いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(489)「キリストの勝利に与る」

2015年03月05日 | 聖書からのメッセージ
 「テモテへの第一の手紙」6章11節から16節までを朗読。

 12節「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである」。

 この記事は、テモテという人物に宛(あ)てた手紙であります。テモテはパウロによって救いにあずかり、その後パウロの弟子になって伝道に力を尽くした若者、若者といっても成人であったと思います。テモテはクリスチャンホームの出身です。祖母ロイスと母ユニケという母方の信仰を受け継いでイエス・キリストを信じる三代目のクリスチャンであったかと思います。ですから、彼は非常に素直です。「使徒行伝」にもテモテのことが語られていますし(16~20章)、「テモテへの手紙」を読んでいますと、大変優しいといいますか、癖のない人物だったようです。それだけにパウロは大変彼を愛していました。「愛する子テモテ」(Ⅱテモテ1:2)と呼んでいますから、自分の子供、息子のような思いで大変信頼もし、また期待しておりました。ただ絶えずパウロが気になっていたことがある。それはあまりにも優しすぎて人の言葉で左右されやすい。これは彼の持ち味ですから、必ずしも悪いこととはいえないでしょうが、信仰ということになると問題です。私どもはイエス・キリストを信じる者としていただきましたが、信仰とは何かというと、 イエス・キリストがよみがえって、今も私たちと共におられる。そして、共にいてくださるイエス様は主なる御方、主人であって私を導き給う御方、私を用いてくださる御方でいらっしゃる。だから、普段の生活でもそうですが、常にイエス様と共に歩んで行く。しかも、一緒に歩む時に、それぞれが別の思いになっていたら、一緒に歩むことができません。

 家内と日々生活を一緒にしますが、必ずしも夫婦だからといって同じ思いになるわけではありません。レストランで食事をしようとしてもメニューの選び方から違います。私は「これにしよう」と決めます。すると家内は別の物を注文する。家内は別の物が食べたいと。私が注文を決めると、家内は「どうしてそれにするの? 私はこれにするからあなたもこれにしたら」と勧めますが、私が食べたいものは違います。実にささいなことですが、私はそれぞれが好きな物を選んだらいい、と思います。どうも家内は一緒でないと嫌なようです。二人で生活するというのはややこしい。だからお一人の方は幸いだと思います。心を一つにするというのはなかなか大変です。

 目に見える夫婦ですらもそうならば、ましてや、イエス様と二人で一つになって生きようとするならば、これは大変です。「自分の思いのままではなくて、御心のままに」とイエス様はおっしゃる。父なる神様、イエス様の願われるように私たちがついて行く。イエス様が右に行くときに右に行き、左に行くとき、左に行く。日々の生活の中、朝起きて夜寝るまで、寝ている間もそうでしょうが、「24時間、365日イエス様がいつも私と一緒です」と信じる。それはただ口で言うだけでなくて、毎日の生活の中で絶えず主に従って行かなければいけない。「イエス様、今ここはどうしましょうか? 」「私がすべきことは何でしょうか? 」と、主でいらっしゃるイエス様に絶えず御心を求めて行く。だから、私たちは常に祈らなければ一歩も半歩も一日を過ごすことができない。ところが、現実の私たちは「そうあれかし」と願いますが、なかなかそうは行かない。何といってもイエス様は目に見えませんから忘れやすい。目に見える人にすら従えないのでしょう。まして見えないイエス様にどうやって従うかと。ついイエス様を忘れて人の言葉や、目に見える事情や境遇、問題、事柄、「あの事を早くしなければ……」「あの人がああ言ってくれるから、こうしよう」と動かされる。そこに一つとして「イエス様が導いておられる」、「これを命じてくださった。私にこのことをさせておられる」と言えないで過ごす。「主」と「私」、「キリスト」と「私」という関係が消えてしまっている。これは信仰生活に致命傷であります。信仰が危機的な状況に陥(おちい)ります。

 テモテは気持ちの優しい人であるだけに、そういうものに誘われる。あるいは強い言葉の人に負けてしまう側面があったようです。第一、第二の「テモテへの手紙」を読みますと、パウロは細かく「こうしなさい」、「ああしなさい」と、現実的な問題とその対処の仕方について語っています。だから、信仰に立って歩むことを体験するには「テモテへの手紙」が私たちの素晴らしいお手本であります。

