ヨハネによる福音書15章12節から17節までを朗読。
16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。
ここに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と記されています。今私どもはイエス様の救いにあずかって、その恵みに生かされています。この始まりは、イエス様が言われるように、「わたしがあなたがたを選んだ」という点です。しかし、現実の生活を振り返ってみると、自分で選んだような気がします。悩みの中から主を求めた。私がいろいろな事情、境遇、事柄を通して神様のところに近づいたから、この救いにあずかった、と思う現実や事実はあります。しかし、エペソ人への手紙にあるように、その背後に神様が、「天地の造られる前から」「愛のうちにあらかじめ定めて下さった」。神様のほうが、私たちよりもはるか以前に、私どものことをすべて知って、時を定めて救いに引き入れてくださった。神様からの賜物、恵みです。
イエス様の救いにあずかって、恵みに慣れてしまう、だんだんとそのことが当たり前のように思う。時には、私が選んだのだ、というように錯覚(さっかく)してしまう。だから、私が勝手に選んだのだから、用がなくなったから捨てる、離れてしまう。私たちが救いにあずかってイエス様を信じる者となったのは、私たちの努力や熱心な業によるのではない。悟りを開いてイエス様の救いを信じたのではない。確かに、導かれるいろいろな具体的なきっかけがあって、イエス様を求めたかもしれません。あるいは、それぞれの置かれた境遇によるかもしれません。私は牧師の家庭に生まれました。好き好んで生まれたわけではないのに!と大変不満であった。ほかの親の元でよかったのに、どうして牧師の家庭なのだろうかと、感謝できない、喜べない時期がありました。今はそのようなことは全くありませんし、神様の憐(あわ)れみと恵みであったと感謝せざるを得ないのです。だから、自分が選んだのではないのに、神様が勝手にこのようなところに引き入れてと思ったのです。ところが、実はそうではなくて神様の御愛と憐れみがあったからで、今は大変感謝せざるを得ない。人によっては、自分が置かれた境遇のゆえにやむなく信仰に、仕方なしに教会に引っ張ってこられた方もいるでしょう。あるいは、いろいろな問題のため、自分から進んで、自発的にイエス様を求めたから、この救いにあずかった方もいます。しかし、それがどのような状況や、事情であっても、一番の始まりは、神様が私たちに目を留めてくださったことです。
日本にはクリスチャンが、全人口の1パーセントに満ちるか満ちないか分かりませんが、百万人くらいでしょうか。そのような状況です。それを考えると、宝くじに当たるようなものでしょう。イエス様の救いにあずかることは、実に貴重な、大変まれな、宝物のようなものではないかと思います。ところが、毎週礼拝に来たり、集会に来たり、神様の許(もと)に近づいていると、当たり前のように思える。昔からそのようにして、何十年も続いている。いい加減飽いてよさそうなものだが、まだ飽きもせずに続いている、と自分で感心します。考えてみたら、大変貴重な存在であると思います。
私どもは、今こうやってイエス様を信じさせていただいたのだ。神様は私たちを選んでくださって、神様を信じる力、霊を与えてくださった。
ヨハネによる福音書1章9節から13節までを朗読。
12節に「しかし、彼を受けいれた者」、言い換えますと、イエス様を信じて、救い主と受け入れた者、「すなわち、その名を信じた人々」、イエス・キリストを信じる。「キリスト」とは、救い主という意味ですが、「その名を信じる」、イエス様を救い主と信じて、イエス様に信頼して生きるとき、「彼は神の子となる力を与えたのである」。神様のほうが、私たちに神の子となる力を与えてくださる。力、これはキリストの霊です。神様は、私たちにキリストの霊を与えてくださる、力を与えてくださる。そして、私たちに「イエスはキリスト、救い主です」と信じる力を与えてくださる。その結果、13節に「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」。このようにキリストのもの、神の子とされる。イエス・キリストを信じて神の子供としていただいたのは、私たちがイエス・キリストを受け入れる、素直に、「ああ、そうですか」と、ただ単純に信じたその瞬間に、神様はキリストの霊、力を与えてくださる。そして、「神様、あなたは私の主です」と言い得る者に変えてくださる。これが「神によって生れた」という意味です。ですから、私たちが神の子としていただいたのは、私たちの努力や熱心な業、あるいは何か研究をして、研さんを積んで、難行苦行をして、やっと悟りを開いたということではない。ただ、神様が私たちに力を与えてくださった。キリストを信じる者としてくださった。一方的な神様の業による。13節に「ただ神によって生れたのである」。だから、私たちが今イエス様を信じることができ、このように聖書の言葉を聞いて喜ぶことができる。また神様に感謝することができる者と変えられた。これはわずかな選ばれた人だけです。もし私たちが、努力して自分の業でこれを達成したと言うなら、自分を誇るでしょう。私を見てご覧なさい、こんなに努力したから、こんなことをしたから救われた。あなたたちにはできないでしょうと、結局自分の力を誇ります。自分を善しとする、義とする者となります。
ところが、私たちが何もしない、いや、できない。コリントの第一の手紙にあるように、「この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者」(1:28)、そのように、あってもなくてもいいような存在であった私たちに、あえて、神様は目を留めてくださった。このこともまた不思議としか言いようがない。どうぞ、私たちは、神様がこのようにイエス様を信じる者と変えてくださったことを、感謝していきたいと思います。そうしませんと、気がつかないうちに思いが高ぶる、心に侮るようになる。
