いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(284)「イエス・キリストの御名によって」

2014年08月08日 | 聖書からのメッセージ

 コリント人への第一の手紙」15章50節から58節までを朗読。

 

 58節「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。

 

 最近、いろいろなことを通して教えられることですが、私たちは「生きる」ことを主眼にしているのではないかと思います。できる限り病気をしない、あるいは悩みのない人生を長く生きることができたら勝ち組であるという発想、価値観が、世間一般にはびこっているのではないかと思います。半世紀以上前に大きな戦争があり、日本は壊滅的な打撃を受けてすべてが灰になってしまいました。その廃墟の中から今に至るまで経済発展をとげ、いろいろな面で変化してきました。いちばん大きな変化は平均余命と言われる人間の寿命ではないかと思います。寿命がこれほど長くなるのは世界的にも珍しい。戦後復興の成果、結果ではないかと思います。戦後すぐにはまだそんなに長くはなかったはずです。新生児や幼い子供が亡くなるとか、幼児の死亡率が高くて大人になる数が多くはなかった、そのような時代があります。また大人になってもせいぜい人生50年と言われたのが、信長の時代でしょうか。そのうち60年か70年ぐらいになった。それだってまだ長いほうであったと思います。だから、教会の墓地がある霊園へ行きますと、お墓を見て回ります。すると大抵のお墓には墓誌といって、そこに納められている人たちの名前と亡くなった年齢が書いてあります。見ていると大体50代とか60代が多いのです。「こういう時代があったのだな」と思って、ふと自分のことを考えると、「60を超えているじゃないか」とびっくりします。自分も何十年か前であれば、今ごろは墓に入っているに違いないと思います。

 

また、日常生活に死というものがはっきりと見えない世になってきたとも言えます。年配の方々はご存じでしょうが、昔は大抵、人が死ぬときは家で死ぬものでした。おじいちゃん、おばあちゃんとか、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんとか、あるいは兄弟であるとか、親であるとか、そういう身近な人々の死をそばで見つつ生きたのです。老いていって、寝たきりになり、そして最後に事切れるところまでの流れを日常生活の中で親しく見ながら生きる時代がありました。そのような時代が長く続きました。はるか昔からそうだったと思います。ところが、医療技術が非常に進歩しましたから、死がある意味で日常生活から切り離されて特殊な場に移されてしまう。病院で死ぬほうがはるかに多いのです。そして、病院で死ぬとき、身近な家族は見舞いに行きますが、そのほかの家族は「どんな様子ね」と話を聞くだけで、じかに現実を見ることはしません。いよいよ「臨終です」と言われて、大慌てで集まって、息を引き取る瞬間を見ますが、そこに至るプロセスは隠されています。「死」が最後の瞬間だけに限られて、そこに至る経過が身近ではない、かなり距離のある関係になりました。そして世間全体が「生きる」ことが勝利者であって、若くして死ぬのは不幸なことになってしまった。

 

私自身、「がん」を宣告されたとき、死が間近にあることを感じました。それまでは死はあるには違いないけれども、はるか先のことだと思っていました。自分にはまだ関係のない事という距離感、ズーッと隔たった感覚を持っていました。ところが、病気を患(わずら)いましたときに、一気にそれが間近にきます。「そうなんだ。自分も死ぬのだ」と感じました。そのとき、若くはありませんが、自分ではそう思っているものだから、「こんなに若くして死ぬなんて、これは負けたな」と思いました。「負けたなぁ」と、そんな勝ち負けの話ではないはずですが、そういう感覚があったのです。それを感じたときに、自分がどれほど今の時代の価値観、考え方に囚われているかと教えられました。私たちはやがて、やがてどころか必ず死を迎えるのだということです。それは平等です。もちろん、死が来る年齢が70,90,100でしょうか、あと5年10年20年であろうと、その年数は実に小さな差異に過ぎない。いずれにしても、すべてのものに終わる時があることを絶えず自覚しておくべきです。死を間近に見ることをできるだけ避けようとしやすい。しかし、本来、生きると同じくらい死について絶えず自覚し、覚え、備えなければならないのです。生活の中で、エネルギーの50%を生きることに費(つい)やすならば、残りの50%は死ぬために使うべきです。自分は死につつあることを絶えず自覚する。これが大切なことではないかと思う。

