ローマ人への手紙14章1節から12節までを朗読。
8,9節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」。
14章1節以下に「食べる」、「食べない」ことが述べられています。この時代、ユダヤ教の人々は旧約聖書に定められた古い律法に基づいて、清い食べ物と清くない物という区別をしていました。今でもそうであります。ユダヤ教の人々はこれは食べて良い、これは食べてはいけない。豚肉は食べないとか、牛乳と牛肉と一緒に食べてはいけない、あるいは、うろこのあるもの、またうろこのないもの、ひづめの分かれているもの、分かれていないものと実に細かく区分されていました。イスラエルに行かれた方の話を聞きますと、必ず、各レストランにはユダヤ教の検査官がいるそうです。これはどのようなもので作られたのか、原料は何だったかと、豚肉とかそのような食べてはいけないものが入っているのではないかと逐一検査して、これは大丈夫というお墨付きをもらわないと出せないし、またそれがないとユダヤ教の人は食べません。
一人のユダヤ教の友人がおりまして、中華料理店に連れて行ったのです。私どもは大好きですから酢豚などを頼みます。彼ははじめて行きまして、緊張したのです。これは何が入っているかと、いちいちウェイターに聞く。チャーハンがよかろうと注文をしたのです。刻んだ細かい豚肉が入っていました。それを見て「これは何だ」と言う。「いや豚肉だけれども、これは小さいからいいのではない? 」と言ったら、「いや、これは食べられない」と言うのです。それでとうとう野菜の何かだけを食べましたが、子供のときから、そのような生活習慣の中にいますので、今日明日すぐに変わるわけにはいかない。
パウロの時代もそのような人がたくさんいました。しかし、イエス様はそのようなしがらみ、束縛、いろいろなものに支配されているところから、解放してくださったのです。イエス様の救いにあずかった当時の人々は大変楽になりました。今まであれをしてはいけない、これをしてはいけない、これもいかん、あそこもいかんと、言われていたのが、イエス様によって何でも許されているのだとなって、今度ははめを外してしまった結果がコリント人やガラテヤ人への手紙に語られている事です。
ここに食べる人、食べない人という区別がありますが、イエス様の救いによって解放されたのだから、そのようなことにとらわれる必要はないと言う人たちもいる。ところが、中には、そのようには言うが、それこそ生まれたときからそのような生活をしているのだから、これを変えるわけにはいかない。だから、どうしてもそれを守ろうとする人々がいる。そうすると、救いにあずかったという誇りを持っている人たちは、「あいつらは、何だ。古いではないか。あんなことをまだ守っているなんて、イエス様の救いがわかっとらん!」と批判する。そのような争いになって、対立があちらこちらに見られるようになりました。
パウロは、1節に「信仰の弱い者を受けいれなさい」と勧めています。一人一人に神様が与えた信仰のはかりに従って生きているのだから、例え、自分がいいと思っても、相手の人が「それはどうも」と言うのであったら、それでいいのではないかと言っている。食べない人は、食べる人を批判してはいけない。食べない者は、それは自分が食べなければいいのであって、食べているからといって、その人を裁くことは大きな間違いだと言っています。
5節に「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える」。私たちの生活の中にもあります。結婚式だとか、葬式と言うと、必ず出てきます。今日は大安、仏滅、友引? 葬式は友引の日にしてはいかんと。なぜなら、友達を引っ張って、天国か地獄か知りませんけれども、行ってしまうから、友引の日にはしないと言います。最近はどうか知りませんが、火葬場は友引の日はお休みだそうです。それでは、結婚式は友引にしたほうがよかろうと思いますが、これは大安でなければいけないという。いろんな日取りを見ます。中にはそれが大切だと思い込んでいる人がいる。ところが、私たちはいつの日だって同じではないかと平気です。だから、「先生、日取りはいつにしましょうか」、「私が都合のいい日は、この日ですからここにしてください」と言ったら「いや、先生、その日は仏滅ですから、ほかの日は? 」「いいではないですか、仏滅でも!いちいち気にしなくても」と言いたくなります。ところが、聖書にはそうは書いてない。それをどうしても譲れない、それを不安に思う人がいるならば、それでいいではないかというのです。だからといって、何でもいいということではなくて、実は、その一つ一つの事柄を確信して決断する。5節に「ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と。ここです。私たちもどこかで気にかかっている。あの日は大安でないけれどもいいのだろうかと思いながら、私は洗礼を受けたし、教会に行っているし、これはあまり言わないほうがいいに違いないと我慢して、「いいですよ、先生、いつでもいいです」と言いながら、家族には「困った。あの日は仏滅だから困った」と。そのようなことでは駄目だというのです。「確信を持つ」ことです。信仰に立って、何の日であろうとかまいませんと確信を持っているかどうかです。確信がなかったら、ありのままに、素直に、自分が今信じているところを歩む以外にない。私たちの信仰生活はそこにあります。隣の人が、あるいは、家族の誰かがどうであるか、そんなことをいちいち私たちが裁くことではない、批判すべきことではないと書いてあります。なぜなら、6節に「日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」。食べるにしても、食べないにしても、日を守るにしても守らないにしても、いずれにしても、そのこと自体はどちらでもいい。大切なのは、確信を持って、今、私は主のためにこれをさせていただいているという信仰に立って歩むことだけ。これは私どもが絶えず心しなければならないことです。
