いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(484)「主のための器」

2015年02月28日 | 聖書からのメッセージ
「コリント人への第一の手紙」6章12節から20節までを朗読。

 19節「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである」。

 救いにあずかることがどんなことか、いろいろな表現で聖書は語っています。神の子供とされるとか、あがなわれるとか、いろんな言い方がありますが、その中の一つが19節の「聖霊の宮」ということです。私共の救いに至る切っ掛けというのはそれぞれ個人的に違いますが、多くの場合、何と言っても御利益的な動機でした。生活や人生に悩んで「そこから何とか救われたい」、「そういうものから自由になりたい」と願って、神様を求める。そこに解決があるのではないかと思って、求めて近づいて来ます。まさか「私は神の宮になろう」と、それを初めから予期して来る人はまずいません。まずもって自分の問題、自分の悩み事を、あるいは自分の生き方とか人生に悩んで「本当に人とは、何者なのだろうか」「自分はどうやって生きればいいのだろうか」と、そういう人生に生きることの悩み、そういうことが切っ掛けでイエス様の所へ来ます。
なるほど神様は私たちの求めに応じていろいろな悩みを解決してくださる。それは確かにそのとおりであります。しかし、神様が最も願っているといいますか、私たちに求めておられることは、ただ日々の生活が快適になる、思いどおりに行く、悩みがなくなることではありません。ここが世の中の多くの信仰と言われるものとの違いです。考えてみたら、それでもいいような感じがします。病気の人にとって、病気が癒される、あるいは経済的に苦しい人がそこから解放されて良くなる。人間関係がややこしくて悩み多い人が、物事が上手く行くようになる。家庭が円満になるとか、親子関係が良くなる、それはそれで素晴らしいことだし、私たちに必要なことだと思います。ところが、それだけで終わってしまうのだったら、神様は何のためにいらっしゃるのか、神様を信じる目的がそこで途切れてしまいます。
神様がおられるのは、神様が私たちをこの地上で事なく不自由なく楽しく過ごすことができるようにするためではありません。神様は私たちの召使とは言いませんが、私たちの手助けしてくれて、頼み事を何でもしてくれる便利屋さんのように、この生きにくい人生、一筋縄ではいかないような人生を上手く行くように、陰になり日なたになり絶えず持ち運んでくれる、こちらは籠(かご)にかつがれた人のように「楽ちん、楽ちん」と過ごす。そのために神様がいらっしゃる。おおむね世の中の信仰は、そういうことのための神様です。私たちの悩み事を聞いてくれる、あるいは解決してくれるためにいる。「そうでなければ、何の神様だ」という人にとって、「私の願いを聞いてくれない、そんな神様は私はいりません」と断るに違いない。もし、人が断って済むような神様だったら、それは神様ではありません。神様のおられる目的は分かりませんが、まずもって人よりもはるかに大きい、大きいどころではない、これは桁(けた)違いですから、比べものにならない。まず神様がいらっしゃること、ここからがすべての始まりです。だから、聖書の一番最初(創世記)にあるように、何もない所に神様がおられて、その後から他のもの一切が存在している。この順序は決して変わりません。まず神様がおられて、その後に全てのものが創造される。その造られたものとしての私たちです。だから、被造物としての私たち。では「神様は私たちを何のためにお造りになったのか? 」、「私たちが生きるとはどういうことなのか? 」、「この地上で私たちがどうあるべきなのか? 」などを、神様はちゃんと思い描いていたに違いない。
もの造りするとき、「何か知らんけれどもやってみたらこんなものができてしまった」と、そういういい加減なことはしないでしょう。神様が、天を創り、地を創り、その中にある全ての生きとし生ける一切のものを創り出してくださったのは、それぞれに目的がある。それに託している神様のご期待といいますか、求めておられる事がある。人に対してもそうです。だから、神様は私たちを造ってくださって、人として生きるべき使命といいますか、私たちの生きる目的を神様は与えておられる。そのことを聖書は「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と語っています(創世 2:7)。
神様と交わり、神様の御思いに私たちがかなう者となる、これが私たちの造られた目的です。だから、私たちは造り主でいらっしゃる神様が私に求めておられること、願っておられること、させようとしていらっしゃることをしっかり悟り、神様の御思い、御心にかなう者となって行く。これが神様の求めておられることであります。ところが、かつてはそんなことはつゆ知らなかった。ただ自分の苦しいとか、つらいとか、悲しいとか日々の出来事だけに生きていて神様を知らなかった。離れていた。それは神様から離れて人が勝手な生き方をしてしまった結果であります。そこで神様はもう一度ご自分の許(もと)に私たちを引き戻して、私たちを新しく神のものとして、創世の初めに人が創られた目的にかなう者として仕立て直す、造り直す、そのためにひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。私たちを造り替えてくださる。「いや、私は造り替えられなくてもこれでいいです」と思いますが、外側の見栄えを造り替えるのではありません。神様は美容整形をなさるというのではない。私たちの内なるものを変えてくださる。

