いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(317)「神を信じなさい」

2014年09月10日 | 聖書からのメッセージ
 「マルコによる福音書」11章20節から26節までを朗読。

 今朝は、22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。

 これはイエス様がベタニヤ村からエルサレムの町へ出かけたときのことです。11章1節からこの話は続いています。イエス様が十字架におかかりになる一週間前、棕櫚(しゅろ)の聖日と呼ばれた日に、ろばの子に乗ってエルサレムに来られた。多くの人々が「ホサナ、ホサナ」と言って、イエス様を迎えた記事が前半にあります。

そのときエルサレムに入られた後に、11章11節「こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた」と記されています。エルサレムに入り神殿に行かれて、神殿をズーッと見て回られた、というのです。それで夕方遅くなるからそこを出てベタニヤ村に戻って行かれました。ベタニヤ村はマルタ、マリヤ、ラザロというイエス様と大変親しい家族がいまして、いつもそこを宿としていました。その当時のエルサレムの町はいろいろな治安の問題などもあって、夜間は城壁の門が閉じられるのです。だからイエス様は夕方になってベタニヤへ戻っていくのです。その次12節に「翌日」とあります。だから、「ホサナ、ホサナ」と迎えられてエルサレムに入られたその次の日のことです。もう一度ベタニヤからエルサレムの町へ出て行かれたとき、「イエス様は空腹をおぼえられた」と12節にあります。葉の茂ったいちじくの木があったので、何か食べるものがないかと近寄ったところがそこには何もなかったのです。そのときにイエス様は「枯れてしまえ」と言わんばかりに、「この実を食べる者がないように」と呪われました。弟子たちはそれを聞いていて、「そんな馬鹿なことがあるか」ぐらいに思ったでしょう。イエス様は子供っぽいな、と思ったに違いありません。それはそのままで弟子たちも忘れたといいますか、気に留めないままエルサレムに入り、15節以下に「宮清め」といわれる、宮で物を売り買いする人たちを追い出してしまわれた、激しいイエス様の行動が語られています。それで19節に「夕方になると」とあるように、その日もまた夕方になりましたから、いつものように都の外に出ました。これで一日が終わった。

その次の日、20節「朝はやく道をとおっていると」と、もう一度イエス様はベタニヤからエルサレムに上って来られるのです。そうしたときに、前の日に見ていたいちじくの木が枯れている。しかも「根元から枯れている」のです。普通枯れる場合、大抵葉っぱの先のほうからだんだん枯れていきます。いよいよいちばん最後に根元が枯れます。そこまで枯れるにはかなり日数がかかりますし、そう簡単に、しかも茂っている大きな木ですから、枯れるのは難しい。ところが、明らかに根元から枯れている。びっくり仰天、驚きました。だから、ペテロが21節「そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、『先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています』」。そのときハッと気がついたのです。前日までまだ何ともなかった。その日の朝、イエス様が呪われて、夕方恐らく同じ道を帰っているのです。だからいちじくの木を見ているはずです。そのときは異常がない。ところが、一晩経って次の日の朝見ると、それは完全に枯れていたのです。彼はびっくりしまして、「いちじくが枯れています」と言いました。そのとき、22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。なんだか禅問答のようです。対話としては問いと答えが行き違いの様な感じです。「呪われたいちじくが枯れていますよ」という言葉に対して、イエス様は「神を信じなさい」と言われました。23節「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」と。いちじくが枯れたことと、神を信じなさいということと、どうつながりがあるのか、と思いますが、これはイエス様が私たちにもっとも大切なこととして求めておられることであります。

