いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(167)「キリストに従う姿勢」

2014年04月13日 | 聖書からのメッセージ

 マタイによる福音書16章21節から28節までを朗読。

 

 24節以下に「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう』」。

 イエス様の救いにあずかって生きる生涯は、必ずしも楽な生涯ではないと思います。むしろ戦いがあり、困難がある。これは当然です。なぜならば、私たちがイエス様の命によってあがなわれ、神の民とされ、神の国の住人として生きる。言うならば、イエス様が言われるようにこの世から私たちを選んで取り分けてくださった。そして、今、私たちは、この地上にあってどのような生き方かと言うと、今度は神様から遣わされた者として、キリストに仕える生涯へ導かれているのです。ですから、イエス様に従うのが私たちの使命であり、イエス様に仕えることが私たちのすべてです。このことをしっかりとわきまえていかなければ、いろいろなことが曖昧になって、はっきりしなくなります。

 

ですから、自分の好きなように、自分のしたいように、自分の願いを実現することが目的ではない。世の中の考え方はそうではなくて、自己実現という言葉を使いますが、自分の夢を実現し、自分の願いがかない、自分の思い描いた人生を生きることが、人生の成功者だと言われます。ところが、イエス様の救いにあずかった私たちにとっては、自分の願いとか自分の考え、自分の思いを持っていてはイエス様に仕えていくことができません。イエス様に従うことができない。そこでおのずから葛藤(かっとう)、戦いが生じてくる。これは当然です。ですから、時には信仰を持ったために、苦しい、不自由になった、と思われるならば、それは本物の信仰です。信仰に入ったけれども、以前とあまり変わりがないな、何もかもが楽でいい、という信仰だったら、それはどこか間違っているのではないか。信仰は、ある意味では本当に厳しいものであり、また戦いがあるのです。戦いのない信仰は本物ではありません。だから、イエス様に従っていこうとするとき「この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33)とイエス様は言われます。そのとおりです。いやむしろ、厳しい戦いがそこにはあります。

 

 マタイによる福音書10章34節から39節までを朗読。

 

 これも先ほどのイエス様の言葉と共通したことが語られていますが、殊に前半のところ、34節には「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな」とあります。これは大変なことですね。イエス様が来てくださったのは、私たちを平和にしてくださるためだ、だから社会運動をしたりして、世の中が平和になるようにというのがクリスチャンの務めではないかと。ところが、イエス様はそんなために来たのではない。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな」と、「平和ではなく」何か?「つるぎを投げ込むためにきたのである」と。厳しいですね。その先に「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである」。これはちょっと尋常ならぬ言葉です。穏やかならぬといいますか、皆さんの家庭に「嫁としゅうとめ」あるいは「父親と息子」「母親と娘」とが相争うようにすると、イエス様は言われる。それは確かにそうだと思います。日々の生活の中でイエス様に従おうと思うと、おのずからこの世の生き方とは全く正反対、相入れないものだと思います。だからイエス様はそのように語っています。イエス様を救い主と信じて、イエス様に仕え、イエス様に従っていこうとするとき、この世のあり方、この世の生き方、そのようなものと決別すると言いますか、この世と対決していかなければならない。そのような立場に置かれます。しかしそのようなことはあまりにも厳しいものだから避けて通る。神様は愛だから、許されるではないか。いいじゃないかと思いやすい。

 

 先だってもある方が、礼拝に来ると、皆さんがきちんとした服装、男性はちゃんとスーツを着てネクタイをして、女性もさっぱりときちんとした洋服で出席している。ところが、ラフな服装で来た自分は場違いな気がしたと言われました。確かに、どんな服装で来ようと別に問題ではない。それぞれの人の信仰によることですが、そもそも礼拝は神様にお会いする場です。その時間を神様にささげたものです。それに対して自分はどのような態度であっただろうか。そう示されて周囲を見てみると、皆さんが一生懸命に神様の前に出ている姿勢を教えられて、それからきちんと身を正して、神様の前に出るようになさった。なにも高価な服装と言うのではなく、普段の外出時の装いなり、もてる物の最高をもって、心を表すことが大切です。主にお会いすると思うなら、おのずからどのような服装にするか決まってきます。

 