私たちは、今、誰のために生きているのか? 7節に「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」。ここでもう一度救いの原点に帰らなければなりません。イエス様の救いにあずかったことはどういうことなのか? それは自分のために生きていた人生、すべてのものが自分のものであったところから、今度は、主のもの、神様のものに変えられたのです。これがあがないです。イエス様は私たちの罪のあがないとなって、十字架に命を捨ててくださいました。イエス様を信じることによって、私も死んだ者です。パウロが言っているように、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」。もう死んだのです。私は「いない」のです。では、今生きているのは何が生きているのか。パウロがいうように「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。しかもよみがえってくださったのは何のためか。9節に「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」。これは非常に大切なことです。「死者と生者との主となる」。すべての者のという意味です。死んだ人にとっても、今生きている人も、これから生まれてくる人にとっても、すべてのものの主となる。主といいますのは物事の中心であり、主人であり、また支配者でもあります。このことをはっきりと自覚しておきたいと思います。
イエス様は、今、私たちの所有者、私たちを握っている。私の健康だとか、私の時間、私のお財布、私の家、私の子供たちだと握っていますが、それは違います。イエス様を信じて、共に死んで、今はよみがえった御方のために生きる。イエス様のものとなるのです。イエス様は生きるのに必要な健康を与えてくださる。生活をするのに必要な着る物、食べる物、住む場所を備えてくださる。「いや、これはおれが長年働いた勤労の結果、汗水たらして営々と働いた結果として、この家がある。どこに神様の『か』の字があるか、おれのものだ」という生き方を、私たちは捨てたのです。いいですね。だから、自分が今持っているすべてのものは、実は、神様からあずかったといいますか、取りあえず、今使うべきものとして、神様が私たちに託してくださったものばかりです。まずもって、私たちの命もそうです。本来そうだったはずなのに、勝手に、これは私の命だ、私の健康だ、私の家族だ、私の家だ、私が、私が、私が主だと言っていた。だから、神様に立ち返って、一切をお返しする。これがキリストと共に死ぬことです。
今は、イエス様がよみがえって、私たちと共にいてくださるのですが、イエス様は、「主となるために」とあります。9節に「主となるために、死んで生き返られた」。言い換えると、私たちのすべてのものを支配する方となってくださいました。だから、イエス様はよみがえられた後に、40日間いろいろな所でよみがえりの証詞をなさいました。弟子たちが、ふる里へ戻ってガリラヤ湖で漁をしていました。そのときに朝早くイエス様は岸に立って、船の右に網をおろしてご覧と言われた。それで網をおろしたところ、たくさんの魚が取れました。ふと見るとそれはイエス様だった。イエス様は火をおこして、彼らが帰ってくるのを待って、朝食の準備をしてくださっていました。イエス様はペテロに対して「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」「わたしを愛するか」と三度も繰り返し聞いたのです。ペテロは気分を害して「もう分かっているではないですか、先生!あなたを愛していることは」と。そのとき、イエス様は「わたしに従ってきなさい」と言われました。そうしたら、ペテロはこの人はどうですかと、そばにいたヨハネを指して聞きました。イエス様は「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われました。イエス様ははっきり「わたしはあなたの主になるのだよ」と言われたのです。私が主なのだから、「あなたは、わたしに従ってきなさい」。ヨハネのこと、横にいる人たちのことは、お前とは関係がない。
信仰はイエス様と私です。ところが、ご家庭で私が主だと思っているから、横を見ると主人の箸(はし)の上げ下ろしから、逐一文句を言いたくなる。それは自分が主だと思っているからです。言わなくていいのです。主はイエス様です。また、あなたの主人の主なのです。私は今何をすべきか。私の主でいらっしゃるイエス様に従う。これだけです。だから、家族のことをあれこれ私が心配しなくていいのです。イエス様が主なのですから。「主よ、主よ」と言いながら、口先だけで、実は、主を押しのけて、私が主になっている。だから、次から次へと心配になるのです。
「先生、私がいなかったらこの家は成り立ちませんよ。私が心配しているから、かろうじてもてている。これで私が居なかったら、皆ばらばらですよ」「いいではないですか、ばらばらになっても」、「そんなのは許せません」と。そこで既に「私」が主になっているのです。いつもイエス様が「主」。これをまず、徹底していきたいと思います。家族のことが一つ一つ何か気になると、一言いってやろうと思う。そのとき、「そうだ、私が言わなくても」と、お祈りするのです。主がその子に語ってくださる。私が主ではない。イエス様と私としっかり結びついて、主のしもべになりきっていくとき、イエス様が言うべきことも教えてくださるで。また、すべきことも教えてくださいます。だから、イエス様からの指示がない間は、動かない、しゃべらない。あなたは喜んでイエス様だけを見上げておけばいいのです。これができないところに、信仰が不徹底になりやすい。ですから、8節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。私たちは、主のものであって、主は私のものだというのは間違いです。私たちが主のものになる。
