いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(447)「神の栄光を見よ」

2015年01月20日 | 聖書からのメッセージ
「ヨハネによる福音書」11章32節から44節までを朗読。

 40節「イエスは彼女に言われた、『もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか』」。

 マルタ、マリヤ、ラザロという3人の兄弟姉妹の家族がいました。この家族とイエス様は大変親しい交わりをもっておられたのです。ところが、どういう病気であったか、ラザロが死んでしまうのです。そのときイエス様は遠く離れた所におられたようであります。11章の初めのほうにはイエス様がその村にいなかったことが語られています。イエス様の所に、ラザロが病気になったという、恐らくかなり厳しい状況といいますか、悪い状態だったと思うのですが、わざわざイエス様の所へ使いを出して伝えてきました。「ラザロが病気ですから、イエス様に来て祈ってほしい」と願ったに違いありません。ところが、それを聞いてイエス様は「それじゃ、すぐに」と行かないのです。さらに2日間、そこに滞在しておられたとあります。弟子たちは「ひょっとしたら死んでしまったのではないか」と思っている。その後、「じゃ、今から眠っているラザロを起こしに行こうではないか」とイエス様はおっしゃる。「眠っているのだったらそれは簡単やないか」と、弟子たちはそういう取り方をしたわけであります。ところが、イエス様は「いや、そうではない。ラザロは死んだのだ」とはっきりおっしゃっています。
 11章14節以下に「するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、『ラザロは死んだのだ。15 そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである』」と。イエス様としては人間的に言えば、親しい友人や家族が危篤の状態になったら矢も盾もたまらず「とにかく行ってみようじゃないか」と「様子を見て来よう」あるいは「何とか励まして来よう」という思いになる。イエス様はクールといいますか、ある意味で冷淡です。「ラザロはもう死にかけています」と言う。「これは死ぬほどの病ではない」と、言い切って更に2日間滞在しているわけです。そして2日ぐらいたって「じゃ、今からラザロを起こしに行こう」と言う。イエス様は「死ぬほどではない」とおっしゃるし、また「眠っている」とおっしゃるのですから「これは大丈夫か」と、思ったのです。ところが、イエス様は14節に「ラザロは死んだのだ」と。「よく平気で言えるな」と思います。そんなに気になる相手でありながら「もうラザロは死んだのだ」と、しかも「わたしがそこにいあわせなかったことは誠に幸いなことであった」とおっしゃる。愛する人が死んだとき、その死に立ち会うことができない、死に際に間に合わなかったことを非常に気にします。「残念、これは全く自分にとって不幸なことだった」と誰しも思うことでしょう。イエス様はそうはおっしゃらない。「そこに自分がいなかったから良かった」と。さらに「あなたがたのために喜ぶ」とおっしゃる。それはなぜか。そこにイエス様がいなかったこと、それによって「あなたがたが信じるようになるためである」と語っています。これはイエス様が一つの大きなご目的を持っておられたのです。ラザロが病気になり、死ぬに違いない。そして墓に葬られる。この一連の出来事をイエス様は知っておられたに違いありません。あるいは感じ取っておられたでしょうか。私たちはついそういう身近な人が困難にある、あるいは、病の中にある、危篤状態という話を聞きますと、瞬時にして心を騒がせます。そして「早く何とかしなければ」と矢も盾もたまらず「とにかく行ってみよう」と飛び出して行きます。そういうとき、神様を忘れているのです。自分の思い、感情が心を占領していますから「何とかしなければいけない」と言ってできないわけです。できないから苛立つし、不安になるし、恐れを抱いて八つ当たりをする、そういうことになります。

ところが、実はイエス様も同じように感じているのです。というのは、先ほどお読みいたしました記事にそのことが語られています。イエス様は感情も何にもない冷血漢ではありません。それよりも何よりもまず優先されるべきこと、それは父なる神様の御心に従うことです。神様の導きに従うことを第一にする。そのために自分の感情を押し殺す、あるいは自分を捨てるというのはそこです。このときラザロの病気も死も、これは神様の御手のわざ、ご計画の中にある。イエス様はこの世に遣わされて人となり給うた神の御子でいらっしゃいますが、どんなときにも父なる神様の求めるところ、願うところに従う。これが最優先の事柄です。だから、このときもすぐにでも飛んで行きたい気持ちはあったと思います。しかし、もし自分がそこへ行って何かしたならば、神様がラザロを通してあらわそうとしている事を妨げてしまう。それをつぶしてしまうことになる。これをイエス様は恐れたといいますか、そのためにあえて出かけるのを遅くした、ということが言えるのではないかと思います。