日本は憲法で「信教の自由」が保障されています。かつて、キリシタンが弾圧を受けたような時代ではありません。どこででも、イエス様のことを聞こうと思えば聞くことができます。また多くの人がイエス様のことを耳にしている。ミッションスクールといわれている西南女学院や折尾愛真学園など、それらの学校では聖書の時間というものがあり、入学した人は聖書を買います。イエス様のお話を聞きます。では、聞いた人がみんなイエス様の救いにあずかるかというと、そうはならない。ほんのわずかな、一学年に一人か二人かいればいいくらいです。それほど貴重な存在です。そうなると、自分がちょっとほかの人と違うなと思います。そのとおりです。だからといって、自分の功績や自分の努力や自分の熱心ではない。だから、誇るべきことは何もないけれども、今、私たちがどんなに幸いな身分とされているか、このことはいくら感謝しても足りないほどです。そのことを思うなら、生活にどのような心配事や悩みがあっても、それはどうでもいい。このような素晴らしいかけがえのない救いに、神様のほうが私を選んで、導き入れてくださっていることだけで、それだけですべて解決です。与えられた恵み、選ばれ召された者であることの自覚が消えて、感謝が薄らいでいくところに問題がある。だから、絶えず自分がどのような者であったかを顧みる。イザヤ書に「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」(51:1)と言われます。
ヨハネの第一の手紙の3章1節にありますように「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」。誰でもがこの恵みにあずかるわけにはいかない。わずかな選ばれた者しかあずかることができなかったのです。それは聖書に記されているとおりです。だからといってほかの人が駄目なのではない。すべての人たちに、神様は今も呼びかけています。幸いに私たちが先に恵みにあずかっただけです。あの人は神様を知らない、救われていないと、そのような差別をするわけにはいかない。憐れみによって、早くに主が救いにあずからせてくださったのです。
16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」とあります。神様は私たちを選んだのには、その理由がある。必ず目的があります。何かを選ぶとき、これはこのことのために、これはあのことのために、と選びます。必要がないときには、それを選びません。夕食の買い物にスーパーなどに出かけます。いろいろな食材が並んでいますが、今日はカレーライスにしようとか、今日は魚の煮付けにしようとか、献立を考えて行きますから、その目的に合うものを選びます。もっとも、時には、ただ安いだけに引かれていらないものまで買います。しかし、そのときでもこれは明日使おうとか、安いので今買っといて、また使いましょう、と必ず目的がある。何にもなくて選ぶことはしません。神様もそうなのです。私たちを選んでくださったのは大きな理由がある。私たちはただ神様の救いにあずかって、恵まれた者です。感謝、感謝と思いますが、一方、神様の側からするならば、選んだご目的がある。16節に「わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた」。「立てた」という言葉は、遣(つか)わした、あるいは、そのように私たちを一つの目的のために置いたということです。志を立てるとか、あるいは何か一つの目的をはっきり決めて、そこに向かって何か始めることを、「立てる」と言います。だから「あなたがたを立てた」と言うのは、私たちを選んで、イエス様の救いに引き入れて、何か計画に従って私たちを遣わしたことがある。私たちが神様の思いにかなう者となること、これが大きな役割です。だから、神様が私を愛して、知らないうちに神様が選んで、神の子供としてくださった。うれしい、うれしいと喜んでいい。しかし、喜ぶと同時に、一方神様は私たちに期待していることがある。私たちに望んでいる、願っていることがある。それが「あなたがたを立てた」という意味です。私たちに何か目的を与えて、今置かれた所に遣わしている。
その後に「それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」と。私たちが選ばれ召されて、神様の救いにあずかって、それぞれの持ち場立場に立ててくださった。神の子供として、弟子たちにイエス様が、「わたしはあなたがたをつかわす」と言われたように、私たちをそれぞれのところに置いてくださった。それは「あなたがたが行って実をむすぶ」者となるためです。神様の実を結ぶ者となると言われると、神様は私に大変なことを期待されて、つぶれそうだ。神様、期待しないでください、私はそんなにできませんと思います。ところが、私たちに何かをせよと言われるのではない。
すぐ前の15章1節以下に「わたしはまことのぶどうの木」とイエス様は言われる。「わたしの父は農夫である」。また5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われる。私たちが選ばれた目的は、ぶどうの木であるイエス様の枝となるためです。枝となって、枝に実を結ぶ。私たちをして、神様が実を結ばせようとしている。だから、私たちが努力したり、何か一生懸命に自分の知恵や力、あるいは財や時間を費やして、何かをして世の人に喜ばれ、また世の人の役立つことなど、そのようなことを神様は求めているのではない。私たちが行って結ぶ実とは何か? それは神様のみ心にかなうことです。イエス様がぶどうの木となって、私たちを選んで、その枝としてくださった。だから、幹であるイエス様にしっかりとつながる者となるように、求めておられるのです。だから、神様から選ばれて、尊い身分とされたと感謝しています。と同時に、私たちを「立てた」とおっしゃいます。遣わしてくださったところで、ぶどうの木のイエス様に、しっかりと結びついていく、つながっていく。7節以下に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」。「わたしの言葉があなたがたにとどまっているなら」、キリストの言葉を私たちの内に蓄(たくわ)えて、イエス様の思いに絶えず満たされていること、これが「キリストにつながる」ことです。イエス様の言葉を絶えず心に置いて、どのようなときにも、どのような場合でも、主が何と言われるか、主が語ってくださる言葉は何であるか、絶えずそのことに心を向けていく。だから「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(2テモテ 2:8)とパウロは言いました。「イエス・キリストを、いつも思っている」。それはイエス様のことを心に覚える。取りも直さず、イエス様の言葉、聖書の言葉を絶えず、繰り返し、反芻(はんすう)することです。
