いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(498)「神の愛に帰る」

2015年03月14日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネの黙示録」2章1節から7節までを朗読。

 4節「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。

 1節に「エペソにある教会」と語られて、8節には「スミルナにある教会」、その他(ほか)にも「テアテラにある教会」、「サルデスにある教会」と、2章から3章にわたって7つの教会に宛てた神様からのメッセージが語られています。この黙示録は、イエス様の弟子であったヨハネが晩年パトモスというエーゲ海の島に幽閉され、そのときに神様が霊を送ってこの世の様々な現象から終末に至る事柄、またそれを超えて人の永遠の生涯がどういうものであるかを悟らせた黙示です。黙示とは、はっきりした言葉ではなく、様々なたとえを通して語ることです。

黙示録を読むと「何だか難しい、訳の分からないことが書かれている。どうも眠気を催(もよお)して仕方がない」と、そういうことを言われる方もおられます。確かに小説を読むようにつらつらと簡単に読める内容ではありません。理解しようと思っても、一つとしてつながって来ない。「いったい、これは何のことを言っているのだろうか」と訳が分からない。夢物語のような漠然としたつかみ所のない印象、それが黙示録に対して抱く感想でしょう。確かにそう感じることですが、しかし、黙示録全体が何を語っているか、次々に現れて来る様々な異常な状況、事柄、竜が出てきたり、大きな女の人が現れたり、地を飲み込んでみたり、様々な馬に乗った騎士たち、死の使いがやって来て……、「これはいったい何だろうか? 」と疑問に思いますが、今そのことを知る必要がないから神様は閉ざしておられるのです。黙示録を読むとき「分からん」「分からん」というのではなく「なるほど」と、それをそのままに取りあえず受けておく。深読みをするとか、詮索(せんさく)する、何とか理解をしようとすることは、決して良い結果にはつながりません。語られる言葉で「これは」と読む人の心に神様が光を当ててくださるから、そのひと言をつかんだらそれでよろしいのです。「いったいこれは何を言おうとしているのか」と、そんなことを言い出したらたくさんの本が書ける。既に過去に多くの人がそういう物を書いていますから、いくら黙示録の解説書を読んでもどれ一つとして正解はありません。素朴な思いをもってこの聖書に直接触れること。分からないことは分からなくていいのです。皆さんの心に「これは私に語っておられるのだ」と、心の琴線に触れるといいますか、心に響いてくるお言葉をつかんでいただきたいのです。

七つの教会は当時アジアにある教会です。パウロが地中海沿岸の各地にイエス様の福音を携えて伝道をしました。その他の弟子たちもそうであります。エルサレムでの大迫害が起こり、エルサレムの教会が散り散りになってしまいました。そこにいたたくさんの信徒たちはそれぞれがイエス様のメッセージ、救いのおとずれを携えて各地に散って行ったのです。これは神様の深いご計画であったと思います。エルサレムの教会の大迫害は、クリスチャンが大変苦しいつらい思いをする出来事であったのですが、むしろそのことがあればこそ、福音がエルサレムにとどまらずいたる所にまき散らされたのです。これは不思議な神様のご計画であったと思います。やがてその人たちはそれぞれの遣わされた所で、イエス様を主とあがめ、救い主と信じて、多くの人々にこの恵みを伝えることができたのです。その中でもパウロという伝道者が各地を回って力強くイエス様の福音を語りました。そして各地に教会が建てられたのです。

エペソの町にも教会が建てられました。パウロがその町に遣わされてまいりました。以前からエペソの町にはいろいろな人が来てイエス様の福音を伝えた形跡がありますが、しかし、本格的に腰を落ち着けて伝道をしたのはパウロでありました。彼はそこで数年の間、徹底して福音伝道に力を尽くしました。そして、イエス様を信じるクリスチャンが生まれて、そして教会という一つの群れ、集まりが形成されました。そればかりでなくて、8節に「スミルナ」という町にもありましたし、その後にも「ペルガモ」であるとか「テアテラ」であるとか「サルデス」であるとか、七つの主だった町に教会ができた。その他にも当時いろいろな町に既にクリスチャンたちが教会を、あるいは家の教会といいますか、家庭集会のような形の小さな集まりがたくさん置かれていたようであります。この七つの教会に対しての神様が警告といいますか、励まし、あるいはアドバイス、サジェスチヨン(示唆・暗示)を与える意味で、教会の特質、その改めるべき所などを細かく指摘して語ったのが2章3章に語られている記事であります。