コリント人への第一の手紙4章7節を朗読。
ここに「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」とあります。今私たちはイエス様からすべてをいただいている。そして、生活しているのです。だから、毎日毎日、繰り返し繰り返し自分自身で、「これは主からいただいたもの。今、私に健康を神様が与えてくださっている」と確認する。もし、病気をしたり、健康を失うことがあっても、「主は与え、主は取り給う」と言えるのです。普段からそのことが徹底していないから、いよいよとなったときに、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1:20)と言いたくても、心がそこについてこない。それは、普段から徹底して、自分のものではない、主のものですと確信するように、繰り返し自分自身に訓練しておかなければなりません。気がつかないうちに、自分で握って、自分が主となってしまうのです。だから、7節に「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」。無いのです。全部主が与えてくださっている。だから、一つ一つ、どのようなことでも、主のものです。私たちは主のものなのです。イエス様が私たちを自分の命を代価として買い取り、キリストのもの、イエス様のものとしてくださった。私たちの主となってよみがえってくださいました。どんなことの中にも、主が何とおっしゃっているか、いつもそこに心を向けていきたいと思います。主が私に今求めていることは何か。私はイエス様に仕えているのだ。このことを、繰り返し日々の生活の中で体験しましょう。
そして、もらっているものですから、やがてお返ししなければいけません。使ったら、いらなくなったらお返しするのです。いつまでも「貸しくれ給え」は駄目ですよ。イエス様からいただいているのに、それを自分のものにして、おれのものだと思っているから、いよいよの時に困る。年を取ってきます。年を取ると言うのは神様のところに帰っていくステップです。いらないもの、使わなくなったものは神様にお返しする。だから、年を取って記憶も薄らいでくる。目もしょぼしょぼしてくる。足腰が立たなくなる。それは、神様にこれまで使ってきた健康をお返ししていくことです。どうしてこんなに弱ってしまったのだろう、もっと元気になる方法はないだろうかと、時々嘆かれる方がいます。84,5歳になって、足がちょっと弱った。今から訓練して鍛えなければいけない。鍛えすぎてひざに水がたまったという話を聞きますが、いまさら鍛えても仕方がない。それどころか、私たちは主のものなのですから、イエス様がそれでよろしいと言われるのだから、それを取られるのです。そのとき感謝して主にお返しすればいい。私たちの命はイエス様のところへ帰っていくのですから、その準備です。だから、常日ごろから、イエス様を主としていくことが何よりも大切です。そうしませんと、いつまでも自分のものだと思い、なんだか自分のものを取られているようでしょう。体が動かなくなったり、今までと違う不都合なことが起こったりすると、「どうしてこんなになったの、私のものを取られた」、失った、持っていたものを取られたという虚脱感、喪失感を感じます。それは自分のものにしているからです。そこで、いつもこれはイエス様が私に今日使うように与えてくださったもの。「イエス様、いつでもどうぞお返しします」という気持ちがあれば、今日、主が返せと言われたら、「ハイ、主よ、お返しします」と、お返しすればいい。ところが、なんか取られたような、今までちゃんと使っていたのに、誰かが盗んでいったように思う。そのような喪失感、失ったというような感じがするのは、普段からイエス様のものですと言い切っていない、信じていないからです。
子供が成長して親を離れていきます。そうするとエンプティネスト症候群という、心がぽかんと空っぽになる。一生懸命子供を育てて、大学を出し、就職をする。職場の近くに一人暮らしを始める。そうしたら、梨のつぶて、家に帰ってくることはなくなった。お母さんが電話をしても携帯電話は取らない。親だということがわかるからです。メールをしても返事がない。子供を育てるというのは、やはり親が子供を握り込むのです。しかし、やがて子供は出て行きます。いや、それは神様のものなのですから、当然のことです。いつまでも親がでしゃばって、私の子供だ、腰も曲がって足腰が立たないのにまだ私の子供だ。それは大きな間違いです。イエス様はよみがえって主となってくださっている。イエス様をないがしろにしている。7節に「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」。何にもありません。何もかもこれはすべて主が与えてくださる。そして、主が与えたものは必要がなくなったら取られます。なぜなら、主なのですから。私たちは文句の言いようがありません。イエス様に「あなたは、なぜ私のものを取るのですか、あなたは私のしもべです」とは言えないでしょう。
