いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(320)「内なるものに生かされて」

2014年09月13日 | 聖書からのメッセージ
 「コリント人への第二の手紙」4章16節から18節までを朗読。

 18節「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」。

 この16節には「わたしたちは落胆しない」と語っています。「落胆する」とは失望すること、がっかりすることです。考えてみると、私たちの日常生活はそういうことばかりが続くように思います。こうあるに違いない、こうなってほしい、と期待し、待望していながら、どうもそのようにいかない。そのためにがっかりして失望する。失望落胆する原因は何かというと、生活でこうなってほしいとか、ああなってほしいと期待するものがある。子供の問題、自分自身の問題、経済的なこと、健康上のことで、思い通りに行かないで、落胆する。

ところが、聖書には16節「わたしたちは落胆しない」、失望することはない、というのです。なぜかというと「外なる人は滅びても」とありますように、私たちの外側にあるすべての事柄、条件、生活上の様々な事柄は滅びていく。いうならば、失われていく。しかし、たとえそうであっても、「内なる人」、私たちの内なるもの、いうならば魂、心といったらいいでしょうか、目に見えない私たちの命となるべき内なる人は日ごとに、新しくされていくのだから落胆しないのです。確かに、だんだんと年を取るにつれ、いろいろなものを失っていきます。若いころできたこと、10年前にできたことができなくなったり、年を追うごとに身体的機能、能力は衰え、失われます。記憶力ももちろんですが、興味を持つ分野もどんどんと小さくなってしまいます。そういう自分を見ると情けない、あるいは若い家族からみると、「どうしてこうなってしまったの、もっと元気を出してよ」とはっぱをかけられる。でも、そういう外なるものはどうにもならないのです。またいろいろな人との関係、あるいは世の中の仕組み、これは時代と共に変わりますし、ひと時も同じ状態が続くことはそう長くありません。いろいろ考えてみますと、同じ状態、事柄が長く続くことはないように思います。

よく“蚊帳(かや)つり前と嫁取り前”と言われます。子供たちが成長して、学校も終わって、それぞれが自立して仕事を始めて、経済的にも出費が要らなくなる。親子の関係が新しい関係になって、楽しい時期がある。それはちょうど蚊帳をつる前、昔は夏に蚊が出る前、5,6月上旬までがいちばん気持ちのいい時期。人生にそういう時期がある。それを「嫁取り前」と譬える。子供たちが結婚してお婿さん、お嫁さんを迎えると、家庭の構造が変わります。あり方がガラッと変わってきます。そのため、初めは戸惑ったり、失望落胆してがっかりしたり、いろいろなことでトラブルがありますが、またそのうち孫でもできれば落ち着いてきますが、それはそれでまた次なる問題が出てきます。若い人の育て方をみていると、なんかハラハラドキドキ……。

ある私の知っている方もそうです。息子さんが結婚するというのを大変喜ばれたのです。「お祈りしていただいてこうなりました」と喜んで感謝していらっしゃった。そのうちお孫さんができた。その時も喜んで、「息子の所にこういう孫ができました」と。ところが、それからしばらくしたら「最近の若い人の教育方というのは、なっていません」と憤慨される。「ちっとも、しからないのです」と。「孫がちょっといたずらをして、私がしかろうものなら、息子が『そんなに言わんで』と言う」。私は「おばあちゃん、もう口を出すことはないですよ。ただ一方的にかわいがりなさい」と言いました。「いや、そんなことをしたら孫が将来どうなるか分かりません」「もう親が付いているからまかせなさい」と言ったのです。

