いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(394)「感謝して受けよ」

2014年11月26日 | 聖書からのメッセージ
 「テモテへの第一の手紙」4章1節から5節までを朗読。

 4節「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」。

 イエス様を信じて、信仰によって生きる生き方と、神様のことを知らない世間一般の生き方と、どういう点が違うのか? これをはっきりと自覚しておかなければ、信じてもいいし、信じなくてもいいし、どちらでもいいというような、曖昧(あいまい)さがズルズルッと私どもの信仰を揺さぶってきます。

 先だっても、ある方にそういうことを尋ねられたのです。その方は一つの悩みの中に置かれていて、まだイエス様のことを知りません。「こういう問題の中に置かれて、どうしたものだろうか」と言う。確かに問題は何とか解決しなければいけないにしても、聞いていますと、肝心なのは本人の心の有り様(よう)、その事態や物事をどう受け止めるか、ということに、結局はそこに行き着くのです。先般もある方が来られていろいろなお話をしておりましたとき、生活上のいろいろな不便さを取り除く、いわゆる、生活レベルを上げて快適な生活をすること、生活を改善することは、現在の技術や経済的な力をもってすれば、時間を掛けて行くにつれて、改善されていくのは目に見えています。勿論、まだそういうものが行き届かない地域に住んでいる人たちもいます。昔ながらの古い伝統や習慣の中で生きている。その人たちに比べて、私たちがいま生きている現在の科学技術の進んだ何もかもいろいろなものが便利になった生活、これが理想かというと、果たしてそうなのだろうかと、考えてしまいます。古い昔から何百年と長い間、一つの生き方、生活、習慣、あるいは社会制度、そういう仕組みの中で生きてきた人たちを、それはおかしい、もっと衛生的な、便利な生活にしてやるべきだと考えがちです。そういう社会では生まれた子供が満足に寿命を全うすることも難しい生活環境がある。そうすると、いろいろな所に援助して、私たちと同じような便利社会を造り出してあげる。その結果、人々は幸せになるのだろうか?逆に今度は日本を振り返って見ると、いろいろなものが便利になりましたし、生活の苦しさとか、そういうものはほとんど感じられないくらいに、物質的な意味においては改善され、世界でまたとないくらいに行き渡ってしまいました。では、それで人は幸せなのか? というと、そうではない。非常に行き詰った世の中になってしまった。自分がどう生きて行けばよいか分からなくなってしまっている、というのが現実です。そうなると、本当に人にとって必要なもの、人が生きるために無くてならないものというのは、何なのか?と思うのです。何と言ってもやはりいろいろな事柄を受け止める人の心の有りようなのだと思います。私たちの思い、心が、目の前の事態や状況をどのように受容して行くか、結局はそこにかかってきます。
何か悩みや心配、不安なことがある。具体的な問題が目の前に起こったときに、それをどういうものとして自分が受け止めるか、これが非常に大切なことなのだと思います。例えて言いますと、病気をしますね。私も何度もそういう病気をしましたが、病気をしたとき、「何でやろう」とまず思います。「どうして、こんなになったのだろうか」「何がいけなかった。何が悪かったのだろうか」と。そして、その原因を詮索(せんさく)します。「食べ物が悪かったのだろうか」、あるいは「運動が足らなかったのだろうか」とか、「自分の生活がどこか間違っていたのだろうか」など、いろいろなことを考えます。そして「きっとあれがいけなかったに違いない」「これがいけなかった。だから、こうなった、仕方がない。諦(あき)らめようと」。あるいは、原因らしきものが分からないと、「仕方がない、年だから」と思うでしょう。そのようにして、諦めるというか、「そういうものだよ」と自分を納得させる。それで初めて病気というものと自分とが馴れ合うといいますか、いうならば、受容する、受け入れる心になります。そこに行くまで悶々(もんもん)と悩むわけです。ある種の諦めや、あるいはいろいろな理由づけで「こうなのだから、まぁ、仕方がない」と、「これはもう受けるしかない」と、受け止めてしまうとそれでひとまず落ち着きます。しかし、また次に問題が起こる。その度ごとに、その問題がどのように自分の生きていること、生存していることと、どうつながっているか、その意味が分からない。ここが人の悩みの根源だと思います。そこで、ではそういう悩ましい中で神様を信じるとはどうあることか?あるいは、イエス様を信じることを、どういうふうに受け止めて行くのか?ということになります。