 

江戸時代とかそれ以前、長い間、“生きることは死ぬこと”とはっきり死を受け入れる人生を人は生きていました。“武士道と言うは死ぬ事と見付けたり”という葉隠れの精神がありますが、武士道ならずとも、本来そうでなければおかしい。死を考えるとき、どうしても「その先はどうなるだろうか」と思います。死んで「人生はすべて終わりだ」とならない。聖書は、私たちに死はそれで終わりではなくて、その先にもっと違った新しいものがあると。

 

今読みました50節以下に、「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」。「神の国を継ぐ」とあります。この地上の生涯が終わるとき、肉体は消え去っていきます。年齢と共に体力を失い、外なるものはどんどんと衰えてしまいます。しかし、それですべてが終わるわけではない。私たちに神様が人としての命、「霊はそれを授けた神に帰る」(伝道 12:7)と。私たちは神様の許(もと)へ帰っていく。新しい神の国に生きる者と変えられる。

 

15章42節から44節までを朗読。

 

私たちは肉体をもってこの地上に生きていますが、これは朽ちるものです。しかし、その朽ちるものが消えて、あるいは卑しい私たちの肉体が取り除かれて、次は栄光あるものによみがえるのだと約束されています。43節に「卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり」、いま私たちは肉体の弱さの中に閉じ込められてこの地上に生きていますが、今度はその弱い肉体を脱ぎ捨てて強いものに、44節「肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである」。私たちすべてがもう一度よみがえるのだ。肉体の死によって地上のすべて目に見える物質的なもの、肉に付ける一切のものを失いますが、しかし、そこから霊の体によみがえっていく。その具体的な証としてイエス様が死の墓の中からよみがえってくださったのです。私たちも同じようにこの地上の生涯が終わるとき、肉体を脱ぎ捨てて新しい霊のからだによみがえる。そして、その私たちは神の国を継ぐ者となるのです。

 

先ほどのところに戻りますが、50節に「肉と血とは神の国を継ぐことができない」とありますように、霊のからだによみがえるとき、神の国を継ぐことができます。そして51節「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる」。私たちがこの地上の生涯を終わって死を迎えます。そうすると、まず魂はすべて眠りにつくと約束されている。これは「終りのラッパの響くとき」いわゆる終末の時まで、すべての死んだ者の魂は休みに置かれます。しかし、最後のラッパの響きと共にすべての魂はそこからよみがえらされる。これは黙示録に記されています。海で死んだもの、山で死んだもの、そのすべてのものがそこから神様の前に呼び集められる時が来る。これは復活の時であります。その時私たちはどういうものによみがえるか?「霊のからだによみがえる」。神様から与えられる霊の姿、といって、それはどんな色をした、どんな形をしたものか、これは私たちもそれは分かりません。しかし、ここに聖書に語られているように、それは「霊のからだによみがえる」。だから、イエス様は天国に行ったならば、そこではもう嫁いだりめとったりしないと語りました(マタイ 22:30 マルコ 12:25 ルカ 20:35)。まるで天使のごとき存在に変わるのだと、イエス様は語っていますが、私たちがよみがえったとき、こういう生まれながらの顔になるのではない。うれしいことですね。毎朝自分の顔を見て「どうして私はこんな顔なのよ」と思っているが、それを脱ぎ捨てて霊のからだ、52節「というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」と、私たちは朽ちない者に変わるのです。それは栄光の姿です。このことは「ピリピ人への手紙」にあります。「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」(3:21)と。よみがえってくださったイエス様のあの霊のからだに似る者へと造り変えてくださる約束であります。これは私たちの大きな望みです。そのことを証しするために、それを私たちに伝えるために、イエス様はあの黄泉(よみ)の中からよみがえって、ご自身を多くの人々にあらわしてくださった。だから、イエス様は肉体をもってよみがえられたように思いますが、それは必ずしも正確な表現ではありません。イエス様がかつて弟子たちと一緒に生活をしたがごとくに同じ姿かたちで、その年齢にふさわしいしわがあったり、白髪が少し生えていたり、そういう姿かたちそっくりそのままによみがえられたというわけではなかったと思います。なぜならば、復活の後、イエス様はどんな所にでもご自身をあらわしてくださいました。それを受け止めた側はまるでイエス様が肉体をもってよみがえられたごとくに体験したことは確かです。しかし、よみがえってくださったイエス様の姿は、決して私たちと同じように切れば血が出るような肉のからだとしてよみがえられたのではなくて、むしろここにありますように、霊のからだをもって主はよみがえってくださった。これが私たちに約束されている事柄であります。私たちもまた必ずそのようによみがえらされるだと。そして、54節以下に「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。55 『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』」。そのとき私たちは死を乗り越えて、死に打ち勝って新しい霊のからだのよみがえり、朽ちないものを着る者とせられ、永遠の御国である神の国に、私たちが置かれる約束です。だから、もう死を恐れることはいらない。死を避けることはいらない。