 これはエペソの教会に、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある教会に、という意味でもありますが、しかし、同時に私たち、いまイエス様の救いにあずかって生きる私たちに対する神様からの促(うなが)し、勧めであり、メッセージでもあり、励ましでもあります。それぞれの教会に特徴があります。エペソの教会は大変恵まれた教会であったと言うことができます。2節に「わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている」とあります。信徒たちがどんなに熱心に神様に仕えておったかが分かります。主の御心に従うために労苦と忍耐とを惜しまないで様々な戦いの中にあっても忠実に神様に仕えていた。そのことをはっきりと称賛しておられます。2節の後半に「また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている」と。これはエペソの教会が正しい信仰に立っていた、ということです。様々な使徒と自称してはいるけれども、実はにせ者であることを見抜いて、そういうものに惑わされないで、正しい教えであるかどうかを見抜く力を持っていた。エペソの教会にいろいろな人がやって来る。あるいは、いろいろな教えの風が吹き込んで来る。

 ガラテヤの教会はそのために揺れました。ところが、このエペソの教会はそういうものをきちっと識別する、判別する力があった。3節に「あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった」と。「わたしの名のために」、キリストのためにという、主の御心に従うために忍耐し続けた。そして揺るがない信仰に立っていた、と神様はここでもエペソの教会を褒めてくださいました。ところが、その後の4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と。確かにエペソの教会は全ての面、行いにおいて、言葉において、生活において、いろいろな面で神様が求める標準に達していたに違いない。いやそれどころか、神様が喜んでおられた教会であります。そういう形は出来上がり、することなすことはそつがない。何一つ間違いがないところではあるが、もう一つ神様が求めておられることがある。 それは4節です。「初めの愛から離れてしまった」。することはそつなくキチッとできるとしても、その心が、その事の動機がどこにあるのか? そもそもイエス様の救いにあずかったいちばんの原点はどこであったか ということです。

これは、このエペソの教会だけでなくて、私どもが自らに絶えず問い掛け、立ち返らなければならない大切な原点であります。これを抜いてしまうと、例え他のものがどんなに立派であっても、それは意味をなさないといいますか、値打がなくなってしまう。それほど大切なものです。私たちは信仰の行いではキチッとその思いを全うすることができる。しかし、肝心な心がどこにあるか? このことをエペソの教会に神様は問うていらっしゃる。それは同時に私たちにも問われることです。4節に「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。「初めの愛」とは、何であったか?「それはその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり」(文語訳)と「ヨハネによる福音書」3章16節のお言葉にありますように、神様が私たちを救ってくださったのですが、そのためにどんな大きな犠牲、代価が払われたものであるか、それを私たちは忘れてしまってはならない。「ヨハネの第一の手紙」に「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」(3:1)と言われます。神様が私たちを愛してくださった、という主のご愛に触れる。そのご愛のゆえに生きる者とされた。新しいいのちに生かされる者になった、これが救いの原点、これを決して忘れてはならない。もしそれを忘れるならば、私たちはいのちを失ってしまうからです。かつてイエス様を知らなかったとき、この救いにあずからなかったとき、どんな状態であったか?
「エペソ人への手紙」2章1節から3節までを朗読。