文明が低いといいますか、私たちの目から見れば文明が低いと言うのは外的な条件です、あくまでも。そういう外的な条件が、私たちの生活レベルよりも低いというか、違っていると言ったらいいと思うのですが、私たちと違った生活をしている人たちのその生活を変えてあげることが、果たして本当に良いことなのか分からない。となると、いちばんの問題は、それぞれの人々がその置かれた条件、事柄、与えられた問題をどのように受け止めて行くかに掛ってくるのです。

聖書は私たちにその根本的な物の見方といいますか、受け止め方といいますか、私たちの心の有り様(よう)を徹底的に変えてくれるものです。まず、私どもの住んでいるこの世の中では、最初申し上げたように、神様を信じることもしないし、イエス様のことも知らないし、ただ人の知恵と知識、自分たちの力と、自分たちの業でやっているわけでしょう。ところが、聖書は「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」(1節文語訳)と創世記1章にあるように、全てのものに先立って、まず神様がいらっしゃった、と宣言されている。これが根本的に違うのです。この違いをしっかりと把握しておかないといけない。私は、これがいちばん大切なことだ、と思います。やはり、聖書のいちばん最初に語られていることは、そのとおりだと思うのです。

同志社大学を創設した新島襄という方がおられます。その方は、聞くところによると、キリスト教に触れて、信仰に導かれた動機が創世記1章1節の言葉だった、というのです。初めて聖書を開いたときに、「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」という文語訳聖書を読んだ。そのとき、彼は雷に打たれたように目が覚めたというのです。「そうだったのか。人が最初ではなくて、神様がいらっしゃるからこそ、後にすべてのものが造られたのだ」と。これを認めるのか、認めないのか。これが根本的な問題。それまでだって、恐らく彼は日本に生まれ育った以上、八百万(やおよろず)といわれるぐらい神様はたくさん周辺にいるわけですから、神様を知らないわけではなかったけれども、あくまでもそれらの神様は、人が中心であって、人がすることを神様が助けてくれたり、何か罰を与えたりする方であって、あくまでも、補助的な存在、神様はあくまでも人の生活を潤(うるお)すものと思われていたのでしょう。また、世間では生活の中心はやはり“人”だという思いがあります。人がしっかり頑張らなければどうする、という話になりますから、人間の力、人間の知恵が事を運ぶのだと。しかし、人はどんなにしても弱い、力がない、知恵がないから、おのずから神仏を頼ることになる。自分の不安な思い、自信のない思いのゆえに、神様を呼ぶことによって、信仰することで何とか乗り越えて行く。いうならば、自分の力の足らないところを足してもらって、神様に足台になってもらって目的を達成する。これが世間一般の神様についての考え方です。世界でもそうだと思います。いうならば、人の足らないところを補うのが神様の役割です。人間は足らないところばかりですから、それを補う神様はいくらでも出来ることになる。

ところが、聖書が語っていることは、まず神様が中心におられ、その後に全てのもの、森羅万象が神様によって造り出されてきたという、一貫した考え方といいますか、世界観といいますか、捉(とら)え方が貫かれています。神様を信じる、あるいは、神様の救いにあずかるというのは、聖書のいう世界観、そういう価値観に自分を置き換えることです。これが信仰に生きることです。私たちは見えるものとか、聞くおとずれ、様々な知恵や知識や、周囲のいろいろな情報によって事を定めて業を進めて行きますが、そうすると、いきおい人が中心になる。あの人がこうしたから、こうなった。この人がこうだから、こうなった、という発想が、常に身に付いている。普段の生活を振り返ってみてもそうでしょう。私がいまこんなふうになった、こういう不幸な目に遭ったのは「あの人があのときあんなことを言ったから、あんなことをしたからだ」と「あの人がいけない」、「あいつがいけないのだ」と。あるいは、こういう状況だから、こういう時代だから、こういう政府だから、こういう政治家だから駄目なのだ、というように、それが全てであるかのように思ってしまうのです。そして、悶々(もんもん)として、恨みつらみ、ねたみや憤りなどが絶えず心に消えない。中にはその怒りが力になって生きている人もいますが、それは、人としての生き方としては間違っている。そうではなくて、私たち全てが実は神様によって造られた者なのです。私たちは被造物です。このことを認める。そして、神様が万物、森羅万象、ありとあらゆるものを造っておられるのであって、その神様を信じて行く。神様のわざを信じて行く。これが、人が人として生きる生き方、自立した生き方というのはそこにあるのです。

