることができる。

 

18節「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。私たちは罪を赦され、神の子供、神のものとされました。神様はご自分のひとり子の命をもって私たちを買い取って、神様のものとしてくださった。だから、クリスチャンはみな神の子なのです。神様の子供、私たちのお父さんは天のお父さん、神様です。神様が私たちのお父さんであって、私たちはその子供です。世間でも“親に似ぬ子は鬼の子”と言うでしょう。子供は親に似ます。私も年を取ってきましたので、よく言われる。「榎本先生、お父さん先生に似てきましたね」と。本人はどこが似てるかなと思っていますが、先日地下鉄に乗っていて、人がたくさんいましたから分からなかったのですが、地下鉄が止まって沢山の人が降りた。がらんとなって電車が動き出した。ほっと正面を見たら「あれ、おやじがいるな」と思った。それまで人がたくさんいたから映っているかどうか分からなかったのです。ところが、誰もいなくなって前の席も空になって、地下鉄だから外は真っ暗ですから、窓ガラスをホッと見ると、「え!誰か似ている人がいるな」とびっくりしました。やはり似るものだな、と思いました。やっぱりおやじの子だったのかと思って安心しましたが、皆さんでもそうだと思います。お母さんなりお父さんなり、あるいは両方のどこか目が似ていたり耳が似ていたり、鼻の形が似ていたり、人はその親に似る者になる。そうでしょう。

 

神様も私たちを神の子とした以上、神の子の名にふさわしく、名実共に、内外共に神様の家族にふさわしい者に造り変えたいのです。それはそうでしょう。皆さんが自分の家に誰かよそから子供を養子にしてご覧なさい。やはり自分の家の家風に合うように、昔はよく結婚するとき女性の方はそうだったのです。嫁ぎ先の家風に合う者となるために白装束です。角隠しなんていうのは、角を隠してまで……、あとから出るのでしょうけれども、角を隠して真っ白の結婚衣装にして嫁ぐ。なぜなら、私は今までの生まれ育った生活をやめて、これから嫁ぎ先の家風、家柄すべてに染まります、という意思表示です。だから、結婚衣裳は死に装束とも言います。女性にとって自分が生まれ育って、10年20年過ごしてきた一切をその結婚によって消し去り、新しい家の者になりますと覚悟する。最近はどうもそうではないらしい。白装束はあまり好まれない。ピンクであるとか、最近は色のついたものです。神様は私たちを神の子としたというのです。そのためには私たちが今まで生まれ育ってきた、生きてきた一切を脱色する。色を抜いて、今度は神様色に造り変えてくださる。これが救いの目的。神の家族にふさわしい者としてくださる。神に似る者へと変えてくださる。これはすごいご計画ではないでしょうか。神様に似た者、その性質にしてくださるという、そう思って自分をみてご覧なさい。どこに神に似たものがあるかと、失望落胆するかもしれません。神様から「お前を神の子供にしたのだから、これから頑張ってふさわしくなれ」と言われても、なり様がないです。そもそもが出来損ないですから……、ところが「心配するな」と神様は言われる。それをしてくださるのは神様です。

 

だから18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ」と記されています。「わたしたちはみな、顔おおいなしに」、言い換えますと、罪の覆いを取り除かれて、今は「主の栄光を鏡に映すように見つつ」と。これはどういうことでしょうか。皆さん朝起きて鏡を見るではないですか。見たくなくて最近は見ないという方もいらっしゃるかもしれませんが、まず見ます。見ると自分の顔が映る。がまの油ではないけれども、見たくもない自分の顔が映ります。ところが、ここに言われているのは、私たちが鏡に映して見るのは自分の姿が見えるけれども、神様は私たちの目に見えるものを神様の栄光の姿が見えるようにしてくださる。だから、自分が映ってないのであります。私たちが鏡を見るときキリストの栄光の姿の私がそこにある。そのことがここに書いてあります。「主の栄光を鏡に映すように見つつ」と、だから、私たちはその鏡に映った自分の現実の姿を見る。そうではないのです。それは仮面であり、私の本当の姿はキリストの栄光の姿なのだと、その裏側を見て生きるのです。キリストの栄光をまるで鏡に映っている自分を見るがごとくに日々目の前に見つつ生きる者と神様がしてくださった。だから、私たちはいつもその人を見る。よく世間でもそのように言いますが、いつも接しているとその人に似てくる。確かに親に似るというのは、そういう側面もあるのかと思います。生物学的にDNAがつながっているから似てくる面ももちろんありますが、性格や性情はそうです。

