いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(367)「謙遜を知る道」

2014年10月30日 | 聖書からのメッセージ
 「ヤコブの手紙」4章1節から10節までを朗読。

 10節「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。

 「へりくだれ」と言われていますが、へりくだる、いうならば、謙そんになることです。これは私どもがなかなか行うに難しい事の一つではないかと思います。謙そんをよそおうということはできます。日本人には謙譲(けんじょう)の美徳があるとも言われます。できるだけ目立たないように控え目、という思いが多くの人にある。日本人は“礼節をわきまえる„という言い方をいたします。ところが、本当に心から謙そんなのか、というと、案外そうではない。口先だけのことが多い。「いいえ、私はあなたには及びません」とか、「そんなこと、私はできません。無能無力です」とか言って、人の前に謙そんな振りはいくらでもしますが、内心は「そのくらいへっちゃらだ。朝飯前だ」、「おれだって、できるぞ」と思う心がある。謙そんとは、本当にへりくだることですが、ともすると、そういう世間的な意味での謙そん、表面だけ、あるいは言葉だけの謙そんをもって神様の前に出ようとします。これは大間違いです。神様は「人は外の顔かたちを見る。しかし、主は心を見る」とおっしゃる。私たちの心を見ておられる御方であります。私たちが本当に心から謙そんになること、これは誰の前に? 10節に「主のみまえに」と言われています。神様の前に常に自分を謙そんに置いていく。それはどういうことでしょうか。神様を心から万物の創造者、力ある御方、今も大能の御手をもってすべてのものを統(す)べ治(おさ)めておられる御方でいらっしゃる、と信じることからしか、心からの謙遜は出てきません。神様が全能者であって、大能の御力をもって万物を創造し、今も御手をもって一つ一つ大きなことから細々(こまごま)した、小さな私たちの生活の隅から隅に至るまで、すべてを御心のままに備えて、導いておられるのだ、と認めること。これが実は謙そんということです。神様を認めないで、ただ人の前にだけ謙そんな振りをすることは、ほとんど意味がない。いや、それは本当の意味での謙そん、へりくだりではありません。

だから、10節「主のみまえにへりくだれ」、誰の前に私は自らを低くしているか? と問われるわけです。あの人は立派な人だから、あの人は実力者だから、あの人は怖い人だから、強い人だから、こちらが偉そうにしたら、何か言われるかもしれない。だから、謙そんをよそおう。それでは本当の謙そんとはいえない。それどころか、あくまでも人を恐れているだけのことです。あるいは事情や境遇、事柄によって、人の態度が変わるだけのことです。そういうケースは私たちが日常よく見る姿であります。状況に応じて人の態度がコロッと変わる。ある人に対してはえらく横柄で高慢であって、また、ある人には途端に手のひらを返したようにぺこぺこして謙そんな振りをする。これが私たちの常に見ている世界であります。それをそのままに神様の前にもそういう態度を取る。神様の前で、取りあえずご機嫌伺いに謙そんな振りをするけれども、一旦神様の前から離れると、自分が王様であり、自分が何者であるかのように思ってしまう。これでは神様の恵みにあずかることができません。

今読みました所に繰り返してそのことが語られていますが、6節に「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う。」と。ここにも「高ぶる者をしりぞける」と言われ、高慢な者、神様と肩を並べようとする者のことです。そして、「へりくだる者」とは、神様の目に、主の前に謙そんになる者、その者に神様は「恵みを賜う」。神様は恵んでくださる御方です。ただ神様の恵みを受ける手順といいますか、その秘けつがある。それは私たちが神様の前に自分を低くすること、謙そんになることだけです。その謙そんになることの第一は神が神たることを認めていくこと。神様が創造者であり、すべてのものの造り主であって、私たちは神様によって造られた被造物です。この関係をしっかりと土台に置いていくこと。これが謙そんに生きるまず第一歩であります。神様の前に自分を絶えず低くしていくには、私が支配しているのではない、私が主人公ではなくて、神様が私を造り、生かしてくださっているのだと承認することです。神様の手の中にあって、今このことが起こっている。神様はすべてのもを支配し、御心のままに万物を、ご自身の御業として導かれる御方ですと認めていくことです。ところが、私どもはそれをすぐに忘れる。自分の努力や自分の計画や自分の業で今このことが起こっている。あるいは、自分が決定したから、自分が努力したからこうなっている、と思いやすい。だから、そこには感謝が生まれてきません。へりくだる者にとって感謝は当然くっついています。神様が恵んでくださるから感謝ができるわけであります。恵みというのは、当然受けるべき報酬(ほうしゅう)ではないわけです。私がこれだけのことをしたから、その見返りとしてこれこれのものを頂く。これだったら、いうならば取引であります。神様と私たちは決して取引はできない。なぜならば、神様のほうがはるかに大きく、そもそも私たちと次元が違う。私たちは一方的に神様から頂いているだけです。命にしろ、健康にしろ、仕事にしろ、時間にしろ、お金にしろ、何にしろ、これはすべて神様が私たちに必要な物を必要な時に必要なだけ備えてくださって今ここにある。