ですから、4章1節以下に、結婚を禁じたり、食物を絶つことを命じたりという記事がありますが、世の中にはいろいろな仕来たりや習慣がありまして、これは守るべきだとか、これはしてはいけないとか、これはこうあるべきだと。これは人が共同生活をしていくうえでのルールといいますか、そのような仕来たり、習慣を作って行くわけです。それでもって、これは不幸だとか、これは忌(い)むべきこと、これは不吉なこととか、これは良いこと、いうならば、自分にとって都合の良いこと、都合の悪いことという切り分け、仕分けをするのですが、その基準は、そういう社会全体の規範、定まり、あるいは人の目を気にしてみたり、多数の人の意見を基準にして決めたりします。ですから、何か事が起こると、「ああ、良かった」と言うときがあり、また別のことは「どうして不幸な目に遭ったんだろう」と言って嘆く。嘆くことと、喜ぶことは何を基準にして切り分けているだろうか。大抵世間一般の皆がしているのを見て、あんなふうになりたいとか、こういう生き方が良いに違いないと、そういう周囲の様々な情報、世間の価値観によって、それが良いに違いない、そうすべきなんだ、と思ってしまうのです。ところが、ここにありますように、そういう結婚を禁じたり、あるいは食物を絶つこと、人が造り出したそういう規範、あるいは習慣、そういうものにのっとって生きるのではなくて、3節の後半に「しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである」と。ここにもう一度、「神様が造られたもの」と、どんなものでも神様によらないものはないということを、パウロは語っているのです。神様は私たちのためにどんなこともそのように備えておられる。私どもは「どうしてこんなになったのだ」と言います。「どうしてこうなったんだ」「どうしてだろう」と言います。その原因探しをします。それで分からないと適当に「あいつがいけない。あんなことを言った」と言って、人を非難する。あるいは、自分を責めることもあります。「私がこんなんだからいけなかった」、「私がこんなに足らなかった」、「私があのときもうちょっと注意しておけばよかった」、「私があのときああしておけばよかった。私は駄目だ」、「私は駄目だ」と言って卑下(ひげ)される方もおられる。私はときどきそういう方に会うと、「どうしてそこまで自分に固執するのかな」と思うのです。「私は駄目な人間」「私は本当にしょうもない、箸(はし)にも棒にも掛りません。もう何にもできない」と、駄目、駄目、駄目と自分のことを言われます。「謙遜でいらっしゃるのかな」と思うのですが、そういうのを「卑下 慢(ひげまん)」と言うのです。自分を卑下することによって自慢することです。人って一筋縄ではいきません。単純に卑下しているようであって、自分をけなしながら自慢するのです。