私はいつもこのことを教えられるのです。つい私どもはいろいろなことで感情が先立つ。人間は感情の動物ですから、誰でも感情を持って生きています。そして、それはまた神様が私たちに与えられた一つの能力といいますか、恵みでもあります。ただそれをコントロールすることが必要です。それに振り回されてしまうことは間違いです。ただ感情にのめり込んで、悲しいからとかうれしいからとか楽しい、そういうことだけに思いが集中してしまうとき、神様の御声を聞くことができなくなる。神様に従えなくなるのです。だから、「エペソ人への手紙」に「酒に酔ってはいけない」(5:18)と語られていますけれども「酔う」というのは、まさに感情におぼれることです。それは酒だけではなくて、どんなものに対してもそうだと思います。何事に対しても自分の情緒であるとか、感情にガッと支配されて、瞬時に神様を忘れる。そして自分の思いに支配されてしまう。そうすると、正しい判断、神様の御心を取り違えてしまいます。ですから、イエス様はマルタ、マリヤに対して愛する思いがありましたから、彼女たちがどんなに悲しんでいるだろうかということを深く味わってよく知っていたと思います。しかし、それゆえに、感情に支配されないでイエス様はあえて自らを制しておられるのです。そして、主の時といいますか、神様の定められた時に至って、イエス様は「さぁ、今から彼らの所へ行こう」ということになったのです。どうぞ、どんなときにもニュースを聞いたり、いろいろな話を聞くと、感情が先立って怒ってみたり、悲しんでみたり、嘆いてみたりしますが、そこでもう一度「主は何とおっしゃるだろうか」「神様はいまこのことを通して私に何を求めておられるんだろうか」と、そこに思いを向ける。イエス様はここで父なる神様がとどめておられることを知っておられたのです。だから「そこに居合わせなくて良かった。これは神様が大きな何かのわざをしようとしておられる」と。やがてイエス様はその時が来まして出掛けて行きます。

 11章17節以下に「さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。18 ベタニヤはエルサレムに近く、二十五丁ばかり離れたところにあった」。ここに「ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた」とあります。イエス様は「ラザロが病気です」と聞いたとき、既にそのときは死んでいたのかもしれません。というのは2日間ほど置いて、また出掛けて、どこにおられたか分かりませんが、彼女たちが住んでいたベタニヤ村に来るまでに1日か2日の道のりがあるかもしれません。今のようにメールがあるわけではありません。携帯があるわけでもありませんから、誰かから人づてに伝わって来たのでしょう。時間的にかなり間があったでしょう。ですから、もう4日間墓に葬られていたというのです。イエス様がその所まで来ましたときに、20節に「マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた」と。マルタはやはり長女ですからイエス様が来られたと聞いたとき「今頃来て」と思ったに違いないけれども、取りあえずその気持ちを抑えてイエス様を迎えに出て来たのでしょう。ところがマリヤは実にストレートです。「出迎えに行くものか」と思ったのです。「ルカによる福音書」にありますように、イエス様が来られたとき足元にひざまずいてイエス様の話を聞き入っておったマリヤですから、このときぐらいまずマリヤが飛び出して来るかと思いきや、むしろマルタでした。恐らく彼女のほうが責任感があったのだと思います。家族の世話をしていたのだと思います。それでマリヤは家に座っていたわけです。イエス様を迎えに来なかった。21節に「マルタはイエスに言った、『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう』」。イエス様は病気を治すことができると信じたのです。それまでもイエス様の生活ぶりを聞いていたと思います。いろいろなうわさがあったと思います。盲人の目を開けたとか、足のなえた人の足が動くようになったとか、あるいは、口がきけなかった人が口がきけるようになったとか、そういう話を聞いていますから「病気を癒すことができる」と思ったのです。だから「イエス様がここにいてくださったらラザロは死なないですんだ」と。ところが、神様のマルタを通してのご計画は実はもう一つ先に進んだものなのです。このときイエス様は「そこにいなかったことを喜ぶ」と最初に語っていますが、それは父なる神様がもうひとつ大きなご目的をもってこのことを行っていらっしゃった。だから、マルタ、マリヤ、その家族、あるいはその周辺にいた人たちは「イエス様がいたら死ななかったのだけれども、イエス様がここにいなかったから死んでしまった」と思っている。「今更来てももう手遅れ」というのがこのときの心情です。マルタも、周囲にいた人たちの思いもそこにあったのです。