振り返ってみると、こういう時期はいつまでも続くことはありません。まぁ、長くて5年、10年も続くなんてことはまずない。必ず3,4年、まぁ6,7年もすればガラッと変わっていく。こちらも変わる、あちらも変わる。何か思いがけない不幸に出遭ったり、つらい出来事に当たると、「一生このままか。死ぬまでこんな状態が続くか」と言って落ち込みますが、そんなことはない。でも思い込んだら、そういう立場に置かれた人にとっては、それが未来永ごうにまでこの苦しみが続く、と思い込みやすい。ところが、そういう外側から受ける悩み苦しみ困難、生活の条件は必ず変わっていく、失われていくのです。大切なのは私たちの魂、心、内なるものがどうあるか、どこに目を留めて何に望みを置いていくか。これが大切な事柄です。

17節に「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」とあります。「このしばらくの軽い患難」が、そういう外なる人が滅びていくことであり、生活の様々な条件が変わっていく、失われていくことです。そういう患難は「軽い患難」だというのです。もっと重いものが別にあるという意味でもあります。私たちの内なるものがいのちにあふれて、力に満ちているかどうか、もしそれがなかったらもっと大きな苦しみや困難にぶち当たりますよ。物が失われたとか、体がどうなったとかいうこと以上に、もっと苦しい悩みの中に置かれます。だからこそ、そのような外側のことが問題なのではない。外なるものが滅びていく、失われていくような、そういう「軽い患難」は、むしろ「永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させる」のです。外なるものがどんどん失われていくこと、滅びていくこと、変わっていくことを通して、常に何が私を生かしているか、私の喜びはどこにあるか、私のいのちと力はどこから来るか、ということに目を向けさせてくれるものであります。今までは息子や娘、あるいは家族に対して向いていた思いが、時代と共に、生活が変わっていくにつれて、そういうものに失望させられ、がっかりし、いろいろな事柄で自分の力を頼っていたものが失われていく。そういう外なるものが次々と変わっていくことによって、いよいよ内なるもの、何が私たちにとって最後まで大切な掛け替えのないものであるかが明らかにされてきます。内なるものが力を得て、絶えず神様の恵みに満たされること、これこそが実は私たちの幸いな恵みです。

ある私の知っている方ですけれども、大変穏やかな老後を迎えておられる方がいます。説教プリントが送られてくるのをいつも心待ちにしています。その方は若いときから聖書に親しんで信仰に導かれてきました。戦前戦中戦後、そして今に至るまで、ご主人の仕事の関係や何かで引越しや移動もありましたし、若いころは大変忙しくしておられました。年を経るにつれて、「外なる人は滅びても」とあるように、境遇がまったく変わりました。しかし、この方は今非常に恵まれている。なぜかと、聖書を読むこと、賛美すること、そして、そういう説教プリントを繰り返し読むことで一日を過ごしている。「こんな大きな恵みを私は頂いております」と喜んでいます。聖書を読んでいると1時間、2時間があっという間にたってしまう。読みながら自分がこれまで生きてきた一つ一つの事柄を御言葉を通して味あわせていただく、思い起こさせていただく。そのなかに不思議な神様のご愛と憐(あわ)れみが注がれていたことを発見して感謝しています。神様と交わること、神様の恵みを味わうという毎日を過ごしている。それが楽しくて仕方がない。絶えず御言葉に触れて、主との交わり、神様との祈りの時間を過ごすことが、「これは私の仕事です。しかし、それは楽しいことです、うれしいことです」と言われる。家族のためにまたいろいろな人のために祈らせていただく。「祈りのとき、こんなに心休まることはありません」。本当に「内なる人が日ごとに新しくされていく」のです。毎日、新しい神様の霊のいのちによって魂を養っておられるのです。

だから17節「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」。そして18節に「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」。見えるもの、あるいは聞くものは、この世の様々な外側、生活のいろいろな仕組みであるとか、あるいはお金の問題、健康上の問題、家族の問題や人間関係の問題だとか、いろいろなことが私たちの見えるものがたくさんあって、それに振り回されて。私たちは一喜一憂、浮いたり沈んだり、喜んだり悲しんだりしているわけです。しかし、そういう見えるものではなくて、見えないもの、いうならば神様のほうに……、見えないものとは、神様ご自身です。よみがえってくださったイエス様に絶えず目を留めていくこと、注いでいくことです。私たちは日々の生活のいろいろなことに、がっかりしたり喜んだりすることがありますが、それらの一つ一つもその背後に神様の計らい、御思いがあることを知る。これが「見えないものに目を注ぐ」ことです。