「コリント人への第一の手紙」4章6、7節を朗読。

7節「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか」。私たちは気がつかないうちに思いが高ぶる、心が高ぶる。その大きな原因は神様を忘れる。そして、自分の力、自分の努力、自分の業がいくらかでも今の自分を生かしている、支えている。そう思うから、その結果、「こうなって当たり前、自分の努力の結果でこうなったのだから、これはおれの功績だ」とか、「自分の努力の結果なんだから何を文句があるか」ということになるわけです。だからここに「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか」と問われます。私たちにそれだけのものを備えておられるのは、いったい誰であるか。あなた自身ではない。その後に「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」と。あなたが持っておる健康や時間にしろ、家族や仕事にしろ、私たちはすべてが神様から頂いたもの。もっとはっきりいうなら、あずかったもの、実は神様のものです。やがてそれを全部神様にお返しする時が来ますが、いずれにしても、私たちは神様からすべてのものを頂いて、今ここにあるわけです。そのことを知り、認めますならば、何一つ誇るべきものはありません。「私の功績」と言えるもの、「私の努力の結果」と言われるものは何もないのです。もし、喜ぶことが出来たり、また良かったという事態や事柄があるならば、それはあくまでも神様の恵みであり、憐(あわ)れみです。そのことを私たちが絶えず覚えていくこと。それが実は神様の恵みを受ける秘けつです。

7節に「もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」と。私どもは人と比べて「あれができる、できない」「これがある、あれがない」と、持っている物や、あるいはいろいろなもので競争しあったり比べあったり、あるいは自慢しあったりしますが、どれもこれも実は自分のものではないのです。ましてや、私どもはイエス様の十字架のあがないにあずかってキリストのもの、主のものとされてしまった。だから、今や私たちは自分のものはない、とパウロは言っています。すべては神様のものであって、それをいま私たちがあずかり、また必要なものだけを与えられて、この地上に命を長らえさせて頂く。生活のことごとくを神様が備えてくださるのです。どうぞ、私たちはこのことをしっかりと心に留めておきたい。「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」と。神様が私たちに今日も恵んでくださっているのだ、と認めましょう。

「ヤコブの手紙」4章10節に、「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。神様の前に自分を常に低くしておく。低くといいますか、そもそも神様の前に私たちが立つとき、私たちは低い者です。被造物、造られた者であるということを認めていくのです。だから、そうなるために神様は私たちにへりくだるチャンスといいますか、そういう時を与えてくださる。それは恵もうとしてくださる時です。この地上の旅路、生活のなかでいろいろな悩みがあり、悲しいことや苦しいこと、つらく思い煩(わずら)うことがあるとき、これは恵みの時なのだ。なぜそうなのか。それは私たちが神様の前にへりくだる、謙そんになる時だからです。そういうことでもなければ、私たちは頑固(がんこ)ですから、神様の前に謙そんになることができない。それを神様はよくご存じです。だから、私どもにいろいろな事柄を通して謙そんになることを教えなさるのです。

私たちに分かりやすいのは病気をするときでしょう。身体的な病を得て、どうにもならない不安と恐れのなかに置かれたときに、人の無力さを感じます。力の無さを認めます。そうすると、本当に謙そんになるのです。