 

ともすると、肉体の死を恐れます。と言うのは、56節に「死のとげは罪である。罪の力は律法である」とあるように、私たちの罪のゆえに死を恐れる。すべてのものは「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル 9:27)と語られていますが、必ず「死とさばき」は一つとなって私たちに迫ってきます。死んでなくなるのならまだしもいいですが、死んだ後に裁きを受ける。あるいは自分の今の状態、この心のままで、この私の姿かたちのままで死んで、果たして神様の前に立てるであろうか、もし裁きがあるとすれば「自分は滅びではないだろうか」と。いや、自分は必ず滅びるに違いないと、誰が知っているといって自分がいちばんよく知っている。自分がどんな罪人であるかをよく知っています。だから、今のままで死ぬようなことがあったら、神様の前に「はい、私はここにいます」と喜んで立てない。といって、じゃ立てるようになるために何ができるかと問われて、私たちは何もできない。神様が備えてくださったのは、私たちが主イエス・キリストを信じることによって、イエス様の十字架を信じることによって、私たちの罪が赦されて、もはや神様からとがめられるとこのない者とされる道です。

だから、57節「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」とあります。私たちに勝利を与えてくださった。神様は死に打ち勝つ力を私たちに与えてくださいました。その力はイエス・キリストの十字架です。主の十字架によって死を恐れることはいらない。今まだ肉体をもって生きていますから、神様が義としてくださったと言われ、神の子だと言われても、自分を振り返るならばそんなところが少しもない。その姿かたちが見えませんが、しかし、信仰によって神様はキリストのゆえに、有りのままの私たちをして義なる者と認めてくださった。放蕩息子にお父さんが新しいものを着せてくれたように、汚れ果てた私たちにキリストを着せて下さった。そればかりでなく、神の国の世継ぎとして、神の子として、私たちを立ててくださっている。だから、今はまだ肉体の死を受けていませんが、私たちはその死を恐れることはいらない。むしろ、その死を越えて、その先に私たちをよみがえらせてくださる神様の約束がある。いやそれどころか、イエス様が具体的にその死を通って「わたしはこのようによみがえった。あなた方もわたしのように神様の新しい霊のからだによみがえり、永遠の御国の生涯に入れていただくのだよ」という約束です。だから、この聖書の御言葉は私どもにとって大変大きな励ましであり、望みです。だから、57節「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。私たちは死を恐れることもいらないし、何も恐れることはいらない。神様はひとり子を賜うほどの限りない愛をもって私たちを愛するゆえに、ひとり子を送って十字架に罪を処分してくださった。ただ私たちが自分の罪を認めて、イエス・キリストの血にすがるとき、十字架を信じて「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(ガラテヤ2:20文語訳)と、イエス様と共に死んだ者であることを認めて、今日喜び感謝して生きるのです。この生きる喜びは死を乗り越えていく力です。これを日々私たちの生きる力としていかなければ、ただ肉体が元気であるとか、健康であるとか、長生きするとか、そういうことばかりに思いがとどまっているかぎり望みがなくなってしまいます。だから、58節「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」。ここに「堅く立って動かされず」とあります。私たちは見える状態や聞くおとずれ、日々の生活のいろいろなことによって「ひょっとしたら死ぬかもしれない」「ああなったら、どうなるだろうか」と揺れ動くのです。

