「コリント人への第二の手紙」5章1節から10節までを朗読。
7節「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。
今朝はこのお言葉を通して「信仰によって生きる」とはどういうことかを教えられたいと思います。教会に来ると「信仰」という言葉をよく耳にします。「信仰」という言葉は分かりやすく言うと、神様を信じることに他なりません。神様を信じるとは、非常に短い言葉であり、また簡単なことであるはずです。しかし、よくよく考えると、そこにはいろいろなことが含まれます。神を信じるとは、神様がいらっしゃる、神様の存在を信じることが一つです。それから、神様はオールマイティー、力強い御方であり、どんなことでも成し得給う御方、と信じる。これも神を信じることです。それから、神様はいつどんなときにでも私たちと共にいてくださると信じるのも、神様を信じることです。あるいは、今日私たちが生き働いている、生かされているのは神様によるのだ、と信じる。これも神を信じることです。ですから、“信仰”という言葉は非常に奥深いわけです。
「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」とここにありますが、「信仰によって歩く」とは、見えない神様を信じて歩くことです。歩くとは生活することです。神様を信じて日々の生活を営む。ただこれだけですが、これで分かったようですが、もっとこれを掘り下げて行けば、いろいろなことが出てきます。だから、聖書の言葉は非常に奥深い。「神を信じなさい」と言われて、私どもが「分かった、信じます」と表面的に受け止めるのは単純明快ですが、しかし、本当に神を信じるというのは、どうすることなのか? どうあることが神を信じていることなのか? ともう一つ深く掘り下げてみるといいますか、自分自身の信じている事柄の内容をよく探っていただきたいと思います。そうしませんと、「神様を信じています」と言いながら、実際の歩みが、信じて生きることと、そうでない、いうならば、神様を知らないまま、信じないままで生きているのとどこがどう違うのか?そこがはっきりしません。信仰があってもなくても、実際生活が 「何の違いもないじゃないか」というならば、神を信じるとは、単なるアクセサリー的なものに終わってしまう危険が多分にあります。
私たちはいったいどのような生き方をして日々の生活を過ごしているのか?毎日、朝起きて昨日の今日、今日の明日と、いわゆるルーティンワーク、決まり切った仕事をしなければならない日常生活の営みがあります。朝起きて身支度をしたり、あるいは朝食の準備をしたり、食後の片づけ、掃除をしたり、自分のいろいろな趣味をしてみたり、一日の皆さんそれぞれのスケジュールといいますか、やるべきことをこなして一日が終わります。その一日、一日やっていることの中で、「神を信じる」ことがどのようにかかわっているのか。生活全体の動機付けといいますか、私たちの心がどんな状況に置かれているか。そのことを振り返って見ましょう。ここで「見えるものによらないで」と言われています。「見えるもの」とは、私たちが見たり聞いたりする事柄、分かりやすく言うとそういうことになります。聞くこと、見ること、あるいは経験していること。日々の生活には、選択と決断が絶えず求められます。いろいろなものを選んで、どうするか? 右にするか、左にするか、これがいちばんのポイントです。だから「歩く」というのは、生活することと申し上げましたが、生活することを、もう一つ奥を探ってみると、何をどうするか? という、選び決断することばかりです。朝起きて「今日は何をしようか。今日は何日だ。木曜、そうだ、木曜会がある。行こうか、行くまいか」まずそこからでしょう。まず選ぶのです。「選ぶことはない、木曜日は木曜会に行くものだ」と決まっている人には「今日は木曜会だ」と、次に「何を着て行こうか」と、ここでまた選ぶのです。それでちょっと外に出たら寒いから「これはやっぱりもう一枚着ようかしら」と、どれを着るかと、またここで迷うでしょう。「色のついたのにするか、白いのにするか」と、既にそこで「どっちにしようか」と、これほど左様に、ことごとくです。言われて見たら「そんなことをいちいち選んでいるわけないよ」と思うかもしれないけれども、無意識のうちに常に「右にするか、左にするか」「AかBか」と選び続けているのです。これが生活です。生活とは、何かややこしそうだけれども、実に簡単です。右にするか、左にするか、あるいは三択であるかもしれない。三つの中からABCのどれにしようか、ということもあるかもしれませんが、いずれにしても常に選んでいるのです。「さぁ、木曜会が終わったらお昼は何を食べようか」と、もう考えているでしょう? そうすると、「うどんにしようか、ご飯にしようかな」と、それは既に選択です。