22節に「しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。そうは言うけれども、「イエス様がいらっしゃったら死ななかったのだけれども、今更……」と思う思いと同時に「でも、イエス様がお願いなさるならば父なる神様は何でも聞いてくださるに違いない」と言いつつ、ではそう信じたかというと、マルタはそこまで信じていない。いうならば、言葉だけです。だからイエス様が23節に「イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟はよみがえるであろう』」。「いや、大丈夫、あなたの兄弟はよみがえるよ」と。ところが、その「よみがえる」という意味を、マルタは24節「終りの日のよみがえり」ということへ読み替えをします。「イエス様がよみがえる、とおっしゃったのは、もう死んだ者は仕方がない。確かにイエス様がお願いすれば父なる神様は何でも応えてくださるだろうけれども、死んだ者がよみがえるはずがない」と。ところがイエス様は「いや、ラザロはよみがえる」とおっしゃるが、マルタにとってそのよみがえりというのは、やがて終りの時、終末のときに全ての魂がよみがえらされる、その意味で理解したのです。それ以外に考えられないのです。さらに、イエス様は25節に「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる』」と。ずばりここでイエス様に対する像、イエス像といいますか、マルタが抱いていたイエス様に対する見方、その殻を打ち破るのです。それまではイエス様が何か不思議なわざをするご祈祷師的な、病気を癒すことができ、何かすることはできるけれども、それだけ。その程度、その意味でのイエス様を彼らは信じている。それに対してイエス様が「そうではない」。25節に「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」。わたしこそがよみがえりであり、命である。言い換えると、ラザロがよみがえるのは、ラザロの中にキリストが宿ってくださること、これがよみがえり。
私たちもそうであります。私たちも今よみがえる。「私はまだ死んでおりません」と思われるかもしれませんが、私たちは「罪過と罪とによって死んでいた者」であります(エペソ2:1)。神様の前に立つことのできない永遠の滅びに定められていた私たち、それがイエス・キリストと結び付くことによってよみがえらされた私たちであります。「私たちはキリストと共に死んだものである」と言われます。そして「キリストと共によみがえらされたのだから」と約束されている(コロサイ3:1~3)。よみがえった私たちであります。「いや、私はよみがえったけれども、全然生活は変わらない」。そのとおりです。しかし、イエス・キリストを信じることがよみがえりです。そして「命である」と。イエス・キリストが私たちの命となってくださる。イエス様が私を生きるものとしてくださる。だから、いま私たちはその中にあるはずであります。私たちはいま自分が生きているのではなくて、キリストが私の内にあって生かしてくださる。私たちはキリストの命によって生きている。これが私たちの信仰であり、告白であります。キリストが私の命となる。だからイエス様はここで「わたしはよみがえりであり、命である」と言われる。「わたし」、わたしというもの自体、イエス様そのものがよみがえりであり、また命でもある。だから、私どもが、イエス様を救い主と信じて一切をイエス様にささげて生きるとき、その人はよみがえった者になるのです。また新しいいのちに生きる生涯でもあるわけです。
その後に「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と。私たちは「あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」と「コロサイ人への手紙」に約束されています(3:3)。キリストの中にあるのですから、もう二度と死ぬことはありません。もちろん、肉体を脱ぎ捨てるときはありますが、それはもはや永遠の滅びではなく、ただ単に一つの通過点にしかすぎません。私たちはそのことを信じて生きる。ここにありますように「たとい死んでも生きる」と。また26節に「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」とあります。わたしを信じる者は、いつまでも死なないのです。そうです、そのとおり。私たちはいつまでも死なない。「じゃ、俺はもう死なないのかしら」と思われますが、肉体の意味ではありません。私たちはキリストによって生かされている。新しい霊に生きる者と変えられているのです。だから、私たちの肉体、外なる人は滅びて行きますから、必ず朽ちて行くでしょう。消えて行きます。しかし、私たちの霊は決して死ぬことはない。永遠の滅びに定められることはない者としてキリストの中に取り込まれている。握られている者です。ですから、このことを信じて行く。そうしますと、私たちがこの地上で何が起こってきても、どんなことが起こって来ようと、どうでもいいことになります。いずれにしても私たちはもう死ぬことはないのですから、恐れないで、「いや、こんなことしたら死ぬかもしれない」「あんなことしたら死ぬかもしれない」「この病気になったら死ぬかもしれない」と、いつも戦々恐々として心配ばかりしているのは大間違いです。体(肉体・生活)は朽ちて行きます。消えるときが必ず来るのです。しかし、肉体的な事情境遇の問題を恐れることはないのです。もう死ぬことがない。大丈夫と神様が約束してくださった。そのことが「わたしを信じる者は、いつまでも死なない」と言われます。これは不老長寿という意味ではありません。私たちが死を恐れることのない者になっているのだ、ということに他なりません。