 それが今読みました19節です。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」とあります。神様は私たちの内に聖霊、神の霊を宿してくださった。いうならば、私たちは器(うつわ)です。ここにコップがありますが、この中にはお茶を入れたり水を入れたりしますが、このような入れ物として私たちを使ってくださる。物を入れるとき、必ずちょっと中を見ます、きれいかどうか。自分で見て「きれいだ」と思うと、水を入れて飲みます。ところが汚れていたら「え!誰が使ったの。ちゃんと洗っておけよ」と文句を言います。神様はかつてエデンの園に置かれていたときのように、神の霊を注ごうと思って、皆さん一人一人を取り上げてみたら、中は真っ黒黒、罪に汚れて「こんなの使い物にならん」状態です。こんな状態だから私たちが何をしても上手くいかない。汚れきった器ですから、どんなものを入れても必ず汚れてしまう。そうでしょう? ヘドロがこびりついた器にどんなにきれいな真水を入れても、きれいになりません。必ず汚れます。それと同じで、私どもの汚れきった心、イエス様がおっしゃるように「外側は白く塗りたる墓、内側は腐敗と汚物で満ちている」、まさに私たちはそういうものでありました。だから、私たちの内側が汚れていますからどんなに良いことをしようとしても、全て上手く行かない。だから、何をしても満足がない、喜べない、感謝できない。心配があり、悲しみがあり、つらいことがあると、生きていても仕方がない、というような状態になってしまう。それは何が悪いかというと、外側の何かかにかが悪いのではなくて、自分の中が汚れてしまっているから、良い物が出てくるわけがない。それをそのままにして外側をいくら磨きあげても、内側が汚れていたら、することなすこと全部その汚れが付きます。これが私たちの罪の姿です。
神様はそんな汚れた所に神様の霊を注ぐわけにはいかないのです。汚れた物はちゃんと洗って清くして、その上で真水、きれいな水をそこへ注ぐわけです。見えなくても油でもついていたら、必ず水を注いだら上に油膜がスーッと浮かんできます。徹底して全部きれいにする。どうやってきれいにするか? 私たちは自分の力ではできません。どんな難行苦行を重ねてもそれではきれいにならない。だから、汚れを清めるために、神様はイエス様の血を注いで、私たちの器を内側から清めてくださるのです。きれいに洗い清めて、不義を取り除いてくださる。これが十字架の恵みです。私たちを清めてくださる。だから「キリストの義を着る者としてくださった」とも書かれています。罪のあがないを成し遂げる、とはそういうことです。でも、イエス様の十字架を見上げて「私はあのイエス様の血潮によって清められたのだ」とは思うけれども、現実の自分を見ると「まだ、あちらが汚れとる、こちらが汚れとる。こんなの人に見せられん」と失望します。