がんで召されたある牧師先生が、手術を受けてある大学病院に入院をしました。でも、心は大変平安で、日々に御言葉を読んで祈って、病室で生活しておりました。先生は一生懸命に聖書を読み、祈っておられたのです。そうすると同室の人がひそひそと話をする声が聞こえて、「あの人は何か一生懸命にお祈りをしているけれども、ちっともよくならない。あの神様って何やろうかね」と、そういう声が耳に聞こえてきた。でもその先生は今の自分の状態を見ているのではなくて、ここに導いて、このことのために、今日ここに置いていらっしゃる御方は誰か、それは神様だということに、見えないものに自分は目を留めている。彼らには、その見えないものが見えない。確かにそうです。私どもは時にそういうことを経験する。「あなたは熱心に日曜に礼拝に行きよるけれども、生活はちっとも良くならないじゃないか」と。「問題ばっかりでどうなるね」と言われる。確かに見えるものはどうであれ、私たちはそれによって生きているのではない。私たちは常に事を導いておられる神様を見ていくのです。私たちにとって不幸と思われること、失敗と思われること、行き詰まってもう駄目だと思われるような事態や事柄の中に、神様は私たちを置きなさるでしょう。しかし、見えるものだけ見ていたならばまさに落胆するしかない。私たちは失望するしかない。しかし、そのことの背後に神様がいること、いま目の前の事態や事柄も神様が導いておられる、備えておられるところに目を留めていく。これが「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」ことです。そうしないと私たちの魂は死んでしまいます。自分の幸いなことももちろんです。うれしいこと楽しいことも、神様がいま私を楽しませてくださる、喜ばせてくださることです。また悩みや苦しみや病気のなかに置かれたときも、これも神様がいま私をそこに置いてくださっているのです、と言える。これが「見えないものに目を注ぐ」ことです。ともするとその事柄が「どうしてこうなっただろうか」と、その具体的な事柄の原因をせん索します。しかし、いちばん大きな原因は神様です。私たちはそれを忘れてしまう。どうぞ、「見えるものにではなく、見えないものに」、神様に、主に目を留めていくことです。なぜならば「見えるものは一時的」、見えている事情や境遇や事柄は、時と共に変わっていきます。外なる人は滅びていきます、失われていきます。しかし「見えないものは永遠につづく」。神様に目を留めて、神様の手に握られていくとき、私たちはもう滅びることのない者としてくださる。永遠のいのちの生涯に引き入れてくださるからです。だから、私たちはいつも見えないものに目を注いでいく。ところが、私どもはすぐ見えるものにばかり心を引かれる。「あの人が何と言うだろうか」「この人がこうするだろう」「自分がしたことがどういう風に評価されるだろうか」と、人を見ます。神様の前に、という思いが消えます。これはまことにもったいない話です。何をするにしても、絶えず主のために、キリストのためにと、見えないものに目を注いでいく。