それに対してマルタは27節に「マルタはイエスに言った、『主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております』」。イエス様のお言葉を聞いて、神の御子、救い主、「あなたこそ生ける神の子キリスト」というペテロの信仰に初めてマルタも至るわけです。しかし、それが具体的にどういうものであるかは更に時間が必要であったと思います。マルタはマリヤを呼びに行きました。28節以下に「『先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます』と小声で言った。29 これを聞いたマリヤはすぐに立ち上がって、イエスのもとに行った」。イエス様が「マリヤはどうしている? 」と尋ねられたのでしょう。あんなにまで親しかったはずのマリヤが顔も見せずに引っ込んでいる。何か気分を害しているのじゃないかと、イエス様は気になさったかもしれない。30節に「イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた」。普段だとサッとマルタ、マリヤの家に直接来られたに違いない。このときどういう訳か、彼女らの住んでいる村の入り口の所でイエス様はジッとされている。それだけ周囲の険悪な雰囲気といいますか、「何だ、今になって来て」と、「あんなに世話になっていて」と、エルサレムに来るときいつも泊めてもらっていたわけですから。だから雰囲気が悪いのです。「あれほど親しかった人が……、まぁ、冷たい人や」と、見ているからイエス様はスーッと中には入れないのです。だから、マルタが来てくれてホッとしたと思いますが、その後に「マリヤさんを呼んでくれ」と。マリヤさんもイエス様の所へ来て、31節に「マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った」。マリヤさんが出て行くのを見て「何事か!」と思ってみなゾロゾロッと出て来た。

32節に「マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう』」。マルタと全く同じ言葉でイエス様を非難したのです。「何ですか、今頃来て」という気持ちです。だから「あなたがいてくだされば決して死ななかったのに、いなかったから死んでしまった。もう駄目だ」。「もう駄目だ」と言うのです。それはイエス様をどのような御方と見ているか、という証詞でもあります。イエス様はただ単に病気を癒す、苦しい悩みを取り除くことができる、そういう御利益を下さる方、そういうことをやってくださる御方だ、という理解はあったのです。だから、イエス様についていれば何ひとつ不自由がない。心配なことがあったらイエス様に言えばすぐに右から左にやってくださるに違いない。でも、死んだらもうおしまい、これはもう無理やと。ところが、それに対してイエス様は、マルタにそういうことを全部話していますから、この後マリヤには言わなかったのですが、33節に「イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた」。イエス様は決して冷酷非情な御方ではないのです。このときマリヤが泣いている姿を見て本当に感動したのです。「激しく感動し」とあります。イエス様は本当にどんなに早く来たかったか分からない。感情から言えばそうです。しかし、イエス様は人であると同時に神の御子、救い主としての大いなる使命が与えられている。しかし「イエス様はそうだろうけれども、私は違います」と、思いやすい。ところが、私たちも今そうなのです。私たちは神様のものとして自分をささげきって、今はキリストと共に生きる者と変えられているのです。だから、私たちもイエス様のように父なる神様に従うことが最優先であり、第一条件です。自分の感情ではありません。しかし、それだからといって、何もかも感情を押し殺してしまえ、という話ではありません。あくまでも、神様の手にその感情、思いを委ねて行く。このときイエス様は激しくご自分の生身の人としての姿を見せてくださった。これは彼女たちに大きな慰めであります。それはまた私たちに対しても大いなる慰めでもあります。イエス様は私たちの悲しい思いや苦しいつらい気持ちを理解できない方ではない、とあります。「弱きを知り給う御方」と語られています。罪は犯されなかったが私たちと同じ試練を通ってくださって(ヘブル 4:15)、どんな悲しみや苦しみをもご存じの御方です。そして心を騒がせておられる。