毎日、毎日、いつも御言葉を心に思い浮かべて生活する。これは難しそうですが、実に簡単なことです。テレビを見ようと、あるいは台所仕事、洗濯をしていようと、お掃除をしていようと、あるいは散歩していようと、どのようなときにでも、御霊は主の言葉を思い起こさせてくださる。そんないつも心に置いてなんて、だんだん記憶力が薄らいできて覚えておれないし、困ったなぁと言われます。でも、大丈夫です。忘れても御霊は「わたしの語ったことを思い起こさせてくださる」と、神様の霊が、絶えず御言葉を発信してくださいます。それを絶えず受け止めていく。だから、私どもはこのように集会に近づくことができる。「今は恵みのとき、救いの日」、このように集会に近づいて、また、朝ごとに聖書を開いて読み、事あるごとにお祈りをしていますと、いつも御言葉が浮かんできます。いつ聞いたとも分からない言葉を、御霊が心に思い起こさせてくださいます。「そういえば、聖書の御言葉にこれがあったな」。「こういうお言葉もあったな」と、それがどこにあったかは分からなくても、御霊が働きかけて思い起こさせてくださいます。これはどうだとか、あれはこうだとか、考えている心に御言葉が力をもって迫ってくださいます。そうしますと、自分の思っていること、考えていることが、これは間違っているな、いや、これはやはり大切だからしておかなければいけないな、と御言葉が裏づけとなって、私たちを励ましてくださる。あるいはとどめてくださる。あるいは、促(うなが)してくださる。新しい思いを与えてくださったりする。だから、いつもイエス様のことを心に置いて歩んでいきますと、生活に知恵も与えられます。どうしようか、と思ったときに「主よ、どうしましょうか」と、心で祈ってご覧なさい。主に心を向けてご覧なさい。「ここはこうしたらいいに違いない」と、新しいアイデアといいますか、考えを神様は与えてくださいます。自分の考えでやっていると、人の考えは狭いですから、固定観念があるので、一つの枠に捕らわれてしまって、そこからどうしても離れられない。
家内がそう言うのですけれども、一つのことで行き詰って「これしかしようがない。この後どうしたらいい?」と尋ねてくる。私は「だったら、ここをこうして、ああしたら、事がいくじゃない」「あ、考えつかなかった。どうしてそんなことが分かったの」と聞かれます。別に私は考えたわけではない。「主よ、どうしましょうか」とお祈りしたとき、神様がちゃんと「こうしたらいい」と知恵を与えてくださいます。不思議なように神様は教えてくださる。だから、自分だけで考えて計画算段していると、行き詰る。これしかしようがないと。ところが、キリストのうちに知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。イエス様、教えてください。主よ、教えてください。知恵を与えてください、と求めてご覧なさい。瞬時に、今まで自分では到底そのような考えができないのに、コロッと変わって、物の見方が別の方向から新しいひらめき、何かをちゃんと教えてくださいます。これは不思議です。御霊が、神の霊が働いてくださるからです。7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」と。キリストの言葉がいつも私たちの心に留まっている。そうしますと、もうこれしかないとか、もうこれでおしまい、どう考えてもこれしか方法がない、という時にも、神様は思いがけない道を教えてくださいます。これは確かなことです。なぜならば、イエス様につながって、イエス様のエネルギーといいますか、力が私たちにあふれてくる、通ってくるから。そのためにいつもイエス様とのチャンネル、流れを詰まらせないように。いつもイエス様と私との間に、親しい交わりが絶えずあること。そのために静まって密室の交わりも大切です。と同時にたとえ忙しくても、何をしていても、心がいつも主に向いていることです。これは努力しなければ身につきません。訓練が必要です。
パウロも「敬虔(けいけん)を修行せよ」(Ⅰテモテ 4:7文語訳)と言っています。ブラザー・ローレンスという人が書いた『敬虔の生涯』という小冊子があります。その本を読みますと、彼はカトリックの修道僧でありましたので、生涯を修道院の台所で送った人です。ところが、彼は大変恵まれた。なぜ恵まれたか? 台所仕事をしながら、いろいろな生活雑用をしながら、いつも主との交わりの中に置かれた。そのときの経験を書いて友人に出した手紙が集められて、死後まとめられた本です。彼は、忙しくて朝から晩まで台所で多くの修道僧の食事の準備で、下働きばかりをしていたのです。しかし、感謝を欠かしたことがない。喜んで、喜んで生涯を送った。その秘訣は何だったのか? どんなときにもイエス様を思う思いを欠かしたことがない。そのような敬虔な生涯、神様との交わり、キリストと共にある生涯を修行しなければならない。修行するという言い方は、何か困難を伴うようですが、何も困難なことではない。いつもイエス様のことを思うのです。人のことを思うよりも、自分のことを思うよりも、まずイエス様を思う癖をつける、そのような習慣づけをしさえすれば、おのずから、主が何とおっしゃるだろうか、いろいろなことを判断するときにも、自分の思いが先に出ない。「イエス様、ここはどうしたらいいのでしょうか」、思わず知らず心の中で主に語りかけていく習慣が身についてくる。これは心がけないとできないことです。しかし、そのようにイエス様を求めていくとき、御霊は絶えず折に合う御言葉を備えてくださり、思い起こさせてくださいます。そして私たちの知恵となり、力となり、具体的な歩みを備えてくださいます。
私たちは常に自分に凝(こ)り固まりやすいのです。自分のことばかりを考える。自分の立場とかメンツとか、あるいは、人はどう思うと、人のことばかりを考える。そんなことは考えなくていい、イエス様だけですよ。これが「主につながる」ことです。