福岡におられた一人の方が、高血圧症ということで、冬場は血圧の問題があるから、なかなか教会まで出て来られない。11月ぐらいになって、「先生、これからちょっと冬ごもりをします」と言われる。教会にも冬ごもりがあるのかな、と思いましたが、「どういうことですか」と言ったら、「これから寒くなるから、自分はできるだけ外に出ないようにしています」と。独り暮らしだったのです。68歳だったと思います。住まいが教会から遠かったのです。ですから「独りで寒いとき出てくるのは心配だから、これからしばらく冬ごもり」と言われます。こちらも「いや、それは駄目だよ」とは言えません。そんなことを言って、来る途中でぽっくり死なれたら大変ですから、「そうですか。じゃ、お大事に」と言いました。年が明けて1月ぐらいに「どうしているかな」と、気にはなりましたが、本人が出て来るまで放っといてくれ、と言わんばかりでしたから、黙っていました。そうしましたら、風の頼りに聞こえて来た。「誰々さんのこと、先生、ご存じですか」と。「いや、知りません」、「入院しておられるそうです」、「え!そうですか。でも教会には何も連絡がないんだけれども……」「いや、先生には言いにくいのですよ」と。「どうして言いにくいのかしら」、「先生に言えばすぐ来るでしょう」と。「それは行くけれども、嫌なら行かないよ」と言ったのです。私も気にはしていましたが、本人が直(ちょく)に言ってこないのに、人から聞いてというのもどうかと思って、なかなか判断が難しい。だから、様子を見ておったのです。すると「どうも手術をしたらしい。九死に一生を得るような事態だったらしい」と、また聞こえてきた。それで、私も心配になりましたから、ちょっと探りを入れたのです。どこに入院したのだろうか、どういう状況なのか? すると、大体分かってきました。どこどこの国立病院に入院している。分かったのが3月の初めです。それを聞いて放っておくわけにもいかない。「神様、どうしたものでしょうか」と、祈っておりましたら、「これは是非一度会っておきたい。何を言われても、どなり返されてもいいから行こう」と思って、私は恐る恐る病院に行ったのです。病室を聞きまして、行きました。すると、部屋の入口に名札があります。なるほど、名前がある。「この部屋だ」と思って、そこで一大覚悟ですよ。何を言って追い返されるか。覚悟を決めまして、祈って、扉を開けてソッとのぞいたら、4人部屋か6人部屋でしたか、入って左側のいちばん隅の所にその方が寝ていた。私は名前を呼んで、「どうですか」と近づいた。そのとき体に管が何本か付いていました。私の顔を見るなりびっくりしまして、ワーッと泣かれたのです。「しまった。悪いことをしてしまったな。来なければよかったな」と思う。しばらくどうにも身動きなりませんから、黙って待っていたのです。ひとしきり泣いて、その後「うれしい」と言う。「来てほしかったら、早く言えば良かったのに」と、「いや、あんなことを言って先生に別れて、冬ごもりなんて偉そうなことを言ったから、今更言いようがなくて、言うに言えずに黙っておった」「いったい、どうしたの。こんなになってしまって」と言ったのです。別れたときは元気だった。よく聞いてみると、1月に町内の集団検診があった。そのときに検診を受けたら、「胃にちょっとおかしなところがある。精密検査をしてくれ」と言われて、この病院に送られて来た。調べてみたらすい臓がんだった。それで、緊急に手術をしたほうがいい、ということで手術を受けたのが2月の初めです。お見舞いに行ったのは3月の初めで、手術から1ヶ月たっていましたが、まだ管が付いた状態です。私は「これは大変なことだったな」と思いました。それから毎週、八幡から福岡へ帰る途中、必ず彼女の所へ寄るようにしました。3月、4月、彼女は私の来るのを待っていてくれます。あるとき、寄ってみましたら、ちょうど検査で部屋を留守にしていたのです。看護婦さんに聞いたら「しばらく掛かりそうだ」ということで、「お祈りしていますから」と、御言葉を書いてベッドに置いて帰りましたら、その後電話が掛ってきまして「もうちょっと待っていてくれたら良かったのに、先生が来るのを待っていた。どうして帰った」と言われまして、それは悪いことをしたな、と思いました。彼女はそこから本当に砕かれて、謙そんになる。もうどうにもならない、人の力も当てにならない。医者もどうにもならない。にっちもさっちもいかないどん底だったのです。そのときの彼女は、それまでの「これから冬ごもり」と宣言したときの彼女とは大違いです。本当に謙そんになって、一日一日生きていること自体が不思議だ。感謝する以外にない。手術を受けてやっと回復期に入ってきた。3月の下旬でしたけれども、桜が咲くころになりました。病室の人たちが花見に出かけた。自分はそのときはまだ出かけられない。それからしばらくして4月の初めだったと思います。だいぶん暖かくなってきたころです。お医者さんが「外回りを歩いてよろしい」と許可が出た。それで次の日朝早く6時くらいに初めて病棟の玄関から外へ3ヶ月ぶりぐらいでしょうか、出ました。出た瞬間にふと足元を見たら、そこに名もない雑草の小さな白い花がかれんに咲いている。それを見ただけで、「ここにも神様が命を与えておられる」と思うと、「そのことが深く感謝、感謝で、その場でうれしくて涙を流しました」と言われる。その方は花を見て感謝するような方ではなかった。花を見て、「どうしてこんな高いものを」と、「こんなものはいらん」と言うような方だった。それが小さな花にすらも命を感じる。それを生かしている神様の絶大な力の御手を彼女は感じ取ることができる心に変わった。これがへりくだる、謙そんということです。そう意味では病気をすることは、誠に幸いです。願わくば、そういう事に当たらないうちに、感謝をもって、感動をもって主のみ前に絶えず自らを低くすることができるならば、どんなにこの人生は恵み豊かな人生になるか分かりません。しかし、私どもはなかなかそこにいかない。強情でかたくなでありますから、「先生はあんなことを言うけれども、見てご覧なさい、私の現実は。あれも足らない、これもない。これもできていない」と、不平や不満や憤(いきど)り苛立(いらだ)ちがあるから、なかなか謙そんになれない。