もう一度、「ローマ人への手紙」14章9節に「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られた」。私たちの主になってくださるためですから、この主に私たちが仕えていく。ただこれだけです。周囲のあれやこれやといろいろな事が見えますが、見えていても自分で裁くのではありません。私たちの主でいらっしゃる方にご相談をしなければいけません。相談もしないで、勝手に、主を置き去りにして、私が……といって、あちらこちらと言い回るから嫌われるのです。主に求めて、主がなんと言うべきか、主のお導きに従っていくのです。すると道が備えられて、主が働いてくださいます。私たちは救いにあずかって、どういう者として生きているのか。だれが私の主になっているのか。このことを徹底したいと思います。
8節「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために」。私たちは年を取ってやがて死にます。もうお前はそれでよろしいと、さぁ、私のところに帰ってきなさいと。だから、帰っていくために全部神様にお返ししてしまう。イエス様の間近に、おそば近くに共におらせてくださるためと、「ヨハネによる福音書」14章にありますように、イエス様のおそばに帰っていくのです。そのときに、主に仕えてきた私たちを「善かつ忠なる僕(しもべ)」とねぎらってくださる。イエス様に喜ばれる生涯でありたいと思います。イエス様に「お前は、わたしが主であるのに、無視して勝手なことばかりして」としかられないように、今のうちから、イエス様に「主よ、どうしましょうか」と伺う。何か腹が立つことがあったら、イエス様に言えばいい。気になることがあったらイエス様に言えばいい。主が知っていらっしゃる。主がなすことがある。だから、私どもは実に楽なのです。自分で責任を負い込まなくていい。背負わなくていいでしょう。私が何とかしなければ、私が何とか……と。しかし、できないのですから、そこははっきりと、私が主ではない。イエス様、あなたが主ですから、このことのために、この子のために、あの子のために、主よ、どうぞ、あなたが主になってください。あの子のためにもイエス様が命を捨ててくださった。「ローマ人への手紙」にありますが、彼のためにも主は命を捨ててくださったのです。本人はまだイエス様のことを信じていなくても、イエス様はその人のためにも命を捨てるほどに愛している。自分の子供を愛する以上に、イエス様は皆さんの子供を愛しているし、知っていらっしゃる。まるで自分だけが一番よく知っているかのように思い上がるのは間違いです。「もらっていないもののように誇るのか」とあるように、私どもは何一つ誇るところはありません。そして、あの子のためにも、本人は気がついていないけれども、イエス様はよみがえって、その子の主となっていてくださいます。導いていることがあるのですから、私たちは主に求めること、祈ること、これがすべてです。そして祈って、自分自身も主のものとして主の手にささげてしまいましょう。
これが日々の生活、食べるにしても飲むにしても、何かするにしても、すべてのものが主のもの。そうやって、心を低くして、主を主として周囲のものを見てご覧なさい。今まで気になっていたのが気にならなくなります。腹が立っていたことに腹が立たなくなる。実に、穏やかになれます。あんなことをしているけれども、主がご存じだからと。私が言うべきかどうか、そのときも神様が教えてくださるに違いない。実に、心穏やかにすべてのものをそれでも良いじゃないと言える。でも、神様は知っているから、主がなんとおっしゃるか。主がどのようになさるか。ただ、こちらは祈るだけ。それが一番です。だから、カッカ、カッカして、ツンツンプンプン、怒り散らすこともいりません。実に穏やかに、「そうね、そうね」と言っておけばいいのです。いや、そんなことを言っていたら、後でどうなるかわからん。どうなるもこうなるも、神様が知っていらっしゃる。ここで徹底して主に信頼することを訓練していきたいと思います。
私は献身して導かれて福岡にまいりましたが、いつも、私は自分で来たのではないと思っていますから、イエス様、あなたが私を連れてきたのですと、イエス様に責任を押し付けます。何か心配なことがあったら、イエス様、こんなことが起こっています。あなたが主ですから、あなたが私をここに置いたのですから、何とかしてくださいと祈る。そうしますと、ちゃんと神様のほうが、大丈夫、まかしとけと、一つ一ついろいろなことの中に、道を整え、備えて、導いてくださいます。だから、人からののしられたら、ののしられていいのです。誤解を受けるなら受けたらいいのです。主が私たちの主であって、その人が私たちの主ではないのだから。このことを常に自分自身に当てはめていきたいと思います。そうしますと、気が楽になるどころか、何もかも終わったようなものです。いつ天国に行ってもいい気持ちになります。だから、どんなことにも失望しないで、私の主はイエス様ですと徹底していく日々でありたいと思います。一つ一つの事柄の中で自分をささげて、主のためにこれをさせていただく。主がこのことを今与えている。私は今イエス様に従っているのだと堅く信じましょう。
8節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。私のものではない。私の健康も、私の家族も、私の仕事も、私の何もかも、これは主のもの、そして今主が、私にせよと言われたことを、主の前に果たすだけ。それ以外のことは私の責任ではありません。人がどうなろうと、家族がどうなろうと、神様がそうしていることです。よみがえった主は「主」となるためによみがえったのですから、その主を主としていく日々でありたい。そこに私たちの望みに満ちた生活が送れるのです。しかも、一つ一つどのようなことがあっても感謝できますね。そこにも主が働いてくださって、主がご存じですと、主の前に自分を低くして、イエス様は私の主ですと、心をそこに向けて、信頼していきましょう。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