私たちは何をしてもどこかで神様によらない人の力というものにどうしても引き廻されるのです。だから、3節の後半に「感謝して受けるようにと、神の造られたものである」と。4節に「神の造られたものは、みな良いものであって」と前半に言われています。それはそうですね。神様はパーフェクトな御方でいらっしゃる。完全な御方です。どこにも欠陥のない御方です。その御方が、一つ一つを造ってくださった。その創造の神は今も私たちの生活の隅から隅までどんな小さなことでも、こんなちっぽけな私の生活のこんなことまで神様は知らないのではないか。神様は気づかないのではないかと。いいえ、そうではありません。神様は私たちの思いをことごとく知り、事を握っているのです。だから、どんなことも神様によって造られなかったものはないのであります。サタンですらも神様に造られたものです。神様のご支配を超えて神様のあずかり知らない事柄は、世の中には……、世の中どころか、どこにもないのです。神様は全てのことをご存じでいらっしゃいます。そして、全てのものを造ってくださる。造るというのは、ただ私たちの目に見える品物を造ることだけではないのです。もちろんそれもそうでしょうが、私たちの事情や境遇、事柄も神様が造られる。皆さんの結婚に導かれたのも、神様が導かれたのです。あるいは、自分の人生に、これは?と思うような状況、事柄、問題が起こったこと、それも実は神様が造ってくださった。だから、私たちが生まれて今に至るまでの全てのことは、誰が造ったといって、神様が造られたのです。これをしっかりと認める。これが信仰に生きる生き方です。だから、誰が悪いのでもない。人が悪いのでも、自分が悪いのでもない。社会が悪いのでもない。誰が悪いのでもない。悪いのは神様です。悪いのは神様って、言い方としては非常に誤解を招きやすいですが、まさに神様が造ってくださる。だから、私たちが分からないのは当然です。「なぜ、こんなになったのか」「どうしてこんなことになるのか」と、よく言われます。「どうしてでしょう、先生、こんなになって、私はそんなつもりはなかったのに、こうなって、ああなって。一つ言ったことがあちらでひっくり返り、こっちでこうなった。あの人がいけないのでしょうか。この人がいけないのでしょうか。どうでしょうか」と言われる。「いや、誰が悪いわけでもない。神様ですよ」と。「え!神様はそんな悪いことをするのですか」と、「いや、悪いことって、誰が言っているの」と。「いや、悪いことでしょう。こんなことは」と、「それは、あなたがそう思うのであって、神様はあなたにこれはいちばん良いこと……、聖書を見てください。『神の造られたものは、みな良いもの』とあるではないですか」「いや、これが良いのでしょうか」と、「いや、あなたがいくら良くないと言っても、神様が『よし』とおっしゃっているのですから、あなたはそれを『よし』と言うしかないじゃないですか」。「そんなに神様は傲慢(ごうまん)な」と「傲慢なって、あなた、相手は神様ですよ」。私どもはそこを間違うのです。自分が神様になるのです。だから、「どうしてこうなったのだ」と言って、プンプンカンカン腹をたてる。そういう人を見ていると、可笑しくなります。神様も見ていて滑稽(こっけい)だと思われるでしょう。神様が一つ一つ事をそのように導いておられる。ですから「伝道の書」に「すべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(3:1)と言われ、「生まるるに時があり、石を投げるに時があり、抱くに時があり、……」何をするにもどんなことにも時があり、その時を導かれるのは神様です。ということは、事を起こしているのは神様だということを語っているのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(3:11)と言われます。神様のなさらないことって、何があるか? と考えてみてください。一つとしてありません。

今日皆さんが朝目覚めたとき、「ああ、今日は寝坊した」と悔やむ。しかし、それは神様が遅くしてくださったのです。それを「ああ、しまった。私は夕べ目覚ましを掛けるのを忘れとった。やっぱり年やろうか」と、年のせいにする。そこで神様のせいにしなければいけない。「神様、あなたは私を今朝ゆっくり休ませるために、忘れさせてくださったのですね。感謝します」と感謝すればいいのに……。信仰に生きるのは、なんと素晴らしい生活ではありませんか。腹を立てる必要がない。自分にがっかりすることもいらない。どれもこれも何一つ神様によらないものはないのですから、その神様がいまあなたに「これでよし」とおっしゃってくださる。それを認めるのです。

だから、4節に「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」。感謝して受けるのですよ。感謝するというのは「有難う」と言うことでしょう。「ああ、うれしい!感謝」と言うでしょう。だから、どんなことでも感謝してください。交通事故に遭ったら「感謝」と言う。火事に遭ったら「ああ、感謝です」と。だから、前にもお話ししたと思いますが、名古屋一麦教会の亡くなられた松原和人先生という初代の牧師先生ですが、ある信徒の方の家が火事になったのです。それで、大慌てで先生に電話してきて「火事になった!」と、すると先生が飛んで来てくれました。その時は鎮火していましたが、全部焼けてしまって、しょぼんとしていたその方に「感謝ですね。良かったですね」と言ったところ、カンカンにその方は怒って「こんな不幸な時に、何という牧師だ!」、慰めのひと言でもあってもいい。しかし「いや、良かった、感謝、感謝、感謝しましょう」と言われた。ところが、それから何年かたって、気が付いて見たら、前の地所よりも広い所が与えられ、新しい家に建て替えられ、そして、自分の子供たちそれぞれが近くに住むようになった。「なるほど、神様はあの火災を通して、こういう恵みを私に与えようとしてくださったのだ」と、後になって気が付いた。今いろいろなことで「もうこれは駄目や」とか「これで行き詰まりだ」と、「これで世の中は終わりだ」と「もう私の生きている間、これは変わり様がない」と思っているかもしれない。そんなことはありません。神様がなさるときは、がぜん、にわかです。しかも、神様がしていらっしゃるのです。ちゃんとご存じで、一つ一つに時を定めて事を導いていてくださる。だから、私たちは何も失望することはいらないのです。「さぁ、ここから神様はどのようにしてくださいますか。あなたが造り主でいらっしゃいます。このことをも神様が事を起こして導いて、これを全うしてくださる」。だから、4節に「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら」。ただ、そのことに神様を認めなければ感謝できません。