16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた」と、主が私たちを「立てた」。「それは、あなたがたが行って実をむすび」と、その実を結ぶ方法は、今申し上げましたように、いつもイエス様につながる、これだけです。主につながって生活していると、日々の歩みの中に実が実っていく。その実は農夫でいらっしゃる父なる神様が、喜ぶ実です。神様を喜ばせる実となる。だから、神様を喜ばせる実は何だろうか、なんてそのようなことをせん索する必要はない、考える必要はない、悩む必要はない。ただどんなことでもイエス様にだけつながることを努めていきさえすれば、実がおのずからついてきます。父なる神様が喜んで収穫してくださる。
そして、「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。これは素晴らしい。イエス様の名によって私たちが求める。ぶどうの木でいらっしゃるイエス様にぴたっと結びついていくと、私たちはキリストのものです。枝だから幹とは違うとは言えない。ぴったり枝が幹に連なったら、それが全体でぶどうの木です。父なる神様のものなのです。農夫でいらっしゃる神様の大切なものです。言うならば神様の子供です。キリストと同じものです。私たちは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。キリストの身丈(みたけ)にまで、キリストと同じものに造り変えてくださる。それは、父なる神様が私たちの文字どおりお父さんになる。子供が親に求めるのに、親が答えないことがあろうかと、イエス様は言われます。「自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」( マタイ7:9,10)と。それどころか、人の親ですら何とかして子供に良きものを与えようとするではないか。ましてや、天の父はあなたがたに必要なことはすでにご存じであると言われます。
ここで、教えられることですが「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」というこの言葉は、お祈りしたら答えられる、という意味でもありますが、それはあくまでも表面的な意味です。ここで言っていることは、もうあなたがたは神の子供なのだから、父なる神様と親子なのだから、何でも求めたらいいではないか、神様は答えないはずがあろうか、何で遠慮するのですか、あなたはもう神の子ですよ。あなたのお父さんは、天の父なる神様ではないですか。ところが、私どもはまだ「天のお父様」と言いながら、どうもあのお父さんは苦手だ、と思っている。何か言ったらろくなものはくれやしないし、何かしかられやしないかしらと、そんな思いを持ちます。そこが私たちのいけないところです。ここでイエス様はそのように言われる。あなたのお父さんなのだから、必要があったら何でも求めたらいいではないかと。ところが、私どもは、そのように思えないでいるところに問題がある。それは、神の子であるという自覚がないからです。私は、ひとり子を賜ったほどの限りない愛をもって、命をもってあがなわれ、神の子供としていただいた。父なる神様の子供なのだ。神様が私の後ろ盾であり、私のすべてであり、私を握ってくださっているのだ。私どもに何か足らないことがあり、何か不足がありますか。神様に求めさえすれば、どのようなことでも神様は応えてくださらないはずがないではないか。だから、お祈りして、神様は聞いてくださるだろうか、くださらないだろうか、そんなことを思っている間は、まだ神の子供の半人前でしょう。本当に神様の子供になりきってしまう。主が、私たちのお父さんとなってくださっているから、だから、求めなさい、とおっしゃるのです。これは特別なことではない。皆さんも、自分の親に、どのようなことでも求めるではないですか。そして親は子供のことを思います。人の親ですらも子供のことを思います。ましてや、神様は、あなたがたは神の子供だ、あなたがたを選んだとおっしゃっている。それなのになぜ私たちは心配するのでしょうか。なぜ私たちは不安になったり恐れたり、失望落胆する必要があるのでしょうか。
16節に「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。父と言うのは、イエス様の父で、私の父ではない、と思ったら大間違いです。イエス様と私たちは一心同体、つながった幹と枝なのですから、イエス様が父と言う以上、私たちにとっても父です。その父なる神様に求めなさいと。神様は不肖の息子ほど可愛いですよ。自分は出来のいい息子と思いますか。父なる神様に心配ばかりかけている、なおのこと、神様はわたし達を本当に心がけていてくださる、顧(かえり)みてくださっている。だから、私たちは感謝したらいいのです。そのように私たちをキリストに結びついた者としてくださる。私たちは選ばれて、イエス様の幹に連なって、実を結ぶだけ。こんな幸いな生涯はありません。何もしないでいいのです。ただ、イエス様、イエス様と主を求めて、イエス様に連なっていると、父なる神様が、私たちを手入れして良いものとしてくださる。
そのすぐ前に「その実がいつまでも残るためであり」とあります。「いつまでも残る」、それは私たちが死んでも天に蓄えられている「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」(Ⅰペテロ 1:4)となって、キリストの所にすべての収穫した実を天国の倉に蓄えてくださっている。やがて私たちが天に帰って行きます。「お前の実はここにたくさん蓄えられている」。天に宝を積む者と変えてくださる。行ってみたら私の倉は空っぽだったとならないように。その秘訣はただ一つ、幹でいらっしゃるイエス様にぴったり絶えずくっついて、どのようなときにも、主よ、主よと、イエス様の言葉にしっかり根差して生きる者でありたいと思います。遣わしてくださり、私たちを選んで立ててくださったご目的はそこにあるからです。それによって父なる神の栄光が現れるためと。先ほどの8節に「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」。神様が栄光をお受けくださる。神様の栄光を現すことができるのはただ一つだけ。私どもがイエス様の弟子となって、イエス様ときっちりと結びついていくときです。それが父なる神様の栄光です。