 

 私も狭心症という思い掛けない事態に出会いまして、検査を受けに行きましたが、「心臓の血管の一本が90%詰まっている。後一歩で心筋梗塞を起して死ぬかもしれません」と言われました。今回は「死ぬかもしれませんよ」と言われましたが、「主がそれを望まれるならば、それもよしとするべきではないか」と冷静に受けることが出来ました。そのことは感謝であったと思います。目の前にその検査結果を見せられて、「なるほどこんなだったのか」と思いましたが、そのことに動揺しないでおられたのは、その前に経験があるからです。死について絶えず考える時間が与えられていたのです。がんの宣告を受けてからズーッと5年近く絶えずいろいろなことを通しながら、「自分にとっての死は何なんだろうか」、「死を迎えるとはどういうことなんだろうか」と思う時を与えられました。これは誠に恵みであったと思います。だから、その死が今来るとしても動かない。なぜならば「大丈夫、この肉体は朽ちていくものなので、朽ちないものを着る時が来る。それは感謝じゃないか」と、自分のそのような体験を通して改めて神様の恵みがどんなに大きなものであるかを味わいました。だから、私は皆さんにも是非お勧めしたいのはそのことなのです。死を絶えず覚えていただきたい。そして、事あるごとに自分の死を想像してみてください。棺が置かれて、自分がその中に横になっている姿を思っていただきたい。そのとき自分はどういう風な状態か、そういう事態に当たったとき、自分はどのようにこれを受け止めていくべきなのか。そのことを想像しながら、御言葉を深く味わい、心を定めることが大切です。

 

50節「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができない」。今ある肉体のままで永遠の御国に入ることはできない。これは必ず脱ぎ捨てる。そしてどうするか?私たちは朽ちないものを着る。53節に「この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着る」。神様が永遠のいのちの、霊のからだに私たちを新しく作り直してくださる。これが私たちにとっての死です。朽ちないものを着るために、私たちは何をするか。それはただ主イエス・キリストを信じる以外にない。イエス様がよみがえって今も私のいのちとなっている。ここに私たちの望みがあり、勝利がある。イエス様は十字架に死んで、墓に葬られ、三日目の朝、そこから勝利をもってよみがえってくださったように、私たちもこの肉体を脱ぎ捨て、この地上のすべての事柄は消え去ってしまうかもしれないが、それで終わりではなくて、私たちの魂は新しい霊のからだに生きるものと造り変えられます。やがて「終りのラッパの鳴るとき」、世界が、宇宙が、すべての森羅万象が崩れ果てて終わる終末の時に、永遠の御国の民として、神の国の住民として、新しい天、新しい地エルサレムに私たちは移し替えられる。この希望を絶えず持ち続けていく。これが死に打ち勝つ、キリストのいのちにつながった生き方であります。58節「愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず」、どんなことがあっても私たちはうろたえることはいらない。「どうしよう」、「どうしよう」と慌てふためくことはいらない。絶えず「堅く立って」、しっかりと主の約束に根ざして、そこに自分を結びつけて揺るがないで主を信じていきたいと思う。そして「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」。「主のわざに励む」とは真剣に主を求める者となることであります。