最近教えられるのですが、「神を信じなさい」、これは私たちの信仰の土台といいますか、根底です。神様を信じないで信仰はありえません。では、神様を信じる、とはどういうことしょうか。それは、ここでイエス様が言われるように「神様はオールマイティーでいらっしゃる。すべてのことをご存じであり、またそのすべてのことをなし得る御方である」と。目の前に見ているいちじくが枯れた事態をペテロはびっくり仰天していますが、イエス様から言わせるならば「神様がなさるんだったらできないことはないじゃないか」と。いつも力がないとか、望みを失うとか、失望落胆するのはなぜか。それは私たちが神様を信じていないからではないか、神様を信じていたらこんなことはびっくり仰天するようなことではない。当たり前じゃないか、とイエス様が言われるのです。「山に、動き出して、海の中にはいれ」なんて、そんなものは荒唐無けい、あるはずがない。皿倉山が洞海湾に入って平地になれ、なんて、だれもそんなことになるわけない、と思います。確かに人の力ではありえない。でも神様にはできないことではない。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ 10:27)。神様がなさるのだ、神様はどんなことでもおできになる御方だ、と信じているか、と問われます。

だから、イエス様は「なんでも心に疑わないで信じる」と言われます。何を信じるか。「神を信じる」のです。「心に疑わないで神様を信じていくならば、その信じたとおりに神様は答えてくださる」。私たちの信じ方に応じてと言ったらいいかもしれませんが、神様はこの程度のことしかできない、と思ったならば、神様はその程度のことしかしてくださらない。神様はひがむ者にはひがむものとして、とおっしゃいます。私たちが神様をどのような御方と信じるかによって、私たちに対して神様はご自身をそのようにあらわしてくださる。だから、「ヤコブの手紙」に「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」(4:8)とあります。まず、私たちが神様に近づく。信じなければ近づけません。「神様、あなたはこのことをおできになります」「神様、あなたはこういう力ある御方です。知恵に満ちた御方です」と、トコトン神様に信頼して、自分を委ねきってしまう、明け渡していく。いうならば、自分の考えていることや思っていること、計画していることを、ことごとく神様のなかに全部投げ込んでしまう、といいますか、捨ててしまう。「心に疑わないで信じる」とは、そこです。

イエス様はここで短い言葉ですが、22節に「神を信じなさい」とおっしゃいます。この短い言葉は、実に大きな力があるお言葉です。またこれを抜きにして私たちの信仰はありえません。また平安も喜びもいのちもありません。神を信じていくことはどういうことか、自分の生活の一つ一つの中でそれを具体化しなければならない。神様を信じている、と言いますし、自分でも信じたつもりにはなっていますが、実際の問題や事柄に当たったときに神を信じられるか。案外と自分の考えを信じている。自分を信じているのです。そういうことが多い。こうやって聖書のお言葉を開いて、その解き明かしを聞き、自分自身でも聖書を読んでいるときは信じたつもりになります。ところが、いったん何か事が起こると、自分の考えのほうが先立つ。思いが優先される。そして、こうであるはずだとか、こうでなければ駄目だとか、このことがこういうようにいかないと失敗だとか、自分のなかで先先まで、シナリオ、ストーリーを考えている。そして、その様に事がいくことが自分にとって幸いだ、幸せだ、と思い込んでいる。そのとき、そこには神様を信じている自分はいません。気がついてみると自分の組み立てたスケジュールだとか、自分が作り出したストーリーだとか、シナリオのようにと神様に要求している自分がいる。そうではないでしょうか。神を信じるとは、無条件で神様の全面的な力に自分を明け渡していくことにほかなりません。心配なことがあり、思い煩うことがよくありますが、よくよく考えてみたら、そのとき神様を信じていない。神様がそのことを導かれる御方である。神を信じることが欠けてしまうから、私どもは、どうなるだろうか、ああなるだろうか、と思い煩うのです。