1節に「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者」と語られています。イエス様を知らなかったとき、神様の救いにあずからなかったとき、私たちはどんなであったか? それは「罪過と罪とによって死んでいた者であった」。死んでいたと。でも自分を振り返ってみると「生まれてから一度として私は自分の葬式をしたことはない、死んだはずはない」と思います。ところが、ここでいう「死んでいた」とは、肉体の命の問題としてではなく、私たちの魂の問題であります。「罪過と罪とによって死ぬ」とは、私たちが神様から離れて肉によって生きる状態です。3節に「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い」とあるように、肉という、いうならば、神様抜きにして人の知恵と力と業によって生きようとすること。己(おのれ)を神とする。「いや、私はそんな大それた人間ではありません。自分を神だなんて思ったことはありません」と言います。確かにそうです。私たちは意識して自分から「俺は神だよ」と、家族の者に「俺が神だから俺に従え」とは言わない。言わないけれども気が付かないうちに俺が神になってしまう。分かりやすい例を挙げると「絶対……」という言葉を使うでしょう。絶対という言葉は本来神様専属の言葉です。絶対者は神様以外にありません。しかし、「いや、絶対そんなことはない」と口ぐせで言うではありませんか。「いや、絶対そんなことはない」と言ったとき、「俺は神だ」と宣言しているのと全く同じことです。「絶対」なんて、人は言えないのです。でも心で思う。「主人はあんなことを言っているけど、絶対そんなことはない」と、心の隅っこで「絶対」と思う。それは自分を義とする心です。それと同時に神を認めない思い。「そんなことは絶対あるはずがない」「そんな馬鹿なことはあるはずがない」「世の中がひっくり返ったって絶対ない」とそこへ来るのです。私たちが神様を抜きに生活をしていると必ずそこへ来ます。普段「私はそんな大それた人間ではありません」と謙遜ぶっているけれども、しかし心の中で「絶対、そんなことあるもんか」と、“己”というのがそこにある。これは非常に分かりやすい例ですが、自分がどこまで神になっているかを知るにはこれがいちばん分かりやすい。ですから、1日何回「絶対」と言っているか。人から何か言われると「ああ、そうね、それはいいわね」といいながら、「絶対やるものか」「絶対行くものか」と思う。そこには神様という絶対者を認めず、「私は誠に被造物、造られたものである」という自覚が消えてしまう。ですから、何でも自分の思いのままに事がすすまないと納得しない、落ち着かない、苛立つ、憤(いきどお)るのが私たちのしていることです。だから、私たちの心は、神様から離れて平安がないのです。神様から離れた心、自分が絶対者でありながら、現実は何もできない。無能無力です。「絶対」と言いながら「俺は神だ」と言いながら、現実何にもできない自分に苛立ち、憤るのです。それがひいては人に向かっての態度に変わってしまう。ですから「あの人がああだから嫌いだ」とか「この人がこんなことを言うから何だ」とか、心のあしき思い、汚れた思い、様々な物が出てくる。まさに神様を離れて、自分が神に成り代わる。しかし、神様を認めて自分が造られた者にすぎないと、へりくだったものとなるとき世界が変わります。世の中の風景が変わって来る。

1節に「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって」と、まさにそういう「罪過と罪とによって死んで」、喜びを失い、感謝がなく、望みを得ることがなく、平安がなく、あるのは自己満足と自分を誇りとする思い、そして常に優越感を持とうとし、競争し、絶えず苛立ち、焦(あせ)っている自分。日々の生活でも、何かジッとしていてもジッとできない。「こんなことをしていてはいけない。あれをしようか、これをしようか」と、何かし掛けて中途半端で、1日を終わってみると「今日はいったい何をしたのだろうか。何もしていない。あれも中途半端、これも……、なんて私は駄目なのだろう」と、心で思いつつ「あの時電話があったから、あの人がいけない」と、非難する心に変わって行くでしょう。常に苛立っている自分。じっくりと構えることができないでいるとき、自分をもう一度振り返って見ると、そのとき神様から離れている。それはここで言うところの「罪過と罪とによって死んだ自分」だからです。死んでいた私たちは十字架のあがないの死によって生きる者とされたのです。
だから2節に「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである」。「不従順の子らの中に今も働いている霊」とは、神様に従い得ない、神様を認めようとしない、そういう力。「不従順の霊」という見えない力が私たちをとりこにしている、縛りつけていると、パウロは言っています。そして3節に「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い」、何もかも自分の思いだけで全部埋め尽してしまう。神様を思う思いは一かけらもない。これは誠に不幸な死んだ状態であります。その後に「生れながらの怒りの子であった」と。「怒りの子」とは、神様からの怒りを受けるべく呪われた存在であるということです。神様から呪われていのちを失ったもの、死んだ者であった。どうですか、皆さん、今はこうしてイエス様の救いにあずかって神を知る者、神様を信じる者とされました。しかし、そうでなかったかつての自分をもう一度振り返ってみると、どんなであったか? 本当にこの世の様々な教えの風に吹き回されて、あちらがいいといえばあちらに、右と言われれば右、常にフラフラして、それで何一つ満足を得られない、安心がない。そしていつも不安と恐れと苛立ちと憤りの中に日々を過ごしておった。ところが神様の憐れみによってそこから新しいいのちに生きる者とするために、ひとり子イエス様をこの世に送ってくださったのです。2千年前、まだ私たちの生まれない前から……。
ですから、4節以下に「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。4節の後半に「わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって」と、神様は滅びに定められた私たちに大いなる憐れみを注いでくださいました。愛をもって私たちをその死の中から、滅びの中から救い出そうとご計画してくださった。これが4節以下にいわれている「大きな愛をもって、5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」とあります。「キリストと共に生きる者と変えてくださった」。イエス様は神の位に居給うた御子です。神のひとり子でおられる御方が敢えてその位を捨て、人の世に下ってくださった。そして私たちの罪のあがないとなってくださった。神様の呪いを受けるべき者がイエス様によってその呪いを取り除かれて、逆に罪無きお方、神の子なるイエス様が、あなたのために、私のために、一人一人の罪のゆえに呪われてくださった。私たちの罪を赦すと神様は十字架を立てて、神様の限りないご愛を証ししてくださいました。私たちをどんなに大きなご愛をもって愛してくださっているか。そのご愛に触れたとき、どんなに大きな喜びと感激、感謝を覚えたことか、それを忘れてしまう。それは誠に悲しいことです。だから私たちが立ち返るべき所は、まさに十字架を通して証しされた神様のご愛です。