8,9節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」。
14章1節以下に「食べる」、「食べない」ことが述べられています。この時代、ユダヤ教の人々は旧約聖書に定められた古い律法に基づいて、清い食べ物と清くない物という区別をしていました。今でもそうであります。ユダヤ教の人々はこれは食べて良い、これは食べてはいけない。豚肉は食べないとか、牛乳と牛肉と一緒に食べてはいけない、あるいは、うろこのあるもの、またうろこのないもの、ひづめの分かれているもの、分かれていないものと実に細かく区分されていました。イスラエルに行かれた方の話を聞きますと、必ず、各レストランにはユダヤ教の検査官がいるそうです。これはどのようなもので作られたのか、原料は何だったかと、豚肉とかそのような食べてはいけないものが入っているのではないかと逐一検査して、これは大丈夫というお墨付きをもらわないと出せないし、またそれがないとユダヤ教の人は食べません。
一人のユダヤ教の友人がおりまして、中華料理店に連れて行ったのです。私どもは大好きですから酢豚などを頼みます。彼ははじめて行きまして、緊張したのです。これは何が入っているかと、いちいちウェイターに聞く。チャーハンがよかろうと注文をしたのです。刻んだ細かい豚肉が入っていました。それを見て「これは何だ」と言う。「いや豚肉だけれども、これは小さいからいいのではない? 」と言ったら、「いや、これは食べられない」と言うのです。それでとうとう野菜の何かだけを食べましたが、子供のときから、そのような生活習慣の中にいますので、今日明日すぐに変わるわけにはいかない。
パウロの時代もそのような人がたくさんいました。しかし、イエス様はそのようなしがらみ、束縛、いろいろなものに支配されているところから、解放してくださったのです。イエス様の救いにあずかった当時の人々は大変楽になりました。今まであれをしてはいけない、これをしてはいけない、これもいかん、あそこもいかんと、言われていたのが、イエス様によって何でも許されているのだとなって、今度ははめを外してしまった結果がコリント人やガラテヤ人への手紙に語られている事です。
ここに食べる人、食べない人という区別がありますが、イエス様の救いによって解放されたのだから、そのようなことにとらわれる必要はないと言う人たちもいる。ところが、中には、そのようには言うが、それこそ生まれたときからそのような生活をしているのだから、これを変えるわけにはいかない。だから、どうしてもそれを守ろうとする人々がいる。そうすると、救いにあずかったという誇りを持っている人たちは、「あいつらは、何だ。古いではないか。あんなことをまだ守っているなんて、イエス様の救いがわかっとらん!」と批判する。そのような争いになって、対立があちらこちらに見られるようになりました。
パウロは、1節に「信仰の弱い者を受けいれなさい」と勧めています。一人一人に神様が与えた信仰のはかりに従って生きているのだから、例え、自分がいいと思っても、相手の人が「それはどうも」と言うのであったら、それでいいのではないかと言っている。食べない人は、食べる人を批判してはいけない。食べない者は、それは自分が食べなければいいのであって、食べているからといって、その人を裁くことは大きな間違いだと言っています。
5節に「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える」。私たちの生活の中にもあります。結婚式だとか、葬式と言うと、必ず出てきます。今日は大安、仏滅、友引? 葬式は友引の日にしてはいかんと。なぜなら、友達を引っ張って、天国か地獄か知りませんけれども、行ってしまうから、友引の日にはしないと言います。最近はどうか知りませんが、火葬場は友引の日はお休みだそうです。それでは、結婚式は友引にしたほうがよかろうと思いますが、これは大安でなければいけないという。いろんな日取りを見ます。中にはそれが大切だと思い込んでいる人がいる。ところが、私たちはいつの日だって同じではないかと平気です。だから、「先生、日取りはいつにしましょうか」、「私が都合のいい日は、この日ですからここにしてください」と言ったら「いや、先生、その日は仏滅ですから、ほかの日は? 」「いいではないですか、仏滅でも!いちいち気にしなくても」と言いたくなります。ところが、聖書にはそうは書いてない。それをどうしても譲れない、それを不安に思う人がいるならば、それでいいではないかというのです。だからといって、何でもいいということではなくて、実は、その一つ一つの事柄を確信して決断する。5節に「ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と。ここです。私たちもどこかで気にかかっている。あの日は大安でないけれどもいいのだろうかと思いながら、私は洗礼を受けたし、教会に行っているし、これはあまり言わないほうがいいに違いないと我慢して、「いいですよ、先生、いつでもいいです」と言いながら、家族には「困った。あの日は仏滅だから困った」と。そのようなことでは駄目だというのです。「確信を持つ」ことです。信仰に立って、何の日であろうとかまいませんと確信を持っているかどうかです。確信がなかったら、ありのままに、素直に、自分が今信じているところを歩む以外にない。私たちの信仰生活はそこにあります。隣の人が、あるいは、家族の誰かがどうであるか、そんなことをいちいち私たちが裁くことではない、批判すべきことではないと書いてあります。なぜなら、6節に「日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」。食べるにしても、食べないにしても、日を守るにしても守らないにしても、いずれにしても、そのこと自体はどちらでもいい。大切なのは、確信を持って、今、私は主のためにこれをさせていただいているという信仰に立って歩むことだけ。これは私どもが絶えず心しなければならないことです。