主の栄光にあずかる生涯を歩ませていただきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。
ここに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と記されています。今私どもはイエス様の救いにあずかって、その恵みに生かされています。この始まりは、イエス様が言われるように、「わたしがあなたがたを選んだ」という点です。しかし、現実の生活を振り返ってみると、自分で選んだような気がします。悩みの中から主を求めた。私がいろいろな事情、境遇、事柄を通して神様のところに近づいたから、この救いにあずかった、と思う現実や事実はあります。しかし、エペソ人への手紙にあるように、その背後に神様が、「天地の造られる前から」「愛のうちにあらかじめ定めて下さった」。神様のほうが、私たちよりもはるか以前に、私どものことをすべて知って、時を定めて救いに引き入れてくださった。神様からの賜物、恵みです。
イエス様の救いにあずかって、恵みに慣れてしまう、だんだんとそのことが当たり前のように思う。時には、私が選んだのだ、というように錯覚(さっかく)してしまう。だから、私が勝手に選んだのだから、用がなくなったから捨てる、離れてしまう。私たちが救いにあずかってイエス様を信じる者となったのは、私たちの努力や熱心な業によるのではない。悟りを開いてイエス様の救いを信じたのではない。確かに、導かれるいろいろな具体的なきっかけがあって、イエス様を求めたかもしれません。あるいは、それぞれの置かれた境遇によるかもしれません。私は牧師の家庭に生まれました。好き好んで生まれたわけではないのに!と大変不満であった。ほかの親の元でよかったのに、どうして牧師の家庭なのだろうかと、感謝できない、喜べない時期がありました。今はそのようなことは全くありませんし、神様の憐(あわ)れみと恵みであったと感謝せざるを得ないのです。だから、自分が選んだのではないのに、神様が勝手にこのようなところに引き入れてと思ったのです。ところが、実はそうではなくて神様の御愛と憐れみがあったからで、今は大変感謝せざるを得ない。人によっては、自分が置かれた境遇のゆえにやむなく信仰に、仕方なしに教会に引っ張ってこられた方もいるでしょう。あるいは、いろいろな問題のため、自分から進んで、自発的にイエス様を求めたから、この救いにあずかった方もいます。しかし、それがどのような状況や、事情であっても、一番の始まりは、神様が私たちに目を留めてくださったことです。
日本にはクリスチャンが、全人口の1パーセントに満ちるか満ちないか分かりませんが、百万人くらいでしょうか。そのような状況です。それを考えると、宝くじに当たるようなものでしょう。イエス様の救いにあずかることは、実に貴重な、大変まれな、宝物のようなものではないかと思います。ところが、毎週礼拝に来たり、集会に来たり、神様の許(もと)に近づいていると、当たり前のように思える。昔からそのようにして、何十年も続いている。いい加減飽いてよさそうなものだが、まだ飽きもせずに続いている、と自分で感心します。考えてみたら、大変貴重な存在であると思います。
私どもは、今こうやってイエス様を信じさせていただいたのだ。神様は私たちを選んでくださって、神様を信じる力、霊を与えてくださった。
ヨハネによる福音書1章9節から13節までを朗読。
12節に「しかし、彼を受けいれた者」、言い換えますと、イエス様を信じて、救い主と受け入れた者、「すなわち、その名を信じた人々」、イエス・キリストを信じる。「キリスト」とは、救い主という意味ですが、「その名を信じる」、イエス様を救い主と信じて、イエス様に信頼して生きるとき、「彼は神の子となる力を与えたのである」。神様のほうが、私たちに神の子となる力を与えてくださる。力、これはキリストの霊です。神様は、私たちにキリストの霊を与えてくださる、力を与えてくださる。そして、私たちに「イエスはキリスト、救い主です」と信じる力を与えてくださる。その結果、13節に「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」。このようにキリストのもの、神の子とされる。イエス・キリストを信じて神の子供としていただいたのは、私たちがイエス・キリストを受け入れる、素直に、「ああ、そうですか」と、ただ単純に信じたその瞬間に、神様はキリストの霊、力を与えてくださる。そして、「神様、あなたは私の主です」と言い得る者に変えてくださる。これが「神によって生れた」という意味です。ですから、私たちが神の子としていただいたのは、私たちの努力や熱心な業、あるいは何か研究をして、研さんを積んで、難行苦行をして、やっと悟りを開いたということではない。ただ、神様が私たちに力を与えてくださった。キリストを信じる者としてくださった。一方的な神様の業による。13節に「ただ神によって生れたのである」。だから、私たちが今イエス様を信じることができ、このように聖書の言葉を聞いて喜ぶことができる。また神様に感謝することができる者と変えられた。これはわずかな選ばれた人だけです。もし私たちが、努力して自分の業でこれを達成したと言うなら、自分を誇るでしょう。私を見てご覧なさい、こんなに努力したから、こんなことをしたから救われた。あなたたちにはできないでしょうと、結局自分の力を誇ります。自分を善しとする、義とする者となります。
ところが、私たちが何もしない、いや、できない。コリントの第一の手紙にあるように、「この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者」(1:28)、そのように、あってもなくてもいいような存在であった私たちに、あえて、神様は目を留めてくださった。このこともまた不思議としか言いようがない。どうぞ、私たちは、神様がこのようにイエス様を信じる者と変えてくださったことを、感謝していきたいと思います。そうしませんと、気がつかないうちに思いが高ぶる、心に侮るようになる。