ですから、9節に「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」とあります。ひどいことを言われますね。泣いている人にそんなことを言ったら、「どうしてだ」と言われます。「大丈夫よ」とか「もう泣かなくていいよ」と言ってくれそうなものですが、そうではない。「苦しめ、悲しめ、泣け」と。しかもその後に「あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」と。なぜならば、悲しいからこそへりくだれるのです。苦しいからこそ、神様の前に自分を低くすることができるのです。そして、神様は「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」。笑いを悲しみに、憂いに変えてでも、主の恵みを受けることが幸いです。いろいろな悩みに遭い、困難に遭い、様々な問題に遭うとき、神様が私を求めておられる時なのだと、自覚していただきたい。

彼女は、4月の中旬でありましたが、小康(しょうこう)状態を得まして、ひとまず治療を終え、自宅に戻られました。でも、自宅に戻ったのは1ヶ月足らずでありました。また再入院して、9月の7日、8日でしたか、主の御許(みもと)に召されて行きました。病気になって、手術を受けて7ヶ月か8ヶ月でした。でも、その間、彼女の人生は最高の時だったと思うのです。痛くもあり、つらくもあったに違いないけれども、そこで神様を間近に感じることができる。それは幸いな恵みではないでしょうか。私たちはいろいろなことに恵まれて、神様が憐(あわ)れんでくださっているのにそれを感謝できない、喜べない。そして、いつも「あれが足らない」「これが不足している」「もっとこうであったら、こうであったら」と言い募(つの)っている。それは誠に悲しいですね。10節に「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。

「ダニエル書」4章28節から33節までを朗読。

これはバビロンのネブカデネザル王様の記事でありますが、その当時、バビロンは非常に権勢(けんせい)を誇った大国でありました。そのために神様はこの国を用いてイスラエルとユダの国の二つを滅ぼされたのです。そして、そこで捕囚としてユダヤ人たちを労役に使うことになりました。ユダヤから連れてこられた人たちの中にダニエルという一人の人物がいました。彼はこの王様に大変気に入られて、王の腹心といいますか、部下として仕えていました。ダニエルは神様を畏(おそ)れ敬い、常に神様を礼拝する人物でありました。そのためにバビロンの主(おも)立った人々からねたまれて様々な嫌がらせを受けますが、それでも神様はダニエルを守ってくださる。ある時、ネブカデネザル王様は夢を見ました。大平原に一本の木がズーッと、それが高くそびえて、すべての人々が見て驚くような木に茂って、そこにたくさんの実が実り、また鳥が集まる。ところが、やがて一つの力が襲ってきて、その木を切り倒してしまう、というような夢を見た。「これは何の夢だろう」と、夢の解き明かするためにダニエルが呼ばれました。「王様のこの夢はいったいどういう意味なのだ」と。ダニエルは「その意味は、バビロンという国、ネブカデネザル王様が神様の恵みによって、1本の素晴らしい大きな木に茂ったけれども、それがやがて取り壊されて、打ち砕かれて、野の露にぬれてしまうような事態になる、という証です」と解き明かしました。その夢の解き明かしを聞きながら、ネブカデネザル王様は、それを聞き流してしまう。28節に「この事は皆ネブカデネザル王に臨んだ」のです。夢の解き明かしを聞いてからほぼ1年後であります。ネブカデネザル王様はバビロンの王宮の屋上を歩いていた。そして、国中といいますか、自分の都をはるか遠くまで眺(なが)めるのです。そして30節「王は自ら言った、『この大いなるバビロンは、わたしの大いなる力をもって建てた王城であって、わが威光(いこう)を輝かすものではないか』」。このときのネブカデネザル王様はうれしかったのです。町を見まして「この大いなるバビロンは私の力によって出来た」。皆さんも自分の家庭を見て、「これは私が努力してきた結果だ」と……、似たようなものです。このときネブカデネザル王様がそうやって自分に言い聞かせるといいますか、自慢したのです。ところが31節「その言葉がなお王の口にあるうちに」と、彼が言い終わらないうちに、既に天から声が下る。その後に「ネブカデネザル王よ、あなたに告げる。国はあなたを離れ去った。32 あなたは、追われて世の人を離れ、野の獣と共におり、牛のように草を食い、こうして七つの時を経て、ついにあなたは、いと高き者が人間の国を治めて、自分の意のままに、これを人に与えられることを知るに至るだろう」と、神様の声が聞こえた。すると、そのとおりになってしまうのです。やがて、その後もう一度、神様はネブカデネザル王様を元へ返してくださった。