皆さんが天皇陛下に会いに行くとき、どうしますか?男性はモーニングでしょう。女性はそれに準じた第一正装という、それで天皇の前に出るわけでしょう。礼拝で神様の前に出るときは、天皇どころではない。昔は礼拝と言いましたら、明治・大正時代は紋付、袴(はかま)です、男性は。なぜかと言いますと、そこに神様がいらっしゃる、神様に出会うという気持ちを証詞する行為だからです。世間の人から見ますと、「硬いな、そんなにせんでもいいではないか」となりやすいが、私どもはそのようには思わない。だから礼拝に出るのは神様の前に出るのです。だから遅れて行くなんて申し訳ないでしょう。友達と遊びに行くとき、「明日の10時井筒屋の前で待ち合わせましょう」と約束して、遅れていく人はないでしょう。それなのに、礼拝で神様の前に出るのに遅れて行っていいはずがない、と思いますが、いかがでしょうか。小さなことかもしれませんが、そのような意味で信仰の厳しさがあります。このような木曜会の場合などは、ある意味ではカジュアルな形での集会ですから、あえてそうは思いませんが、しかし心は変わらない。礼拝のときもこの木曜会のときも心は変わらない。しかし週に一度、少なくとも安息日、聖なる日、主の日、主のよみがえりの記念の日である礼拝、「我其處(そこ)にて汝等に會(あ)ひ、汝と物(ものい)ふべし」(出エジプト29:42文語訳)と主にお会いする。旧約聖書を読みますと、その昔は、祭司たちは神様の前に出るときに着るべき服装が定められていました。

 

ある方が「先生、そうは思うけれども、こういう考え方はありませんかね。初めて来た人が『こういう教会は来にくいなぁ』と思うことがあるでしょうから、私一人ぐらいはラフなカッコウでいたほうがいいんじゃないでしょうか。そうしたら、みんなが『あの人がいるなら、安心して私も来ようか』という気になるのではないでしょうか」と言われました。私は「その必要はありません」と言ったのです。人が神様の前に近づくのは、服装が楽だから、あそこは行きやすいから行こうで来る人はいません。神様が引いてくださらなければ、主が引いてくださらなければ、誰も来ることはできないのですから、人のことではなく、あなたが神様の前に出てください」と。この考え方には、ちょっと引っ張られる。「そうやな。新しい人が来てみんながきちっとした服装して、ひょっとしてそこに作業着で来て、あるいはジーパンで来て、礼拝が終わったら、どこか海に行こうと思って短パンで来た。『あれ、ここはちょっと場違いやな。これからここは敬遠しよう』と言って来なくなるのではないだろうか」と言う。なんか良さそうに聞こえます。良さそうに。しかしその心を探ってみると、本当に主のことを思っているだろうか。主が主でいらっしゃることを第一にしているとすれば、そのような考え方にはなりません。ともすると、そのような方向へ流れる。

 

ところが、イエス様は、35節以下に「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。36 そして家の者が、その人の敵となるであろう」。すべてのもの、家族と相敵対してでも、イエス様に従う。だから、時々そのように言われるのです。「先生、家族の救いのために時には礼拝を休むことも必要じゃないかと思います」と言う。「本当かなぁ」と私は思いますね。「家族の平和のために、私があんまり硬くなりすぎると家族がぎこちなくなってギクシャクしますから」と言う。「いいじゃないですか。ギクシャクしたって」「いや、それはちょっと証詞になりませんから」と言う。証詞にならないのはそのようにこの世と妥協することでしょう。だからイエス様はここで「敵となる」と。イエス様に従おうとするとき、ある意味では、ある一線それ以上譲れないものが必ず出てくる。これは私たちの「信仰」という一線です。イエス様に従っていく。

 

