いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(3) 「恵みを受ける生涯」

2013年09月24日 | 聖書からのメッセージ

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詩篇73篇1節~12節を朗読。


 今朝はこの1節に、「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。 

私たちが生きて、生活している世の中には、神様を恐れて、神様に従う者ばかりが、住んでいるのではありません。むしろ、そうでない人の方が多いと言われています。日本のクリスチャン人口、イエス様を信じる人たちは全人口の0.5%ぐらいと言われています。実に微々たるものです。それ以外の99.5%は神様のことを知らない、あるいは、それぞれが自分なりの神様を信じてはいるのだと思います。ですから、現実は心もとない、実に少数派です。少数もいいところ、有るか無いか分からない様な存在です。ところが、私どもは幸いに神様の憐れみによって、この救いによって、生かされていることを、日々感謝しています。しかし、現実の生活を見ますならば、神様を知らないで生きている人たちと、私たちとどれ程の違いがあるだろうかと、考えてしまいます。自分の生活を振り返って見ると、あそこも出来ていない、ここも足らない、こういう悩みがある、こういう悲しいこともある、辛いこともある。勿論、嬉しいこともありますが、神様を信じたからといって特別変わったところはありません。それでいてクリスチャンであるがゆえに、イエス様を信じるがゆえに、あれもしてはいけない、こういうことは慎まなければいけないという風に、自分が縛られ、束縛された様な不自由を感じる。

時々、「先生、信仰に入ったのはいいが、その為に、苦労が多いです」と言われます。「今までは平気だったことが平気でなくなってしまった。こんなことしたらいかん、ああいうことをしちゃいかんと、ついつい心が責められます。毎日、毎日、悔い改めの連続です。これだったら、神様を知らなかった方が良かった。そうしたら、悔いることも無く、あいつが悪い、こいつが悪いと、人を非難していれば良かった。イエス様を知ったばかりに、自分が悪かったではないかと自己反省の連続です」と言うのです。「それは結構なことではないですか」と言いますが、本人は「こんな不自由な生活は大変です」と言われる。それを不自由だと感じているのはお気の毒だと思いますが、ともすると私どももそう思ってしまいますね。

この詩篇の73編を謳った人は、神様を信じ恐れ、神様に従う生活をおくってはいました。送ってはいましたが、「足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかり」、言い換えますと、しっかりと確信を持って、力強く大胆に、踏み歩くことが出来ない。あっちで引っかかり、こっちで引っかかり、あっちにふらふら、こっちにふらふらです。それが、「つまずくばかり、すべるばかり」と言うのです。なぜ、そうなったか。彼はその原因を探っています。3節に「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」と告白しています。この詩篇の記者は、神様を信じて、従って、慎ましく、節制して、自分の行いや言葉や手の業を清めて、神様の御心にかなうようにと、一生懸命に励んでいる。ところが、自分の周囲の人を見たり、周りの人たちを見ると、悪しき者が栄えーーー悪しき者というのは、必ずしも何か悪いことをしていると言うわけではなくーーー神様を信じようとしない、神様をおそれることの無い人たちが栄えている。この世で多くの人たちから賞賛を受け、財に満ち溢れ、また、豊かで肥太っている。4節以下に「彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない」とあります。見ていると、苦しみが無いように思える。勿論、おそらく無いわけではないでしょうが、苦しみも、何もかも蹴散らして、威勢良く、肩で風切って世を渡っていく人たちの姿なのです。そういうものを見ていると、あの人たちは楽やなぁと思う。好きなことが出来て、その上、別に神様から懲らしめを受けるわけでもなく、また神様の前に落ち度がないか、抜かりはないかと戦々恐々と身を縮めて生きているわけでもない。しかも6節に、「それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている」と。