日本は憲法で「信教の自由」が保障されています。かつて、キリシタンが弾圧を受けたような時代ではありません。どこででも、イエス様のことを聞こうと思えば聞くことができます。また多くの人がイエス様のことを耳にしている。ミッションスクールといわれている西南女学院や折尾愛真学園など、それらの学校では聖書の時間というものがあり、入学した人は聖書を買います。イエス様のお話を聞きます。では、聞いた人がみんなイエス様の救いにあずかるかというと、そうはならない。ほんのわずかな、一学年に一人か二人かいればいいくらいです。それほど貴重な存在です。そうなると、自分がちょっとほかの人と違うなと思います。そのとおりです。だからといって、自分の功績や自分の努力や自分の熱心ではない。だから、誇るべきことは何もないけれども、今、私たちがどんなに幸いな身分とされているか、このことはいくら感謝しても足りないほどです。そのことを思うなら、生活にどのような心配事や悩みがあっても、それはどうでもいい。このような素晴らしいかけがえのない救いに、神様のほうが私を選んで、導き入れてくださっていることだけで、それだけですべて解決です。与えられた恵み、選ばれ召された者であることの自覚が消えて、感謝が薄らいでいくところに問題がある。だから、絶えず自分がどのような者であったかを顧みる。イザヤ書に「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」(51:1)と言われます。
ヨハネの第一の手紙の3章1節にありますように「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」。誰でもがこの恵みにあずかるわけにはいかない。わずかな選ばれた者しかあずかることができなかったのです。それは聖書に記されているとおりです。だからといってほかの人が駄目なのではない。すべての人たちに、神様は今も呼びかけています。幸いに私たちが先に恵みにあずかっただけです。あの人は神様を知らない、救われていないと、そのような差別をするわけにはいかない。憐れみによって、早くに主が救いにあずからせてくださったのです。
16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」とあります。神様は私たちを選んだのには、その理由がある。必ず目的があります。何かを選ぶとき、これはこのことのために、これはあのことのために、と選びます。必要がないときには、それを選びません。夕食の買い物にスーパーなどに出かけます。いろいろな食材が並んでいますが、今日はカレーライスにしようとか、今日は魚の煮付けにしようとか、献立を考えて行きますから、その目的に合うものを選びます。もっとも、時には、ただ安いだけに引かれていらないものまで買います。しかし、そのときでもこれは明日使おうとか、安いので今買っといて、また使いましょう、と必ず目的がある。何にもなくて選ぶことはしません。神様もそうなのです。私たちを選んでくださったのは大きな理由がある。私たちはただ神様の救いにあずかって、恵まれた者です。感謝、感謝と思いますが、一方、神様の側からするならば、選んだご目的がある。16節に「わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた」。「立てた」という言葉は、遣(つか)わした、あるいは、そのように私たちを一つの目的のために置いたということです。志を立てるとか、あるいは何か一つの目的をはっきり決めて、そこに向かって何か始めることを、「立てる」と言います。だから「あなたがたを立てた」と言うのは、私たちを選んで、イエス様の救いに引き入れて、何か計画に従って私たちを遣わしたことがある。私たちが神様の思いにかなう者となること、これが大きな役割です。だから、神様が私を愛して、知らないうちに神様が選んで、神の子供としてくださった。うれしい、うれしいと喜んでいい。しかし、喜ぶと同時に、一方神様は私たちに期待していることがある。私たちに望んでいる、願っていることがある。それが「あなたがたを立てた」という意味です。私たちに何か目的を与えて、今置かれた所に遣わしている。
その後に「それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」と。私たちが選ばれ召されて、神様の救いにあずかって、それぞれの持ち場立場に立ててくださった。神の子供として、弟子たちにイエス様が、「わたしはあなたがたをつかわす」と言われたように、私たちをそれぞれのところに置いてくださった。それは「あなたがたが行って実をむすぶ」者となるためです。神様の実を結ぶ者となると言われると、神様は私に大変なことを期待されて、つぶれそうだ。神様、期待しないでください、私はそんなにできませんと思います。ところが、私たちに何かをせよと言われるのではない。
すぐ前の15章1節以下に「わたしはまことのぶどうの木」とイエス様は言われる。「わたしの父は農夫である」。また5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われる。私たちが選ばれた目的は、ぶどうの木であるイエス様の枝となるためです。枝となって、枝に実を結ぶ。私たちをして、神様が実を結ばせようとしている。だから、私たちが努力したり、何か一生懸命に自分の知恵や力、あるいは財や時間を費やして、何かをして世の人に喜ばれ、また世の人の役立つことなど、そのようなことを神様は求めているのではない。私たちが行って結ぶ実とは何か? それは神様のみ心にかなうことです。イエス様がぶどうの木となって、私たちを選んで、その枝としてくださった。だから、幹であるイエス様にしっかりとつながる者となるように、求めておられるのです。だから、神様から選ばれて、尊い身分とされたと感謝しています。と同時に、私たちを「立てた」とおっしゃいます。遣わしてくださったところで、ぶどうの木のイエス様に、しっかりと結びついていく、つながっていく。7節以下に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」。「わたしの言葉があなたがたにとどまっているなら」、キリストの言葉を私たちの内に蓄(たくわ)えて、イエス様の思いに絶えず満たされていること、これが「キリストにつながる」ことです。イエス様の言葉を絶えず心に置いて、どのようなときにも、どのような場合でも、主が何と言われるか、主が語ってくださる言葉は何であるか、絶えずそのことに心を向けていく。だから「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(2テモテ 2:8)とパウロは言いました。「イエス・キリストを、いつも思っている」。それはイエス様のことを心に覚える。取りも直さず、イエス様の言葉、聖書の言葉を絶えず、繰り返し、反芻(はんすう)することです。
