いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(259)「喜びに満たされて」

2014年07月14日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書16章16節から24節までを朗読。

 

 24節「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。

 

 これはイエス様が十字架におかかりになられる前、最後の晩餐の席で弟子たちにお話になった告別説教と言いますか、最後のメッセージの一節であります。16節以下に「しばらくすれば、見なくなる」とか「しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」という話があり、弟子たちは「いったい、これは何のことかな」と思ったことが語られています。あとになって、今は分かりますが、このときは、恐らくなぞかけ問答のようで、「訳の分からないことを言うな」と思ったでしょう。これは明らかにイエス様が今から十字架にかかり、弟子たちの目からは見えなくなってしまう。もちろん墓に葬られた後、よみがえられましたが、40日にわたってご自身を現した後、天にお帰りになって、もはや弟子たちは見ることができなくなりました。だから、「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる」というのは、そういうことでもあります。いわゆる肉体を持って、この地上でイエス様と親しく交わることがもうできなくなるということです。ところが「またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」と、「いったいこれは何のことだろう」と思った。これはイエス様が神様の御許(みもと)に帰られたとき、そこから助け主、真理の御霊、聖霊をあなたがたに遣わすと約束をしてくださいました(ヨハネ15:26)。この御霊、聖霊とは、イエス様ご自身でもいらっしゃいます。私たちの心に「イエス・キリストは主なり」「イエス様は救い主でいらっしゃる」ことを証ししてくださる御方、これが御霊です(Ⅰコリント 12:3)。言うならば、私たちの心を、もう一度イエス様と出会うようにしてくださる。確かに形は違います。この地上にあって、イエス様を間近に、手で触り、目で見、耳でみ声を聞いたような関係ではありませんが、もう一度「ああ、主がここにいます」、イエス様がいま私と共にいらっしゃることを、私たちにはっきりと教えてくださる。これが御霊の力であり、また御霊ご自身です。

 

だから、イエス様が「またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」というのは、御霊によってよみがえった主に出会うことでもあります。その具体的な証しとして、イエス様はイースターの朝、墓からよみがえられ、よみがえられた後、弟子たちにご自分を現してくださったのです。よみがえられた日の夕方、弟子たちが隠れていた場所にイエス様が来られて、ご自身の傷跡を見せ、「安かれ」と言われた。「安心しなさい」と。そのとき弟子たちは「主を見て喜んだ」とあります(ヨハネ20:19~)。「イエス様がよみがえってくださった」という喜びを体験したのです。それはイエス様が肉体をもって、目に見える形でご自身を現してくださったから喜んだとも思えますが、しかし、何よりも主がそこに生きていると知ったとき、喜んだのです。そのゆえにこそ、喜びがそこにあったのです。やがて目に見えていたイエス様は見えなくなられました。天にお帰りになった。それで終わりではなく、よみがえりの日の夕暮れ、弟子たちに現れてくださったイエス様は、再びもっと明確に、しかも消えることなく永遠の存在として、御霊なる神となって、人々の内に宿ってくださる。これがペンテコステの出来事です。そして、そのことは今も続いています。いま、私たちは主を肉体の目で見ることも、耳でみ声を聞くこともできませんが、心の内にイエス様は確かによみがえって、私と共にいてくださることを感じ取る、知ることができます。それは私たちの努力や熱心やわざによるのではなくて、神様が一方的に聖霊によって心に啓示してくださるのです。これは幸いなことです。

 

パウロはよみがえったイエス様に出会いました。あの記事を読みますと、クリスチャンを迫害するためにダマスコに出かけていく途中、大音響、そして目もくらむばかりのまばゆい光の中に包まれました。彼一人ではなく、一緒に行っていた人もいるのです。ところが、その中でただ一人、パウロだけがイエス様のみ声を聞く。ほかの人たちには大音響が「落雷でもあったかしら、雷の様な音が聞こえたな」という程度でしかない。ところが、パウロに神様はイエス様のみ声を聞かせて、その事が切っ掛けになってパウロの生涯は180度変わってしまった。これは、パウロが山にこもって難行苦行して悟りを得たとか、万巻の書を読んで研究に研究を重ねた結果、悟り得たという話ではない。これは神様が一方的に御霊によってパウロにご自身を現してくださった。それからのパウロには疑う余地がない。「主はよみがえり給うた。イエス様は今も生きていらっしゃる」。そして、彼は残りの生涯を全部イエス様にささげて、主のものと成りきって、この地上の旅路を終わったのです。そのような素晴らしい神様の恵みを受けたパウロは、余程他の人よりも、神様が恩を感じるような何かをしたかというと、そういう訳でもない。むしろ逆です。クリスチャンを迫害し、神様にとっては邪魔者でしかない。何の役にも立たないパウロをひっくり返して、イエス・キリスト、よみがえり給うた主を証明してくださる。そのわざは神様の恵みにより、憐(あわ)れみによる。だから、パウロはそのことを繰り返し言っています。「我らの救われたのはわざによるのではなく、ただ主の憐れみによって、恵みによって私たちは救いにあずかっている」。彼はまさにそうだったのです。