「ガラテヤ人への手紙」1章10節を朗読。

ここに「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか」、まさにこれは見えるものに目をとめている状態であります。「それとも、神に喜ばれようとしているのか」、これは見えないものに目を注いでいる状態です。この二つに一つであります。「人に喜ばれようとしているのか」、いうならば、見えるものに自分の心がつながっている。だから見える状態によって浮いたり沈んだりそれに引き回されてしまう。そうではなくて私たちの心を見えないものにつないでしまう。これは「神に喜ばれようとしているのか」、これは二者択一、二つに一つです。私たちはいつも「見えないものに目を注ぐ」、見えない主と、神様と私どもが結びついていくときに、見えるものがどのように変わろうとも、もはやそれに動かされなくなる。これは強いですよ。「不動のものとしてくださる」と「ペテロの第一の手紙」(5:10)にありますが、私たちが様々な中を通して神様にしっかりと結びついて、見えないものに目を留める者となっていく。その時、私たちは大きな安心を受けることができる。喜びと望みを得ることができます。そればかりか周囲のいろいろな見える状態や事柄、聞くおとずれが何であれ、常に平安でおることができ、揺れ動くことなく、見えない御方に絶えず心が結びついて喜びといのちと望みが与えられるのです。

「列王紀下」5章15節から19節までを朗読。

スリヤの将軍ナアマンがイスラエルの神の人エリシャ先生の許(もと)へ行きました。そして、ヨルダン川に体を浸(ひた)すことで、すっかり病が癒されました。彼は大変喜びまして、いま読みました15節以下にありますように、早速エリシャ先生の所に感謝し、お礼をしに来たのです。彼は大変うれしくて、15節に「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました」と、いうならば、このイスラエルの神こそ、イスラエルの人々が拝むこの神様こそがまことの神様であると知った、と告白したわけです。そして「どうぞ、しもべの贈り物を受けてください」。ところがそれに対してエリシャは、16節に「わたしの仕える主は生きておられる。わたしは何も受けません」。エリシャ先生の目はいつもどこを見ていたか。見えるものだったら目の前のたくさんの山積みされた贈り物でしょう。「え!こんなにもらえるなら、ひとつ半分でもいいから欲しい」と。ところがエリシャ先生は主に目を留めて、見えないものを見ておられたのです。だから、いくら目の前にどんな宝物が置かれようと、それよりももっと大切なものがあることをエリシャ先生は知っていました。ですから、彼は「わたしの仕える主は生きておられる。わたしは何も受けません」、頂きませんと断った。それに対してナアマンも、自分はこれからこの真(まこと)の神様だけを礼拝しますから、それを許してください、と願い出たわけです。ところがもう一人、その後を読みますと、ゲハジというエリシャ先生の弟子がいます。彼は「うちの先生は何ともったいないことをした、せっかくくれるというのにもらわないで…」と思ったのです。それで、そっと裏口から出まして、ナアマン将軍の一行を追いかけて行く。そして「ちょっと、いま要らないと言ったけれども、預言者の仲間がやって来て彼らにあげたいから少し分けてくれ」と言ったのです。そしていろいろな物をもらいまして、家の近くまで従者が運んでくれましたが、知られたら困るものですから早く従者を帰して、もらってきた物を自分の部屋の中に隠したのです。でも全部エリシャ先生は知っていました。そして「ゲハジ、お前はどこに行っていたか」「いえ、どこにも行きません」「いや、お前が行った所を私の心はちゃんと見ていた」と、「今はそういう物や畑や金を受けるときであろうか。お前はとんでもないことをしてしまった」、ゲハジが見ていたのは見えないものではなくて、見えるものにだけ目を留めていたでしょう。とうとう彼はナアマン将軍の病気を自分がもらってしまったのです。エリシャ先生は目の前に何を積まれようと動じなかった。それは、見えないものに目を留めて、「わたしの仕える主は生きておられる」と信じたからです。

私たちもいろいろな問題の中に置かれます。避けられない事柄があります。これは生きているかぎりなくなりません。イエス様は「あなたがたは、この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33)とおっしゃいます。外なる人にいろいろな問題がありますが、その一つ一つ、どれ一つ神様によらないものはない。見えない御方がすべてのものを取り仕切っておられることに目を留めていく。そうすると、失敗と思えたことも、行き詰まりと思えたことも、実はそれに深い神様の思いといいますか、ご配慮がそこにあることをやがて知るのです。「いまは知らず、後に悟るべし」(ヨハネ13:7文語訳)。そのときには分からないことがたくさんありますが、後になってみると、ああ、なるほど「困難(くるしみ)にあひたりしは我に善(よ)きことなり」(詩篇119:71文語訳)と詩篇の記者が歌ったように、感謝し、喜ぶのです。だから、私どもはあまり事を焦って結論付けないことです。目の前の事態や事柄「大丈夫、神様が付いていらっしゃる」、見えないものに目を留めていく。