「イザヤ書」43章10節から13節までを朗読。

ここに繰り返して「わたしは主である」と語っています。10節のなかほどにも「わたしが主であることを悟る」、あるいは11節には「わたしのみ主である」、あるいは13節には「今より後もわたしは主である」とあります。主とは、すべてのことを司(つかさど)っている、支配している御方、主だったもの、中心なるものという意味です。いうならば、私たちの人生の中心はどこにあるか? 私ではないのです。かつて私どもはそういうなかに生きておりました。私が主人公、私の人生は私が計画し、私が願い、私が努力し、私が一生懸命に頑張って作り出していくものだ、と思っていた。ところが「そうではない」と聖書は語る。聖書が創世記から黙示録まで一貫して語っていることは何か? 神様が主でいらっしゃる。神様がすべての事を支配し、導いておられるんだ、と語り続けている。私たちがこうやってこの地上に命を与えられ、ここまで生かされてきたこと自体も、これは「わたしがした」と、神様が言われる。神様が私たち一人一人に生きる道を与えてくださり、一つ一つのことを起こしてくださる。そして「わたしが主である」と教えてくださる。

人生を長く生きてきますと、いろいろな意味で自分の力ではできないな、と悟る時期が来ます。しかし、若いころはそうは思わない。私もかつてはそうでしたが、自分で努力すれば、自分で頑張ればできるんだ、と思っていたのです。自分の人生はこのように生きたい。こういうものを、こういう願いを、こういう夢を実現して、と一生懸命に努めていた時期がありました。しかし、今しみじみと振り返ってみると、自分でしたことは、いったい何があっただろうか、と思うのです。結局、自分が計画した、自分が思った、自分が願った人生を生きた、とは到底言えない。そこには私ではなく、神様が私たち一人一人を生かしてくださって、一人一人に生きるべき道筋を備えてくださる。自分にとって思いがけなく良かったという人もいるし、不幸な人生をここまで……「どうしてあんな嫌な思いや、こんな悲劇やこんな悲しいことばかりが自分にはあったのだろうか」と言ってつぶやく人もいるかもしれませんが、しかし、それもこれも実は神様が、私たちに必要だから通してくださった事柄です。神を信じるとは、まさにそれを認めることではないでしょうか。自分の人生を振り返って、ここは私の願いどおりでよかった。ここはちょっと嫌だった。ここはできれば切って捨てたい。あるいはここは消してしまいたい、という部分や事柄もあるに違いない。しかし、それを「良かった」「悪かった」という判断をしているのは誰か。神様ではなくて自分です。神様が与えてくださったものを、「これはいい」とか、「これは悪い」、「これは捨てるべきだった」、「これは私の願いとは違っていた」と言うこと自体が神を信じないゆえです。だから、自分の人生のどんなことでも「これはいい」とか、「これは悪い」とか、「これは幸いだった」、「これは不幸だった」と、「これは嫌だった」「もうこんなのは捨てたい」と思いつつ人生を振り返るなら、そこには神様を認めない自分がいるのです。だから、イエス様は繰り返して、「神を信じなさい」とおっしゃるのです。自分の善し悪しにかかわらず、自分にとって都合が良かった、悪かった、自分の願いどおり、そうでなかった、ということを抜きにして、どれもこれもすべてのことが神様の手によるものであり、神様が備えたことであると認めるのです。「ローマ人への手紙」11章に「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」(11:36)とありますように、良いことも悪いことも、すべてあれもこれも洗いざらい一切合財が実は神様の手によって作り出されたもの。神様がいらっしゃるからその様になっているのだと認める。これが「神を信じる」ことです。

だから、13節に「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」と。神様が行うのでしたら、誰もそれを阻(はば)むこともとどめることもできない。神様が「こうなさる」と言われたら、そのとおりにしかならない。そのことに人が付け加えることもそれから取り去ることもできません。だから「神を信じる」とは、すべての事柄を有りのままに「神様がなさっています」と受け止める以外にないのです。神様がしてくださっているのに、勝手に「あれは良い」とか「これは悪い」とか言うところに、既に神様を恐れない自分がそこに顔を出しているのです。しかも神様は山を海の中に移すことでもできる。信じていくならば、神様はどんなことでもなし得給う御方です。