 家に突然人が来られたら困ることがあります。散らかっていて見られたら困るからです。ある方の所を突然訪問したら「先生!あ、うれしい」と言って「ちょっと待ってください。ちょっと……」と言われるので、ジーッと待っている。するとそのうちほうきの音がして、水をパッパと打っている音がする。10分ぐらい待っていて「すいません。どうぞ、どうぞ」と言われて、門を入って見ると打ち水がしてあって「きれいにしていらっしゃいますね」、「いや、いや、ここだけです。中へ入ってください」と言われる。入ると「目をつぶってください」、応接間への途中、居間は見ないでくださいと。やはり皆そうです。「神様、あそこだけ見て、後は見ないで」と、自分は心の汚れた者であり、どん欲な者であり、人を恨む者であり、妬(ねた)みと様々な悪しき思いがうごめいている自分であります。イエス様の十字架のあがないを信じて上を見上げるけれども、実際の自分を見ると信じられない。しかし、ここが信仰に立つ場です。「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」(Ⅱコリント5:7)。「信仰によって歩く」とは、イエス様が「あなたの罪を一切処分した。『事畢(をは)りぬ』」(ヨハネ19:30文語訳)と言ってくださったことを信じるのです。どんなに自分が汚れた者であり、今そのような状態に見えても、あるいは自分が「箸(はし)にも棒に掛らん。捨てるしかない。こんなのは役に立たん。私が生きていたら世の害悪、猛毒を流しているようなもの」と思う自分であっても、主が、神様が「お前を清くしたよ」と言ってくださった。それを素直に感謝して信じることが大切です。だから「こんな私だけれども、神様が私を清くしてくださる。そして神様が『よし』とおっしゃってくださった」と、ここを信じていく。というのは、神様は私たち信じる者に、よみがえってくださったイエス様の霊を注いでくださるからです。

この19節の中ほどの「神から受けて自分の内に宿っている聖霊」、神様が私たちの内に注いでくださった聖霊、その聖霊の宮として私たちを選んでくださったのであります。これが救いの目的であります。私たち一人一人の内に神の霊を宿らせる。神様ご自身と言ったらいい。聖霊なる神ご自身が、私たちの内に住んでくださる。これは大変なことです。私たち一人一人が神棚のようなもの、御神体が内に入っているわけですから、そこらにいる人とは違うのです。私たち一人一人に神様が住んでくださる。そんなことを人に言ってご覧なさい。「あんたちょっとおかしい。病院に行ったほうがいい」と言われますよ。だから、人の前ではあまり大きな声で言わない。一人になったとき言うのです。「神様、有難うございます。あなたは私の内に宿ってくださいます」。
なぜ、神様は私たちの内に宿ってくださるのか? それは最初に申し上げたように、私たちが神様に造られた目的にかなう者に生きるためです。なぜならば、私たちには神様のご目的にかなう力がない。生きることができないからです。私たちの内には何の力もないのです。単なる器であります。だからパウロは「あなたがたの内にサタンという罪の力が入りこんであなたを支配している。しかし、幸いなことに主イエス・キリストによって感謝すべきかな。私たちはその罪の支配からそれを取り除いて、今度はキリストが私たちの内に宿ってくださったのだから」と。私たちはそもそも器ですから、悪い物を中に入れることもできれば、良い物も入れることができるのです。どちらを入れるか。私たちは神様から造られた器、神様がその中に霊を置いてくださったのだが、気がつかないうちにサタンが来て入り込んで私たちを引き回している。そして私たちを泥だらけにしてしまったのです。そこで神様はそれを取り除いて、サタンを十字架の上に踏みづけて殺してしまった。亡きものにして滅ぼして私たちの内にキリストが宿ってくださった。これは大きいです。それより「私のどこに神様住んでいるのかしら」と調べても分かりません。これは信じる以外にないのです。「いま私の内にキリストが宿ってくださっておられる」と信じる。ですから19節「神から受けて自分の内に宿っている聖霊」と、このひと言を信じてご覧なさい。「そうです。私の内にキリストの霊、神の霊が宿ってくださっておられる」。そう言われると、「神様の霊を宿すのは、自分にどうもふさわしくないのではないか」。