 「列王紀下」6章15節から17節までを朗読。
 
 これはスリヤとイスラエルが戦争をしたときであります。スリヤがいろいろな作戦を練って、ここから行こう、あそこから攻撃しよう、とするのが、どういうわけか全部裏目、裏目になるのです。「どうもイスラエルにはスパイがいるのではないか」、スリヤの王様は非常に疑心暗鬼になって、そして自分の仲間たちも疑うようになったとき、ある部下が「王様、実はあの国にエリシャという神の人がいて、王様がひそかにだれもいない寝室で語ったことすらも全部筒抜けですよ」と言う。こうなったら戦争にならない。どんな作戦を立てても全部裏をかかれるわけですから。それで「よし、それだったらエリシャをやっつけよう」というわけで、エリシャ先生の住んでいる小さな町に大軍を送りました。それとは知らないで、弟子が朝起きてちょっと裏窓を開けてみると、何とそこに軍隊が、大軍がズラーッとエリシャ先生の家を十重二十重に取り巻いているのです。びっくり仰天しまして「わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」と、うろたえたのです。そのときに16節「エリシャは言った、『恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから』」。エリシャ先生は「心配するな、私たちと一緒にいるものが彼らよりももっと多い」と。といっても、見ると弟子とエリシャですよ。うちには二人しかいない。ほかに何人かいたとしても、スリヤの軍隊に対抗できる力はありません。でも、エリシャ先生には見えていたのです。見えないものを見ていたのです。ところが、この若者は見えるものしか見えなかったのです。これは大きな違いです。私たちも、「見えないものに目を注ぐ」。ともすると「あんなことをあいつがするからこうなった」とか、「こんなことがあったからこうなった」とか、この世の中だけで因果関係、原因結果だけを私たちは見ているけれども、実はそうではない。私たちは「見えないものに目を注ぐ」。このときエリシャ先生は祈りまして、「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」。「目を開いて」と、この若者は目が見えなかったわけではないですよ。ちゃんと窓を開けて軍隊を見ているのですから。でも魂の目、心の目が見えなかったのです。そのとき神様がその若者の目を開いてくださった。17節の後半に「主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった」。なんと火の馬と火の戦車がエリシャを十重二十重にワッと取り巻いていた。これはすごい光景だったと思います。私たちも常に「見えないものに目を注いでいく」。

「コリント人への第二の手紙」4章18節に「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」と。どうぞいつも「ここにも神様がいらっしゃる。ここに主がおられる」。ステパノもそうですね。最後殉教するとき多くの人から、怒り狂った群集から石を投げつけられる。しかし、彼が見ていたのは怒って向かって来る怖い顔をした人々の顔ではなくて、その背後に神様を見ていました。「主がおられる」と。そして「その顔は輝いていた」とあります。私たちは今、石打の刑になるわけではありません。怒り狂った人が直接攻めて来ることはないかもしれません。しかし、私たちの生活にいろいろな不安や恐れや失望落胆させる事態や事柄が次から次へと飛んできます。でも、そのときに主を見ていくこと、見えないものに目を留めていく。そうするとわたしたちは喜んで、動揺しないでいること、うろたえる必要がない。神様がそのことを導かれるのです。
ここに「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」とあります。見えないものに私たちは絶えず目を留めていきたい。その見えない御方がすべてのものの、見えるものすらもご支配くださって御心のままに動かしておられる。持ち運んでおってくださるのだと、絶えず覚えておきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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