そういうときに何を基準にして選んでいくか、これが「歩く」ことです。「見えるものに」とは、自分の経験、あるいはその時その時の自分の感情、そういうものに引き廻されるというか、流されて行く。自分の見ている状態や事柄で選び決定している。これが私たちの常にすることです。今申し上げたように「何を食べるか」とか「何を着るか」とか「どうするか」とか、それは実に些細なことで、大した問題ではないかもしれませんが、時にはもっと重大な、あるいは自分の人生を決するような事態や事柄ももちろんそこに生まれてきます。そういうときに何を自分のより所として選んで決断しているか? これが私たちに問われる大切な事柄です。パンにするか、ご飯にするかぐらいはどちらに間違えたって、それほど問題はないと思いますが、人生に関(かか)わる、あるいは重大な何かを選ばなければならない、人生を変えるような出来事の場合に、何をより所にしているか? そういうとき「見えるものによる」、いろいろな人の経験、情報、様々な知識、そういうものに頼る。これはいちばん手っ取り早いことです。すぐに聞いてみる。「ねぇ、今こんな問題があるんだけれども、これはどうしたらいいと思う? 」「右と左、どちらを選んだらいいだろうか。あなただったらどうする? 」と人に聞きますか。あるいは同じような経験をした人に問い合わせをする、尋ねてみます。今ですと、インターネットでいろいろな情報があふれるくらいにありますから、その中から選ぶ。
病気したときなど思います。私が「前立腺がん」と言われたといいますか、検査結果が悪かった。今でも思い出しますが、ホームドクターに検査してもらったら、次の朝8時ぐらいに先生から電話があったのです。「ちょっとご相談したいことがありますから」と。「ご相談する段階かな」と思いましたが、「非常に思わしくない状況だからもっと精密な検査、あるいはそれから先の治療が必要と思われるから、どこの病院にしますか? 」と言われても、こちらは今まで掛ったことのない病気ですから、「どうしようかしら」と、つらつらと考えて「どこがありますか?」と、なんだかレストランでも聞いているような話です。こちらは何の情報もない。ただそこで即座に選ばなければならない。どうするかと、いろいろな聞いた病院を頭に思い浮かべて「あそこがきれいな感じや」とか「あそこは古いしなぁ」と、建物で選ぶのです。というのは、自分に決定する手掛かりがない。「これでいいです」と言ってもらえる、何かそういう……、「見えるもの」というのは、そういうものです。だから、経験した人に聞いて「ここの病院がいいですよ」と言ってくれたら、それですぐに飛びつけるのです。「じゃ、ここにしよう」と「あの人も経験している、あの人もそこで治療してもらって良かったと、だったら、そこにしておこう」という話になります。そういう人の経験、あるいは専門家なりの話を聞く。そのとき私は結局何を選んだか、「近いほうがいいですね」と、近いのと病気とは何の関係もないのに、選んでいる時は、大抵そうでしょう。「見えるものによる」とは、そういうことです。私は「近い所にしてください」と言ったら「近いほうがいいですね」と先生も言われる。何のことはない、病気の治療をするのに、家から距離が近いか遠いかという……、それも重要な要素だとは思いますが、治療そのものとはあまり関係がない。私たちの見えるものによる生き方とは、実にそういう曖昧(あいまい)な、あまり根拠のないものを手がかりに生きているものであります。そうではありますが、それすらもないと私たちはお手上げです。どうしたらいいか分からない。「どうしよう」「どうしよう」と狼狽えます。だから、つい見えるものにより、また「これはこうすべきだ」と人が言ってくれること、あるいは社会の仕来たりや習慣。だから「こういうときどうする? どうする?」と人に聞きます。「ねぇ、今度こういうことがあるのだけど、あなたどうする?」「あなたの所はどうしている?」。葬式なんかがそうでしょう。大抵普通のお宅では一生涯に一度や二度ぐらいしかないでしょう。親の死に目に会うぐらいですから、葬式を出すなんてそうざらにはない。ところが、教会では年に何回かありますから、私はもう何十回としていますけれども、そうすると、皆さんから聞かれるのです。「先生、棺桶は幾らぐらいの物にしましょうか? 」と「それは葬儀屋に聞いていください」と。やはり何か手がかりが欲しい。結局、仕来たりや習慣に頼る。そういう見えるもの、これがいちばん私たちに分かりやすいし、また安心に思えます。