 

私たちもそうではないでしょうか。今イエス・キリストを信じさせていただくのは、皆さんが一生懸命に熱心に励んだからでしょうか。もちろん「休まずに礼拝に来ました」とか、「各集会に私は励みましたから」と言われるでしょう。「考えてみたら自分は一生懸命、この一年休まず五十何回礼拝を守った。だから……」と言うけれども、考えてみたら「え!たったそれだけか」と言われるだけです。自分は「こんなに一生懸命にやったのに」と思うかもしれませんが、考えてみたら一年365日ありますが、日曜日は五十何回かしかありません。「なんだ!たったそれだけか」と。だからあまり誇りにはならない。「でも木曜会にも行きました。併せて100回ぐらいなります」と言っても、それだって高が知れたことです。神様の恵みにあずかるには、私たちの努力や熱心は何の役にも立たないのです。だた、神様の一方的な憐れみです。私たちに御霊によってご自身を明らかにしてくださる。イエス・キリストを信じる者、信じる心に変えてくださる。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(Ⅰコリント 12:3 )と語られています。本当にそのとおりでして、いま私たちに神様はご自身を現してくださり、見えなかった者を見える者としてくださった。肉体の目をもって、「イエス様がここにいる」とか「あそこにいる」とは見えませんが、しかし、いつも心に主が「わたしがいるよ」と、主の臨在、主がいらっしゃるという実在感、存在感を味あわせてくださる。それは御霊が今も私たち一人一人に働いてくださるからです。

 

だから、イエス様は繰り返して「またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」と言われる。19節「イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、『しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろう』と、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか」。「どういう訳だろう」「何でだろうか」と、弟子たちの間でいろいろな憶測がなされたのを、イエス様は全部知っていたのです。「何を馬鹿なことを言っているか」と、「そのうちあなたがたのそういう不安や心配は消え去って喜びに変わるであろう」と。そのあとの20節に「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう」。言うならば、この世にとってイエス様は邪魔者だった。イスラエルの人々にとって、当時のユダヤ人にとって、イエス様は「つまずきの石」と言いますか、神を冒とくするとんでもない人間だと言うわけです。だから、あの十字架にイエス様を釘付けて、命を奪って、墓に葬って、封印をして「これでもう一件落着、終わり」「してやったり」「まぁ、これで世の中安泰」と、多くの人々は喜んだ。ところが、弟子たちにとっては悲しいことでした。

 

弟子たちが杖とも頼み、柱とも頼んでいたイエス様が居なくなってしまった。見えなくなってしまった。墓に葬られた。マリヤさんは大変失望落胆して、復活の日の朝、まさかイエス様がよみがえられたとは知らずに墓へ行きましたとき、彼女は泣いていたのです。そこには亡がらすらも無くなっていた。盗まれたのかどうか、訳が分からない。マリヤさんが泣いていたとき、イエス様が近づいて、「女よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20:13)と、主はよみがえって近づいてくださった。そのとき、まさかイエス様とは思わないで、墓の番人だと思ったのです。マリヤさんは「イエス様の体をどこにやったのですか。わたしに教えてください」と言った。そのとき「マリヤよ」と言われて、改めて見直して見るとイエス様だった。彼女は喜びにあふれた。

 

20節「あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう」とあります。憂いていました、悲しんでいました、失望していました。しかし、イエス様が「わたしはよみがえりであり、命である」(ヨハネ11:25)と、よみがえってご自身を現してくださったとき、大きな喜びがあふれました。これがいま私たちに主が与えてくださる喜びです。ですから、そのあと22節「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう」と。これがいま私たちの味わう喜びです。「主がよみがえって今も生きておられる」。主に出会うことが喜びであります。これは消えることのない喜びです。と言うのは、イエス様はよみがえられた後、天にお帰りになりましたが、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)とおっしゃいます。いま御霊なる神となって、主が私たちと共にいてくださる。そして、生活の隅から隅まで、イエス様が主となってくださって、私たちに知恵を与え、願いを起こさせ、思いを与え、それを実現できるように知恵と力など必要なものを供給してくださる。いま、私たちはこの喜びの中に日々生きているはずです。どうでしょうか?皆さん、喜んでいますか? 主がいらっしゃる、主にお会いしている。主を目の当たりに見ている。あの弟子たちが悲しみ、嘆いていたとき、イエス様が現れてくださって、「おお、主よ!」と大喜びをした。それと同じ喜びが変わることなくズーッと今も、私たちに与えられている。今クリスマスを間近に控えている時でありますが、喜びの歌、歓喜の歌とか、クリスマスと喜びとは、切っても切れません。「プレゼントをもらうからうれしい」という話もあるけれども、ルカによる福音書を読んでおきましょう。

