いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(281)「主の復活に生きる」

2014年08月04日 | 聖書からのメッセージ

 「ヨハネによる福音書」20章19節から23節までを朗読。

 

 21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」。

 

 毎年、クリスマスやイースターは繰り返されます。クリスマスは12月25日となっていますが、イースターはどういうわけか移動祭日と言われ、年ごとに日取りが変わります。去年と今年では違います。それはイースターの決め方がクリスマスとは違っているからです。イースターは春分の日を過ぎて最初に来る満月のいちばん近い聖日に決められているからです。そのような決め方でありますから、年によって月の満月になる日が変わりますから、イースターも決められません。

 

イエス様が十字架におかかりになってくださったご目的は何であったか。それは私たちの罪のあがないのためであります。私たちが神様を知らずに、自分を神として、己の欲望に従って生きていた。その終わりは永遠の滅びです。そういう滅びの道から、天地創造のわざの中へ私たちをもう一度取り返してくださるためです。ですから、この十字架は罪の赦しであると同時に、神様が私たちをあがなってくださった、神様のものとしてくださった事であります。もし、十字架がなかったら、私たちは神様の救いにあずかることができません。十字架は、イエス様が二千年以上前にあのゴルゴタの上に命を捨ててくださったただ一回限りのことです。しかし、時代や地域を越え、年齢を超え、男女の別を越え、人種を越えて、すべての人が十字架の死とよみがえりを日々覚えていかなければ、意味がありません。イエス様はすべての人のために、過去現在未来、これから生まれてくる人のためにも十字架にご自分の命を捨てくださって、私たちのすべての罪を徹底して、完全に赦して「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)と宣言してくださった。神様の側のなすべき事は尽した。これ以上方法がないというところまでしてくださったのです。

 

では、今度はどうするか。私たちに投げられたボールを今度は受け止めなければならない。私たちはイエス様の十字架の死を、そのよみがえりをどのように生きるかということです。どのようにそれを自分の日々の生活の中に、あるいは人生の様々な現実の生活の中で、イエス様の死とよみがえりを体験すると言いますか、味わっていかなければ、絵に描いたもち、何の役にも立たない、むなしいものであります。ですから、このイースターが毎年いつになるか分からないのは、実に理にかなったことだと思います。なぜならば、いつでもそれに備えていなければならない。日々にイエス様の十字架の死にあがなわれ、清められ、神様のものとされた者として生きる。パウロがそう言うように「わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:19~)。このことを信じて日々を生きること。それによって初めてイースター、よみがえりのいのち、力、その出来事を、きわめて現実的で、リアルな体験として味わうことができるのです。

 

 この記事もその一つでありますが、この19節に「その日」とあります。「その日」とはイエス様がよみがえられた日であります。イエス様は金曜日の朝から夕方に至るまで十字架の苦しみをお受けになった。今週は受難週となり、今日から始まります。受難週は広い意味ではもう少し前からですが、今日は教会暦で言うならば、「棕櫚(しゅろ)の聖日」、イエス様がエルサレムに来られた日です。それから宮清めを行われた後に、木曜日が最後の晩餐(ばんさん)の日に当ります。そして、金曜日に十字架の刑を受け、その夕方には息絶えて葬られました。そして、次の日の土曜日、今の土曜日はかつては安息日でしたから、その日は何もできないので、イエス様を急いで墓に葬る。その次の日、週の初めの日、早朝、女の人たちがイエス様をもう一度ちゃんと、その当時のユダヤの習慣に従った埋葬をしようとして、朝出掛けて行ったのです。

 

 ですから、同じ章の1節から10節までを朗読。

 

 これは、その週の初めの日、よみがえられたときでありますが、朝早く女の人たちが墓へ行きました。すると、墓の石が転がされて、見るとそこにはイエス様の遺体がなかった。遺体をくるんでいた布だけがそこに置かれていました。それで女の人たちはお弟子さんの所へ、ペテロやヨハネの所へ伝えに行きました。ヨハネとペテロが大急ぎで墓へやって来た記事が、今読んだところです。中へ入ってみると、なるほどそこには遺体がなかった。ところが9節に「彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった」とあります。ここでペテロもヨハネも、遺体がそこにはないことを見たのですが、まさかよみがえったとは思わなかった。きっと何か事件でもあったか、あるいは誰かが盗み出したかもしれない。あるいは何か事情があって取りあえずどこかへ移されているのかもしれないぐらいに、彼らは思っていたのです。しかし、イエス様はそれまで彼らと生活を共にしている間、繰り返し、やがて律法学者や長老たちから迫害を受け、十字架に死んで、三日目によみがえるべきことを話しておられました。彼らは聞いていたはずです。しかし、いくら聞いても死んだ人がよみがえるなど、そんなことはないと思いこんでいた。だから、そのことを考慮していない、気に留めなかった。イエス様が死んだ後、現実に目の前に現れてくださった事を見ても、それがよみがえったという確信が持てなかった。それを悟ることができなかった。