私たちは聞くところとか、あるいは慣れ親しんでいることなど、あるいは、自分の経験に基(もと)づいて、昔こうしたとか、こういう似たような経験をしたとか、そういう経験則というものがあったり、人からの情報、世の中のそういう決まった事柄、既にこうあるべきだという固定概念といいますか、そういうものに私たちは頼る。だから、世間でもよく言います。“羹(あつもの)に懲(こ)りて鱠(なます)を吹く”という言い方がありますが、何か知らないで食べた物が熱かった。そういう経験をすると、今度は冷たいなますですらも吹きながら食べるという、一度の失敗に懲(こ)りて無用な用心をすることを言いますが、人というのはそういうおかしなことをする。というのは、自分が経験していますから、熱い思いをした、痛い思いをしたから、もうそれはやめようという。ところが、そうでないものまで拒んでしまう、人の姿を語った言葉であります。また“石橋をたたいて渡る”という、失敗を恐れる、失敗はしたくない思いがそういう言葉になってあらわれているのです。人はそうやって自分が寄り掛る、つかんで安心するものを求めます。それを手放せないのです。既成概念であるとか、あるいは固定観念というものがあります。「これはこうするべきだ」「これはこうあるべきものだ」と、子供のときから培(つちか)われてきたそういう決まった考え方、そういうものにしがみつく。これが見えるものによって生きるということです。見えるものに頼って行く。
ところが、7節には「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」と。イエス様の救いにあずかって、神様を信じて生きる者、信仰によって生きる私たちは、そういう見えるものによらないのだ。「信仰によって」とは、神様を信じて、いうならば、神様の全てを信じることです。神様について信ずべきことの一つは、神様がオールマイティーな御方であること、何でもおできになる御方であると信じる。「わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」(エレミヤ 32:27)。神様に成し得ないことはない。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ 10:27)と、神様の力を信じて行く。これが「信仰によって歩く」。そのときに、ぶつかるのは、見えるものと神様の力です。いま申し上げたように、自分の固定観念とか、あるいは社会の習慣や仕来たり、いろいろな人の経験した事柄、あるいは自分自身の経験を信じていますから、神様がしてくださる、神様はオールマイティーである、と信じながらも、つい、これはできないに違いない。これは無理だ。これはこうなのだから駄目だ。自分はこういう年になったから、これは無理だ、あるいは自分はこれくらいの経済力しかないから、これはもうできないと。あるいは、世の中はこうなのだから、これしか駄目だ、というような、いろいろな固定観念のようなものが、私たちのなかに根強くあります。そこにオールマイティーといわれる神様を信じて生きようとすると、ぶつかるのです。「無理だよ」と囁く声に対して、「神様にできない事はない」とみ言葉が迫ってきます。ここが信仰の戦いです。私たちはどちらの側に立つのか? 神様を信じるのか、それとも自分の経験に立つのか。長年生きてくると、甲羅(こうら)にこけが生えてカチカチになってくる。思いも記憶もあまり定かでないぐらいですから、思考力も固まってしまって、考えきれないことがあると思います。しかし、神様を信じて、神様はどんなことでもおできになる、と信じるとき、前方が明るくなります。
「ヨハネによる福音書」5章1節から9節までを朗読。
城壁に囲まれたエルサレムの町にある門の近くに「ベテスダと呼ばれる池があった」というのです。「そこには五つの廊があった」、「廊」といいますから、渡り廊下のようなもの、簡単な屋根の付いた長屋風のものかもしれませんが、そういうものがあった。そこには「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺(まひ)した人などが、大勢横たわっていた」。病気の人たちが皆集まっていた。そこに寝ていた。ちょっとした病院と言えば病院かもしれないけれども、異様な光景であります。そこに集まったのは、「主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがある」というのです。水が動くって、渦巻が起こるのか、あるいはさざ波が立つのか、どういう現象が起こってくるのか、具体的なことは分かりませんが、いずれにしても、水が動くときがあって、そのとき池に真っ先に入った人の病気は癒されると信じられていました。5節に「そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった」とあります。38年です。考えてみたら長い期間です。