いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(243)「あなたを生かすもの」

2014年06月28日 | 聖書からのメッセージ

 イザヤ書55章1節から5節までを朗読。

 

 3節「耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える」。

 

前半に「耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる」とあります。またその前の2節の終わりには、「わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができる」ともあります。

 私どもは神様に祈ることを勧められ、また、神様は憐(あわ)れみをもって私たちの祈りを聞いてくださいます。これは幸いな恵みです。ただ、私たちが祈る時、自分の思いを知ってもらいたい、自分の願いを聞いてもらいたいということのほうが中心です。神様のみ声を聞こうというよりは、「神様、私の声を聞いてください」「私の言う事をちゃんと知ってください」「私の思いを知ってください」というのが、祈りの中心になります。それは幸いなことだし、それを神様は喜んでくださいます。だから「そのみ前にあなたがたの心を注ぎだせ」(詩篇62:9)と勧められています。「注ぎだせ」とは、心にあるものをすべて神様の前に言い表しなさい、「お祈りをする」ことです。これは私たちの特権であり、恵みであり、また私たちに対する神様の憐れみでもあります。祈らなければ心を神様の前に整えることができません。

 

教会で「お祈りしましょうね」「お祈りしときます」としばしば言います。あるいは「先生、このことが心配です」と言われ、「そうですか。では、お祈りしていますからね。あなたもお祈りしていらっしゃい」と勧めます。最近、少し疑問に思うのです。「本当に皆さんはお祈りしているのだろうか」と気になりました。「お祈りしています」と言っただけで、本当に祈らなければ意味がない。「私はお祈りしています」という方に「どんな風に?私の前でお祈りをしてみてください」と、一人一人面接して聴いてみたい。「私は黙祷をしております」と言う。黙祷も祈りではありますが、それは限られた場合の時です。神様の前に声を出して祈ることが大切です。黙祷していたら、心がさ迷って何を祈っているのか分からなくなります。黙祷していたら、居眠っていたり、今日のスケジュールのことに思いがさ迷ってしまう。皆さんは知っているものと思って、これまで「お祈りしましょう。お祈りしていたら大丈夫ですよ」と言いました。「はい、分かりました」と言われるけれども、そのあとの追跡調査をしていませんから、祈っているかどうか分かりません。長年教会に来ていても直接祈っている状況を見ていない。どのようになっているのか分かりません。ご自身の祈りの時を振り返ってみてください。神様と交わる時を必ず持つことが大切です。聖書を開いて、自分の決めた聖書の箇所を毎日読むこと、これも大切です。と、同時に祈ること。その時、必ず自分で声を出して祈ってください。「自分のへやにはいり、戸を閉じて」とマタイによる福音書にあります。「隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(6:6)と。「自分の部屋がない」と言われますが、トイレでも、お風呂の中でもいいですよ。そこで声を出して、「天のお父様」、まず言葉に出して祈ることが大切です。よく世間では「祈り心になる」などと言いますが、そのような祈り心なんて有るか無いかわからない、あやふやなことではなく、はっきり祈らなければ駄目です。このことについて、あのことについて、私はこういう願いを持ち、こういう思いを持ち、こういう心であると、自分の言葉で「言語化する」こと。これが大切です。

 