 「テモテへの第一の手紙」6章6節から10節までを朗読。

 どん欲というものがどんなに危険なものであるかを具体的にパウロは「金銭を愛する者」という言葉、あるいは「足ることを知ることが大切だ」、そして「何よりも信心を大切にするように」と語っています。また5章には、教会にいろいろな人が来るけれども、そういう人たちにどういう対処の仕方をすべきか、細かく語られています。というのは、パウロは歳を取りまして、「テモテへの第二の手紙」を書いたとき獄屋に捕らわれている身でありました。エペソの教会は心血を注いでといいますか、自分のライフワークのような働きをしています。ところが、彼はその教会にとどまることができなかったのです。代替わりをするといいますか、次なる世代に引き継ぎました。そのエペソの教会の責任としてテモテを置いたのであります。しかし、エペソの教会のある町は大変大きな都市、商業都市で、しかも非常に風紀が乱れ、人心の乱れた地域でありました。
エペソの町にはアルテミス神殿という素晴らしく壮大な神殿がありました。「アルテミス神」は「豊穣(ほうじょう)の神」として崇められたのです。豊穣、つまり収穫を豊かにする農業の女神です。その女神像には体中乳房が付いている。まさに「豊かさ」、命のはち切れるような姿です。また性的な乱れがはびこった腐敗した町でもありました。だから、そこに集うクリスチャンたちは、名ばかりで様々な教えといいますか、この世の中の習慣や仕来たり、その生き様を持ち込んでくる。これは大変な戦いであったと思います。そこにテモテが置かれていた。パウロのいちばんの心配はテモテがそういう世の様々な教えの風に吹き回されて信仰から離れて行くのではないか。このことを大変心配しました。というのは、そういう事例が幾つもあったのです。

 「テモテへの第一の手紙」1章18節から20節までを朗読。

 ここでテモテに対して18節に「あなたは、これらの言葉に励まされて、信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい」と。ここで「戦え」とパウロは命じています。なぜそんなに戦わなければいけないか?テモテの立場、あるいは信仰に対する様々な攻撃があった。攻撃といっても二種類あるのです。真っ向から信仰を否定するサタンの力といいますか、不信仰の力と、もう一つは光の天使のごとく、その教えに近い形で異端が忍び込んで来る。いわゆるキリストの教えに近い形、見るからにそれらしい形をして違う方向へと引き込んでいく教え。こういうのは今の世の中でもあります。
異端といわれるキリスト教の流れがあります。皆さんのお宅にも「一緒に聖書の勉強をしましょう」と言って来るでしょう。そうすると、中にはクリスチャンの方が「聖書を読むんだったらいいことだから、じゃ是非来てください」と、聞いていると何かおかしい、何か違うようだ。それに気付く方はまだしもいいのですが、気付かないままにどんどんとそちらのほうに取り込まれてしまう。これは非常に危険なことです。だから、私たちはいろいろなことについて常に警戒するというか、怠らない。あからさまに信仰に対して正面切って反対してくる勢力に対しては「これは駄目だ」と避けることができ、拒むことができますが、非常に巧みにその形を装って、あたかも真の信仰であるかのような形で入り込んで来る。これはなかなか難しいし避け難い。ところがこのエペソの教会にはそういう教えが次々と入って来た。というのは、エペソの町はいろいろな民族が各地から集まった所で、いわゆる人種のるつぼのような所でありました。ユダヤ人もおればギリシャ人もいるし、またローマ人もいる。そして信仰的にもユダヤ教、その他の宗教もあり、キリスト教もある。いろいろな教えをバックグランドといいますか、そういう背景を持った人々が集まって来ているのです。そのような環境の中で、はっきりとイエス・キリストの十字架の死とよみがえり、あがない、明確な福音信仰を貫き通すことは大変ハードな、厳しい状況であった。それに対していま申し上げたようにテモテは大変優しい、彼自身はしっかりした信仰であったとしても、指導者として考えると気がかりになる。もちろんパウロは極めて個性的な強い性格の人物でありましたから、彼とは正反対のテモテでありますので、それだけに頼りない、心配な思いがあったと思います。だから二つの「テモテへの手紙」を読みますと、パウロの親心といいますか、老婆心、心配な思いがあふれるほどに語られているのです。そういう教えに引き回され、19節にありますように、「ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った」と言われています。ヒメナオとアレキサンデルという名前が記されていますが、その他にも名前を挙げられた人物がいます。信仰から離れて行ってしまう、せっかくの恵みを取り損なってしまう。そうならないためにしっかりと信仰に踏みとどまってほしい。