恐らく、普通だったら治らないと諦(あきら)めます。でもこの人はそこでなお水の動くのを待っていたのです。周囲にいる人たちがイエス様に彼のことを詳細に話したのでしょう。イエス様はその人に声を掛けて「なおりたいのか」と言われた。彼は治りたいからそこにいたのです。でも38年も病気でそこにいて、7節に「この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』」。それはそうです。38年間もそこに寝ていて動けるわけがないでしょう。たくさんの人たちがいて水が動き始めると、「動いたぞ!」と、皆が飛び込むのです。病気の軽い人のほうが元気がありますから、先に飛び込むでしょう。入れなかったら、次に水が動くまでまたなければならない。彼はズーッと待ち続けて「水が動いて真っ先に入れば私の病気が治る」と信じていた。まさにこのベテスダの池にいる人たちとは、私たちのことです。3節に「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」と、いろいろな問題を抱えている。悩みの中にある。そして、その悩みは「これがあれば解決する」「こうなれば解決する」「これはこうなる」と、それぞれ信じて、それを求め、待っている。まさに、これが見えるものによることです。この人も寝たきりで、自分の病気はこの水が動いたときに最初に入れば治るのだと信じて、その他のことは考えられないのです。その他に治る方法はない、と彼は思い込んでいる。これが見えるものによる生き方、固定観念です。いま自分の悩みと思っていることを考えてみてください。「あれがなければこの問題は解決する」「この子がこうなってくれたらいいんだ」「この問題はこう変わってくれれば、私は今晩から安らかに寝ることができる」「こうでないから」とか「ああでないから」と、自分で決めたシナリオ、ストーリーを握って手放さない。これは見えるものによっているのです。聖書にはそういう人がたくさん出てきます。自分がこうあったらいい。だから、この人は38年も一つのことにしがみついていた。このベテスダの水が動いて最初に入れば治る。そうでないかぎり私の病気は治らない。そう思い込んでいる。
だから、イエス様は8節に「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と命じました。「床」というのは、彼が38年間身近にその上に休んでいた薄っぺらい敷き布団か何かでしょうが、私たちにとって「床」とは、そこに自分がいつもなじんでいる場所です。見えるものとは、その「床」です。自分がいちばん親しい、そこに横たわっている、そして、水の動くのを待ち続けている。自分の考えている「こうなったら治るのだ」「こうなったら、私は安心なのだ」と思いながら、自分の固定観念、自分の考えにしがみついている。私たちはそこから離れようとしない。だから、イエス様はここで「床を取りあげて」と、あなたが寝ているその床をもう捨ててしまいなさいと。信仰に立つとはこのことです。自分の考えていること、「これが良いに違いない」と思い込んでいる事柄をひとまずご破算にする。床を取りあげる。そして、今度はイエス様の言葉に従って行くのです。これはまさにそうでしょう。「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と。彼は「水も動かないのに歩けるわけがない。私の病気が治るわけがない」。これはこの人の固定観念です。思い込みです。私たちのいちばん信仰の妨げになるものはそこです。私たちの思い込み、あるいは自分の固定観念、「こうしかならない」。そのために「これはやめておく」「これはもう駄目」というように決めてしまっている。そうではない、神様はどんなことでもおできになる。だから、「床を取りあげ、そして歩きなさい」。
「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。「信仰によって」、いうならば、「これは無理だ」とか「これは駄目だ」とか、「こうしかならない」という思いを捨てる。それを離れて、神を信じる信仰によって生きる。「神様にはできないことはありません」と信じて行く。条件を全部取り払う。私どもは「こうしかならない」とか、「こうである」とか決めて掛っているそういうものを取り払って「神様はおできになります」「神様、あなたにはできます」と信じる。信じると言いつつ、つい無条件ではない。どこか条件を付けます。「神様、必ずおできになります。私の考えたようにきっとなるに違いない」と、「私の思うとおりに行くに違いない」と。だから、時々「先生、私は神様を信じて来たけれども、こうならないのですが?」と。「だから、神様じゃないのですか。あなたの思いどおりに行かないというのは、神様がなさるということです」「そうでしょうか? 」と。あなたが神様だったらあなたの思うとおりにしたらいい。神様がなさるのだから私どもは神様に委ねる。ここが大切です。