と言いますのは、私たちの心の発達に言葉が大変深く関わっているのです。幼児期、生まれた赤ちゃんがだんだんと成長して言葉を獲得していきます。それによって自分を知るのです。言葉がないと自分が何者であるか分かりません。だから、世界には何千となく言語がありますが、言葉を使うことは、人間特有のものであると同時に、それが私たちの心と魂の養いに非常に深く関わりがあるのです。心の中に闇のようなと言いますか、黒い雲のような、霧のようなものがズーッと流れています。うれしかったり、悲しかったり、明るかったり、暗く落ち込んだり、気分と言いますか、ムードでいつも動かされている。今朝起きてから今に至るまで、自分の感情、心の動きを振り返ってみたら、言うに言えない、言葉にならないモヤーッとしたもので心が覆われている。その中から選びながら、今日はあれをして、これをしてと、自分で考えながら生活しています。形にならないものが言葉を通して具体化していくのです。「声を出して」と言いますが、たとえ音声を出さなくても、頭の中で言葉が常に流れています。言葉によって考えている。考えない世界は今申し上げたように漠然としたモヤーッとした世界です。その中から、ある一部分だけを言葉に変えて、「今から朝食をしよう」とか、「今晩のメニューは何にしようか」とか、「このあと1時間ほど時間があるな」とか、いろいろなことを言葉で考えながら、自分のモヤーッとした世界を一つ一つ具体的な形に変えていく、これが「言語化」、言葉の役割です。だから、病気で脳がダメージを受けて失語症になります。言葉が発せられなくなり、分からなくなると思考ができません。考えることができない。記憶ができません。だから、言葉は非常に大切なのです。皆さんは失語症ではないと思いますが、神様の前に失語症になっている。言葉を失っている。これは誠にもったいない話です。密室の閉ざされた中に入って、言葉を発して、神様に自分の心の内を言葉で表すことによって、初めて自分の中にある悲しみであるとか、恐れであるとか、不安が具体的な形になってくる。それがはっきりしてくるのです。漠然とお祈りしようと思って、「何をお祈りするかな。……、まぁ、いいや。神様、有難うございます、今日も一日よろしく」と。それで「祈った」と思っている。それではいつまでも自分の心の中にある様々な思いが解消しない。神様の前にきちっと届かない。もちろん、神様は私たちのことをすべてご存じですから、そのような「言葉にあらわせない切なるうめきをもって」(ローマ8:26)、私たちの言う事を聞いてくださいます。確かに、いくら言葉で尽くしても自分の心の隅から隅までの全部を言葉で言い尽くすことはできません。しかしわずかな言葉、「主よ、苦しいです」と一言言うことによって、その苦しみのもっと細やかなひだのようなものまでも神様は全部知ってくださる。ただ、その最初の手掛かりとして、私たちが言葉で、具体的に神様の前に語り出すということが「祈り」です。私どもは自分で祈ることを訓練しなければならない。最初は人まねでもいいのです。あるいは、何か紙に書いたものを読んでもいいのです。自分で祈りの言葉を書いて「このことについて、あのことについて」と、言葉に出して祈る。それによって自分の心にあるモヤモヤッとして訳の分からないものが形をとったものに変わっていく。そして、はっきりと「自分には確かに苦しみがある。痛みがあり、こういう心配があるのだ」と、具体的に納得する、受け止めることができる。そうすると、神様は私たちに力を与え、また更に知恵を与えてくださる。

 

もう一つ大切なことは、お祈りをする時、言葉に出して祈ることによって、今度は自分を知ることができるのです。自分を外側から見る目が育っていく。きちんと自分の心を整理して語ることによって、それが翻(ひるがえ)って自分がどういう思いでいるのか、それは神様の前に善かったのか、悪かったのか。そういう歩み方が私にとって幸いなのかどうなのか、客観的に、外側から自分の姿を見ます。「私ってこういう所があったのか」と初めて知る。お祈りをするというのは、ただ気分やムードの問題じゃない。それは実に大切な私たちの心の力、働き、霊的な事と結びついてくるのです。

 