 11節から16節までを朗読。

 

 これは実に麗しい、美しい光景ですが、弟子たちは「イエス様が居ないのなら、帰ろう、帰ろう」と、帰ってしまった。ところが、マリヤはどうしても去り難いのです。イエス様の遺体がないことを大変悲しく思いました。ですから「マリヤは墓の外に立って泣いていた」のです。その時、もう一度墓の中をのぞくと、白い衣を着た御使がそこにいました。彼らが「女よ、なぜ泣いているのか」と、マリヤに言いました。そのときマリヤが「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのかわからないのです」と言っていると、目の前の御使は消えてしまった。すると後ろに、人の気配を感じてフッと振り向いた。そこにイエス様が立っておられた。14節に「そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった」。マリヤもまさかイエス様が生きていらっしゃるとは思いません。誰かがどこかに取り去ったに違いないと思っていたのです。これが、私たちの思いの限界です。限られたことしか分からない。しかし、神様は人の思いを越える御方、人の計画や人の考えを越えた御方であります。イエス様はよみがえってマリヤの後ろに立っている。フッと振り返るとイエス様がいらっしゃる。しかし、そのときマリヤは、15節「その人が園の番人だと思った」と。霊園の管理者、墓地の管理者だと思って「どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい」と言ったのです。そのとき、16節に「イエスは彼女に『マリヤよ』と言われた」。このときイエス様が「マリヤよ」と声を掛けてくださった。自分の名を呼ばれて、かつて一緒に生活していたときのイエス様の思いが一瞬にして広がった。「これは主だ」と。だからここで「イエスにむかってヘブル語で『ラボニ』と言った。それは、先生という意味である」と。このときのマリヤの喜びはどんなであったかと思います。でも、イエス様は「まだわたしは父のみもとに上っていないから、まずあなたがわたしのよみがえったことを知らせなさい」と言い置いて、イエス様はそこを去って行かれた。

 

そして、その日の夕方、19節に「弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていた」。イエス様の事件はまだ三日前のことです。十字架の狂乱状態になった町ですから、彼らはとにかく息を潜(ひそ)めて隠れていました。戸を閉ざしているところに、イエス様が入って来られたのです。そして「彼らの中に立ち、『安かれ』と」言われた。彼らはびっくりした。「心配するな」とイエス様はおっしゃって、20節に「そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった」と。かつて湖の上を歩いて来られたイエス様を見て、弟子たちは「幽霊だ」と言っておじ惑った記事がありますから、このときも恐らく彼らはすぐに信じられません。目の前にたとえ見たとしても。そのときイエス様はちゃんと両手を広げて釘の傷跡を見せ、胸のやりの跡を見せて、「わたしは紛れもなくあの十字架に死んだわたしであるよ」と、ここで証ししてくださったのです。そのとき、20節に「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。そのとき、イエス様を見て、彼らは大変うれしくなって、喜びにあふれたのです。つえとも頼み、自分の命のように慕っていたイエス様が突然いなくなった。何の前触れもなく一瞬にして取り去られてしまったのですから。

 

よくありますね。身近な人が不幸な事故などで一瞬にして亡くなったときの悲しみは大きい。ある程度年を取って、といっても人それぞれですから、あまり言えませんが、ある程度年を重ねてだんだんと衰えて、看病も1年も2年もして、いい加減疲れて「早く死んでくれんかな」と思うようになったときに亡くなってくれると、「やれやれ、良かったね。本人にも良かったし、私たちも良かったね」と言えますが、元気だった、つい何時間か前まで元気だった人が突然、一瞬にして取り去られたら、これはたまらない。だから、弟子たちも失望落胆したのです。そこにイエス様が、よみがえった主が現れてくださったのです。そのとき、21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」と。イエス様がよみがえられていちばん最初に言われたのがこの言葉です。もちろん、先ほど「マリヤよ」と声を掛けたり、「安かれ」と入って来た、それが最初の言葉だと言えばそうかもしれませんが、まずイエス様が言われたのはこのことです。これはイエス様がよみがえったことを私たちが信じる、言うならば新しいいのちに生きるとは、どういう生き方をすることなのか?イエス様は私たちの罪のゆえに十字架に贖いの供え物となって死んでくださいました。それで、どうして終わらないのか?死んでくださったのだから、私たちは清められたのだから、それでいいのではないかと。ところが、それだけでは私たちがまた罪の生活へ戻ってしまう。イエス様のよみがえりは私たちが新しいいのちに生きる者となることです。それまで私たちが生きてきたのは何のためであったか。それは自分のためであった。ことごとくがそうです。生まれたときから「私が……」「私が……」「私が……」と、自分のことだけです。そういう生活をズーッとしてきた。自分の願望、願いや欲望、そういうものが満たされることがいのちであり、力であると思っていた。だから、今の世の中でもそうですが、人の思いがいちばん大切なもので命のようなものであります。そういう生き方は滅びに定められている者です。私たちが新しいいのちに生かされる、キリストに私の命となっていただくことです。よみがえったとは、イエス様が私たちの罪のために死んで、私たちを清め、清められた私たちがその清きに従って神様の御旨にかなう、御心にかなう生き方ができるように、新しいエネルギー、新しい力として、イエス様をよみがえらせてくださった。そして、すべての人々にその力を与えてくださっている。