 

ルカによる福音書2章8節から14節までを朗読。

 

これはイエス様がお生まれになったとき、野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼いに、御使が現れてイエス様の御降誕を告げました。そのとき、10節「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える」と。ここで御使が「すべての民に与えられる大きな喜び」と語っている。イエス様がお生まれになったことは、喜びなのです。イエス様が生まれたといっても、飼葉おけに寝かせられたイエス様は、無能無力なる幼な子です。しかも置かれた場所は馬小屋、そのような家畜小屋です。しかも、餌を入れる「飼い葉おけの中に寝かせておった」と12節にあります。見える状態から言うならば、喜べる状態ではない。なぜこれが「大きな喜び」なのか?「子供が生まれたから喜びなのだ」と言うのでしたら、取り立てて言うほどではありません。マリヤさんから赤ちゃんが生まれたという誕生を喜ぶのか?実はそうではない。イエス様の与えてくださる喜びは何か?イエス様は飼い葉おけの中に寝かせられていました。それが大御殿の中で金襴緞子(きんらんどんす)に包まれて生まれた赤ちゃんだったら、「ほう、これは紛(まぎ)れもない、将来世を救う者になるぞ」という思いもしますが、目の前に「見るからに何とも仕様もない」と言うと語弊がありますが、見栄えがしない。しかし、実はそれが大きな喜び。なぜ喜びか?というと、イエス様が私たちの主となって、私たちと共にいてくださって、しかも私たちの罪を赦し、清めて、神と共に生きることができるようにしてくださったから。イエス様のご生涯の使命を知らなければ喜べません。

 

だから、ヨハネによる福音書16章21節に「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである」。言うならば、マリヤさんの時が満ちて、幼な子を産んだ。子供が生まれたという、いわゆる世間の一般的な意味での「喜び」は、確かにありますが、しかし、ここで言っているのは、それとは違ったものです。イエス様はベツレヘムにお生まれになりました。しかし、イエス様はあのゴルゴダの丘の十字架に命を捨て、墓に葬られなさって、もう一度生まれてくださった。ここに「すべての民に与えられる大きな喜び」、羊飼いたちに語られた御使たちの預言が具体化していく。私たちにとってもそうです。確かに、目に見える形でイエス様がお生まれになったことも喜びでありますが、それは限りがある。それはやがて消えます。しかし、今はそうではない。私たちの目には見えないけれども、主は死んでよみがえって、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と。「インマヌエル・神われらと共にいます」というのです。これこそ私たちの喜びです。

 

22節「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」。うれしいですね。イエス様に私たちが出会うと、「主が私を顧(かえり)みてくださる。イエス様がこんな私のために命を捨てて愛してくださった。そしてよみがえって、いま私の主となって、私は知恵もない、力もない、何一つ善きことをする力がありませんが、イエス様、あなたが私を導いてくださるから感謝します」と、主に目を留めていくとき、私たちの内に絶えず喜びがわいてくるのです。22節後半に「そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」。神様は私たちに何を与えようとしてくださるか?喜びを与えたいのです。私たちの心を絶えず喜びに満たすこと、これが神様の願っていることです。私たちが喜び、感謝し、楽しむこと、これが神様の私たちに与えたいと願っている事です。

 

というのは、神様が私たちを造って、この地上に置いてくださった目的がまさにそれだからです。私たちを喜び、楽しませるためです。23節「その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」。そして、イエス様の名によって、父なる神様はあなたがたにどんなことでもしてくださると。ここに「求めるものはなんでも下さる」とあります。そのとおりです。求めるものはなんでもくださる。そればかりでなく、求めない先から、私たちに必要なものをご存じです。

 