だから、「何かというと、私はすぐに感動してみたり、あるいは悲しんでみたりしやすい。私はこんな浮いたり沈んだり定まりのない人間だから、私は信仰しても駄目です」と言われる方がいますが、決してそうではないのです。浮いたり沈んだり感情に身を任せるといいますか、その感情をあらわにすることも神様の御心の中にあって必要なことでもあります。神様がそれを表すことを求められるときもあります。そのときは素直に表すことが大切です。「私はクリスチャン、私は十字架に死んだ者ですから、ここは泣きません。悲しいことはありません。うれしい。そんなこの世の楽しみはしません」と、突っ張るのではありません。主が許してくださるときは大いにその思いを伝える。感情をあらわにすることも大切です。しかし、だからといってその感情に引きずり回されるのは間違いです。だから、常に御霊の導きに従って行く。私たちがどのように感情を表すかも自分の思いのままではなく、御霊の導きに従う。

このときのイエス様もそうであります。激しく感動し、心を騒がせる。「彼をどこに置いたのか」と尋ねておられます。そして「彼らはイエスに言った、『主よ、きて、ごらん下さい』」と。こちらへどうぞと、墓へ。そして35節に「イエスは涙を流された」と、このひと言は深いですね。イエス様はそこで涙を流してあからさまに悲しみを共にしている。そして36節に「するとユダヤ人たちは言った、『ああ、なんと彼を愛しておられたことか』」。このイエス様が感情をあらわにすることによって、そこにいる人たちの誤解を解いたのです。それまでは恐らくとげとげしい視線が投げられていた。「何だ、イエス様はあんなに家族のことを大切に思っているって、口ばっかり」と。ところがイエス様の涙を流される姿を見たときに「本当にこの家族を愛しておられた方だな」と、時に応じて答えてくださる。だから、人から誤解されることもあります。しかし、それも必要なのです。神様の前に自分の感情を押しとどめて行く。また感情をあらわにするときが来れば、神様はそれを用いて下さいます。だから、一筋縄ではありません。こうだと決めてそれを守りきる、ルールでもありません。その時、折々に御霊が私たちに求めておられることに従って行く。37節に「しかし、彼らのある人たちは言った、『あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか』」。この言葉の内容はマルタ・マリヤが言った「もしあなたがここにいて下さったなら、ラザロは死ななかったでしょう」というのと全く同じです。だから、周囲の人たちは皆そういう見方をイエス様にしていたわけです。「イエス様は盲人の目をあけることはできる。あるいは足のなえた人の足を元気にすることもできる。しかし、死んだ人は無理だな」と。ところがそのときにイエス様は、38節に「イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴(ほらあな)であって、そこに石がはめてあった」。それは洞穴でそこに石がはめて埋葬されていた。イエス様が39節に「イエスは言われた、『石を取りのけなさい』」。イエス様は「石をとりのけよ」と言われます。でも当時の石は結構大きな石だから、簡単に片手でハイ、ハイと扉をあけるようにはいかなかった。そんなもんを開けてどうする? と。4日もたっているでしょう。腐敗しているに違いない。寒い所なら分かりませんが、イエス様のおられた所は日中大変気温が高くなるところだと思いますから、4日間もそんな所へ置いている。だから、「どうする? 」という話です。39節に「死んだラザロの姉妹マルタが言った、『主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから』」。このときマルタはやはり責任者のようなものですよ。イエス様に「もう臭くなっている。駄目でしょう」。石を取りのけるというのは信じなければできません。そのとき40節「イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。「わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と言われたでしょう。「はい、私はあなたを信じます」と。「あなたは神の御子であります」と、正しい答えはしたのだけれども、具体的に目の前に事が起こったとき、彼女はそれを信じることができなかった。