こちらの腹の中は煮えくり返って、一発殴ってやろうかと思うような憤りがある時でも、神様に申しわけないからといって、一生懸命に抑えて押さえ込んでいる。ところが、世間の人を見ると、腹が立つなり、ポカンと思い切りぶん殴って平然としている。あんなにやれればスカッとするだろうなぁと思ってしまう。まさに高慢は彼らの首飾りとなり、暴力を衣のように纏う。つまらない無いものを誇りとして、こんなものがある、あんなものがある。これが出来る、こういうものを持っていると自慢して得意顔でいる。テレビなどで、現代のセレブ、セレブ(有名人の意)ともてはやされ、皆がうらやましがるような屋敷に住んだり、あるいはそういう衣装を着たり、社交界にデビューする。まさに高慢を首飾りにする。
人はまたそれに憧れるのです。あんなふうになりたいと。まるで幸せそのものの様な光景を目の当たりにすると、自分を振り返る。振り返ってみると、なんだかしょぼくれて小さなところで縮こまって、あれしちゃいけない、これしちゃいいけないと、いつも縮こまって戦々恐々と身を謹んで生きていることが、ばかばかしい、どうしてこんなことをしているのだろうと思ってしまう。

最近、テレビを見ていますと、占い師のおばちゃんが出てきて、言いたい放題のことを言っておりましたが、「こんな厚かましいことをよく言えるものだ」と。聞いているだけで耳を塞ぎたくなる様な、高慢な物言いをしている。私はあ然としていましたら、若い者たちは面白がって笑っていました。そういうのが世の姿ですね。神様を知らない、神様を恐れない、神様を信じようとしないが故に、自信たっぷり、それに引き換え私達は、あれにも自信がない、これにも自信がない、自分の弱さばかりが目に付くのです。では私たちは一体どれ程神様から恵まれているのだろかと、疑います。また神様の恵みがちっぽけなものに、色あせて見えてくるのです。これはサタンの私たちに対する働きです。

8節に「彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る」。今の世の中を見ているとこの通りです。あざけり、悪意、しえたげ、そういうものが満ち溢れています。人のことをあしざまに呪い、また、最近のお笑いタレントを見ていると、結局は相手をくそみそに言うことで、笑いを取るという、実に安易な世の中、風潮になってきた。冗談だというけれども、半分以上は本心だと思うのです。それを聞いている連中もそれで、自分の鬱憤を晴らしていると言うところがあります。ここにありますように、あざけりとか悪意を持っており、そして、しえたげを語るとあります。弱きものを虐待する。家庭内暴力であるとか、あるいは幼児虐待であるとか、私たちの目の前に沢山のう暴力沙汰がはびこっています。世に中のそういうものを見ていると、神様がいらっしゃるのだろうかと思われます。                   

10節に 「それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない」。 本来非難されるべき者たちが、賞賛の的に変わっていくというのです。悪いことをしても、むしろ、それが賞賛され、若い人の憧れになっているとするならば、これは神様を恐れない姿としか言いようがありません。ここにあるように、彼らのうちにあやまちを認めない。そればかりではなく11節に 「彼らは言う、神はどうして知り得ようか」。 神様のことはどうやって知ることができるだろうか、神様は何処にいるのだと。おそらく皆さんの家族でも、神様のことをお話すれば、「神様がいるなら見せて欲しい」と言われるかも知れん。神様はどうやって判るか、何処で知ることが出来るか、世の中を見てみなさい。何処に神様の…、そんなもの邪魔だ、生きていく妨げにこそなれ何の役にも立たないと、こういうのが私たちの周囲の、世の姿です。そういうものを見ていると、つい私たちも心が引かれていく。それをねたましく思う。あるいは、うらやましく思う。そのため、この詩篇の記者は足がつまずくばかり、歩みがすべるばかり。もう真直ぐに神様に向けないのです。

13節以下に 「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。 もしわたしが『このような事を語ろう』と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。 しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた」。 13節にありますように、「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った」と言うのです。神様を恐れて、心をきよめ、また、罪を犯さないようにと、絶えず心して、手を洗ったと。一切のそういうものから自分の身を引いて、悪しき者の道から離れて慎ましく歩んでいました。けれども、14節に 「わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた」。 私だけがとんでもない事になってしまう。一生懸命に聖書を読んで、神様を大切にし、御心を求めて祈りつつ、罪を犯さない様に、世の悪しきものから身を引いて、慎ましく生きていた。ところが自分に対しては次から次へと、悩みや苦しみや悲しみや病や、そういうものが絶えず起こってくる。一体これはどういうことなんだろうと、彼は良く分からないのですね。だから15、16節に何とかその理由を、どうしてそんなことになるのか、訳が知りたいと思っていろいろと考え…、だけども良く分からない。