 

私たちがイエス・キリストを信じるとは、イエス様がよみがえって私の命であることを信じる。命であることを信じるとは、どうすることか?それをはっきり語ったのがこのイエス様のお言葉です。私たちがイエス様からつかわされた者としてこの世に生きることです。言い換えると、私たちの生きる目的が変わるのです。これまでは自分のために生きていた人生ですが、今度はよみがえった主が私達をそれぞれの家庭に、職場に、それぞれの地域に、今置かれた所へイエス様によってつかわされた者となっていくこと。これがよみがえったイエス様によって生きる、新しいいのちに生きる具体的な生き方です。だからパウロが「わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」と告白しました。私たちもまたそうです。十字架にかかるべき私たち、本来永遠の滅びに定められていた私たちに代わってイエス様が十字架に死んで、私たちの罪を赦してくださった。そして、今度は私たちを今までとは違った新しいいのちである、よみがえったイエス様が私たちを生きる者としてくださる。具体的な日々の生活にイエス様をどのようにいのちとして生きていくか、その具体的な姿が「わたしもまたあなたがたをつかわす」との言葉です。常に、イエス様によって、主によって、私はこの家庭に、この所につかわされている、派遣されているのだ。これを自覚していくことです。どんなことの中でも、このことを主のためにしているのだと覚えていく。私のためにしているのではなくて、主が私をつかわしてくださって、今この家庭で、今与えられたこのことを、イエス様のためにする。主のために生きるのです。人のためでもなければ、会社のためでもない。あるいは自分の家族のために生きるのでもない。ご主人のためにでもなければ、妻のためでもなければ、孫のためでもない。私たち一人一人はだれのために生きるか?よみがえった主のために生きるのです。これが、よみがえったイエス様のいのちによって生きることの具体的な生き方です。だから、与えられた一日の一つ一つのわざを「これは主が私に求められること。私はここで主に仕えていくのだ。イエス様のためにこのことをさせていただきましょう」と、そういう自覚を絶えず持っていただきたい。昨日の今日、今日の明日とダラダラと途切れなく、自分のことばかり考えて生きていては駄目です、それは滅びですから。ご復活、主のよみがえりを、ただに記念して、「今日がイースター、復活節だ。その礼拝だった。イエス様はよみがえったそうだ」と言って、スーッと家に帰ったら忘れてしまったでは、よみがえりの尊い主の御わざを捨ててしまうようなものです。主が私の命となってよみがえってくださった。そして私を生きる者としてくださった。教会の玄関を出て行くとき、主によってつかわされて行くのだ。「わたしもまたあなたがたをつかわす」と。私たちが主のために生きる者となること。それは私たちが思いを変えなければ駄目です。自覚しなければいけません。ただ黙っていて、イエス様と共に生きることはできないし、イエス様のために生きることができません。聖書には「自ら敬虔(けいけん)を修行せよ」(Ⅰテモテ 4:7文語訳)、訓練しなさいとあります。だから、常にいま私は誰のために生きているのだろうか?人のためだろうか?誰のためなのか。「私はキリストのためです」と、言い得る生き方をしていきたい。

 

「では、主のために生きる生き方は、どんな生き方ですか」と尋ねられる。「イエス様のために生きるにはどうしたらいいのでしょうか?」と。「伝道したり、何か教会のわざをすることでしょうか」とか、「何か慈善事業でもすることでしょうか」と。これは決められません。どれがキリストのわざというものはありません。そう言ったら何か突き放されたようで、「どうすればいいんだ」と思われるに違いないが、大切なのは信じることです。どんなことでも、どんなわざであっても、「これはいま、私は主のためにさせていただいているのです」と、確信を持って言えること。ここが大切です。何をしてもいいです。洗濯をしようと、掃除をしようと、どこか旅行をして楽しんでも、別にそれも悪くはない。「いや、主のために生きるので、私はこれから一切自分の楽しみを捨てます」と言われるなら、それが主のためだと確信を持っているならそのようになさったらいい。ところが、「私は主のために楽しみを捨てました」と言いつつ、人が楽しんでいるのを見たら「あいつはいかん!」とか、「あんなことをしている、クリスチャンのくせに!」と、人を非難するぐらいだったら自分もすればいいのです。問題は、大切なことは、「誰が何と言おうと、誰がどうあろうと、私はいまこのことを通して、イエス様のために生かされているのです」と、心から感謝し、喜んで生きることです。それこそがイエス様が私たちを遣わした目的です。

