エレミヤ書32章26節から30節までを朗読。
27節「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」。
26節に「主の言葉がエレミヤに臨んだ」とありますように、預言者エレミヤに神様がお語りになられた言葉です。ここに「わたしは主である、すべて命ある者の神である」と、ご自分のことを証ししておられます。これはどのような状況のなかだったのでしょうか。32章1節から話が続いています。
32章1、2節を朗読。
イスラエルは12部族が集まって、一つの国を造り、サウル王、ダビデ王、ソロモン王と続いてきた神の国、神様の建てられた国であります。ところが、ソロモン亡き後、分裂して、12部族のうち10部族が一つとなってイスラエルと名乗る国を造った。残りの2部族が集まってユダという国を造ったのです。イスラエルとユダという二つの国に分かれました。イスラエルの首都はサマリアにあり、ユダ国のほうはエルサレムが首都でした。そのように二つに分かれてしまった。しかし、神様はイスラエルとユダをご自分の選びの民、大切な神の民として顧(かえり)みてくださったのです。父祖アブラハムから始まって、長い歴史を通してイスラエルとユダの民は神様の祝福と恵みの中にあったのです。しかし、彼らはそれを忘れてしまう。サウル、ダビデ、ソロモンと素晴らしい王様が続いて、国が繁栄しました。その後は下り坂です。自分たちを造り生かし、大切なものとして顧みてくださる真(まこと)の神様を忘れてしまった。神様から離れてしまったわけです。そして、自分勝手な歩みをするようになった。神様は繰り返し警告を与えなさったのですが、一向に聞こうとしないので、とうとうこの国をひとまず無きものにしようと、バビロンという大国を興(おこ)したのです。その大きな帝国、バビロンがイスラエル、ユダという小さな国を攻めてきました。
この出来事自体が実は神様の深いご計画によったものでした。エレミヤの時代はイスラエル、ユダという国がバビロンに攻撃されていたのです。最初にイスラエル国が陥落します。廃虚と化してしまいます。最後に残ったのはこのユダの国です。ユダの国もバビロンによって繰り返し攻撃を受けて、いよいよ残すところエルサレムだけというようなぎりぎりのところまで来てしまった。この時代の戦争は、現代の戦争のように一ヶ月で終わるとか、あるいは半年で終わってしまうものではなく、繰り返し波状攻撃でやって来ますから、何年も掛かる。イスラエルの国が滅亡した後も、ユダの国が繰り返し攻められて、少しずつ領地が取られてしまう。そして、町や村が焼かれる。そのような苦しみの年月がどのくらい続いたのでしょうか、恐らく何十年も長い期間続いたのだと思います。その間、神様は「この戦いは戦ってはいけない。早く降参しなさい」と言われる。「これはあなたがたが戦うべきものではなく、わたしがこの事を起こしているのだから……」と預言者を通して語ったのです。ところが、ユダの人たちは「そんなことはない。私たちには神様が付いている」と、「先祖伝来の真の神様……、私たちは神の民ではないか。そんな負けるはずがない。あんなバビロンの異邦人に負けるはずがない」と言って、「戦おう!」と言う人もいますし、「いや、これはもう早くどこかへ逃げよう。エジプトへ行こう」と言う人もいた。そんなことでいつも国は右往左往していたのです。その中でエレミヤは「そうではない、この戦いはもう負けるのだから、命を保つためにまず降参しなさい」と。これは非常に逆説的です。「戦ったらかえって命を失うのだから、負ける事は決まっているのだから、戦わないで早く降参することで自分の命を救いなさい」と、神様はエレミヤを通して語ってくださる。それを聞いた人々は非常に憤慨したのです。その当時、エレミヤ以外にもたくさんの預言者と称する人たちがいましたが、彼らは調子のいいことを言う。「頑張ったら大丈夫」とか、「お祈りしたら大丈夫」とか、「神様が付いているのだから、頑張れ!頑張れ!」などと言う。しかし、エレミヤはそうではない。「これは負け戦だ」と言う。かつての戦争時代に「日本が負ける」なんて言うものなら非国民です。それと同じような事態がこのユダの国にもあったのです。そして、とうとうエレミヤは捕らえられます。
それが32章2節「その時、バビロンの王の軍勢がエルサレムを攻め囲んでいて、預言者エレミヤはユダの王の宮殿にある監視の庭のうちに監禁されていた」。捕らえられて身動きならない状態だったのです。しかし、神様は彼をご自分の道具として、語り手として用いておられたのです。この時、神様はエレミヤに一つのことを提案しました。それがこの6節以下に語られています。
エレミヤ書32章6節から8節までを朗読。