先だって、教会で感謝会をしましたら、ある一人の若い方が「聖書には『求めたらそのように答えてくださる』とある。どんなことでも求めなさい、しかも、熱心に求めれば答えてくださる。またもう一つは『御心のままに』と、神様の御心を求めなさいと。自分には今年はいろいろな心配があったり、家族、子供の病気だ何だと入退院を繰り返して大変だった。その度に、切羽詰って一生懸命にお祈りをした」と言うのです。「何とか子供を癒してください!癒してください!」とお祈りをしていると、「どうも、これはいけないのではないか?」と。「ああしてくれ」「こうしてくれ」と、神様にあまりそう言ったら、嫌われやしないか、神様の御心を求めるべきだと、先生から聞いているから、癒していただきたいのだけれども、「神様、御心ならば……」というお祈りのほうがいいのかなと思う。「求めなさい」と「御心ならば」との二つの間で、こっちに行ったりあっちに行ったり、右に行ったり左に行ったり、うろうろして、この一年そのことで大変困ったと、自分の信仰を試されたという証詞(あかし)をしておられましたが、それは皆さんの中にもあるかもしれません。聖書には「事ごとく祈れ」と、「何事も思ひ煩ふな、ただ、事ごとに祈りをなし、願をなし、感謝して汝らの求めをに告げよ」(ピリピ4:6文語訳)とあります。この24節にも「求めなさい」と。確かにそのとおりです。

 

24節「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい」と言われます。だから「ああしてください」「こうしてください」「こうあってほしい」と、要求がだんだんと細分化されていく。「病気を癒してください」「憐(あわ)れんでください」と言いながら「何日までに癒してください」「こういう目に遭わせないでください」「ここにはこうしてください」と、神様に注文が多くなる。私はそのときに教えられたことですけれども、大切なのは、神様に祈っていることを忘れてはならない。神様は私たちの主です。だから、神様の神たることをないがしろにすることはできません。ところが、考えてみると、お祈りをしているうちに、初めは下手に出て、ここまで行けたら、もう少しと、だんだんと要求がエスカレートして、ついには「神様、こうしてくれなければ、私はあなたを信じませんよ」と言うほどに心が高ぶっていく。ここが問題なのです。ここが警戒しなければならないところです。初めて、お祈りをするとき、謙そんに「こうしてください」「憐れんでください。主よ、こういう状態です」「こうです」「ああです」と求めていきます。ところが、「お祈りが聞かれない」とか、あるいは「もうちょっと頑張って祈ろう」とか、「今度は徹夜しようか」とか、「断食してお祈りをすれば聞いてもらえるのではないか」とか、神様と大衆団交と言いますか、談判をするようになっていく。ついには神様に命令するような気持ちに変わっていく。これがいちばん良くない、警戒しなければならない事です。お祈りをするとき、自分の思いどおり願いどおりに事を進めようとすることは間違い。実は、何もかも神様任せがいちばん良いのです。神様を信頼して、「神様、あなたに一切を任せます」と言って、安心があるならば、それがいちばん幸いです。しかし、無いでしょう。「任せます」と言いながら、「任せたら、どうなるか分からない。あれもこうしてもらいたいし、これはこうしてもらいたい。神様は何をされるか分からないからなあ」と、心配になる。だから、一つ一つ「事ごとく祈れ」と言われますから、祈って、神様の手に委ねていく。これが私たちのなすべき事です。

 

24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった」。23節にも「わたしの名によって下さるであろう」と、繰り返して語られています。神様は私たちの祈りを聞かなければならない義務も責任もないのです。「神様、私はあなたに貸しがありますから、私の祈りを一つぐらい聞かなければ罰が当たりますよ」と言う訳ではない。私たちは被造物、造られたものですから、聞かれなくて当然であります。本来、私たちが神様にお祈りするなんてこんなおこがましいことがどうして許されるか思えます。旧約時代は神様へ近づくことすらも許されなかった。神殿があって、そこで神様の前に罪の赦しを請う、あるいは願い事をささげたり、感謝をささげるにしても直接神様に人が近づくことはできなかったのです。その代わりに、祭司を立てて神様と人との間を取り次いでもらう。それであっても、恵みです。そのような形で、神様は願い事をささげることを許してくださった御方。ところが、今はそういうことをしなくても、いつでもどんなときでも、私たちが祈ることができるというのは、これは一重にイエス様が開いてくださった道です。そして、私たちの祈りを聞いてくださるのは、ただイエス様が私たちのために執り成してくださるからです。主が祭司となって、いま父なる神の右に座して、私たちの祈りの一つ一つを「父よ、この祈りを聞いてやってください」と執り成してくださるからです。だから、お祈りをするとき、そのことをしっかり心に置いていただきたい。

 