時にそのようなことを言われた方がいる。「先生、良いお話を伺ったのですが、どうも私にはふさわしくないように思います。神様の霊が私の内に宿ってくださると、恐らく宿ったらすぐに逃げ出します」と。それは誰でもそうです。もし私たちの内に神様の霊が来られてご覧なさい。一瞬にして飛び出してしまわれます。ところが、神様は「我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」とおっしゃるのです(ヨハネ6:37元訳)。神様は私たちを捕らえたらそこに宿るとおっしゃるのです。「コリント人への第二の手紙」には「われ彼らの中(うち)に住み、また歩まん」(6:16文語訳)と書かれています。宿って共に歩んでくださる。神様の住みかとしてくださる。私たち一人一人を神様の霊の住みかとしてくださる。その霊が今も働いておってくださる。
19節に「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」とあります。私たちは自分のものではない。では誰のものか? 私たちの内に宿ってくださったキリストのもの、主のものです。だから“クリスチャン”と言うでしょう。キリストの所有、キリストのもの、キリストにつける者という意味であります。私たちはそのことを信じて行きたい。クリスチャンとは「自分の内にキリストの霊が宿って、もはや私ではなく、私は全部キリストのものです。主のものです」と告白して生きることです。そう信じていくことです。
だから、何をするにしても主のものなのです。ただ一つだけ大切にすべきことは、「主のために」というこのことだけです。自分のためでもない、家族のためでも人のためでも誰のためでもない。国のためでもない。私たちは主のため、キリストのために生きる者とされたのです。だから、日々の生活の隅から隅まで、どんなこともキリストのためにあるのです。だから、ここで「もはや自分自身のものではない」と言われるのです。いつもそのことを自覚しておきたいと思います。「私のものではない」。だから、私たちが病気になろうと、家庭に問題が起ころうと何があっても、これはあなたの責任ではないのです。主のものですから、全て主が「よし」としてそこに置いてくださったことです。そのことを信じていく。「私は主のものです」、「私は主のために生きている」と。だから、今日も命を与えられたのは、私が生きるためではなく、主が私を生かしてくださる。生きる者としてくださった。これを信じていく。何かができるため、人のため、世のために何かをするために生きているのではない。「私はこの子のために……」なんて、そんなこの子よりも長生きするはずがない。
よく私たちは間違えるのです。息子のことで悩んでいる方がおられます。お母さんは心配で夜も眠られない。何が心配? 「いや、息子の将来のことを思うと心配でなりません」、「いいじゃないですか。息子より早く死ぬのだから」と言ったら、「先生、そんな冷たいことを言って」と。それはそうです。死んだあとのことまで私たちは知らないですよ。そこまで責任は持てませんから。私たちは自分のために生きているのではないのですから。主のために。だから19節に「もはや自分自身のものではない」と。いつもこのひと言を握ってご覧なさい。世の中は実に自由になりますよ。自分のものではないのですから。何があっても主のものですから。神様がこのことをしておられるのだから、それでいいじゃないですか。人がすると思うから、自分すると思うから、偉そうに「私の責任です。私があんなことをしなければ良かった。こんなことをしなければ良かった」と悔やむ、後悔をする、あるいは人を非難したり……。自分ができないと人を頼り、その人ができなかったら非難する。無茶苦茶です。それは根本が違うからです。いちばん大切なのは「もはや自分自身のものではない」ことです。「私は私のものではありません。主のものです」と告白する。そして、徹底して主のものであるということを実践して行くのです。それは私たちの内に宿った霊、キリストの霊に仕えること、従うということです。御霊、聖霊が私たちに望んでくださる、求めてくださるところに従って行く。これが全てです。というのは、神様は私たちを「神の宮とした」とおっしゃる。その名前にふさわしく造り替えたいのです。自分を振り返ってみると、こんな者が神の義だなんて、罪を赦されたなんて到底思われない。そうすると「こんなのでいいのかしら、こんなのでクリスチャンと言えるだろうか」と疑い、不安、恐れを抱きます。その結果、「では、何とかそれにふさわしく自分でやらなくては」と思いますが、そんなことをしなくていいのです。神様が、神の義にふさわしく私たちを造り替えられる。そのために私たちを主の宮とし、住まいとしてくださる。神様は私たちの内に宿ってくださる。今度は神様ご自身のご目的のために私たちを造り替えていく。これが新創造です。