ある時、彼が捕らえられていた場所にハナメルといういとこがやって来ます。自分の持っている地所、土地をエレミヤに「買ってくれ」と言ってくる。ハナメルはどういう意図で自分の持っている土地を手放そうとしたか分かりませんが、恐らく敵が攻めてきて国は廃虚になろうとしている。だから、売れるものなら早いうちに売って、どこかへ逃げ出そうとでも思ったのかもしれません。とにかく手放したかったのです。それでエレミヤのところへ来た。当時、ユダの人々の習慣で先祖伝来の土地や不動産を売るには、誰でも高く買ってくれる人に売るというわけにはいかないのです。身近なところから、それを交渉する相手が決められていた。おじさんであるとか、いとこであるとか、親族の第一順位、第二、第三と……、その順序に従って交渉をして、そこが駄目だったら次、駄目だったら次と、そのようにするのが習慣です。だから、このときエレミヤの所へ「あなたにはこれを買い取る権利がありますよ。どうしますか」と言って来た。「これが主の言葉であるのをわたしは知っていました」とあります。そのとき、エレミヤは「このことは主から出たことだ。神様がいま私にこの土地を買うように求めておられるのだ」と確信しました。
9節に「そこでわたしは、いとこのハナメルからアナトテにある畑を買い取り、銀十七シケルを量って彼に支払った」。銀十七シケルを払って買った。でも考えてみたら、エルサレムは敵の軍勢に包囲されている。「国が滅亡しようとしているのに、そんな所に土地を買ってどうする」。使いようがない。ところが、神様は「それを買え」とおっしゃる。それで彼は買いました。しかも丁寧(ていねい)に、10節以下に……。
32章10節から15節までを朗読。
神様はイスラエルの民を懲(こ)らしめるために、バビロンを建て、この国を取りあえず無きもの、消滅させてしまう。その代わりあなたがたはバビロンに捕囚、捕虜(ほりょ)となって連れて行かれなさい。かつて日本軍が中国で敗戦と同時にシベリヤに抑留(よくりゅう)されました。50万人以上の日本人が連れて行かれたのです。それと同じように、この時代イスラエルの民の大部分がバビロンの国に捕囚として移されてしまうのです。これは屈辱(くつじょく)です。誇り高い神の民であるイスラエルが、異邦人である、神を知らない連中の手に握られるということは、我慢ならない。でも、神様はそこでへりくだることを求めました。彼らが神様に対してどういうひどい態度で生きてきたか。その事を悔い改める恵みの時を作ってくださったのですが、彼らには“親の心子知らず”です。神様がどういう思いでいたかなど思いもしない。ただ目の前の悩み、苦しみ、そればかりを訴えていました。だから、神様は「そうではない。バビロンに行ってもそれで終わりではなくて、70年の年月をそこで過ごしなさい。そうしたら、その後、もう一度あなたがたを、この廃虚となったエルサレムを建て直して、新しい国を造ってあげるから。そして、そこであなたがたはこれまで以上の恵みの中に生きることができます」と約束したのです。でも、誰もそれを信じようとしない。いま敵が攻めてきて、まさに陥落しようとしている。都は滅ぼされようとしている。それなのに、70年後の話を信じられるはずがない。「だから安心しなさい。負けて捕囚となりなさい」と言われたって、「そんなくらいだったら、こんな戦いを起こさなければいい。神様、どうしてこんな事をするのですか」と思う。だから、彼らはエレミヤの言葉を一切聞こうとしない。そのとき神様がエレミヤに具体的に行動をさせなさったのです。
それが「土地を買う」ことです。将来値上がりする見込みがないのに買う人はいません。皆さんでもそうでしょう。「将来これは使える」と思うから、「たとえ今はいらなくても」と思う。いとこのハナメルは早く手放したかった。「こんなものを持っていても仕方がない。国が滅びてしまうのだ」。ところが、神様は「そうではない。70年後、これは大切な貴重なものになる。みんなが欲しがるから、今のうちにエレミヤが買って、必ずそうなることを証ししなさい」と言う。それを彼は信じて、代金を払い、公正証書を作り、原本とその写しまで作って、それを土の器に入れて封印し、やがての時、これが有効であることを証明しようとした。だから、15節に「万軍の主、イスラエルの神がこう言われるからである、『この地で人々はまた家と畑とぶどう畑を買うようになる』と」。今は廃虚となっているかもしれないが、この土地が畑となり、ブドウ畑となる。多くの人々が「ぜひ、私に譲ってくれ」と言うようになると。いまはそんなことを夢にも思えない、希望のない状況の中で、なおかつエレミヤに神様が「そうではない。約束を私がするんだから」とおっしゃる。エレミヤは言われたとおりに買ったはいいのですが、彼は「神様が必ずそうしてくださる」と信じたかと言いますと、信じはしたのですが、やはりちょっと心配なのです。エレミヤだってなけなしの金を17シケル払って買って、「神様が『買え』と言ったから買ったはいいけれども、本当に約束したようになるのだろうか」と疑う。