「ローマ人への手紙」5章6節から8節までを朗読。

6節に「不信心な者たちのために死んで下さった」と。「不信心な者」、神様にとって何の役にも立たない、いやそれどころか害になるような私たちを愛してくださるゆえに、ご自分のひとり子すらも惜しまないで、十字架に釘づけてくださった。8節に「まだ罪人であった時」と、神様は、罪から清くなって立派な人間になって私の所へ帰って来い、とおっしゃったのではない。「ありのままの、罪に汚れ果てた、汚れきったそのままでわたしの所へ来なさい」と、そのために「まだ罪人であったその時」に、罪ととがとに死んだ者であった私たちのためにひとり子イエス様が死んでくださって、神様は「わたしはあなたをこんなに愛しているではないか」と十字架にご愛を示してくださいました。この主のご愛に触れて私たちはいま生きる者とされたのではないでしょうか。それは過去の昔話ではなくて、今も主のご愛によって生きる者とされている。イエス様の救いにあずかるということは、生きる動機、目的が変わると繰り返し申し上げているとおりであります。いったい何のために生きるのか? それは、私のような罪人である者、死んでいた者、何一つ取り柄のなかった、不信心の者であった私のために十字架に命を捨ててまで愛してくださった主に感謝、感激し、触れて喜び、そしていま罪を清められ、神の子とされている。この喜びと感謝をもって、「喜んでこれから主よ、あなたに従います」と身をささげて生きる。これがクリスチャンの生涯です。

イエス様を信じて、悔い改めて、バプテスマを受けました。そのとき、私たちは水に葬られる。言い換えると、キリストと共に死んだ者となった。そしてその後、水から引き上げられた。そこにはかつての私ではなくて、キリストの愛に生かされた自分に変わっている。だから、クリスチャン人生は、イエス様のご愛に応える生涯であります。私たちが今日生きるのも主がこんなものを愛してくださったそのご愛に応えて、感謝し、喜んで「あなたにお仕えしてまいります」と自分を主に奉げる。私たちの日々の生活のどれを取っても主のものでないものはありません。私の命も皆さんの家庭も仕事も家族も健康も老後も、これからの生涯も全てが主のものです。キリストのものです。愛をもってそれを託された者として、それを預かった者として、主のご愛に応えて、感謝し、喜んで「このことをさせていただきます」と受けて立つ。これがクリスチャンの原動力、動機です。だから、私たちが何をするにしても、家族のためであろうと、自分のためであろうと、愛してくださった主のご愛に応答するわざ、「今日もこのことをさせていただきます」と、感謝していく。ところが、その主のご愛に感じる心が消えてしまう。エペソの教会に警告されているように、することはそつなく立派です。キチッとクリスチャンらしい生活をしているかもしれない。しかし、その中に主のご愛に感じる心が消えている。「仕方がない、こうしているから、やめられないから……」「こうしていないと、誰が何を言うか分からないから一生懸命にやるわ」、するけれどもその動機たるや、その心たるや、主のご愛が消えている。これは誠にむなしい。神様はそのような私たちの姿を見て大変惜しんでくださる、悲しんでくださる。もう一度主のご愛に立ち返るのを待っておられます。

8節「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」と。そうです。ここに愛があるのです。神様が事情や境遇、問題を、私の思うようにしてくれるから愛されているというのではない。いや、それどころか、死んでいた私が、永遠の滅びに定められ、呪われた私が、その罪を赦されて、今日もキリストと共に生きる者とされている。神様の救いの動機、「どうして私のような者を……」は分かりません。あるのはただ一つ。神様があなたを愛してやまない。掛け替えのない大切なものとして、ひとり子をすらも惜しまないほどに私を愛してくださっておられる。このご愛に絶えず立ち返って、そのご愛にとどまるとき、心に喜びと望みと安心、平安を頂くことができます。事情や境遇、問題がどんな中に置かれても、こんな私を今日も十字架にまで命を捨てて愛してくださった主のご愛に生かされている自分であることを感謝して、初めの愛に帰ろうではありませんか。