 17節にありますように 「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった」。 この詩篇の記者は、神の聖所、教会に行った。神殿に行って、聖書の解き明かし、神様のみ思いを聞いていた時に、実は神様は彼らを放置しておられるのではない。彼らの好きにさせていけれども、やがて終わりの時に、全ての人の上に裁きが臨むことが分かりかした。神様は、ペテロの第二の手紙にある様に、私たちを放ったらかしているのではない。全ての人が悔い改めて救いにいたることを望んで、長く忍耐している。一日を千年のごとく、千年は一日のごとく、一日千秋の思いと語られています。神様は、彼らが悔い改めるべき時を備えて待っていらっしゃる。だからといって神様は裁きを、滅びを取り消しにしたわけではない。必ず、最後には裁かれる時が来ることを、聖書によって悟ったのです。18節に「まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう」。神様が裁きをなさる時は、一瞬にして一切のものを亡ぼされる。まるで、氷の滑り台のように、一瞬にサーッと、留まることが出来ない。あれよあれよ! 待って! どこかに手を掛けて、逃れようとすることも出来ない。それ程の勢いを持って、全てのものを滅ぼされてしまう。

そればかりか20節に 「あなたが目をさまして彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」。神様を恐れない人が滅びにあった時、まるで、夢を見て目を覚ました時のように、あっと息をのむ恐怖の中にあった。私達も、夜の悪夢にうなされて、怖いものが追いかけられ、逃げるに逃げられない。走っているんだけども全然進まない。もう捕まると思い、ショックで目を覚まし、全身から、サーッと冷や汗が出てきて、恐怖心が湧いてくる。その様に、彼らの気づかない所で、まるで落とし穴に落ちるがごとく、神様の滅びが臨む。これを知った時に、詩篇の記者は、それまでそういう人が羨ましいなぁ、あんな人なら良かったのにと思っている自分の心が刺される。この21節に「魂が痛み、心が刺される」とあります。申し訳ないことを言っておった、とんでもないことを考えておったと…。 彼は「愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」と記しています。自分はこれまで一生懸命に神様を大事にしてきたつもりであった。ところが、今振り返って見ると、神様に対してまるで、自分の欲得ばかりを主張していた。彼はここで悔い改めた。初めて神様が、義なる方、正しい方、裁き給う方であることを悟ったのです。この世の中で一時的に、財を成し健康で艶やかで、悪を悪とも思わず、もう、厚顔無恥と言いますか、恥も知らず何もかも蹴散らして、飛ぶ鳥を落とすごとく世に生きている人たちを見て、あんな風だったら良かったのにと思っていた。そうではない、神様は滅びを来たらせる。一瞬にして一切のものを滅ぼしてしまう。しかも、それは永遠の滅びであることを知ったのです。その時、申し訳なかった、私は獣の様な自分であったと悟りました。

23節以下に 「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。 神様を信頼するものに備えて下さる永遠の命の生涯、御国の生涯がどういうものかを、また、そこに至らない前、この地上にあって、神様が常に私たちと共にいてくださる。神様と共に生きる者として下さった。そのうえ、絶えず私たちを守り支えて下さる…と。それまでは自分が努力して、自分がやっていたと思っていた。神様はいらっしゃるか知れないけれど、それでも私が一生懸命神様に信頼し、神様を求めているから、今があるのだと思っていたのです。しかし、そうではないのです。神様が憐れんで下さって、ご愛の故に、神と共に生きることが出来る者にして下さった。そればかりか、右の手を握って下さって、支えて、力となって導いて下さる。