もう一度先ほどのマタイによる福音書16章23節に「イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」。これはその前のお話から続いたことですが、ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白して、イエス様が大変その答えを喜ばれた。「あなたに天国のかぎを授けよう」とまで言われました。その後21節に読みましたように、これからイエス様がお受けになる苦しみについてお話になられました。エルサレムに行き、多くの者から苦しみを受け殺される。しかし三日目によみがえるという話をなさいました。しかし弟子たちにとっては「殺される」ということのほうが頭にありますから、「よみがえる」そんなことは有り得るはずがないと思うから、大変びっくりしたのです。そんな滅相もない、イエス様が死ぬなんて想像もつかない、考えもつかない。だからペテロは早速22節に「すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』」。「イエス様、そんなことは駄目ですよ。言っちゃ駄目です。そんなことはあるはずがないのだから」と言って、イエス様をしかったのです。それは人情としてはよく分かります。私どもでも「もうおれは幾ばくもないよ」なんて、弱気を言うと「いいや、そんなことはない。頑張りなさい」と励ますでしょう。「そんな不吉なことを言わんといて」と。「もっと元気を出しなさい」と。イエス様が「やがて苦しみを受けて死ぬ。死んでもよみがえるから大丈夫」と言う。そんなことは信じられませんから、ペテロは「イエス様、駄目ですよ。そんなことを言っちゃ。」と言っていさめた。そのときにイエス様が「サタンよ、引きさがれ」。「サタンよ、引きさがれ」、まぁ、ここまで強く言わなくても、皆さんだったら「せっかくそんなにまで自分のことを思って言ってくれるのだから『ありがとうね』と、一言ぐらい『ペテロよ、ありがとう、でもね……』と言ってくれたらよさそうなものを」と思います。イエス様はそのような妥協はないのです。きちっと「サタンよ、引きさがれ」。先ほどマタイの10章にありましたように、イエス様は「つるぎを投げ込む」と。どこが彼の間違っているところか、ペテロが何を第一にしているか、イエス様は見抜いている。何を重んじて何を大切にしているか。だから「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。ここですね。イエス様は徹頭徹尾、ご自分を遣わしてくださった父なる神様のことを思い続けていらっしゃる。父なる神様が自分に備えられた十字架の道すらもいとわない覚悟を持っている。そのイエス様に対して「滅相もない、そんなことを言いなさんな」。これはないでしょう。だから、イエス様は激しく厳しく「サタンよ、引きさがれ」。 

 

ヨハネによる福音書5章19節を朗読。

 

ここにイエス様がご自分の生き方を語っています。「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」。これはイエス様が何を第一にしていたかということです。それは「父なる神様に仕える」ということです。父なる神様のおっしゃること、なさることをそっくりそのまま、私はするのだと。それ以外にできない。「自分からは何事もすることができない」とあります。自分のしたいこと、自分の嫌なこと、自分が願っていること、自分の夢を実現しようとしているのではなくて、父なる神様に徹底して従おうとしている。

 

もう一つ読んでおきたいと思いますが、ヨハネによる福音書5章30節を朗読。

 

ここでもイエス様は「自分からは何事もすることができない」と語っています。そして「ただ聞くままにさばく」。言われたままに、命じられたとおりにということです。「それは、わたし自身の考えでするのではなく」と、わたしの考えじゃないのだ。じゃ誰のか?と言いますと、「わたしをつかわされたかたの、み旨を求めている」。イエス様を遣わされたのは誰か? 父なる神様です。神の位にい給もうたイエス様が、人となってこの世に来てくださったのは、父なる神様の求められた使命があるからです。だからイエス様がこの地上に在りしとき、徹底して父なる神様に従われたのです。神様を第一にして、ご自分の思いを捨てたのです。「自分からは何事もすることができない」。「み旨を求めている」。言い換えますと、父なる神様が今わたしに何を求めていらっしゃるのか、今わたしに何をせよとおっしゃっているか。何を語れと言われるか。イエス様はすべてを父なる神様に求めていた。先ほどお読みしました記事にあるように、イエス様がやがてエルサレムに行き、律法学者、パリサイ人、そのような人々から迫害を受け、殺され、三日目によみがえることをお話になった、とあるでしょう。それは、イエス様がご自分から語ったのではなくて、実は父なる神様がイエス様にそのとき、その場所で「語れ」とおっしゃったことを語っていたのです。だから、それに対して「そんなことはない」と、ペテロが言ったことは、これは取りも直さず、イエス様とすれば、父なる神様を押しのけたほどの大きな意味があったのです。だからイエス様は自分がしていること、自分が語っていることは、自分がしているのではない。父なる神様がわたしに今このことをさせていらっしゃる。これを言わせていらっしゃると信じていますから、もしそれを受け入れない人、あるいはそれを妨げようとする人がいるならば、その人に対して容赦なく厳しく「サタンよ、引きさがれ」と言われる。これは当然のことであり、また今私たちにも求められていることではないでしょうか。なぜなら私たちも今はイエス様の救いにあずかって、この世の者としてではなく「 わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである」(ヨハネ15:19)と言われ、「わたしもあなたがたを世につかわした」とヨハネによる福音書17章に、イエス様が語っているとおりです。また、ヨハネによる福音書20章には、イエス様がよみがえられた後、弟子たちの所に現れて、息を吹きかけて仰せになった「聖霊を受けよ」。そして「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と言われた。だから私たちは遣わして下さった方、イエス様のみ声に従い、イエス様に仕えること以外にするべきことは何もないのです。自分のしたいこと、自分の願い、自分の夢、自分の何かではなくて、主が何とおっしゃるかです。