 「コリント人への第二の手紙」3章16節から18節までを朗読。

 18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに」とありますが、「顔おおい」とは何のことか? これはモーセが神様の臨在に触れたときに、神様の栄光に照らされてその顔が輝いた。まばゆいほどに照り輝いた。そのままで山を下りてきて、そこにいてイスラエルの民がモーセをまばゆくてまともに見ることができない。神様の栄光に輝いていたのです。それで慌てて布をモーセの顔にかぶせて光を遮(さえぎ)った(出エジ34章30節~)、という記事がありますが、その光を遮るものというのは何か? それは「罪」です。「ローマ人への手紙」に「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」とあります(3:23)。神様の栄光を消すものが罪です。その罪を取り除くために、16節に「主に向く時に」とあります。「キリストによって取り除かれる」とあります。イエス・キリストが神の栄光を隠していた罪の幕を全部取り除いてくださる。だから16節に「主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」。罪が取り除かれて、主の霊が私たちの内に注がれてくる。18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見る」。イエス様の十字架を通して私たちは神様の栄光を見る者へと変えられた。だから、私たちはまだ現実的に罪の印、形、たくさんのものがうじゃうじゃと残っている。しかし、キリストの十字架を通して、差してくる神の栄光の輝きを受ける者となっているのです。だから、ここに「主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と。主の栄光の姿に照らされて行きます時、私たちの内に宿ってくださった聖霊は、私たちになお残されている汚れ、既に神様が清めてくださった後片づけを、聖霊が具体的にしてくださる。私たちの内に神の霊が宿って、まだ残っているどん欲な思いだとか、人を妬(ねた)む思いだとか、愛のない冷ややかな心であるとか、ご主人に対して抱いている許せない思いとか、そういう物を御霊が取り除き去って、神の栄光へと私たちを造り替えてくださる。神様は忍耐強く、私たち一人一人を造り替えてくださる。造り替えるにあたって、神様は手荒なことをなさらないのです。「こんな者は駄目だ!」と、潰(つぶ)してしまってではなく、皆さんの心に宿ってくださって、懇(ねんご)ろに優しく造り替えてくださる。神様はわたしたちの心を一瞬にして力づくで、ハンマーでたたき割るように変えることもできますが、そうはなさらない。聖霊が静かに臨んで私たちが離れるべきものを離れて、変わるべき所を教えて、自発の、自らの思いによって「主よ、こういう私を憐れんでください」と、主の力を求めていく所に働いてくださる。だから、時間が掛るのです。まどろっこしいように思いますが、神様は私たち一人一人を、そういう自立の心を持った者として造ってくださったのです。決して神様の操(あやつ)り人形、奴隷として造られたのではない。だから、神の御霊は私たちの内に宿ってくださって、18節にあるように「栄光から栄光へと、主と同じ姿に」変えて下さる。これが私たちの目標値、到達点、ゴールです。「主と同じ姿になるまでに変えられていく」、変えられていくのです。人を変えるのではないのです。自分が変えられるのです。私たちはすぐ「あの人はもっと栄光の姿に変わってくれたらいいのに」と思っている。人に期待して……、人ではありません。私が、です。皆さん、一人一人が「自分がキリストの姿に変えていただきたい」と願うことが必要です。聖書を読みますと、いろいろなことを教えられるではありませんか。自分の思いを探られ、ああしたこと、こうしたこと、過去のことから現在のこと、また今しようとしていることについて、「ああしたほうがいいんじゃないか」「こうしたほうがいいんじゃないか」といろいろなことを思うとき、御言葉を通して神様は必ず語り掛けてくださる。そうすると、いま自分が思っていることが「ン、これはちょっとイエス様に知られたら困るなぁ」、「これは神様の前にはちょっとむりがあるかなぁ」などと思いながら「えいや!」とやってしまう。そういうときに御霊は「ちょっと待ちなさい」とストップを掛けてくださる。「そうだった。生まれながらに自分はこういう所がある。こういうかたくなな心があるから、今このことを通して神様は教えてくださるな」と、自分自身がいろいろな意味で教えられる。まさに神様の造り替えのわざが進んでいるのです。私たちを変えてくださる。だから、神さまの御声に従っていくと、どんどん自分が変わって行きます。