私たちは、今、誰のために生きているのか? 7節に「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」。ここでもう一度救いの原点に帰らなければなりません。イエス様の救いにあずかったことはどういうことなのか? それは自分のために生きていた人生、すべてのものが自分のものであったところから、今度は、主のもの、神様のものに変えられたのです。これがあがないです。イエス様は私たちの罪のあがないとなって、十字架に命を捨ててくださいました。イエス様を信じることによって、私も死んだ者です。パウロが言っているように、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」。もう死んだのです。私は「いない」のです。では、今生きているのは何が生きているのか。パウロがいうように「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。しかもよみがえってくださったのは何のためか。9節に「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」。これは非常に大切なことです。「死者と生者との主となる」。すべての者のという意味です。死んだ人にとっても、今生きている人も、これから生まれてくる人にとっても、すべてのものの主となる。主といいますのは物事の中心であり、主人であり、また支配者でもあります。このことをはっきりと自覚しておきたいと思います。
イエス様は、今、私たちの所有者、私たちを握っている。私の健康だとか、私の時間、私のお財布、私の家、私の子供たちだと握っていますが、それは違います。イエス様を信じて、共に死んで、今はよみがえった御方のために生きる。イエス様のものとなるのです。イエス様は生きるのに必要な健康を与えてくださる。生活をするのに必要な着る物、食べる物、住む場所を備えてくださる。「いや、これはおれが長年働いた勤労の結果、汗水たらして営々と働いた結果として、この家がある。どこに神様の『か』の字があるか、おれのものだ」という生き方を、私たちは捨てたのです。いいですね。だから、自分が今持っているすべてのものは、実は、神様からあずかったといいますか、取りあえず、今使うべきものとして、神様が私たちに託してくださったものばかりです。まずもって、私たちの命もそうです。本来そうだったはずなのに、勝手に、これは私の命だ、私の健康だ、私の家族だ、私の家だ、私が、私が、私が主だと言っていた。だから、神様に立ち返って、一切をお返しする。これがキリストと共に死ぬことです。
今は、イエス様がよみがえって、私たちと共にいてくださるのですが、イエス様は、「主となるために」とあります。9節に「主となるために、死んで生き返られた」。言い換えると、私たちのすべてのものを支配する方となってくださいました。だから、イエス様はよみがえられた後に、40日間いろいろな所でよみがえりの証詞をなさいました。弟子たちが、ふる里へ戻ってガリラヤ湖で漁をしていました。そのときに朝早くイエス様は岸に立って、船の右に網をおろしてご覧と言われた。それで網をおろしたところ、たくさんの魚が取れました。ふと見るとそれはイエス様だった。イエス様は火をおこして、彼らが帰ってくるのを待って、朝食の準備をしてくださっていました。イエス様はペテロに対して「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」「わたしを愛するか」と三度も繰り返し聞いたのです。ペテロは気分を害して「もう分かっているではないですか、先生!あなたを愛していることは」と。そのとき、イエス様は「わたしに従ってきなさい」と言われました。そうしたら、ペテロはこの人はどうですかと、そばにいたヨハネを指して聞きました。イエス様は「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われました。イエス様ははっきり「わたしはあなたの主になるのだよ」と言われたのです。私が主なのだから、「あなたは、わたしに従ってきなさい」。ヨハネのこと、横にいる人たちのことは、お前とは関係がない。
信仰はイエス様と私です。ところが、ご家庭で私が主だと思っているから、横を見ると主人の箸(はし)の上げ下ろしから、逐一文句を言いたくなる。それは自分が主だと思っているからです。言わなくていいのです。主はイエス様です。また、あなたの主人の主なのです。私は今何をすべきか。私の主でいらっしゃるイエス様に従う。これだけです。だから、家族のことをあれこれ私が心配しなくていいのです。イエス様が主なのですから。「主よ、主よ」と言いながら、口先だけで、実は、主を押しのけて、私が主になっている。だから、次から次へと心配になるのです。
「先生、私がいなかったらこの家は成り立ちませんよ。私が心配しているから、かろうじてもてている。これで私が居なかったら、皆ばらばらですよ」「いいではないですか、ばらばらになっても」、「そんなのは許せません」と。そこで既に「私」が主になっているのです。いつもイエス様が「主」。これをまず、徹底していきたいと思います。家族のことが一つ一つ何か気になると、一言いってやろうと思う。そのとき、「そうだ、私が言わなくても」と、お祈りするのです。主がその子に語ってくださる。私が主ではない。イエス様と私としっかり結びついて、主のしもべになりきっていくとき、イエス様が言うべきことも教えてくださるで。また、すべきことも教えてくださいます。だから、イエス様からの指示がない間は、動かない、しゃべらない。あなたは喜んでイエス様だけを見上げておけばいいのです。これができないところに、信仰が不徹底になりやすい。ですから、8節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。私たちは、主のものであって、主は私のものだというのは間違いです。私たちが主のものになる。