 

だからその先5章37,38節を朗読。

 

イエス様を信じたとき、神様を知ることができ、神様のお言葉がその人のうちにとどまって神様と共に生きることができ、神様に仕えていく者となることができる。だから私たちもイエス様と同じように、常に「自分からは何事もすることができない」のだ。私どもはそこまで徹底して自分に厳しく、自分の生活、行動、自分の語ることを、神様の前に置いていかなければ本当のいのちに生きることができません。

 

イエス様はもう一つ先の所にも、ヨハネによる福音書6章38節を朗読。

 

イエス様の生涯は、まさに父なる神様のみ心に徹底して従う。また神様のなさることを自分もする以外にない。そこまで徹底して、イエス様は「わたしにならう者となれ」と言われます。イエス様にならうとは、イエス様が、どのようにこの地上に在りしとき、父なる神様に仕えておられたか、どれほど徹底して、どれほど熱心に、また厳しく父なる神様にご自分をささげきって生きていたか、そのことを学ばなければ、そこに倣(なら)っていかなければ、いのちにあずかることができません。

 

ですから、初めのマタイによる福音書16章23節に「イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」。イエス様が来てくださった使命は父なる神様に従うために来てくださった。その従うべき道は十字架の道でしたが、それをペテロが邪魔をしようとしたのです。ペテロは、まさかそんな事とは露知らなかったのです。思いもしなかったでしょう。しかしやがて後に、ペテロもキリストと同じ、イエス様と同じ道を歩むことになります。どうぞ、私たちも誰に仕えているのか。わたしたちが生きる使命はどこにあるのか。家族のためでもなければ、誰のためでもない。自分のためではもちろんない。ただ、私を遣わしてくださった、この家庭に、この地域に、この所に私たちを置いてくださったイエス様、父なる神様、その方に仕えていくことがすべてであります。その方のみ旨を求めてみ心に従う。だから家族がこう言うから、あの人がこう言うからではない。主が何とおっしゃるか、これを真剣に力を尽くして求めましょう。その後の24節に言われているように「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。どうぞ、イエス様に従っていこうではありませんか。そのために家族から嫌われるかもしれない。友人知人が離れていくかもしれない。誰からも捨てられても「私は主に従う」、この一線をしっかり握っていきたいと思います。人はどうでもいいですよ。あの人は従っていないとか、この人は従っていないとか、そうではなくて、自分に対して厳しく、自分はこれはしない、ここには行かない、私はこれを受けられない、と。自分に対して今主が何とおっしゃるか。私に対して、このことを通して神様に従う道はどこにあるか。この日本の社会にあり、いろいろな世の習慣や仕来り、さまざまなものが私たちの日常生活の上にあります。殊に夏になりますとお盆であるとか、夏祭りであるとかいろいろなことがあります。しかし、その中で本当に主に従うということは、どうすることか?