18節に「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」とあります。素晴らしい。この最後の「これは霊なる主の働きによるのである」と言われます。人の働きや人の力ではない。神様がしてくださるのだ。今してくださっている。このことを信じていく。それは自分自身もそうですし、周囲の人にとっても神様が働いておられるのでありますから、私どもがあれこれつべこべ言うことは何もありません。神様が臨んでその人を造り替えてくださる。だから、大切なのは、まず私自身にいま神の霊が宿ってくださって、私を清くしてキリストの姿形に変わるまで、主と同じ栄光の姿へと私たちを造り替えて、神の宮にふさわしい者にしてくださる。神の宮であると。だから、失望しないで望みを持とうではありませんか。いや、それどころか大いに期待して行きたい。神様は私をこれからどのように造り替えてくださるか。そのために神様はいろいろな問題や事柄を起こしなさいます。私たちは「もうこれで自分は立派だ」と思っているでしょうが、必ず何か起こると「こんな私だったか」と愛想尽かすことが必ずあります。これからもあります。まだまだ、たくさん変えられなければならない。まだ時間が必要でしょう。それが終わるまでは神様はここに置かれますから。その間一生懸命に、と言って自分が頑張ることではないのですが、私たちはひたすら神様に任せる、委ねることを努める。「霊なる主の働き」によって、神様がご自在に私たちの内を清めて、心を新しく思いを変えてくださる。そうすると、見えない心が今度は外に現れてきます。だからイエス様は「外にあらわれるものはあなたがたの内側から出てくるではないか」とおっしゃいます。栄光の姿に私たちが清められて行きますと内側がおのずから変わりますので、現れた顔も変わります。高い化粧品はいらなくなるのです。内側から変わって行く。これが主の働きです。ここに期待して行くのです。自分を見たら失望します。あるいは、自分に力のないことがよく分かります。本当に駄目な自分であると思いますが、しかし、「これは霊なる主の働き」、「神様、あなたがこんな者を造り替えてくださるのですからよろしくお願いします」と、主の霊に委ねて行こうではありませんか。神様は日夜寝ているときも皆さんを造り替えてくださる。だから、皆さん、随分きれいになりましたよ。まだ余地はあると思いますが。主の霊の働き、主の力に私たちが絶えず引き回され持ち運ばれて行く、そして内なるものを清くしていただきましょう。

「コリント人への第一の手紙」6章19節に「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」と、神の宮、「聖霊の宮」です。そして宮に宿った聖霊は私たちを造り替えて栄光の姿へと私たちを変えて下さる。なお地上に生かされている目的は、私を造り替える神様は更にもっと輝くものにしようとしてくださるのだ、と信じて、与えられる一つ一つの問題の中で主の霊に委ねて、主の霊の働きを受け入れて行きたい。それに従って行きましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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