いろいろな人の歩んできた道筋を振り返ると、「こんな事をしていたら、次はこうなるに違いない」「こんなことをしていたらこうなるに違いない。だから、ここは早く変えたほうがいい。これはこうしておいたほうがいい」といろいろ思うわけです。でも考えてみたら、果たしてそうなるのかどうかは分からない。これまでのこと、過去からのことを振り返ってみると、全く想像のつかないことを神様はなさる。今年も10ヶ月を過ぎて11月に入りましたが、この間も皆さんとお話をしていて、11ヶ月という短い期間を振り返ってみても、想像のつかないことがある。私自身も思いがけない病気になりました。それも遠い昔の様な気がしますけれども、ついこの間のことでした。そんなことになるとは自分でも計画していない。日常生活の中で数え上げていくと予定しない様なことが幾つもあるのです。いま振り返ってみて、ここまで誰がこういうことをしてきたのか?これは神様がなさったとしか言い様がない。だから、自分で考えて、これはもう駄目だとか、こうなったらもうおしまいだとか、そういうことはまず無い。神様を信じていきますならば、たとえ失敗と思えること、こんなことをしていたらもう駄目だぞと、人生落ちこぼれるぞと、いうことでも、落ちこぼれたと思えるところから神様はそれを天にまで引き上げることでもおできになる。でしょう? 山を海の中に移すことのおできになる神様は、そんな人の生涯をどんなにでもひっくり返すこともできます。ところが「できない」と思っているのは誰か?私たちです。私たちは神様の力を限っていますから「そんなことはありえない」と思う。

「マルコによる福音書」11章22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。だから、神様を信じるとき、何々できない、という否定的な人生はない。いうならば、どんなことでもありえるのだ、と認めていこうではありませんか。神様がなさるのだからそれもあるのだ、と。だから、「え!どうしてそんなこと、絶対ありえないよ、そんなことになったらどうするね。そうなったらもう私の人生おしまいよ」とはならないのです。なぜならば、神様を信じていきますならば、神様はトコトンご自分が主であることを、私たちを通して証詞なさるからです。神様がいらっしゃることを私たちの人生を通してご自分で証詞なさるのですから、私たちがこうと決めたとしても、そのとおりにはいかない。だから、どんなことでも「いいじゃない」と。私は最近若い人に対しても「先生、こんなのはどうでしょうか。いいでしょうか」「いいんじゃない」「こっちはどうでしょうか」「それもいいんじゃない」と。「神様がなさるのだから、どっちだって、あなたがしたい様にしたら」と。「こうしていたら、神様が喜ぶだろうか」「こうしていたら、神様が何か言わないだろうか」「こうしたら、神様から何かしかられやしないか」と、そんなことを考える暇(ひま)があったら、まずなさったらいいのです。それが良いことか悪いことかは神様が決めるのであって、自分でいくら考えたって、一晩徹夜したって、絶対分かりっこないのですから……。主が「せよ」とおっしゃることなら、「はい、します」と神様を信じて踏み出せばいい。その結果、うまくいかなかったら、そこで神様はどん底から天にまで引き上げなさいます。だから、神様を信じていくとき、不可能はないのです。できないとか、これはもう駄目だということ、人生これでおしまいはない。そこからどんなことでも神様はなさいます。エジプトのパロ王様がそうです。神様がかたくなになさる。何度となくモーセがパロ王様の所に談判をしに行きますが、神様は逆にかたくなになさいます。それによって神様の神様たること、神様の力をあらわしなさるのです。神様が私たちを通してご自分の力をあらわそうとしているのですから、私たちの計画どおり思いどおり事がいくと、「やっぱり私がちゃんと準備したからこうなった」「私がちゃんといろいろなことを前もって配慮していたからこうなった」と、自分を誇る。だから、神様は私たちの計画を全部つぶされます。そして、私たちがお手上げになって、「もうこれは、あかん」と言ったとき、神様は神たることを証詞なさいます。だから、私どもは徹底して神を信じていく。だから、良いこと、悪いこととつい決めてかかろうとするときに、そこで「ちょっと待てよ」と、そうではない、ここは神様が働いてくださるのだから、何も文句を言うことはない。そこを信じるのかどうか。