先ほど読みました3節に、「耳を傾け、わたしにきて聞け」とあります。「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル上15:22)と言われます。ところが、サウル王様は神様の声を聞きながらも従わなかったのです。そのためにとうとう彼はいのちを失いました。といって、すぐに死んだのではありません。しかし、生きるしかばねのごとく、神様のいのちは消え、霊が取り去られてしまった。それから死ぬまでのサウル王様は実に悲惨な生涯を送ります。だから、私たちにとっても神様のみ声を聞いて、それに従うことがいのちです。2節に、「わたしによく聞き従え」とあります。「聞く」だけではなく、「従え」というのです。「そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる」。神様は豊かな良き食物をもって養ってくださる。まず神様に「聞き従う」ことです。3節にも同じことが語られています。「耳を傾け、わたしにきて聞け」とあります。ここには従うという言葉がありませんが、「耳を傾け、聞く」とは、当然従うことを含んだ表現です。「傾ける」とは、自分の心をそこに向けることです。聞きたいと願って傾聴すること。集会に出てきても「聞こう」と思わなければ、耳に入りません。ボヤッとして鼓膜に音波が届いていても、「何か知らんけれども心地よいな、眠ろう」と、居眠ることだってできます。しかし、やはり聞くとは意識をして自分の心をそこに向けることです。でなければ聞くことができません。ほかのことが心にありますと入ってきません。3節に「耳を傾け」、真剣に心を向けて、「わたしにきて聞け」と言われるのです。「わたし」とは神様です。神様に向かって耳を傾けて、真剣に聞こうとする心を持ちなさいというのです。「そうすれば、あなたがたは生きることができる」。私たちは肉体を持って生きていますが、それだけで人は生きるのではありません。

 

医療法人の理事長をしていて、病院の院長でもある方が来られまして、話を聞くと、現代の医療は身体的、肉体的な面ではかなりのことができるようになったというのです。痛みを止めるとか、治療的な事については、かなり高度なことができるようになってきた。しかし、その方は「自分は長年、30年近く内科医としてやってきたけれども、一つの壁を感じる」と言うのです。それは何かと言うと、「いくら身体的な治療をしてみても、やはり最後にくるのは死だ」と言う。「殊に最近はがんで亡くなることもあるけれども、それよりも高齢化で死を迎える時に苦しむ」と言われました。「それは肉体的な苦しみというよりも、心の苦しみだ」と言う。それまでそういうことをあまり考えなかったそうです。ご自分も還暦を迎えたこのごろ、どうも今までやってきた自分の仕事がただ体を見る、健康という肉体のケアに集中してきた。しかし、結局のところ、いま自分がぶつかっているのはスピリチュアリティーと言いますか、人間の霊的な部分がどうにもならない。「それについて、ちょっと先生の話を聞きたい」と。彼が言うのは、「人は肉体だけではなくて、どうもそうでないものがあるに違いない。そこに心理とか、あるいは心理的な側面、それから精神医学的な側面も含まれるけれども、それ以外にもう一つスピリチュアルなもの、いわゆる霊的な存在としての人間の部分があるように最近は感じる」と。「今までは?」「いや、それが今まで恥ずかしいことにそんなことは全然関心を持たずに来ました」と。「できれば将来的にはそういう心のケアをするような医療を、残る人生でやってみたいと思っているのだが」と言われる。その方は熱心な方で、日本中のホスピス、ターミナルケアをする施設に全部アンケートを出して、どういう主旨で、どういうことをしているかを集めて研究し、いろいろな施設を見てこられたのです。私が知っている方々に彼は会ってきたというのです。現場を見ているのです。日本だけではなくて、世界に出て行って、インドの施設にも行ったそうです。それからタイの仏教系のそういう施設があるそうです。そこはエイズのために余命が限られた人たちを千人ぐらい治療する病院兼お寺だそうです。そこも訪ねてきた。更に足を延ばして、ヨーロッパのホスピスの発祥の地であるイギリスの病院にも行ってきた。そして更に足を延ばして、フランスのカトリック系のルルドを訪ねて、ルルドにまつわることも調べてみたそうです。

 