 

思い出しますが、私が小学校のころ、5年生だったと思います。兄が6年生ぐらいだったのです。教会の近くに『仲宿八幡宮』というのがあります。そこが夏祭りになりますと、前田小学校で体格のいい生徒が旗持ちに出るのです。お神輿を担いで、その前に神主が立ち、後ろでのぼりを持って歩くのです。兄はそれがしたくて、選ばれたのです。そのころ、どうして小学校が選んだのかな、と今思いますが、まだあのころは随分今と違っていい加減だった。学校ではその校区の氏神様という話でしょう。何の気なしに選んだのです。兄が帰ってきて「今度、夏祭りに旗持ちになった」と喜んでいる。父が怒ったのです。兄に怒ったのではなくて学校に対して。即、学校に出かけました。そして校長に面会して「公の学校でそのような一つの宗教の行事に学校から代表を選ぶ。これは憲法違反ではないか」、そう父は言いましたね。そしたら学校が取りやめました。その祭には学校としては関係しない、という方針に変わりました。その後、父は煙たがられていましたが、逆にPTA会長になってくれと言われたのは、文句を言う人を学校側に取り込もうとしたのでしょうが、それにはなりませんでした。父はそういう点ではやはり厳しかった。したい人はしてもいい。ところが公の学校としてそんなことをしては……、ましてや牧師の息子が神社の旗持ちになって、親として、息子も成人しているならば本人の意向でいいでしょうが、まだ小学生ですから保護者としての責任があります。でも、考えてみたら、親として子供が喜んでいるのだから、まぁ、そんなたわいもない事なんだから、いいじゃないの。そこまで目くじら立てるほどでもなしにと。1時間か2時間チョロッと行って来たらいいのだから、黙っとこうか、と言えば言えます。でも、イエス様は何を喜んでくださるか。神様に従う道はどこにあるのか。これは私たち自身が問われる。そのとき人からなんと言われようと、村八分になろうと、駄目は駄目、いいはいいと、きちっとしなければなりません。主が何とおっしゃるか。イエス様はまさにそのような生き方をしたのです。パリサイ人や律法学者としばしば衝突していますが、何もイエス様はけんか好きでしたのではない。パリサイ人たちの考え方が神様に仕える生き方とは違うから、ご自分に求められている神様の御心に従った。イエス様が先ほどのヨハネによる福音書で語っているように、「自分からは何事もすることができない」。「父のみ旨を求めて」している。だから、イエス様のなさることに抵抗する人々に対して、厳しく相対立していく。やがて十字架の死をイエス様は受けることになるのです。

 

私たちは、そのように人から村八分にされたことはない。イエス様に従って、イエス様がおっしゃるから、これは駄目だと。そんなふうに厳しく言ったために家族から捨てられましたという方は、喜んだらいい。大いに感謝したらいい。しかし、どちらかと言うと、家族に喜ばれよう、家族に気に入れられるように、あまりややこしいことを言うまい、難しいことを言うまいと、私たちは「神のことを思わないで、人のことを思う」。ついそういうところで流されていってしまうとき、イエス様のいのちから遠くなってしまうのです。

 

だから25節に「自分の命を救おうと思う者はそれを失い」、「自分の命を救う」というのは、自分が気に入れられたいと思うことです。自分が良い人と思われたいとか、自分がみんなから愛されたいとか、好かれたいとか思うからです。そういうのを自分の命を惜しむという。ところがそれを失うと。「わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。イエス様のために自分の命を失う。イエス様のために嫌われ者となる、イエス様のゆえに私たちが世のはじき者となる。これが「命を失う」ことです。しかし、神様は決してそれを捨てておかない。だから、私たちはどんなことがあっても主が何とおっしゃるか、イエス様に従う道を選び取っていきたい。ともすると、私どもはどこかで気が弱る。だからこそ、神様に力を与えられなければできないことです。自分では自分を捨てることができません。だから、絶えず主に力を与えられて、はっきりと言うべきことは言え、やめるべきことをやめることができる力を与えてくださいと絶えず求めていかなければできません。ともすると、自分が可愛い、自分が楽をしたい、自分がいい子になりたい、どこかでそのような思いが必ず働く。そういう時は自分で分かっているのです。そのとき、ここを戦い抜くことができるように、自分の思いを捨てて主に従うことができるように祈りたいと思う、求めていきたい。神様は私たちを選んで、遣わして下さっている。だからこそ「この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい」(ヨハネ16:33)と言われる。「わたしはすでに世に勝っている」。主が勝利を取って下さった道です。

 

たとえ嫌われようと何をされようと、主はこう言われる、イエス様は私にこの事を求めていらっしゃる。その一点にしっかりと自分を置いて、イエス・キリストに従う日々でありたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 

 

 

  


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