22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。「神を信じなさい」、そして23節以下に「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」。神様はできないことのない御方です。私どもが、本当にそのとおりに神様はなし得給う御方です、と信じていく。将来のこと、老後のこと、何にしても、そこで神を信じていくことです。どんなに準備万端していようと、これでもう大安心、私は年を取ってもこれで大丈夫、なんていくら決めてかかっても、保障はありません。神様がどのように私たちを取り扱われるか分からないからです。だから、どんなことのなかでも、常に私どもは自分の計画を神様に明け渡すといいますか、委ねていくのです。そうしますと、私たちは安心が得られます。神様がご存知なのだから、神様がここからどのように結論を出しなさるか。私どもの人生の結論はまだ出てない。ああなったら駄目、こうなったらおしまい。こんなことをしていたら、こうなるに違いない、ああなるに違いない、と自分の浅はかな知恵で考えますが、そうはならないのです。神様が備えられることがある、と信じていく。そうしますと、何をしたって人は構わないですよ。どうでなければいけない、こうでなければ絶対駄目だ、という道はありません。神様は失敗と思われることすらも、それを益と変えることができる御方です。また、これがいちばん良い、これでもう大安心、なんて言っていることを、いくらでもひっくり返すことがおできになります。神様を徹底して信じるまで、私たちを取り扱いなさる御方であります。

「箴言」3章5,6節を朗読。

これは神様が私どもに求めておられる大切なことです。「心をつくして主に信頼せよ」と。「心をつくして」とは、自分の思いを捨てて、ということです。何もかも一切合財を神様の手に委ねきってしまう。そして「自分の知識にたよってはならない」。私たちは自分の知識に頼っている。これはこうしたら、次はこうなるに違いないからこうしよう。この次はこうして、それが終わったら今度はこれをして、というように自分の知識に頼る。過去の経験、自分の聞いたこと、人からのこと、いろいろなことから、情報がたくさんありますから、その中から考えて「こんなことをしていたらきっとこうなるだろう」とか、その結果、いよいよ不安がきますし、心配になったりしますが、そういう自分の知識に頼らないで主に信頼していくこと、神を信じることです。そして「すべての道で主を認めよ」。「すべての道」、いうならば、生活の一つ一つの事柄、いま起こっていること、いま目の前に見ている事態や事柄、それが自分にとって思わないことや願わないことであろうと、いま神様が起こしている。そして、私にこのことを通して、何かを教えてくださるに違いない。だから、そこで主を認める、神様を認めていく。これは大きな恵みです。幸いなことです。もしこれがなかったら、私たちはいろいろな責任を背負い込まなければならない。こんなになったのは私が悪かった。ああなったのは私が悪かった。私がもっとああしておけば良かった。こうしておけば良かった、と悔やんでみたり嘆いてみたりします。しかし、そうではないのです。「すべての道で主を認める」、どんなことも神様によらないものはないのです。良いことも悪いこともなのです。人が「良い悪い」と言うのは、人が言っているだけのことで、神様はなにも言われません。自分でそのように思い込んでしまっている。だから、「すべての道で主を認めていく」。それで「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。神様を信頼して、神様の手に、神様がなさるわざのなかに委ねきっていく。一日、一日、今日一日です。イエス様が「あすのことを思いわずらうな」(マタイ 6:34)とおっしゃるのは、あすは神様が創られるからです。用意されるのは神様であって、私たちではありませんから、いくら明日のスケジュールを自分の手帳に書き込んでみたって、果たしてそのとおりになるのかどうか、これは分かりません。今日一日、今日一日、その日を神様の手に委ねて、今日私がすべきことは何でしょうか。いま私がしなければならないこと、あなたが求めていらっしゃることは何でしょうか?と、一つ一つ主に問いながら、今日の一日を生きることだけがすべてであります。明日や来年やこれから先のことは分かりません。そうなるやら、ならないやら分かりません。だから、今年も、これから先、クリスマスのスケジュールをどうして、こうしてと、あるいはあれをして、これをして、新年聖会はこれからこれまでと、いろいろなことを計画しますが、しかし、果たしてそうなるのかならないのか、これは分かりません。取りあえずそのような思いはあるかもしれないが、まずは今日です。明日はどうなるか分かりませんから、私どもは、今このところで主を認めていく。「今日、私に主がこのことを求められることですから、主にお従いしてまいります」。「神を信じる」ことは、実に痛快といいますか、楽です。こうなったら、この先こうなるぞ、ああなるぞ、ということを思わなくていい。神様を信じればいいわけですから、神様が備えられることがあるのですから、私たちは今この瞬間を神と共に生きている。神様の御心に従って自分は生きているのだ、と自覚して、そのことに努めていく。ただそれだけです。そうしていくと気がつかないうちに神様のほうが、私たちの人生の一つ一つを作り出して具体的に事を進めてくださる。だから、周囲の人々、家族のことや自分自身のことについて、こうだから、これはこれしか仕方がないとか、仕様がないとか、これはもうあきらめようとか、いろいろなことで、そうやって自分を限っているといいますか、限界を設けている、あるリミットを決めてかかっているとするならば、これは大きな間違いです。神を信じていく。そのような私たちの壁を越えて、あるいはこれは不可能と思われることすらも、神様は山を海の中にも移すことがおできになる。神を信じることは夢を大きく持つことです。こうもなるだろうし、ああもなるだろうし、こうもできるに違いない。できない、というのは間違いです。そんなことをしても、もう無理よ、この年になったらできないよ。人がいないから駄目だよ、あれはもう無理だよ、と私どもはすぐできない、…ないという方向へいく。それはいつも自分を信じようとしているからです。自分の力で、と思っているから、つい「できない」と。そうではなくて神を信じていく。神様が「よし」とおっしゃるならば、できないことはありません。祈って疑わないで信じるならば、どんなことでも神様はなし得給う御方ですから、私たちは、これもできるだろうし、それもできるし、それも不可能ではない。どんなことでもOKです。「でも、ひょっとしてそこで行き詰ったらどうしますか? 」とか、あるいは「将来、そんなことをしていたらこうなるのではないですか」と、非常にネガティブな、否定的な方向へと心が動き始めたとき、「神を信じなさい」です。