それで16節以下に、彼は神様に祈っている。この17節以下はその祈りです。神様がこれまで素晴らしいくすしき御業をイスラエルのためにしてくださった。大いなる力を神様は現してくださった。そして、神様は言われたごとく、イスラエルの国をも懲らしめなさった。ところが、25節「主なる神よ、あなたはわたしに言われました、『銀をもって畑を買い、証人を立てよ』」と。「そうであるのに、町はカルデヤびとの手に渡されています」と。こんなことはエレミヤには分かっていたはずです。「分かって買ったのではないのか、あなたは!」と言いたい。なるほど「これは神様から出たことです」と彼は信じて、買うには買ったけれども「いやー、本当にそうなるのかな」と。確かにイスラエルの歴史を振り返ってみると、神様は力ある御手をもってエジプトから救い出して、カナンの地を与えてくださった。そしてイスラエルの民を豊かに恵んでくださった。そればかりか、こうやって神様に背いた民に約束どおりきちんと罰を与える、懲らしめを与えなさる御方ですから、それは確かにそうとは思うが、果たしてどうなるのやらと。これが25節の言葉です。「主なる神よ、あなたはわたしに言われました、『銀をもって畑を買い、証人を立てよ』と」。「そうであるのに、見てご覧なさい。いま町はカルデヤ人のバビロン大国によって取られてしまおうとしているじゃないですか。本当に神様の言われるようになるのかな」と、エレミヤも預言者ではありますが、ちょっと不安を感じる。
私達にもそのようなことがよくあります。神様を信じて、神様がこうなさるのだと、信仰をもって踏み出した時はいいのですが、「果たして、そうは言うけれども、見える状態を見ると、あんなだし、こんなんだし、こうなったらどうしようか、ああなったらどうしようか」といろいろと考え始める。そうすると不安になる。元気をなくして失望してしまう。「やっぱりやめておけばよかったかな」と。そのとき、26節「主の言葉がエレミヤに臨んだ」。27節に「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である」。彼がお金を出して土地を買いました。そうすることを「神様から出たことです」と信じてしたのですが、つい目の前の問題や事柄、周囲に起こってくることを見てしまった。その瞬間、彼は神様を捨てたのでも忘れたのでもないけれども、何か頼りなく思った。その原因は何であったかと言いますと、自分なのです。これから困ったぞ。こんな事をしたけれども、私はこれからどうすべきだろうか?「私が」と「己」が出た。「私」が何かしなければいけない、「私」がひどい目に遭うのじゃないだろうか、「私」がこれで苦しむことになるのではないだろうか、「私」がこれで痛い目に遭うのではないだろうかと、自分の命を惜しんだと言いますか、自分の身を考えた。その時、彼は信仰からズルッと滑り落ちる。エレミヤも私たちと同じです。神様だけ見ている時はいいのですが、神様からちょっと思いがそれると人を見る、目の前の問題を見る、事柄を見る。そうすると、一気に心は不安に陥るのです。目の前のことを見て、「ああなったらどうしようか」「こうなったらどうしようか」「ああなったらこれしかない」「こうなったらこれしかない」と。これは私にはできないし、あの人に頼もうにもあの人とは関係が悪いし、こっちの方は……、ああ、こちらも行き詰まりだし、これはもう困ったなと。これはちょっと大変なことになったぞ、早く何とかしなければと、だんだんと焦(あせ)り始める。すると、血圧が上がる。夜が眠られなくなると、夜中に目が覚める。「早く安定剤を飲もう」となりますが、そうではないのです。
ここにあるように「見よ、わたしは主である」。このとき、エレミヤに対して神様は、「そうではない、見よ」と、「見てみなさい」。「こちらを見なさい」と。「あなたはどこを見ているのか」というのです。「見よ、わたしは主である」と。主と言いますのは、中心であり、すべてのものの支配者であり、統べ治めている御方です。「バビロンに攻められて国が滅びようとしているのに、おれは土地を買ってしまったが、この後払ったお金はどうなるだろうか、この土地はどうなるだろうか。神様は約束してくれたけれども、チョッとこれは信じられん。そういうことがあるかもしれんが、その時おれは生きているだろうか、死んでいるだろうか」と、いろいろなことを考え、揺れるのです。そのとき、神様が「この事を起こしたのはわたしだよ」と。「わたしは主である」とは、「お前がしているのではない。この事の『事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)エホバ』」(エレミヤ33:2文語訳)、わたしがこの事の主である、お前じゃないのだ」。