私どもの所に若いMさんが高校を卒業してから一緒に生活をするようになった。2,3年たったころだったでしょうか、私どもがイタリアへ行くために日曜日を一回空けることになったのです。まだ父が元気でしたから日曜日に父に来てもらう。その間、留守番役を頼んだ。彼女に全部教えておいて、土曜日にはこうして、お掃除のときはこうして、お茶はこれを出してちょうだい。日曜日には何時から窓を開けてこういう準備をして、最後に終わったらこうしてと全部教えていました。それで私どもが帰ってきたら、皆さんが「留守番をしてくれたMさんは牧師夫人にそっくりですよ」と言う。「言う事もする事もまるで牧師夫人がそこにおるかのように思いました」と言われる。それを聞いて私は「え!似るものだな」と。似るのです。一緒に生活をしていると、物の考え方、人に何かを伝える伝え方、あるいは頼み方にしろ、あるいは心配りと言いますか、いろいろな事柄が一緒に生活をしていると、他人で血のつながりはないのですけれども、ツーカーになってくる。一言言うと全部理解してくれて、こと細かく言わなくても、こちらの思うようにやってくれる。非常に重宝して助かっています。こちらの言わんとすることを全部分かってくれる。これは一緒に生活をして、表も裏も何もかも見られていますから、開けっ広げですから、それを知るのです。確かにそういうことがありますね。

 

それよりももっと身近に、キリストの霊が私たちと共にいてくださる。まるで毎日毎日、鏡に自分の姿を見るがごとくに、そこに主の栄光の姿を見ながら生きる者となる。これが私たちの今求められていることであり、神様が私たちを造り変えようとしてくださる目的です。神様の救いにあずかった目的は何かというと、神様の姿かたちに私たちを造り変えるためです。私たちを神の栄光の姿に変えて、神の家族になそうとしてくださる。しかも、それは名前だけの家族ではなくて、名実共に神の子たる実質、内実が備わって、神様の力と恵みに満ちたものに変わってほしいと願っておられる。これが約束された18節の言葉です。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。「主と同じ姿に変えられていく」というのです。このように、今私たちのうちに神様が着々と業をしています。だから、イエス様の救いにあずかったら、悩みも悲しみも苦しみもなくて、天国の生活かと言うと、実はそうではなかった。いや、そうではないどころか、今もってその中にあるに違いない。しかし、それは恵みです。なぜならば、いろいろな人生の悩みや困難、悲しい出来事に出会いつつ、そこでキリストに出会う、キリストを目の前に置いて生きる者となること。絶えず主を見上げて生きる者となることです。これを訓練する。なぜなら、そういういろいろなことを通して、主と共に生きることを努めるためです。

 

だから、先ほどお話しましたMさんと生活をしますが、ただ楽しいばかりの生活ではありません。もちろん、いろいろな事柄でぶつかることもあり、叱ることもあり、また相手が気分を害することもある。こちちらも不愉快になる問題も事柄もあります。人と生活をする以上、そう楽なことではありません。しかし、その楽でないがゆえにこそ、分かり合う。そのことを通してお互いに知り合うことができ、こちらの言わんとすることがしっかりと理解される。そのようなごちゃごちゃがあればこそです。もしそれが嫌だったら、そのような人の世話をしなければいい。ロビンソンクルーソーのように、どこか絶海の孤島に独りだけ住んでおれば、何の悩みもないかもしれない。ところが、神様はそれは駄目だと、私たちをいろいろな中に置いてくださる。家庭の中、その地域社会の中で、いろいろな問題や事柄の中に置かれます。では、そのことを通して何をするのか。私たちの使命は問題、悩み、事柄を解決するのではなくて、その中でいかにキリストの栄光の姿に変えられていくのか。といって、では私たちがねじり鉢巻、頑張って何かするのではなく、絶えずキリストの霊と共に生きる者となる。そのような問題、事柄の中に置かれると、夜も眠られなくて祈るではないですか。そういう問題の中にあればこそ、普段来ない集会にも出てくるようになる。そういう悩みの中にあればこそ、礼拝でも眠らないで聴くではないですか。だから、うれしいのです。いつも主を前に置くことができる。ダビデは「わたしは常に主をわたしの前に置く」と先ほど交読しました詩篇16篇に告白しました。絶えず目の前に主を見ていく生活、これが私たちに求められていることです。そうでなければ、私たちは神の性質にあずかることができない。だから、18節に「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。私たちをキリストのかたちが内側に造りだされていく。やがて、名実共にこの地上の生涯を終わったら、神の家族として、人の手によらない永遠の家が備えられていることを知っています。その神の家族に迎えられるのです。今は神の家族にふさわしい者になるようにと、この地上で準備期間です。予備校です。入るにふさわしくならないと入れませんから……。