毎日、毎日、いつも御言葉を心に思い浮かべて生活する。これは難しそうですが、実に簡単なことです。テレビを見ようと、あるいは台所仕事、洗濯をしていようと、お掃除をしていようと、あるいは散歩していようと、どのようなときにでも、御霊は主の言葉を思い起こさせてくださる。そんないつも心に置いてなんて、だんだん記憶力が薄らいできて覚えておれないし、困ったなぁと言われます。でも、大丈夫です。忘れても御霊は「わたしの語ったことを思い起こさせてくださる」と、神様の霊が、絶えず御言葉を発信してくださいます。それを絶えず受け止めていく。だから、私どもはこのように集会に近づくことができる。「今は恵みのとき、救いの日」、このように集会に近づいて、また、朝ごとに聖書を開いて読み、事あるごとにお祈りをしていますと、いつも御言葉が浮かんできます。いつ聞いたとも分からない言葉を、御霊が心に思い起こさせてくださいます。「そういえば、聖書の御言葉にこれがあったな」。「こういうお言葉もあったな」と、それがどこにあったかは分からなくても、御霊が働きかけて思い起こさせてくださいます。これはどうだとか、あれはこうだとか、考えている心に御言葉が力をもって迫ってくださいます。そうしますと、自分の思っていること、考えていることが、これは間違っているな、いや、これはやはり大切だからしておかなければいけないな、と御言葉が裏づけとなって、私たちを励ましてくださる。あるいはとどめてくださる。あるいは、促(うなが)してくださる。新しい思いを与えてくださったりする。だから、いつもイエス様のことを心に置いて歩んでいきますと、生活に知恵も与えられます。どうしようか、と思ったときに「主よ、どうしましょうか」と、心で祈ってご覧なさい。主に心を向けてご覧なさい。「ここはこうしたらいいに違いない」と、新しいアイデアといいますか、考えを神様は与えてくださいます。自分の考えでやっていると、人の考えは狭いですから、固定観念があるので、一つの枠に捕らわれてしまって、そこからどうしても離れられない。
家内がそう言うのですけれども、一つのことで行き詰って「これしかしようがない。この後どうしたらいい?」と尋ねてくる。私は「だったら、ここをこうして、ああしたら、事がいくじゃない」「あ、考えつかなかった。どうしてそんなことが分かったの」と聞かれます。別に私は考えたわけではない。「主よ、どうしましょうか」とお祈りしたとき、神様がちゃんと「こうしたらいい」と知恵を与えてくださいます。不思議なように神様は教えてくださる。だから、自分だけで考えて計画算段していると、行き詰る。これしかしようがないと。ところが、キリストのうちに知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。イエス様、教えてください。主よ、教えてください。知恵を与えてください、と求めてご覧なさい。瞬時に、今まで自分では到底そのような考えができないのに、コロッと変わって、物の見方が別の方向から新しいひらめき、何かをちゃんと教えてくださいます。これは不思議です。御霊が、神の霊が働いてくださるからです。7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」と。キリストの言葉がいつも私たちの心に留まっている。そうしますと、もうこれしかないとか、もうこれでおしまい、どう考えてもこれしか方法がない、という時にも、神様は思いがけない道を教えてくださいます。これは確かなことです。なぜならば、イエス様につながって、イエス様のエネルギーといいますか、力が私たちにあふれてくる、通ってくるから。そのためにいつもイエス様とのチャンネル、流れを詰まらせないように。いつもイエス様と私との間に、親しい交わりが絶えずあること。そのために静まって密室の交わりも大切です。と同時にたとえ忙しくても、何をしていても、心がいつも主に向いていることです。これは努力しなければ身につきません。訓練が必要です。
パウロも「敬虔(けいけん)を修行せよ」(Ⅰテモテ 4:7文語訳)と言っています。ブラザー・ローレンスという人が書いた『敬虔の生涯』という小冊子があります。その本を読みますと、彼はカトリックの修道僧でありましたので、生涯を修道院の台所で送った人です。ところが、彼は大変恵まれた。なぜ恵まれたか? 台所仕事をしながら、いろいろな生活雑用をしながら、いつも主との交わりの中に置かれた。そのときの経験を書いて友人に出した手紙が集められて、死後まとめられた本です。彼は、忙しくて朝から晩まで台所で多くの修道僧の食事の準備で、下働きばかりをしていたのです。しかし、感謝を欠かしたことがない。喜んで、喜んで生涯を送った。その秘訣は何だったのか? どんなときにもイエス様を思う思いを欠かしたことがない。そのような敬虔な生涯、神様との交わり、キリストと共にある生涯を修行しなければならない。修行するという言い方は、何か困難を伴うようですが、何も困難なことではない。いつもイエス様のことを思うのです。人のことを思うよりも、自分のことを思うよりも、まずイエス様を思う癖をつける、そのような習慣づけをしさえすれば、おのずから、主が何とおっしゃるだろうか、いろいろなことを判断するときにも、自分の思いが先に出ない。「イエス様、ここはどうしたらいいのでしょうか」、思わず知らず心の中で主に語りかけていく習慣が身についてくる。これは心がけないとできないことです。しかし、そのようにイエス様を求めていくとき、御霊は絶えず折に合う御言葉を備えてくださり、思い起こさせてくださいます。そして私たちの知恵となり、力となり、具体的な歩みを備えてくださいます。
私たちは常に自分に凝(こ)り固まりやすいのです。自分のことばかりを考える。自分の立場とかメンツとか、あるいは、人はどう思うと、人のことばかりを考える。そんなことは考えなくていい、イエス様だけですよ。これが「主につながる」ことです。