コリント人への第一の手紙4章7節を朗読。
ここに「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」とあります。今私たちはイエス様からすべてをいただいている。そして、生活しているのです。だから、毎日毎日、繰り返し繰り返し自分自身で、「これは主からいただいたもの。今、私に健康を神様が与えてくださっている」と確認する。もし、病気をしたり、健康を失うことがあっても、「主は与え、主は取り給う」と言えるのです。普段からそのことが徹底していないから、いよいよとなったときに、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1:20)と言いたくても、心がそこについてこない。それは、普段から徹底して、自分のものではない、主のものですと確信するように、繰り返し自分自身に訓練しておかなければなりません。気がつかないうちに、自分で握って、自分が主となってしまうのです。だから、7節に「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」。無いのです。全部主が与えてくださっている。だから、一つ一つ、どのようなことでも、主のものです。私たちは主のものなのです。イエス様が私たちを自分の命を代価として買い取り、キリストのもの、イエス様のものとしてくださった。私たちの主となってよみがえってくださいました。どんなことの中にも、主が何とおっしゃっているか、いつもそこに心を向けていきたいと思います。主が私に今求めていることは何か。私はイエス様に仕えているのだ。このことを、繰り返し日々の生活の中で体験しましょう。
そして、もらっているものですから、やがてお返ししなければいけません。使ったら、いらなくなったらお返しするのです。いつまでも「貸しくれ給え」は駄目ですよ。イエス様からいただいているのに、それを自分のものにして、おれのものだと思っているから、いよいよの時に困る。年を取ってきます。年を取ると言うのは神様のところに帰っていくステップです。いらないもの、使わなくなったものは神様にお返しする。だから、年を取って記憶も薄らいでくる。目もしょぼしょぼしてくる。足腰が立たなくなる。それは、神様にこれまで使ってきた健康をお返ししていくことです。どうしてこんなに弱ってしまったのだろう、もっと元気になる方法はないだろうかと、時々嘆かれる方がいます。84,5歳になって、足がちょっと弱った。今から訓練して鍛えなければいけない。鍛えすぎてひざに水がたまったという話を聞きますが、いまさら鍛えても仕方がない。それどころか、私たちは主のものなのですから、イエス様がそれでよろしいと言われるのだから、それを取られるのです。そのとき感謝して主にお返しすればいい。私たちの命はイエス様のところへ帰っていくのですから、その準備です。だから、常日ごろから、イエス様を主としていくことが何よりも大切です。そうしませんと、いつまでも自分のものだと思い、なんだか自分のものを取られているようでしょう。体が動かなくなったり、今までと違う不都合なことが起こったりすると、「どうしてこんなになったの、私のものを取られた」、失った、持っていたものを取られたという虚脱感、喪失感を感じます。それは自分のものにしているからです。そこで、いつもこれはイエス様が私に今日使うように与えてくださったもの。「イエス様、いつでもどうぞお返しします」という気持ちがあれば、今日、主が返せと言われたら、「ハイ、主よ、お返しします」と、お返しすればいい。ところが、なんか取られたような、今までちゃんと使っていたのに、誰かが盗んでいったように思う。そのような喪失感、失ったというような感じがするのは、普段からイエス様のものですと言い切っていない、信じていないからです。
子供が成長して親を離れていきます。そうするとエンプティネスト症候群という、心がぽかんと空っぽになる。一生懸命子供を育てて、大学を出し、就職をする。職場の近くに一人暮らしを始める。そうしたら、梨のつぶて、家に帰ってくることはなくなった。お母さんが電話をしても携帯電話は取らない。親だということがわかるからです。メールをしても返事がない。子供を育てるというのは、やはり親が子供を握り込むのです。しかし、やがて子供は出て行きます。いや、それは神様のものなのですから、当然のことです。いつまでも親がでしゃばって、私の子供だ、腰も曲がって足腰が立たないのにまだ私の子供だ。それは大きな間違いです。イエス様はよみがえって主となってくださっている。イエス様をないがしろにしている。7節に「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」。何にもありません。何もかもこれはすべて主が与えてくださる。そして、主が与えたものは必要がなくなったら取られます。なぜなら、主なのですから。私たちは文句の言いようがありません。イエス様に「あなたは、なぜ私のものを取るのですか、あなたは私のしもべです」とは言えないでしょう。