これは私どもが絶えず立ち返るべき、目を留めるべき事柄です。私たちは目の前のことや何かに「どうしようか、私が……」「私が何とかしなければ」という思いが先立つ時、信仰から心がコロッとずれる。そのとき、静まって、「我のたるを知れ」(詩篇46:10文語訳)とありますように、「見よ、わたしは主である」と、「そうでした。神様、これはあなたのことです。あなたがこのことをご存じであり、握っていてくださる。この事を始められたのはあなたです、私ではない」と認めることです。そこから目をそらしたら、私たちの救いはありません。そして、その神様が、私を造り、命を与え、生きるものとしてくださっているのです。だからその後に「すべて命ある者の神である」。神様とは、言うならば根源。すべてのものに命を与え、生かしておられる御方。だから、敵のバビロンであっても、神様の手に握られているのです。このとき、彼らは「自分たちは神の民で、攻めて来るバビロン、異邦人で神を知らない野蛮人だ」と思っておった。ところが、そうではなくて、「すべて命ある者の神」、わたしはこのイスラエルだけの神ではなく、バビロンの神でもある。バビロンという敵を作り、攻め来させたのはわたしなのだと。バビロンの王様が強くて戦争を仕掛けたように見えるけれども、そうではない。その背後にわたしがいるのだ。私どもはいつも目の前のことだけを見ようとする。「あの人がこうして」とか、「この人がこうして」、「あれがこうして」、「あれが原因でこうなった」、「これが原因でこうなった」と。そうではない、神様がこのことをご存じで、「すべて命ある者の神」なのです。そこに私たちの心を向ける。そうすると、一気に心は晴れます。軽くなる。神様は「見よ」とおっしゃいます。「目を留めなさい」、「わたしは主である」と。
この時エレミヤに神様はそうやって臨んでくださいました。エレミヤはそれを忘れかけていた。偉そうにユダの人々に向かっては、「この戦は神様がしているのだから、お前たちは負けてバビロンに行け」なんて言ってはいたが、自分の事になったら、自分の蓄えていたお金を出してしまって、空っぽになった。その途端、彼は「え!いいのだろうか。これはどうなるやろう」と思った。私たちもそうですよ。私たちも他人のことには「何をあなた、心配するの。神様がいらっしゃるじゃないの」と言いながら、自分が何かしたときには「え!どうしよう。こんなにしたけど大丈夫やろうか。うまくいくやろうか」。またほかの人から「あなた、そんなこと心配しなくても神様がご存じよ」「人のことだと思って!」と、言うでしょう。エレミヤもまさにそうだったのです。ここが信仰の試されるところです。どうぞ、他人事(ひとごと)ではない。自分の問題として、エレミヤの通った道を私たちも通っているのです。その時、エレミヤはどこに目を留めたか? 27節「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」と。神様はできないことのない御方です。私たちはすぐ先先を考えて、「この事はこうなったら、次にこうなるしかない。ああなるしかない」と、選択肢は実に限られたわずかなものしか考えられない。しかし、神様はできないことのない御方、全能の神です。神様がなさるならばどんな方法でもある。
私もそのようなことを体験します。「もう、こうしかないなぁ」と思って祈り、「よし、仕方がない。それじゃ神様に委ねて」と、初めからそうなればいいのですが、トコトン悩みに悩んだ挙句、「仕方ない、これは神様に委ねるしかない」と思った。すると「思うよりも願うよりもはるかに勝ったことを」(エペソ3:20)と聖書にあるように、私たちの想像しない道が開かれる。「え!こんな事、あったの」と思うこと、皆さんもご経験でしょう。ところが、そんなものは過ぎてしまったら忘れて、「ああなるのは当たり前だった」ぐらいに思ってしまう。とんでもないことです。「わたしにできない事があろうか」、神様にできない事はない。今どんなにかたくなであっても、どんな状態であっても、神様が一度働かれるならば、あるいは神様が備えられる道はどこにでもあり得るのです。そこにいつも思いをとどめていきたい。そうしますならば、何も心配はいらない。何があっても感謝して、賛美して、主に信頼して、穏やかに落ち着いて主を待ち望んで行く時、実に楽しみです。「さぁ、これから神様はどのようにこの事をしてくださいますか」と大いに期待が持てます。この時、神様は懇切にエレミヤに語っています。
28節から30節までを朗読。