「ダニエル書」4章34、35節を朗読。

ここで神様を褒(ほ)めたたえるのです。神様はどんな事でもおできになる。地に住む者、たとえ数が多くてもそれを無き者のごとく、また意のままに、思いのままに導かれる。彼はそのことを悟ったのです。これは、ネブカデネザル王様にとって、誠に幸いな恵みでありました。でも考えてみると夢の解き明かしを聞いたとき、すぐに謙そんになればよかったのです。ところが、それができませんでした。私どもも聖書の御言葉を聞いて、そこを悟って謙そんになれば、そんな痛い思い、つらい思いをしなくても恵まれるのですが、いかんせん、聞いても聞きっ放し、やがて時が来て、いろいろな事態に当たって、「やっぱり聖書にあるとおりだった」と、後になって悔みます。それでもまだ悔める間、「本当に神様はこんな者を憐れんでくださった」と言える間というのは幸いです。ネブカデネザル王様は心から神様を認めたのです。

その章の終りの37節を読んでおきたいと思います。37節「そこでわれネブカデネザルは今、天の王をほめたたえ、かつあがめたてまつる。そのみわざはことごとく真実で、その道は正しく、高ぶり歩む者を低くされる」。素晴らしい悟りですね。王様は初めて「天の王をほめたたえる」、ネブカデネザル王様はイスラエルの民ではありません。異邦人であります。しかし、神様は異邦人にすら神が神であることを教えてくださった。ここでネブカデネザル王様は、神様とは言えないので「天の王」と語っているのですが、まさにそれは神様のことをたたえている言葉であります。そして「そのみわざはことごとく真実で、その道は正しく、高ぶり歩む者を低くされる」と。高慢に歩むものを低くされる神様。神様が私たちに事を進めておられるのだと。ネブカデネザル王様はこの事態に出会って、新しく造り替えられて、いのちに満たされる。ところが、その後また是非お読みいただきたいのですが、その息子がまたお父さんと同じ道を歩むのです。神様の前に謙そんになる、これは私たちの素晴らしい黄金律です。

「ヤコブの手紙」4章10節に「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。私たちは常に「いま神様が、天地万物の創造の主でいらっしゃる神様が、一つ一つわざを進めておられるのです」と、主の前に自らを低くしていきたい。「へりくだる者に恵みを賜う」と。そして7節以下に「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」。ここに「神に近づきなさい」と言われています。へりくだらないと近づけないのです。「そんな神様なんかに頼まなくてもまだやれる」と思っている。それはまさに高慢です。私どもはできないのです。いや、できないどころか、いま私たちのもっているものすべてが、神様から頂いたものにすぎません。このことを絶えず認めて、神に近づき、神様を求めていきたい。へりくだって神様に近づくならば、神様も私たちに近づいてくださる。そして、私たちを恵んでくださる御方です。

「主のみまえにへりくだれ」、このことをしっかりと心にとどめ、感謝をもって主のみ前に喜んで行こうではありませんか。神様は私たちを恵んでくださっているではありませんか。ところが、「どこが恵まれたか」と言います。今日こうやって事もなく集会に集うことができた。これ一つ考えても感謝と言うほかはないのです。ところが、「そんなの、当たり前だ」と。朝起きて元気なのは当たり前、食事ができる、食欲があって当たり前、歩けて当然。だから、何か事があってちょっと体が痛い。あるいは、動けない。「どうしてだろうか」「何でだろうか」と苛立(いらだ)つけれども、それは神様が一つ一つ備えてくださる、必要な時、必要な事柄であって、神様がそれを起こしていらっしゃるのです。そこで主のみ前にへりくだって、「そうでした。神様、あなたが大能の手をもってすべてのものを統べ治め給う御方です」と、自らをゼロにしていく。謙そんになると、感謝が生まれ、喜びがわいてきます。これが私たちの生きる目的です。そして、喜び感謝するところに、神の栄光があらわされていくからです。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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