16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた」と、主が私たちを「立てた」。「それは、あなたがたが行って実をむすび」と、その実を結ぶ方法は、今申し上げましたように、いつもイエス様につながる、これだけです。主につながって生活していると、日々の歩みの中に実が実っていく。その実は農夫でいらっしゃる父なる神様が、喜ぶ実です。神様を喜ばせる実となる。だから、神様を喜ばせる実は何だろうか、なんてそのようなことをせん索する必要はない、考える必要はない、悩む必要はない。ただどんなことでもイエス様にだけつながることを努めていきさえすれば、実がおのずからついてきます。父なる神様が喜んで収穫してくださる。
そして、「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。これは素晴らしい。イエス様の名によって私たちが求める。ぶどうの木でいらっしゃるイエス様にぴたっと結びついていくと、私たちはキリストのものです。枝だから幹とは違うとは言えない。ぴったり枝が幹に連なったら、それが全体でぶどうの木です。父なる神様のものなのです。農夫でいらっしゃる神様の大切なものです。言うならば神様の子供です。キリストと同じものです。私たちは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。キリストの身丈(みたけ)にまで、キリストと同じものに造り変えてくださる。それは、父なる神様が私たちの文字どおりお父さんになる。子供が親に求めるのに、親が答えないことがあろうかと、イエス様は言われます。「自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」( マタイ7:9,10)と。それどころか、人の親ですら何とかして子供に良きものを与えようとするではないか。ましてや、天の父はあなたがたに必要なことはすでにご存じであると言われます。
ここで、教えられることですが「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」というこの言葉は、お祈りしたら答えられる、という意味でもありますが、それはあくまでも表面的な意味です。ここで言っていることは、もうあなたがたは神の子供なのだから、父なる神様と親子なのだから、何でも求めたらいいではないか、神様は答えないはずがあろうか、何で遠慮するのですか、あなたはもう神の子ですよ。あなたのお父さんは、天の父なる神様ではないですか。ところが、私どもはまだ「天のお父様」と言いながら、どうもあのお父さんは苦手だ、と思っている。何か言ったらろくなものはくれやしないし、何かしかられやしないかしらと、そんな思いを持ちます。そこが私たちのいけないところです。ここでイエス様はそのように言われる。あなたのお父さんなのだから、必要があったら何でも求めたらいいではないかと。ところが、私どもは、そのように思えないでいるところに問題がある。それは、神の子であるという自覚がないからです。私は、ひとり子を賜ったほどの限りない愛をもって、命をもってあがなわれ、神の子供としていただいた。父なる神様の子供なのだ。神様が私の後ろ盾であり、私のすべてであり、私を握ってくださっているのだ。私どもに何か足らないことがあり、何か不足がありますか。神様に求めさえすれば、どのようなことでも神様は応えてくださらないはずがないではないか。だから、お祈りして、神様は聞いてくださるだろうか、くださらないだろうか、そんなことを思っている間は、まだ神の子供の半人前でしょう。本当に神様の子供になりきってしまう。主が、私たちのお父さんとなってくださっているから、だから、求めなさい、とおっしゃるのです。これは特別なことではない。皆さんも、自分の親に、どのようなことでも求めるではないですか。そして親は子供のことを思います。人の親ですらも子供のことを思います。ましてや、神様は、あなたがたは神の子供だ、あなたがたを選んだとおっしゃっている。それなのになぜ私たちは心配するのでしょうか。なぜ私たちは不安になったり恐れたり、失望落胆する必要があるのでしょうか。
16節に「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。父と言うのは、イエス様の父で、私の父ではない、と思ったら大間違いです。イエス様と私たちは一心同体、つながった幹と枝なのですから、イエス様が父と言う以上、私たちにとっても父です。その父なる神様に求めなさいと。神様は不肖の息子ほど可愛いですよ。自分は出来のいい息子と思いますか。父なる神様に心配ばかりかけている、なおのこと、神様はわたし達を本当に心がけていてくださる、顧(かえり)みてくださっている。だから、私たちは感謝したらいいのです。そのように私たちをキリストに結びついた者としてくださる。私たちは選ばれて、イエス様の幹に連なって、実を結ぶだけ。こんな幸いな生涯はありません。何もしないでいいのです。ただ、イエス様、イエス様と主を求めて、イエス様に連なっていると、父なる神様が、私たちを手入れして良いものとしてくださる。
そのすぐ前に「その実がいつまでも残るためであり」とあります。「いつまでも残る」、それは私たちが死んでも天に蓄えられている「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」(Ⅰペテロ 1:4)となって、キリストの所にすべての収穫した実を天国の倉に蓄えてくださっている。やがて私たちが天に帰って行きます。「お前の実はここにたくさん蓄えられている」。天に宝を積む者と変えてくださる。行ってみたら私の倉は空っぽだったとならないように。その秘訣はただ一つ、幹でいらっしゃるイエス様にぴったり絶えずくっついて、どのようなときにも、主よ、主よと、イエス様の言葉にしっかり根差して生きる者でありたいと思います。遣わしてくださり、私たちを選んで立ててくださったご目的はそこにあるからです。それによって父なる神の栄光が現れるためと。先ほどの8節に「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」。神様が栄光をお受けくださる。神様の栄光を現すことができるのはただ一つだけ。私どもがイエス様の弟子となって、イエス様ときっちりと結びついていくときです。それが父なる神様の栄光です。
主の栄光にあずかる生涯を歩ませていただきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。