だから、24節「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった」と言われる。だからお祈りするとき、最後に「主イエス・キリストの名によって」、あるいは「聖名によって」と付け加えて祈ります。これはまじないでも呪文でもありません。これは私たちがいまイエス様の憐れみによって、十字架のいさおしによって、祈る者とされた。祈らせていただいているのだと、謙そんになるための切っ掛けであります。だから、「主イエス・キリストの名によって」と祈るとき、「いま十字架のいさおしによって、私の祈りを父なる神様が受けいれてくださる」と確信する。そのことを心から感謝し、喜んで、主に祈ること、これが求められている大切なことです。

 

ですから、24節「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」と。ここに「そうすれば、与えられるであろう」、求めて祈るときに神様はそれに答えてくださる。しかも、イエス様のいさおしによって、私たちの祈りを聞いてくださる。なぜ、神様は祈りを聞いてくださるかと言うと、「そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」と。私たちを喜ばせたい。これは父なる神様の徹底した思いです。私たちに喜びを与えたい。喜んで、感謝して、神様の御名を褒めたたえる者としてくださるためです。どうですか、私たちはどれほど喜んでいるでしょうか?一日一日、この地上にあって、この一年を振り返ってみて、皆さん、喜んだときはどれだけあったかと。いつも「あれが心配」「これはどうなるだろうか」「ああなったらどうしようか」「こうなったらどうしようか」「ああ、これだから……」「あれだから……」と、不安と心配と恐ればかりが常にあった。私たちが不安や恐れや心配で、喜びを失ったとき、実はイエス様を見失っているときです。なぜならば、イエス様は私たちの喜びのために来てくださったのです。「見よ、すべての民に与えられる大きな喜び」と御使が言いました。私たちを喜ばせるためだから、ここにイエス様が「どんな不安なこと、心配なこと、気に掛かること、どんなことでもいいから、わたしの名によって求めなさい」とおっしゃいます。その目的は私たちを喜びに満たしてくださるためです。

 

私たちはこの願いがこうなったら喜べる、ああなったら喜べると、喜びの方程式があります。ところが、そのようにいかないと、心配になったり不安になったりする。だから、「わたしの名によって求めなさい」。イエス様が私たちの祈りを父なる神様に取り次いでくださって、私たちが喜ぶような結果を出してくださる。自分が思ったように、事が実現して喜ぶことは、世の中でもよくあることです。自分の願いがかなった、長年思っていたことが実現した、夢がかなった「うれしい」と、喜ぶではないですか。神様が私たちを喜ばせてくださるのは、確かにそれもそうでしょうが、喜べないところに喜びを作り出してくださる。人の常識で考えたら、「こんなことを喜べるはずがない」、「こんな状態だから、何が喜べるか」と、思われるような事態や事柄の中で、私たちを喜ばせてくださるために「求めなさい」と言われる。だから、神様は「すべて思う所よりも甚(いた)く勝(まさ)ることをなし得る者」(エペソ3:20文語訳)とおっしゃる。私たちが「こうあったらうれしいのだけれども」、「こうあったら喜べるんだ」と思うことを、それを超えて、想像もつかない、考えもしなかった、思いもしなかったことをしてくださって、「神様!あなたのなさること、もううれしくてたまりません。感謝です」と、私たちに言わせるのです。神様が神様らしいことをしてくださるのはそのためです。だから、祈りなさいと求められているのです。しかも、23節「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」と。「なんでも」ですよ。だから、どんなことでもイエス様が答えてくださる。だから、「イエス様の名によって祈る」ことが大切です。そのとき、ただちにイエス様が私たちの祈りを取り次いでくださる。だから、神様の憐れみのゆえに祈ることを許されて、神様の前にはばかることなく近づかせていただいているという、謙そんなへりくだった心をもって祈り求めていきたいと思う。そうすると、私たちの思わないより、願わない想像のつかないことをして、喜ばせてくださるのです。私たちに喜びを満たしてくださる。「主がここにいらっしゃる」と知ることができるような結果を、神様は私たちに現してくださる。そのために、主を待ち望んでいかなければ、それを得ることができません。

 

 24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。どうぞ、この主を喜び、神様が私どもに備えてくださる一つ一つのわざを感謝し、喜ぶ者としていただきたいと思います。そのために、イエス様の名によって一つ一つどんなことも祈って祈って「ここに主がいらっしゃる」「このことも主が答えてくださる」「こんなに主が思いがけない想像もつかない道を備えて、隠れた所に神様の素晴らしい恵みがあった」と、私たちをして感謝賛美させるのです。これが、イエス様が私たちの所に来てくださったご目的であります。

 

 この主の御降誕を体験していく日々でありたいと思う。そのためにまず私たちは祈りたい。主の名によって、イエス様の名によって祈り求めるとき、主は答えてくださる。そして、喜びを満たしてくださる。この喜びにあずかりたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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