そのことを6章11節に「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい」と語っている。細かくいろいろな説明を加えれば語るべきことはたくさんあるとは思いますが、そんなことをいくら分析してもあまり意味がありませんから省略しますが、「義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和」を言い換えますと、「あなたがたの主であるよみがえり給うたイエス・キリストに従う。その御方の御声に徹底して信頼して行く。聖霊の導きに従う」ことです。「この義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和」というのは言葉を変えますと「ガラテヤ人への手紙」で「御霊の実」と語られているものとほとんど重なる内容であります(5:22~)。御霊によって生きるとき、私たちのうちに造りだされてくる性情、性格、キリストのかたち、これを追い求めて行きなさい、ということに他なりません。私たちがこの地上に置かれて、いま生活している目的は何か? それはイエス・キリストの十字架の死によって罪を赦していただいて神様の民とされる。神様があがない取ってくださった。私たち一人一人を神の子としてくださった。ここを信じるのです。そして、神の子が神の名にふさわしく、神の家族にふさわしい性情、性格、名実ともに神の子になり切ってしまうこと、今はその道中です。私たちをして神の栄光の姿に、キリストと同じ、神の御子でいらっしゃるイエス様のご性質に似る者、その身丈にまで、キリストの姿かたちにまで私たちを造り替えてくださる。その造り替える方法は、神の霊、聖霊が私たちの内に宿ってくださることに他なりません。キリストの霊が私たちの内に宿って、常にキリストの霊に導かれて行くとき、生まれながらの性格、性情をキリストの姿形に拓(ひら)かれて行く。

「コリント人への第二の手紙」3章16節から18節までを朗読。

18節「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ」とあります。私たちが常に主のお姿を目の当たりに見て行く。キリストの栄光の姿を見る者と変えられていく。その栄光の姿とは御霊であります、聖霊であります。「顔おおいなしに」とあるのは、かつては罪のゆえに神様の栄光を受けることができなかった。神様を直接見ることが許されなかった。ところが、今はイエス・キリストの十字架によってその覆いが取り除かれ、真っ正面から父なる神様の栄光を拝する、見ることができる者としてくださった。私たちの内にキリストが宿ってくださった。私たちが毎日の生活の中で常にイエス様のことを思う。パウロは「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)と言っています。いつもイエス様のことを思っていると、その姿かたちに似る者と変わって行くのです。“朱に交われば赤くなる”ということわざがありますが、誰と付き合うかによってその人が変わって行くことがあります。

 だから、中学、高校生ぐらいのお子さんを持つ親は大変心配します。「誰と付き合っているの? 」「あなたの友達はどんな人? 連れて来なさい」と。けれども、なかなか連れて来ないし、名前も言わない。最近の子はどういう訳か「先輩」とか「友達」といいますが、名前は言わない。「友達」「先輩」「クラブの先輩」と、私どもの頃は友達というより名前を親に言ったものです。しかし最近の若い子は名前を言わない。だから、親は男の友達か女の友達か、それも分からないのです。誰と付き合うか、どんな人と付き合うかは親がいちばん気になります。というのは、付き合っていると、それに染まって行くのです。だから、夫婦は似てくるのです。お互いに見ていますから。だから、ひとりが鬼のような顔だったら、相手も鬼のような顔になります。だから、どちらかが仏さんのような顔になれば、相手もそのようになる。

 それと同じで、私たちがイエス様のお顔に似る者となる。キリストのご性質に変えられる。その秘けつは四六時中イエス様を絶えず見て行く。

子供は親をいつも見ています。乳飲み子などはそうです。お乳を飲みながらでもお母さんの顔をジーと見ています。お母さんの仕草、語り口、いろいろな物を見てまねるのです。似てくるのです。だから、成長してもそれは抜けません。やっていることを見ると「あの子はあの方のお子さん」と、子供を見れば親が見えてきます。それと同じで私たちの日々の生活の中でキリストを絶えず前に置いて、イエス様を見て行く。18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。素晴らしい。私たちは「主と同じ姿に変えられていく」のです。外側はどうか分かりません。年を取ってくればしわもよるし、シミも出るし、頭も白くなるし、だからといって、それがイエス様に似るかどうか分からない。問題は心です、魂です。内なるものであります。私たちの性情性格がキリストの姿に変えられて行く。「これは霊なる主の働きによるのである」とあります。私たちが一生懸命、難行苦行、努力してなるのではありません。いくら自分を磨いたって高が知れているどころか、石を磨いても宝石にはなりません。私たち自身の力では何もできません。そうでしょう?自分は立派な人間になりたい、人から褒められる人間になりたい、と思っても、なかなか自分の心を自分では変えられない。ところがここにあるように「霊なる主の働きによる」のです。うれしいですね。神様の霊が絶えず私たちに働いてくださる。そして私たちの心と思いを清めて、私たちになかった素晴らしいキリストの姿を造りだしてくださる。私たちはイエス様を信じて、十字架のあがないを信じて救いにあずかりました。その救いを今度は完成に至らせる、その救いを自分のものとする、その道中がいまです。そのためには私たちが戦わなければならないことがある。