「ヨハネの黙示録」2章4節に、「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。いろいろな意味において、ことに慣れてくると、慣れ侮(あなど)るようになり、感謝が薄らいで、喜びが消え、新鮮さがなくなる。これは誠に不幸なことです。どんなことでもそうですが、格別信仰において、神様から受けるご愛の恵み、豊かさ、喜びを失ってしまうことは、私たちの生活が誠にむなしい、いのちのない、死んだものになってしまう。

旧約聖書にはイスラエルの歴史が語られています。これは分かりやすく言うと、私たちの信仰生活の姿でもあります。イスラエルの歴史にはいろいろなことが書かれていますが、中心点は一つだけです。「神に帰れ」という呼びかけです。イスラエルの民は神の民ではあるのに、なぜ神様は繰り返し、繰り返し「神に帰れ」と呼びかけるのか? それは神様の民とされていながら、初めの信仰、初めの恵みから離れてしまうからです。繰り返し神様は彼らに警告を与え、「早くもう一度わたしの所へ帰って来なさい」とイスラエルの民に呼びかけます。イスラエルの民が他の民と違ってどうして神様の特別な選びの民とされたのか? これはまさに私たちが救われたのと同じく、理由がないのです。「創世記」12章にあるように、アブラムというひとりの人物に神様が声を掛けてくださったことが発端です。「どうしてアブラムだろうか? 他に人がいなかったのか」、「もう少しましな人がいたのではないか、あんな年寄りを選んで……」と思ったりします。しかし、理由は分かりません。言えるのはただ一つ、神様の憐れみがあった。「神様が愛してご愛のゆえにアブラムを選んでくださった」、これしかないのです。

私たちもそうです。こうやってイエス様の救いに引き入れられ、主を信じる者とされたのは、あなたの熱心な努力でもなければ、あなたに取り柄があるから、神様の役に立つからでもありません。いや、むしろ神様にとっては不名誉な者ばかりかもしれない。でも、神様はなぜ私を? それは「ひとり子を賜うほどに愛している」とおっしゃるご愛のゆえです。だから、私たちは神様のご愛によってこうしていま立てられている。そのようにイスラエルの民も神様のご愛のゆえに他の民とは違う選びの民とされていながら、確かに守ることはちゃんと、神殿にささげ物をすること、また奉仕をすること、どんなことでも彼らはきちんと律法を熱心に守ろうと努めて来ました。しかし、そこにはまことの神様を恐れる思い、神を神とする思いが欠けている。そして、神ならぬものに心を常に捕らわれてしまう。初めの愛から彼らは離れて行く。ですから、イザヤを通して「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」(51:1)と語っています。あなたがたはいったいどういう者であったのか?神様がどんな大きなご愛をあなたに注いでくださっているか。

どうぞ、今日もう一度この救いの原点である十字架を通して語られる主のご愛をはっきりと受け止めて感謝し、主のご愛に応答して行く生活、歩みをしっかりと整えておきたいと思います。ただ肉に付ける自分の思いを遂げるのではなく、自分の心の思いのままに生きるのではなくて、「こんな私を愛してくださった主のご愛に応えて、主の喜び給うことは何だろうか? 」と、主のご愛に応答する一日、一日でありたいと思います。

4節「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。私たちも気が付かないうちに動機がずれてしまいます。神様のために、主のためにと始まったはずの人生が「あの人のため」「この人のため」「自分のため」と、肉の思いに心が捕らわれてしまう。そうしますと、私たちは死んだ者になります。いのちを失います。そうならないために、絶えず、原点である十字架の主のご愛で心が常に満たされ、ご愛の中にとどまって主の御心に従って行きたいと思う。

5節に「そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい」。「悔い改めて」と、私たちは本当に自らの歩みをもう一度振り返って、「本当に主が求め給う歩みであっただろうか? 」、「神様がこんな者を愛してくださったそのご愛にどれほど応えて来ただろうか? 」 そのことを事あるごとに振り返って、自分の心を低くし、新鮮な感動をもって主のご愛を喜び、主のご愛に応えて行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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