その時に教えられたのですが、私たちの心の中には肉体だけでないものがある。今読みました3節に「そうすれば、あなたがたは生きることができる」と。この「生きる」ということが、ただ食事をして健康である、医学的に見てどこにも問題がない、健康であるというのが「生きる」ことにはならない。先ほどの方もそう言います。WHO(世界保健機構)という国連の機関が健康であるということの定義を1990年代の中ぐらいに変えました。それまでは健康とは、医学的に心理的に精神的に何ら障害がなくて病気と言われるものがない状態を健康と定義する考え方です。ところが、その後、考え方を変えてきて、もう一つスピリチュアルにおいて、霊的にその人が健全であることも健康の用件だというように定義が変わってきたと伺ったのです。だから、「生きる」こともそうなのだと思うのです。身体的に健康であることが生きるのではなくて、もう一つ私たちの魂、心の内に見えない霊的ないのちが注がれてこなければならない。どうやってそれを得ることができるか。それは「耳を傾け、わたしにきて聞け」。これなのです。神様を信じて、神様がわたしに語ってくださるみ声を聞く。もちろん聖書のお言葉を通して神様のみ思いを知り、メッセージを受け止めていきますが、それと同時に祈りが大切です。祈ることによって神様のみ声を聞く姿勢、最初に申し上げたように、自分の思いを、心の内を神様に申し上げる、あるいはそれを言葉に言い表していくことも大切ですが、同時にもう一つ神様が私たちに絶えず語ってくださることがある。御霊、聖霊がいまわたしに語ってくださるに違いない、そのみ声を聞くことです。それは、注意して、心を主に向けなければ聞くことができない。

 

イザヤ書30章18,19節を朗読。

 

神様が私たちを憐れんでくださる、待っていてくださる。私たちが主に帰ることを待つ。神様に心を向けることを待っているのです。神様に心を向ける時に、神様は必ず私たちの声に答えてくださる。19節に「あなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される」と。だから、私たちが願いをもって、神様の前に言葉を出して祈る時、それに対して神様がちゃんと答えてくださる。「主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる」とあります。

 

そして、20,21節を朗読。

 

21節に「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く」。これが、神様が求めているもう一つの大切なこと。そして、これによって私たちはいのちを受けることができる。神様に心を向けて、主は私にいま何を語って、何を告げようとしているか。神様のみ声を聞くことが私たちのいのちにつながる。私たちを生きる者とするのです。それは、私たちが静まって神様に祈っている時に、神様が語ってくださることもありますし、聖書を読んでいる時に神様が臨んでくださって、思いを与え、願いを起こさせ、私たちを押し出してくださることもありますし、それは千差万別です。いろいろな時、いろいろな事態や事柄の中で、必ず神様が語ってくださる。だから、私たちは絶えず心を主に向けて「わたしにきて聞け」と言われる。神様に常に思いを向け、心を向けて、「しもべは聞きます。お話しください」(サムエル上 3:10)と、サムエルのようにいつも耳を傾けている。サムエルは神殿で寝ていた時に、高齢になったエリ先生が呼ばれるに違いないと耳を傾けていた。だから「サムエルよ、サムエルよ」という声を聞いた時、彼はてっきり先生が呼ばれたと思って飛んで行ったのです。いつも、声があったら行こうという心が、思いがありますから、彼は聞き逃さない。三度も同じようなことがあって、三度目にエリ先生は気がついて、「わたしは呼ばない。これはきっと神様がお前を呼んでいる。今度聞いたら『しもべは聞きます。お話しください』と言え」と言ったのです。その時初めてサムエルが神様からのみ声を聞くのです。その聞いたことはエリ先生とその後のイスラエルのことについての大切な預言の言葉でありましたが、神様はサムエルにご自分の秘密を明かしてくださったのです。私たちもそうなのだと思うのです。心を向けて主に聞いていく時、神様は必ず語ってくださる。

 

詩篇23篇1節から4節までを朗読。

 