「テモテへの第一の手紙」6章11節の後半以下に「義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。 12 信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて」と勧められます。「御霊が働いてそれを得させてくださる、造り変えてくださるのだったら、戦わなくてもいいのではないだろうか」と、「“果報は寝て待て”、任せときますわ」と思いますが、そうではありません。御霊が私たちの内に働いてくださるから、その働きに自分を従わせて行くのです。どんなことの中にも常に御霊に従う、聖霊の導きに従う。そこには必ず戦いが生じる。

私の以前親しかった方、教会によく来ていいご奉仕をしてくださる方がおられました。日曜日になるとその方が必ず朝から来てくださって、牧師館のお昼の食事の用意をしてくださる。その頃青年会だとかいろいろな会があって、礼拝が終わると皆さんが残っている。今はコンビニもあり、弁当もあり、それを利用する手もありますが、当時はそんなものはありません。貧乏学生や青年たちが集まっていますから、「教会うどん」というのを用意してくれる。何も入っていない「素うどん」です。せいぜいかまぼこが二切れ乗っていればいいほうです。それを作ってくださる方は大変良い思いを持って、日曜日必ずやって来てくださる。「任せておきなさい。私がしてあげるから」と、「私のようなものでよかったらいくらでもするから」と言ってくださる。
ところが礼拝を終わって若い人たちがおなかをすかしてやって来る。そうするとお湯は沸かさなければならない。うどんはゆでなければならない。次第に腹が立って来るのか、その辺にいる人を激しい言葉で、「お湯を沸かしなさい!」「どんぶりはどうしたの!」「お湯を沸かしていたらどんぶりがいることぐらい分かるでしょう!」と叱られる。その挙げ句は「何で私がこんなことをせなならんの!」と、最後はつぶやきが出るのです。私はいつも惜しいことだと思うのです。せっかく善い思いを持って始めるのです。「私のようなものでも役に立つなら使ってもらいますわ。喜んでさせてもらいます」と言われる。余程喜んでしてくれるかと思いきや、だんだん忙しくなる、思いも掛けないことが起こり、厄介になって来る。そうすると「何でこうなった、何で私がしなければいけない」とつぶやく。これではせっかく神様の前になす業ですが、それは消えてしまう。無駄になってしまう。最後まで感謝して、喜んで「神様が私のような者を用いてこのことをさせてくださいました」と、言い得たならば、その人の業は神様の内に覚えられて、天に宝を積むことができる。しかし、最後はひっくり返る。

私たちもそうですが、90%我慢して何とかそこまで相手のためにと一生懸命に努力して最後の最後の所で「何でこんなことを私がしなければいけないの、もうやめた!」と放り出すと、惜しいと思うのです。そこに心の戦いがあるのです。私たちが戦わなければならないのはそこです。「このことは主から出たことです。イエス様、あなたが私と共にいてくださって、いま私にこのことをさせてくださるのですから、最後まで全うすることができるように……」と願うのですが、ところが自分の中にある自我性といいますか、損得利害、「何で私だけがこんな目に遭わなければならない。あの人を見てご覧、あんなことをして」と。
マルタ・マリヤの記事がありますが、ついそういうつぶやく思いになる。信仰の戦いとはそこなのです。あるいはいろいろな外側からの戦いもあります。皆さんが礼拝に出ようとする。「今日は雨と思ったけれども案外降りそうもない。降りそうもなければ、礼拝にも出なければいかん」と思う。朝起きて空を見て「雨降れ」と思っていたら降らない。「これはきっと神様が礼拝に行け、ということ。行きましょう」と心を決めた、そこへ電話が掛って来る。「雨がやんだからデパートへ行かない?今日はサマ―バーゲンよ、行こうよ」と。「そうか。そっちのほうがいい」。外から誘って来る。小さなことですが戦いがあるのです。この小さな戦いを戦わなければ、ましてや大きな戦いは到底戦えません。生きるか死ぬか、命の終わりの時を迎えて、天国を確信し、そこを目指して行くことができるためには、今、見えない主の御力を信頼して、御旨に従う訓練、これをしっかりとやり遂げる。それは信仰の戦いであります。どんな時にも「ここに主がいます」と信じる戦いです。これが私たちのいま生かされている目的であります。