イエス様がここであらわされたのは、ただ単にイエス様は私たちの地上での生活のあのこと、このことがどうなった、ああなったということ、もちろんそれも大切なことに違いないし、私たちにとって生活上の必須条件でありますが、もうひとつイエス様がここで明らかにしようとなさったのは、死を乗り越えて行く永遠の命がどこにあるかを明らかにしようとなさったのです。「わたしがよみがえりであり、命である」と「イエス様を信じる者はたとえ死んでも生きる」「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」。いうならば、イエス様こそが全ての命の根源でいらっしゃる。たとえラザロが死んでも、腐敗していようとあなたが信じるならばそのとおりになる。このときイエス様は「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。「信じるなら」と、私たちにとってもそうです。イエス様を信じることです。イエス様を私の救い主、私の命である。私のよみがえりそのものである。イエス様を信じるときその人はよみがえった者となる。このとき、マルタはそれを信じて41節に「人々は石を取りのけた」。このとき彼らは初めて信じてこの石を取りのける。“石”というのは不信仰の象徴です。「これはもう臭くなって駄目ですよ。動きません」、「これはできません」と、私たちはいろいろなことで「もう駄目」「これ駄目」「あれ駄目」と限ってしまう。そうやって重くて動かない石を置いていますが、そうであるかぎりいつまでもそこから先へは行きません。イエス様もそれまで多くの人々の病を癒し、悲しみを知り給う御方、罪の中に苦しむ人々の罪を赦し、そして平安を与えてくださった御方でありますが、それを超えて更にもっと深くイエス様こそが私たちにとって命であること、イエス様がよみがえりでいらっしゃると信じること。ここに目を開いてほしいと、ラザロの墓の出来事を通して、神様は彼らの心を信仰の高い所へと引き上げようとなさったのです。

そして、その墓に向かって、イエス様は43節以下に「『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、『彼をほどいてやって、帰らせなさい』」。このときイエス様は墓に向かって「ラザロよ、出てきなさい」と言われた。「イエス様は命である、よみがえりです」と、そのように彼らが信じたのです。マルタはイエス様から「信じるなら神の栄光を見る」と言われた。マルタは「よし、イエス様にはどんなことでもできないことのない御方。命の源でいらっしゃる。命を与えることのできる御方です」と信じたとき、そのとおりにラザロを死からよみがえらされた。これはその後にイエス様が受けた十字架の死とよみがえりの予表でもあったのです。イエス様こそが命だよ。これが全てであることをここで証詞なさったのです。このとき確かにラザロはよみがえりましたが、肉のよみがえりはまた死にます。だから、ラザロはその後永遠に生き続けたわけではありません。肉体は消えます。

私たちもそうであります。いくらどんなことをしたって永遠にこの世に生き続けるはずがありません。いや、私たちの命は肉体の命ではなくて、キリストを信じて私たちの魂の内に宿ってくださるキリストの霊、聖霊の力に生かされることに他ならないのです。これが私たちのよみがえりであり、命です。

40節のお言葉に「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」。信じなければ駄目です。「信じるなら」と。信じさえすれば、これがただ一つの条件です。誰を信じる。イエスを主と、命と信じる。イエス様がよみがえりであり、命である。私の命です。「いちばん大切な物は何か? 」と子供に聞きますと、大抵「命」と答えます。そういうときは肉体の命のことですが、私たちの大切なのはキリストです。命は私たちの最も大切なもの、このイエス様をしっかりと内に抱いてキリストの霊によって生きる、よみがえりの生涯をここから歩んで行きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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