 

だから、しみじみそう思いますが、亡くなった家内の父を見ていて、頑固の見本のような人であり、実にかたくなな人だなと思っていましたが、神様は祈りに応えて造り変えるのです。たった3ヶ月か4ヶ月弱のホスピスの生活でしたが、こんな人だったかしらと思うように、名実共に内側も外側も全く新しく変えられましたね。だから、よく家内が「もう、あんな頑固な父は、あのままでは死ねないわ。神様が絶対に天国なんかに入れてくれないに違いない」と言って保証をしておりましたが、神様はひっくり返して造り変えてくださいました。自分はそもそも何にも役に立たない、できないのであります。ところが、神様は私たちを捨てなさらない。「我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」(ヨハネ6:37元訳)と、神様は、私たちをいったんイエス様のものとして捕らえられた以上、私たちのうちに御霊を注いで、神の霊を与えてくださって、神様の業が完成するまで決して私たちを放ったらかしになさらない。だから、18節「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」、そのあとに「これは霊なる主の働きによるのである」。私はこのお言葉でよく慰められます。「そうなのだ。主が働いてくださるから大丈夫。私はできない」。時に自分を見ると、失望落胆します。初めから落胆しておくべきなのですが、何かどこか少しでも自分に良い所がありはしないかと思うから、つい自分のいろいろな姿を見ると「こんな自分か」と「これは駄目だな」と思います。事実駄目なのですね。しかし、幸いなことに「これは霊なる主の働きによる」、キリストの姿、神の栄光の姿に私たちを造り変えるのは人ではない、自分ではない。神の御霊が私たちのうちに宿って、私たちをいろいろな問題、事柄の中で絶えず主を前に置く者と造り変えて、神様を絶えず見上げて、よみがえり給うたイエス様を前にし、御霊のみ声に従いながら歩んでいくとき、気がつかないうちに造り変えられていく。自分では分かりません。自分がどのように変わったか分かりません。しかし、神様は着実に造り変えてくださる。そして主の栄光の姿を私たちの内側に輝かせてくださる。愛のなかった者に愛を与えてくださり、恐れと不安の中にいた者を喜びと感謝に変らせ、嘆きと悲しみの中にいた者を賛美と祈りに変えてくださるのは主の働きによる。だから、私たちはいつも主を前に置く。キリストの霊が私と共にあることを信じて、御霊のみ声に従順に従って行きたい。神様は栄光の姿にまで私を造り変えてくださるのです。今私に与えられた問題、この事柄、この悩み、いろいろなことがあります。また自分の老後に思いもかけない、願わない考えもしない事柄の中に置かれる。その中で絶えず主を前に置いて主を呼び求めて、主の力と御愛と御思いを私たちのうちに注いでいただいて、その歩みを続けていきますと、気がつかないうちに変えられていく。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に」、これは私たちの望みであります。

 

だから、朝、鏡を見るとき、自分を見るのではなくて、私の中に宿ってくださった主の栄光の姿を見ておきたい。そして「私は今はこんなだけれども、大丈夫。主が働いてくださって私に新しい業をしてくださる」。「見よ、わたしは新しい事をなす」(イザヤ 43:19)と、主の手に握られて、私たちは内側も外側もすっかり造り変えられ、キリストの名にふさわしい者となって、この地上の生涯を終わりたいと思います。そのために、今しばらく主は私たちを訓練してくださる。その中で絶えず何を見ておくか。主の栄光の姿を望み見て、キリストが死からよみがえってくださったように、私たちも傷なき者として、心も思いも全く清められた者となって、キリストの栄光の姿、神の子にふさわしい者に造り変えていただくことを願いつつ、与えられた今日一日、一日地上の旅路を歩ませていただきたい。そして、何としても今の私ではなくて、キリストの姿に、イエス様に全く従っている自分でありたいと求めてまいりましょう。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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