先日、一人の方が天に召されました。その方は大阪集会に長く来ておられた方です。半年ぐらい前に病気が分かりました。そのとき既に「余命3ヶ月」と家族には言われました。彼女はまだ71歳か72ぐらいでした。その方は病状を知っていましたが、しっかりと神様に信頼して、神様が与えてくださったこの中でどう最期を迎えるか。彼女は信仰に立ちました。だんだんと病状が悪化して行く。抗がん剤も使いますから、そのための副作用が出て来ますが、その中で彼女は大変感謝して、喜んで、「今というとき、いろいろな問題があるけれども、苦しい、つらいその中で耐える力を神様が与えてくださる」と、「何で私がこうなったのでしょう」と決してひと言もつぶやかない。私は召される何日か前にお電話をいただきました。「いかがですか? 」声を聞いていると全然病気だとは思えない。「私はこの信仰に導かれて本当に今は喜びと感謝です」と。彼女は眠れないときもあります。「そのときに常に先生のテープを繰り返し、繰り返し聞いています」と。私はいろいろな集会のテープをその方に送っておきました。「そうして聞いて、魂が平安であることがどんなに感謝であるか分かりません」と言って喜んでおられましたが、急激に容体が悪化して神様の時が来たのです。先々週でありましたが、「月曜日に召されました」という連絡を受けました。私は走るべき行程を走り尽くし、信仰の戦いを戦い抜いて天に凱旋して行ったその方を思うとき、私たちも今この地上にあってしっかり信仰に立っておかなければならない。「私はまだ病気ではないから、死にそうではないから」と油断します。そのときになったら泥縄では駄目です。間に合わないのです。

私も若いときそう言ったのです。「若いときからイエス様、イエス様なんて、そんな抹香(まっこう)くさい。信仰なんて、年を取ってからでいい」。私はそう思いまして父に言いました。「死ぬ間際になって、イエス様助けてください、はい、信じますと言って、パッと天国に入れてもらう。それまで自分の好きなようにさせてくれ」と。すると父が「馬鹿、そのときになって信じられるはずがない!自分で信じようと思って信じられるわけではない。神様が信じさせてくださるその時を逃したら、もう二度とその時は帰って来ない」、「何だ、親父は俺を脅かして」と思ったのです。しかし、今はそうは思いません。確かにそのとおりです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日」(Ⅱテモテ6:2)、今この時でないと私たちは救われない。恵みにあずかることができない。ところが、私たちには常にそういう信仰の戦いを避けてしまう。イエス様に従おうと願いつつ従えない自分、いろいろなことで「これは主の御用です。主のわざです」と言いたいのだが、あの人この人に腹が立つ。

昨日も一人の方から電話がありました。「先生、主人に腹が立って、腹が立ってもう我慢なりません」「どうしたの? 」と「どうしたも、こうしたも……」と言い出して、もう言えないのです。「あなたの気持ちはよく分かった。ご主人がそういう人であることはもう重々知っているじゃないの。今更……、まずあなた自身、神様が共にいてくださるのだから、お祈りしよう」。その方は電話口で怒りのために言葉が出ない。しばらく電話でお話をしてお祈りをしましたら、やっと心を静めた。

私たちにはそういう戦いが常にあります。聖書には「怒ってはいけない」とは書いていません。聖人君子のごとく、どこをたたいてもウンともスンとも言わないでくの坊になれというのではない。私たちは生きている人間ですから、つねられたら痛いし、嫌なことを言われたらむかつくことはあります。しかし、何があっても、そこでもう一度主に立ち返る信仰の戦い、これが私たちに求められている。

12節に「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい」。「永遠のいのち」が私たちを待っているのです。

「テモテへの第二の手紙」4章6節から8節までを朗読。

素晴らしいですね。パウロは信仰の戦いをしっかり戦い抜いて「信仰を守りとおした」と。私たちもそう言える者になりたいと思う。地上の旅路を終わる時、「私はもう何一つ思い残すことはない。イエス様、あなたが私と共におられます。何にも恐れることはありません」と、心からイエス様を信頼できる者になる、その戦いが今あるのです。しかし、これはその後の永遠のいのちの恵み、8節「義の冠がわたしを待っているばかり」とパウロは確信している。この望みに私たちがつながるのです。そこに向かっているのであります。ですから、今日という日も、永遠のいのちにつながる一歩であることを信じておきたい。今日も主の備えてくださる道筋を、その行くべき所、走るべき所を走り抜いて、はっきりと「義の冠がわたしを待っているばかりです」と言い得る信仰を得させていただきたいと思います。

「テモテへの第一手紙」6章12節「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい」。「永遠のいのち」が私たちを待っていてくれる。それを神様は「与えよう」とおっしゃってくださる。そこへ向かって今日という一日、また明日の一日を信仰に立つ、キリストの側に立つ戦いをして行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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