 「マルコによる福音書」11章22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。家族の救いについても、あるいはいろいろなことについて「もうあきらめよう」とか、思っていることがある。それは神を信じないからです。「神様はすべての人が悔い改めて救いにあずかることを願っておられる」とある。神様はできないことのない御方です。だから、私どもは徹底して神を信じていきたいと思います。神様を信じていくとき、「これはできるやろうかね」と言ったら、「いいのではない。できるのではない」と、答えはそれ一つです。「やめときなさい。そんなことをして、駄目よ、そんなことをしたらお金がかかるよ」とか「時間がかかるよ」「命を縮めるよ」なんて、自分の力で生きているかのように思ってしまう。既にその言葉の中に神を信じない自分がある。そうではなくて「それもいいのじゃない。それがいいと思うならそうなさったら」「大丈夫よ、あなたが神様を信じていくのだったら、どんなことでもできるから、大丈夫だよ」と、それでいいのではないでしょうか。「でも、先生、それでもし悪かったらどうしますか」と。私の責任ではない。悪かったら神様の責任です。悪いと思ったら、それをまたひっくり返して神様は無から有を創り出す。死人を生かすことができるのです。もう一度「神を信じる」ということは、どういうことなのか?そのことを自分自身に常に当てはめて行きたい。日々の生活のなかで「もうこれは駄目だわ」と思った瞬間に、「神を信じなさい」と自分自身に問いかけてみる。案外と神様を忘れているのです。いや、信じている様で実はほかのものを信じている。人を信じてみたり、自分の考えを信じてみたり、何か事情や境遇、自分の周囲の事柄を信じて、こうだから大丈夫、と思っているとするならば、これは間違い。神様がついていてくださるから大丈夫です。これが神を信じていく恵みの道です。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


最新の画像もっと見る