24節に 「さとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。私たちを戒め、何が善であり正しいことであるか、何が神のみ旨か、そういうことをちゃんとわきまえ悟ことが出来る者として下さっているではないか。今まで、あの人を羨み、この人を羨み、世間の生き方を憧れていた。それを深く反省したのです。そして25節に「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」。詩篇の記者は素晴らしい結論にいたりました。あなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。天にも地にも私の慕うもの、信頼するべき御方、より頼むべき御方は、ただ、あなただけですと。そればかりか、「わが身とわが心とは衰える」。確かに私たちは年をとってきますと、心身ともに衰えていきます。しかし、「神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」。神様だけが私の心の力、内なる人を日毎に新しく作り変えて、そして私の受け継いでいく素晴らしい財産なんですと、告白しています。
  
最初の1節に 「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。これが詩篇73篇の結論なのです。心の清い者にむかい、正しい者にむかいとあります。正しい者というのは、必ずしも品行方正であるとか、あるいは嘘をつかないとか、盗みをしないとか、そういうことを言っているのではありません。正しい者、神様に対して心を一直線に向けていく者のことです。神様を恐れる者となることです。神様を尊ぶものとなること。これが正しい者です。また、心の清い者、清いというのは一つ心になることです。神様を信じているけれども、あっちも良い、こういう生き方もあるかなというぐあいに、思いが千々に乱れのです。問題や事柄に遭うと、神様を信頼しているつもりだけれども、あの人に頼り、この人に頼り、あれがあるから大丈夫、これがあるから…と。神様だけに信頼するとはならない。そうである限り、神様の祝福と恵を受けることが出来ません。これは、私たちが神様から恵んで頂く黄金律、絶対的な条件です。私たちが心を一つに神様を信頼するということに尽きるのです。

この詩篇を謳った人は、25,26節に「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」と悟りました。私達も神様に対して心を清く、正しい思いを持つ者となりましょう。そこにあります様に、「わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」。心の力となって下さる方は、神様、あなた以外にはありませんと、はっきりと告白し、信じていくのです。神様以外のほかのものに、目に見えるものであったり、持っているものであったり、世の様々な事柄に心引かれる時、神様からの祝福を受けることは出来ません。

新約聖書のヤコブの手紙4:6~10節に 「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とある。 7 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。 9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。 10 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。 この8節に 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」。私は、神様あなたから捨てられたら、滅びですと、心を定めて神様に近づく。そこにあります様に、「罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ」と。二心、これが穢れたものです。神様以外の何かを頼りに、神様以外の何かが自分の役に立つに違いないと思う。

柘植先生の『ペンテコステの前後』を読みますと、そのことが記されています。先生が献身の生涯に入って、神様に従って歩んでおられる時、これから生涯神様に従っていこうと心を定めて、一切のものを捨てて献身しました。先生の住んでいた借家の町内皆が、一斉に大掃除することになり、自分たちの家財を外に出して虫干しをする。そうした時に、全く忘れていたのだけれども、一つの風呂敷包みが出てきた。それを開けてみたら、若い時に自分の得た出願許可を受けた売薬の株券がそこに入っていた。実は、その株券は、ひょっとして何か行き詰った時、これ売れば相当の価格で売れる。自分の心のどこかに、伝道者として行き詰まったら、これを生かそうという思いがある。その為に、捨て切れないで包んで、これは持っていても持ってなくても、神様に奉げたものだからと思ったのです。別に邪魔になるわけではなくて、押入れの隅っこに、ちょっと入れておけば良いことだからと思った。ところが、その風呂敷包みをみた時、心が刺された。自分はなんだかんだと言い訳をしながら、どこかで神様以外のものに頼ろうとしていた。だから自分には神様の力が無い。その時すぐに、疲れてうとうとしつつあったけれども、奥さんにそれを持ってこさせて、火で焼いてしまった。そういう証しが出ています。柘植先生も信仰の人ではありますが、その始まりはそういう二心三心でした。ましてや、私達は、五つも六つもあっても可笑しくはないでしょうから…、だから良いというわけではありません。それは神様に喜ばれない。神様の栄光に与ることが出来ない。柘植先生はそれを処分した時、神様の霊に満たされ、やがて聖霊のバブテスマを受けることが出来た。彼は、背水の陣、後ろへ退く道を断ち切ってしまったのです。