ここに神様はイスラエルやユダがどんなに昔から神様に背いてきたかを語っておられる。それまでずっと忍耐し、耐え忍んでくださった。だからといって、彼らを全部皆殺しにしてしまう、殺してしまって無きにすると言わない。それでもなお逃がるべき道を備えてくださった。バビロン、確かにそこは屈辱的であり、耐えられないような試練に思われるかもしれないが、バビロンに行くことによって、少なくとも命を、神様は彼らの消えかけたろうそくの火を消さないで保ってくださった。
その上、36節から41節までを朗読。
神様は「ここまでもするか」と驚きますが、あれほど背いたイスラエル、それをなお慈(いつく)しんで、惜しんでくださって、バビロンという国にしばらく囲って逃がるべき道を備え、その後、やがてもう一度、この地を建て直して、37節に「彼らを追いやったもろもろの国から彼らを集め、この所へ導きかえって、安らかに住まわせる」と。「安住の地をもう一度与える」と約束してくださいました。これは、私どもに対する約束でもあります。今この地上にあって、いろいろな悩みや困難、苦しみの中にありますが、神様は私たちをやがて安住の地へ入れてくださる、私たちを造り替えて、神の栄光の器にしてくださる。神様はアブラハムに約束したように、神様に背いて罪にまみれて汚れた者となりきったイスラエルの民を清めて、神の民にふさわしい者に造り替え、新しいエルサレム、新しいユダの国を建て直してくださる。バビロンというこの地にあって、苦しみの中にありながらも、様々なことを通して清め、造り替えて、生まれながらの肉の様(さま)を変えて、栄光のキリストのからだに変えてくださる(ピリピ3:21)。だから、私たちのこの地上の生涯の最終結論は、やがて神様の前に立つその日まで待たなければなりません。「私の人生、これでもうおしまいだ。私の人生はこんな人生だったか」と言って、嘆くことはない。まだこれから残された短い月日であろうと、神様はもっと私たちにくすしき御業をしようとしておられる。
39節、「わたしは彼らに一つの心と一つの道を与えて常にわたしを恐れさせる」。40節以下に「わたしは彼らと永遠の契約を立てて、彼らを見捨てずに恵みを施すことを誓い、またわたしを恐れる恐れを彼らの心に置いて、わたしを離れることのないようにしよう。41 わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植える」。すごいですね、神様は。「彼らに恵みを施すことを喜びとし」と。神様は私たちを恵むことを喜びとして、恵んであげることが楽しみであり、神様の喜びだとおっしゃる。こんなにまで思ってくださる神様はどこにいますか。私たちは信ずべき御方がどういう神でいらっしゃるか。その神様は、主であり、すべて命あるものの神、根源となり、そして源となり、私たちを生かしてくださる。そればかりか、私たちに真実をもって恵もうといわれる。
そして、懇切に44節「人々はベニヤミンの地と、エルサレムの周囲と、ユダの町々と、山地の町々と、平地の町々と、ネゲブの町々で、銀をもって畑を買い、証書をつくって、これに記名し封印し、また証人を立てる。それは、わたしが彼らを再び栄えさせるからであると主は言われる」。「そのうち、また新しいエルサレム、新しい国になったら、多くの人々がその廃虚となった土地を買いに来る。その売買証書を大切なものとして彼らは持つようになるのだから」と、エレミヤの心配を除いてくださる。「私が買った土地はこれからどうなるやろうか」とエレミヤは心配した。それに対して神様は「お前が買った土地もやがて多くの人々が欲しいと言ってくるようになるし、多くの人々がその証書、土地の権利書を大切なものと思うようになる時がくるのだから、お前は何を心配するか」と。
神の国の民として、神の国に私たちは住まいを得させていただいている。私たちのマンションは神様のところに造られている。イエス様はそのようにおっしゃる。「わたしはあなたがたの先に行って住まうところを備えて待っている」と言われる(ヨハネ14:2~)。私たちは神の国の権利書を持っているのです。「今、この世でそんなものが何の役に立つか」と思うかもしれない。しかし、やがてそれが大きく値を上げる時が来ます。今、主でいらっしゃる御方、神様が私たちを持ち運んでくださっている。その神様の手に握られていることを信じて、その御方に目を留めていきたい。
27節「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」。神様にできないことはありません。ただ、私どもがその神様を信頼して、一切を委ねて、「主が今、この事をしています」と、はっきりと主に心を向けていきたいと思います。そうすると、おのずから心がうれしくなります。顔がにこやかになります。主を信じて、見えないものに目を向けて、主を見上げて主の御許(みもと)に自らを低くしていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。