 

 「ヨハネによる福音書」6章26節から29節までを朗読。

 

 二匹の魚と五つのパンをもって5千人以上の多くの人々が満腹した記事がこの前に記されています。解散した後、次の日、多くの人々はもう一度イエス様を訪ねて来た。前の日ごちそうになったから、またあわよくばパンを頂きたいと思ったのです。だからイエス様を求めて多くの人々がやって来ました。そのとき、26節「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである』」。イエス様は彼らの思いを見抜いている。「イエス様、ここにいらっしゃったのですか」と、イエス様を求めて来た。そのとき、イエス様は「救い主であることを信じたから来たのではなくて、パンを食べて満腹したからまた食べたいのでしょう」と言った。図星ですね。そして、更にイエス様は27節「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」。彼らは前の日おなかいっぱい食べて、それでおしまいかというと、いや、そうではない。次の日、またおなかがすいたから、イエス様の所へパンを求めてきた。それは「朽ちる食物」です。それは繰り返し、繰り返し続けないと、空腹を覚える食べ物です。しかし、イエス様は、そうではなくて「永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」と。「朽ちない食物」とはイエス様を求め、食べることです。なぜならば、イエス様が実は朽ちない食物、「わたしが命のパンである」(ヨハネ  6:35 )とおっしゃいました。イエス様を求めていく。「朽ちない食物のために働くがよい」と。「働く」ってどうすることか。努めることです。全力を尽くす目的は「朽ちない食物」、永遠の命の糧(かて)であるイエス・キリストを自分のものとすることなのです。よみがえったイエス様を自分の生活の隅から隅にまで当てはめること。これは「働く」と語られているように、努めなければできません。パウロが「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)と語っていますが、いつも、朝から夜寝るまで、何をするにも、どこに行くにも、どんなときにも、いつもイエス様が私の命であること、イエス様が、よみがえってくださった主が、私と共にいらっしゃることを信じて、なすこと語ること、手のわざ、ありとあらゆるすべてのことの中に、イエス様と共にいることを努める。そのように私たちがことごとくイエス様と結びついていくことを努めること、これが「朽ちない食物のために働く」ことです。そして、更に「これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」と。朽ちない食物はイエス様によって与えられるものである。言うならばイエス様ご自身と言ったらいいと思います。 

 

28節以下に「そこで、彼らはイエスに言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』。29 イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」。神様のわざとは何か自分たちがほかの人と違う、目を見張るような、人を驚かせるような、とてつもない事態や事をするのかと思われますが、そうではない。「わざ」と語られていますが、私たちのすることではなくて、神様が遣わされた者を信じる。神様が遣わされた者、イエス・キリストを信じることが神のわざです。「神様のために私が何とか頑張ってやりましょう」「神様のためにこんなことをしてあげましょう」「神様のために何とか」と、そんなことを神様は求めているのではなくて、あなたが神の遣わされた御方、イエス・キリストをはっきりと信じて、イエス・キリストを自分のものとして、私たちの生活の隅から隅まで、すべてのわざの中でイエス・キリストを信じていく生き方に努めること、それを励むこと、これが私たちがすべき神のわざなのです。私たちは朝から晩まで日常生活を、つい昨日の今日、今日の明日とル-ティンワークと言いますか、決まりきった仕事だから何の考えもなしに右から左にやっています。家の中のことは目をつぶっていてもできるぐらいに慣れていますが、その中に主がいらっしゃることをどれだけ自覚しているでしょうか。スーパーに買い物に行って、「今日は何を食べようか」「今晩の献立は何にしようか」、安売りのチラシを見て安いものだけ買って帰ろうかと、そこにイエス様はいらっしゃいますか?車を運転しながらイエス様が私たちと共にいらっしゃることを自覚していますか?ことごとくどんなことにも、小さなことにも大きなことにもそこに主を覚えていくこと。実はこれが神のわざなのです。一日の生活を振り返ってみてください。昨日、生きてきた一日はどれだけイエス様とかかわったと言いますか、交わった時間を過ごしてきたか。一部分はそういう時があったけれども、後はほとんどイエス様抜きできたような一日かもしれません。