これはダビデの歌と言われている詩篇23篇です。「主はわたしの牧者であって」とあります。神様が私たちの牧者、イエス様が私たちの牧者となってくださる。羊飼いとなって、私たちはその牧の羊なのです。羊は牧者、羊飼いの声を聞かなければ危険に遭います。その声に従って行かなければ命を得ることができません。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。2 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。「緑の牧場」、「いこいのみぎわ」、そこに主が連れて行ってくださるから、その主について行かなければ迷ってしまい、命の危険にあいます。主が呼びかけてくださる声に従う時、「緑の牧場」、「いこいのみぎわ」にたどり着くことができる。そればかりでなく、3節に「主はわたしの魂をいきかえらせ」と、私たちに生きることを得させてくださる。いのちを与えてくださる。だから、私たちが「わたしにきて聞け」と言われる主のみ声に心を向けること。そして、主が語ってくださることが何であるかを聞き分けていきたい。そういう魂の耳を開く、心を開いて、神様のみ声を絶えず聞こうとしていくならば、神様は必ず語ってくださいます。耳をふさいでいたら、神様は語りなさいません。黙ってしまわれる。そうではなく、「主よ、お語りください。ここは私はどうしましょうか」「ここは私はどう対処すればいいでしょうか」「私は何を求めるべきでしょうか」「どこへ行くべきでしょうか」「何をすべきでしょうか」、逐一、羊飼い、牧者でいらっしゃる方に耳を傾けていく。

 

最後にもう一つ読んでおきたいと思います。ヨハネによる福音書10章4,5節を朗読。

 

これは、イエス様がご自分は羊飼いであって、命を懸けてどんなにその羊を愛しているかを語っています。「羊はその声を知っているので」とあります。羊は自分の飼い主である牧者が誰であるかを知っているのです。それは何によって知るか。声によって知るというのです。だから、「声を知っているので」と。耳で聞いて知っているのです。イエス様を心の耳で聞いて知っているか?どうでしょうか? 聖書の言葉を読んで書いてあることは知っているけれども、自分に語ってくださるイエス様の声を聞いたことがないとするなら、これは死んでいるのです。なぜならば、「聞き従う」ところにいのちがあり、生きることができる。5節に「ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る」のですから、ほかの人がどんなに呼んでも、そんな所へは行かない。ところが、私どもはすぐほかの所へ行く。あちらがいい、こちらがいいと、「こちらが安いよ」とか「こちらが何とかよ」と、スッスッとついていく。そうではなく、イエス様についていくのです。「ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る」と。私どもは逃げるどころか喜んでついて行きます。そして、とんでもない痛い目に遭って泣かなければならない。主は「わたしにきて聞け」と言われます。

 

27節に「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」。ここにも「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」とあります。イエス様の声に聞き従うのがイエス様の羊であります。「あなたは私の主」、あるいは「主はわたしの牧者」と信じるのでしたら、「私はあなたの羊です」と言うしかない。そして、主の羊であれば「声を知っている」。「わたしの羊はわたしの声を知っているはずだよ」と。いま私は誰の声に従っているのか。自分の声では駄目ですよ。私がああしたいから、私がこうしたいから、私はこうなりたいから……。そうではなくて、神様が私たちに語ってくださることがある。それは、時には自分には痛いことであるかもしれない。自分が嫌なことであるかもしれません。詩篇23篇に「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」とあります。イエス様がコツンと打たれる。あるいはむちで打たれるのは、私たちを懲(こ)らしめるためではなくて、危険が待ち受けているから、そこからいのちへ引き返させるためでしょう。耳の痛いこと、自分にとってつらいこと、神様がどんなことをおっしゃっても、「分かりました」と聞き従う時に、そこがいのちにつながるのです。私たちの魂が喜び、身も健(すこ)やかになり、希望と生きる望みを与えられます。

 

イザヤ書55章3節に「耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる」。神様からのいのちに生かされていく。魂が、霊の魂が神様の力によって生きる者でありたいと思います。そこに人は本当に生きる道があるからです。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 

 

 

 

*ホスピス発祥の地、アイルランドと英国のホスピス視察(仙台白百合女子大非常勤講師:尾崎雄氏)
◎デイケアに力を入れている。・・・デイケアとは自宅で療養する患者が定期的に医療施設に通って病状チェックを受け、リハビリ、食事・入浴をしたりする事。

英国ロンドンの聖クリストファー・ホスピス・・・世界のホスピスの手本とされる。同ホスピスも、在宅ケアが中心。1999年にかかわった在宅患者1200人のうち自宅、ホスピスで看取られた人がそれぞれ40%台、病院での看取りは20%にも満たない。

 


最新の画像もっと見る