もう一度、「ローマ人への手紙」14章9節に「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られた」。私たちの主になってくださるためですから、この主に私たちが仕えていく。ただこれだけです。周囲のあれやこれやといろいろな事が見えますが、見えていても自分で裁くのではありません。私たちの主でいらっしゃる方にご相談をしなければいけません。相談もしないで、勝手に、主を置き去りにして、私が……といって、あちらこちらと言い回るから嫌われるのです。主に求めて、主がなんと言うべきか、主のお導きに従っていくのです。すると道が備えられて、主が働いてくださいます。私たちは救いにあずかって、どういう者として生きているのか。だれが私の主になっているのか。このことを徹底したいと思います。
8節「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために」。私たちは年を取ってやがて死にます。もうお前はそれでよろしいと、さぁ、私のところに帰ってきなさいと。だから、帰っていくために全部神様にお返ししてしまう。イエス様の間近に、おそば近くに共におらせてくださるためと、「ヨハネによる福音書」14章にありますように、イエス様のおそばに帰っていくのです。そのときに、主に仕えてきた私たちを「善かつ忠なる僕(しもべ)」とねぎらってくださる。イエス様に喜ばれる生涯でありたいと思います。イエス様に「お前は、わたしが主であるのに、無視して勝手なことばかりして」としかられないように、今のうちから、イエス様に「主よ、どうしましょうか」と伺う。何か腹が立つことがあったら、イエス様に言えばいい。気になることがあったらイエス様に言えばいい。主が知っていらっしゃる。主がなすことがある。だから、私どもは実に楽なのです。自分で責任を負い込まなくていい。背負わなくていいでしょう。私が何とかしなければ、私が何とか……と。しかし、できないのですから、そこははっきりと、私が主ではない。イエス様、あなたが主ですから、このことのために、この子のために、あの子のために、主よ、どうぞ、あなたが主になってください。あの子のためにもイエス様が命を捨ててくださった。「ローマ人への手紙」にありますが、彼のためにも主は命を捨ててくださったのです。本人はまだイエス様のことを信じていなくても、イエス様はその人のためにも命を捨てるほどに愛している。自分の子供を愛する以上に、イエス様は皆さんの子供を愛しているし、知っていらっしゃる。まるで自分だけが一番よく知っているかのように思い上がるのは間違いです。「もらっていないもののように誇るのか」とあるように、私どもは何一つ誇るところはありません。そして、あの子のためにも、本人は気がついていないけれども、イエス様はよみがえって、その子の主となっていてくださいます。導いていることがあるのですから、私たちは主に求めること、祈ること、これがすべてです。そして祈って、自分自身も主のものとして主の手にささげてしまいましょう。
これが日々の生活、食べるにしても飲むにしても、何かするにしても、すべてのものが主のもの。そうやって、心を低くして、主を主として周囲のものを見てご覧なさい。今まで気になっていたのが気にならなくなります。腹が立っていたことに腹が立たなくなる。実に、穏やかになれます。あんなことをしているけれども、主がご存じだからと。私が言うべきかどうか、そのときも神様が教えてくださるに違いない。実に、心穏やかにすべてのものをそれでも良いじゃないと言える。でも、神様は知っているから、主がなんとおっしゃるか。主がどのようになさるか。ただ、こちらは祈るだけ。それが一番です。だから、カッカ、カッカして、ツンツンプンプン、怒り散らすこともいりません。実に穏やかに、「そうね、そうね」と言っておけばいいのです。いや、そんなことを言っていたら、後でどうなるかわからん。どうなるもこうなるも、神様が知っていらっしゃる。ここで徹底して主に信頼することを訓練していきたいと思います。
私は献身して導かれて福岡にまいりましたが、いつも、私は自分で来たのではないと思っていますから、イエス様、あなたが私を連れてきたのですと、イエス様に責任を押し付けます。何か心配なことがあったら、イエス様、こんなことが起こっています。あなたが主ですから、あなたが私をここに置いたのですから、何とかしてくださいと祈る。そうしますと、ちゃんと神様のほうが、大丈夫、まかしとけと、一つ一ついろいろなことの中に、道を整え、備えて、導いてくださいます。だから、人からののしられたら、ののしられていいのです。誤解を受けるなら受けたらいいのです。主が私たちの主であって、その人が私たちの主ではないのだから。このことを常に自分自身に当てはめていきたいと思います。そうしますと、気が楽になるどころか、何もかも終わったようなものです。いつ天国に行ってもいい気持ちになります。だから、どんなことにも失望しないで、私の主はイエス様ですと徹底していく日々でありたいと思います。一つ一つの事柄の中で自分をささげて、主のためにこれをさせていただく。主がこのことを今与えている。私は今イエス様に従っているのだと堅く信じましょう。
8節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。私のものではない。私の健康も、私の家族も、私の仕事も、私の何もかも、これは主のもの、そして今主が、私にせよと言われたことを、主の前に果たすだけ。それ以外のことは私の責任ではありません。人がどうなろうと、家族がどうなろうと、神様がそうしていることです。よみがえった主は「主」となるためによみがえったのですから、その主を主としていく日々でありたい。そこに私たちの望みに満ちた生活が送れるのです。しかも、一つ一つどのようなことがあっても感謝できますね。そこにも主が働いてくださって、主がご存じですと、主の前に自分を低くして、イエス様は私の主ですと、心をそこに向けて、信頼していきましょう。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。