 

 ですから、「コリント人への第一の手紙」15章58節に「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」。「主のわざに励む」、これは主の名のゆえにするわざ、私たちがキリストと共に生きること、イエス様が私たちの生活の隅から隅まで絶えずいてくださることを自覚していくこと。これが「主のわざ」です。私たちはイエス様の十字架のいのちによってあがなわれ、神のものとされて、主のものとして生きています。ですから、私たちの生活のすべても、家族のことも、主人のことも、奥さんのことも、何もかも、これは主のもの。だから、私たちが何かすることがあるならば、それは主がそのことをさせてくださる、主が求めておられる。主の御心があることを絶えず自覚していくこと。

 

 「コロサイ人への手紙」3章16、17節を朗読。

 

 16節「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」とあります。キリストと共に生きるとは、まさにこのことです。主と共に24時間絶えずいるとは、御言葉が私たちの心に絶えず行き交っている状態です。誰か人のことを思うと、その人のことばかりが気になる。あるいは何か気掛りなことがあると、その人のことばかりが心に浮かんでくる。子供さんが病気をしたりとか、遠く離れた所へいると、「今ごろ何をしているだろうか」「何を食べているだろうか」「病気をしていないだろうか」「どういう生活をしているだろうか」と、逐一気になります。友達としゃべっていたり、別のことをしていても、心は常にどこかでそのことを思い続ける。私たちがキリストの言葉を豊かに宿らせるとは、まさにそういう状態です。いつもイエス様のことを思う。そして、イエス様の御言葉が私たちの心に絶えず飛び交っている状態です。そうなってくると心が騒がない、喜びと平安が心に満ちてきます。常に御言葉が次から次へと思い起こされる。といって記憶しているわけではないけれども、忘れていても聞いた御言葉、どこで聞いたか、読んだか、それは分からないけれども、「あの御言葉だ」「この御言葉だ」と、心にわいてくる。そのくらいまで私たちはキリストに密着していくこと。そして、17節に「そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい」。私たちのすることはすべてどんなことも有形無形、「言葉によるとわざによるとを問わずいっさい主イエスの名によってする」。イエス様の御心に従う。言い換えると、イエス様の名代として、そのことをしているのです。イエス様がするところを私がさせていただいていると自覚していく。どうでしょうか?私たちの一日の生活がどれ程イエス様に密着した生活であるか?これが主のわざなのです。そうやって、イエス様に密着していくと、自分の思いや肉の思いが消えるのです。気がつかないうちに、主の御思いに心が満たされるのです。

 

 「コリント人への第一の手紙」15章58節に、「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。主の名によってするとき、私たちのすべてのわざに主が報いてくださる、神様が私たちに答えてくださる。だから、私たちは人から報われなくても大丈夫です。喜びがあります。一日を主に仕える一日と変えられていくこと、これは地上にあって、やがて来る新しい永遠の御国の生涯への備えの時です。そうなりますと、私たちはいつこの地上の生涯が終わろうとも恐れることはない。キリストのものであり、主が私を霊のからだ、朽ちないからだに造り変えてくださって、やがて終末の時に、ラッパの響くとき、私たちは神の御国に世継ぎとして生きるいのちに変えられる。これは私たちの大きな望みであり、力です。

 

 そのために今日生かされているのです。だから、私たちは全力を尽くして主と一つになることを、キリストと共にある生涯を努めて、励んで、獲得していきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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