だから、自分自身のこれまでの人生のいろいろなことを振り返ってみて、嫌だったとか、辛かったとか、あんなことにならなければ良かった、ということはいくらでもあります。でも、ありますが、同時に、あれがあればこそ、あのことがあったからこそ、今ここにこうして感謝できる、といいますか、喜べる状況に置かれている、と改めて振り返ってみて、非常に厳粛な思いがします。あのときどうしてあんなにワーワーわめき悲しみ嘆いておったのだろうか、と思います。皆さんもそうではないですか。振り返ってご覧なさい。「あの娘が結婚の時に大慌てして……」、私もよくそういうことを聞きますが、「私はこの結婚には大反対です」と、お母さんは泣いて来られた。ところが、結婚して何年かたったら「うちの孫は誰よりも可愛い」と。「何だ、あの時泣いておったのは、誰だ」と言いたくなるのですが、「ああ、ようございましたね」と、こちらは和やかに言いますが、皆さん、そうでしょう。神様がわざを進めてくださる。「神の造られたものは、みな良いもの」、だから、いま目の前に「何だ、こんな!」と、腹立たしいことがあろうとも「ああ、そうだ。これも神様が造ってくださっているのでしたら、何にも文句を言うことはありません。神様、感謝します」と、神様に目を留めて行くのです。だから、今年も教えられたように「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)と。イエス・キリストをいつも思っていく、ということは、まさに全てのことが神様のわざによるのですと認めるのです。しかも、イエス・キリストを思うとき、私たちは神様の御愛を忘れることができない。神様は私たちを愛するが故に、この恵みを与えよう、この事の中に置いてくださっていらっしゃる。神様のご愛を深く感じるならば、ますます喜んで受けることができる。だから「イエス・キリストをいつも思っていなさい」。どんなときにも主を思うとき、「これも神様は私を愛してくださるからこういうことを起こしていらっしゃる。こういう問題の中に置かれているのだな」と、感謝したらいい。その後にありますように「何ひとつ捨てるべきものはない」。どんなことも捨てるべきものはない。「役立たない」とか「こんなのは無駄だった」ということはない。

ところが、神様を認めないで生きていますと、いつも嘆きます。「私のあの一年間は無駄だった」と、「あんな病気をして3年間も闘病生活をした私の人生、あの期間が無かったら良かった」と言って嘆かれる人がいますが、私は「本当に気の毒だな」と思うのです。

私の友人が、今そういう悩みの中にいますが、彼は膠原(こうげん)病からパーキンソン症候群にかかって満足に歩くことができなくなった。昨日でしたか、葉書が来ていました。皆にもっと自由に会えると思ったが、もうこんなんだから、私は……。読んでいるだけでこちらの気が滅入ります。「本当に望みがないのだな」と思う。この世にあって、いろいろなことに遭います。しかし、神様はそれを私たちに愛のゆえにプレゼントとしてくださるのであって、感謝して受けるのです。私はその方の葉書を読みながら「本当に気の毒だな」と。どんな病気の中に置かれようと、何が起こって来ようと、「神の造られたものは、みな良いもの」と信じて行く。「神様がしてくださることに間違いはない。いまこのことも神様のわざです」と、はっきりと決断を付けて行きたい。そうするとき、それを感謝して受ける、受容することができる。むしろ、それを積極的に喜ぶことができるのです。だから、「ローマ人への手紙」5章にあるように、「患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。5 そして、希望は失望に終ることはない」。私たちをして、患難をも喜ぶ者としてくださる。なぜ喜べるか?それは神の造られたものはみな良いものですから、良いものを喜ばない人はいません。うれしいことです。

だから、何があっても感謝して受ける。このことに徹底して行こうではありませんか。「神様、ここからどのようにしてくださいますか」「神様、どうぞ、いかようにでも、どんなにでもしてください。御心のままに」と、神様の御手を信じて行くとき、後になって振り返ってみると、「なるほど、このように神様はしようと思ったのか。だったら、早くに言ってくれよ」と、ところが、神様は前もってはおっしゃらない。「わたしを信じなさい」ということです。「信頼しなさい」、後になってみると、「なるほど、こういうふうに神様は取り計ろうとしてくださったのだ。後から「感謝です」と。しないよりはしたほうが良いとは思いますが、まず「感謝して受ける」。どうぞ、このお言葉をしっかりと心にとどめて、どんなことも良いものと感謝しようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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