 

イエス様が私たちをつかわすとは、どのようにつかわすかと。「父がわたしをおつかわしになったように」とおっしゃっています。言い換えると、イエス様によってつかわされた日々の生活モデルとしてイエス様をよく見なさい、ということです。「父がわたしをおつかわしになったようにあなたがたをつかわすのだから」と。だから、「ペテロの第一の手紙」に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである」(2:21)とあります。私たちの模範となったキリストに倣(なら)う者となること。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。ここで「わたしも……」と、今度はイエス様によって私たちがつかわされていること、ここによみがえったイエス様のいのちに生きる自分であることを知っておいていただきたい。そうでないかぎり、私たちがいくら「イエス様がご復活されたそうだ。よみがえられたそうだ」と頭で知っていても、生活の中でしていることが、自分のためばかりであったり、家族のため、この人のため、あの人のためばかりでは、いや、それはしていいのですが、その動機、その心が「これは主のためにさせていただいている」という確信を持って歩まなければ、むなしいのです。そこにはいのちがない。だから、主が私たちのために命を捨ててくださった。私たちもキリストと共に死んだ者となって、よみがえったイエス様が私たち一人一人に、家庭で、仕事で、それぞれ重荷を与えられています。その中でよくよく祈ってください。そして、決断をつけて「主よ、これはあなたが負わせてくださったことです」、「これはあなたから出たことですから、私はあなたに従います」と、はっきりと信仰を持って、そのことに踏み出していただきたい。そうしますならば、結果が良くても悪くても、人から褒められようとくさされようと、もはやそれは意味がない。私たちはそれを気にすることがいらなくなる。ただ、主が喜ばれること、主が私たちに報いてくださることを信じていくこと、これがよみがえってくださったイエス様と共に生きることであり、私たちが新しいいのちに生きることです。

 

 21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」。どうぞ、このお言葉をしっかりと心の中心に置いてください。会社にいるから上司のために、この会社のために、そんなものじゃない。そこに主が私をつかわして、この仕事をさせてくださるのだから、そこで主に仕える。この自覚を持ってご覧なさい。日々の生活が感謝に変わります。喜びに変わります。今まで同じようにしてきて「どうして私ばかりがこんなことをしなければいけない!」とか、「どうして家族のためにこんなに犠牲にならなければならない!」、「私はどうしてこんなに体が弱いのだろうか。次から次へと病気ばかりして、私の人生はいったい何なんだろうか」と、不平不満、つぶやくことになる。それはイエス様のいのちに生きていないからです。「これもイエス様、あなたが私に与えてくださったことと信じますから、主よ、従います」と、心から「あなたがつかわしてくださった。私をここに置いてくださった。この問題の中に私を入れてくださったのですから感謝します」と。問題を見て「こんなになってしまった。これから大変だぞ、どうする?」そんなことよりも、よみがえったイエス様が私をここに置いてくださった以上、派遣した以上、つかわしなさった御方が責任者ですから、知恵も力も必要なものはどんなものでも与えて、その事を完成に至らせてくださる。ただ、私たちは主からつかわされたことを確信して、何か事があればつかわした御方へ求めればいい。そうしますならば、神様は私たちを慰め、力づけ、新しいいのちを与えてくださる。喜びと感謝をもって、この地上の旅路を生きることができる。 

 

そればかりでなく、私たちの地上の使命が終わりますならば、神様は、つかわした御方は、「帰ってきなさい。もうお前の使命は終わったのだから、用事はないから早くこちらにいらっしゃい」と、天にあるふるさとへ、国籍を天に移した者として迎えてくださる。それを確信するためには、今という時を常に神様によって、イエス様によってつかわされていると信じ、告白して生きるのです。私が好きで生きているのではない、私がしたいからしているのでもない。私が得をするから、このことをしているのではない。主が「せよ」とおっしゃっている。主が派遣された私ですと認めて、日々を生きていなければ、終わりの時に「私の国籍は天にある」とは言えない。いや、私の国籍はまだこの世にありそうに思う。そうならないために今日という日、よみがえったイエス様が私をつかわし、主が私と共にそこに歩んでくださっていることを、確かなものとして、主のよみがえりを日々体験していきたいと思う。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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