私たちも神様の前に心を定めなければならない。心を一つにする、二つの心を一つに変えてしまう。これが神様の祝福を受け、恵をうける道筋。9節に 「苦しめ、悲しめ、泣け」とある。苦しめ、悲しめ、泣けと、聖書らしくない。聖書だったら悲しまないでとか、泣くことはないとか、優しいことを言ってくれそうなものを、苦しめ、悲しめ、泣けと、と言う。「あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」とおっしゃる。なぜでしょうか。それは、私たちが悲しみ、苦しみの中にある時、心が一つになるのです。行き詰まった時、苦しみの中、悲しみの中にある時、私の頼るのは神様あなただけですと言えるのです。ところが、ことが順調になって、物事がうまくいくようになると、あれも良いかなこれも良いかな。あの人に頼り、この人に頼り、心が三つにも四つにも分かれてしまうのです。だから、笑っていて神様を離れるくらいだったら、悲しみの中で神様を求めることが出来たら、この方が幸いではないでしょうか。だから、苦しめ、悲しめ、泣けと。今苦しみの中にあるならば、感謝しなきゃなりません。その時こそが恵の時だからです。そこで、心を清く神様だけに信頼することを迫られます、呼び求めることを迫られます。だからイエス様もそうおっしゃる。あなた方のうちに、罪を犯す者があるならば、罪を犯す手を切り捨てなさい。目が罪を犯すなら、その目をえぐり取って捨てなさい。五体満足で滅びにいたるよりは、例え体が不自由であろうとも、天国にいる方が良いではないか。私たちは、そこが問われているのです。

ですから、詩篇、73編1節に戻りますけれども、 「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。神様は正しい者、心の清いもの、神様を恐れ敬い、神様に信頼し、そして、ただ神様だけに心を一つにして、信頼していく者に、神様は必ず恵んで下さる方であります。これは確かです。旧約聖書のアサ王様がそうですね(歴代下14-16)。アサ王様は、エチオピアの軍隊が攻めてきた時、神様に祈りました。 「私は何も力がありません。あなたに頼る以外に方法がありません」 と、主を求めます。それで神様は力をあらわして下さって、エチオピアの大軍を追い払ってくださいました。彼は神様の前に身を正して真剣に歩みました。30数年、彼の治世の間平安であったのです。やがて今度はイスラエルが戦争を仕掛けてきた。ところが、この時、彼はスリヤに援軍を求めました。神の人ハナニがアサ王様の所にやって来ました。王様に「あなたは何ということをしたのですか。あのエチオピアが来た時、神様に頼ったので、神様はあなたを助けて下さったではないか。今度のことではどうしてスリヤに頼ったのですか」と。アサ王様は 「ごめんなさい」と言わなかった。 「結構です」。預言者はアサ王様に言いました。「神様はご自分に向かって心を全うする者の為に力をあらわすとおっしゃる」。 ところが、神の人ハナニを捕らえて牢屋に入れてしまう。その時、アサ王様は大変な失敗をしていまうのです。彼は病に倒れて死んでしまいます。せっかく素晴らしい信仰をもって始まった生涯でありましたが、彼は豊かになり、そして、安心を得た時、他のものに心を移して神様から離れていきました。これは昔の話ではない、今もそうです。私たち一人一人が神様にどういう心を持って、神様を信頼していくのか、このことが問われているのです。

今読みました73編の1節に 「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」と書いてあります。どうぞ私たちも世の様々なものに心を奪われない様に、心を一つにして真剣に、ただ、主だけを信頼して生きていきたい。私たちは、この地上の命が終わるその瞬間まで、神様だけに心を向けて生きたい。世のものに頼らず、人に頼らず、様々な事情境遇によらずに、天にも地にも私の慕うべきものは、あなた以外にはありませんと、この神様だけに、心と思いを奉げて生きたい。それに対して神様は決して、放ったらかしになさらない。いや、必ずそのことにちゃんと報いて下さる、恵深い方です。どうぞ、どんな事情境遇、問題、事があろうとも、私の慕うものは、神様、あなただけですと心を一つにして、主を呼び求める、主に信頼して、主の恵に与りたいと思います。

ご一緒にお祈りしましょう


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