「コリント人への第二の手紙」5章7節に「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。「信仰によって歩いている」。だから、「どんなときにも神様はおできになる」「神様はここで何をしてくださるでしょうか」と、白紙になるということです。自分の持っている「これはこうで……」「これはこうだ……」という固定観念、あるいは、自分が握っている思いを手放す。それをゼロにする。その上で今度は「神様が私のために何をどうしてくださるだろうか」。神様が開いてくださる、備えてくださることがあるに違いない。これを信じて行く。そのときに神様は私たちの想像を超えた、思いを超えたことをなさるのです。先ほどの38年も病気であったベテスダの池の病人も、自分の考えていたことと全く違うことでありましたが、イエス様がしてくださったことは、彼が願っていた以上のことです。見えるものによるかぎり38年間変わらないのであります。しかし、それを離れて「床を取りあげて、立ちて歩め」。私たちも神様を信じて「私はこれしかできません」「これは無理です。あれも無理です」「そんなのはできません」「これもできません」「あれもできません」。そうではなくて「いや、主が許してくださればどんなことでもできます」と、神様に自分を委ねる、投げかけて行く。これが神様の恵みを受ける、神様のわざを体験する秘けつです。
「使徒行伝」の3章にもありますが、生まれながら足のきかない男が「美しの門」のそばで物ごいをしておりました。そのときにペテロとヨハネが通りかかって、ペテロは立ち止まって彼を見た。彼は何かもらえると思って期待した。そのときに「金銀はわたしには無い」と、彼はがっかりした。「自分はこういう者でこれしかできない。これが自分の生活。これ以外にない」と思い、諦(あきら)めていた。だから、通りがかりの宮もうでをする人たちのお情けにすがって、恵みを求めて生活していた。だから、ペテロがそういう物をくれるに違いないと思ったけれども、何のことはない。「金銀はわたしには無い」と言う。「しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。そう言って手を引き上げられたときに、一瞬にして彼の体は新しく変わる。まさに神わざです。見えるものによっている間は、それはあり得ないのです。それを離れて、神様を信じて「神様にはできないことはない」と、その人はペテロの思わない言葉で気が付かないうちに立ちあがっておった。その瞬間、彼は喜びに変わりました。神様を褒めたたえ、立ち踊り、賛美して、ペテロたちと一緒に宮に入って行ったと。今までは宮の外にいた者が、今度は宮の中に入って行くのです。
私どももこの神様を信じて行くときに、何を失望することもない。どんなことでも神様は成し得る御方でいらっしゃいます。ここで大切なのは、「どんなことでも」ということは「あなた様に任せる」ということです。「私の思いどおりにしてもらえる」というのは間違いです。私の思いではなくて、神様は私の願いを知っていらっしゃる。私たちの思いを知って、その願い、思いをかなえてくださる御方です。どんな風にか、そこまで私たちは神様に注文付けるわけにはいかないのです。「いや、どんな風にするのか。前もって私に相談して欲しい」と。そんな相談する神様ではない。神様にお任せする。一任です。これがここに言われている「信仰によって歩いているのである」。8節に「それで、わたしたちは心強い」。何をも恐れない強いものとなれる。ところが、見えるものによると、いつも不安と恐れです。「大丈夫だろうか。これで本当にいいのだろうか」「これしかない。諦めようか」という世界。それに対して信仰によって歩くとき、私たちは心強いのです。「どんな風に神様はわざをしてくださるだろうか」。闇が暗ければ暗いほど、谷が深ければ深いほど、神様の恵みは更にもっと大きく、もっと輝いたものと変わっていくのです。 だから、失望しないで信仰によって歩く。神様を信じて心の全てを空け渡して、何の前提条件も設(もう)けない。何があっても当然のこと、神様のなさることを計り知ることはできません。そのことを認めて行こうではありませんか。神様が私たちのために備えてくださる一つ一つどんなことも「これは主がしてくださったことです」と。「どうしてこんなことになったのだろう」と思うことでも、そこからもっと大きな驚くことで私たちを喜ばせ楽しませ、神様を褒めたたえさせてくださる。感謝があふれて神様の栄光へと私たちを導き入れてくださるのです。
どうぞ、この7節のお言葉にありますように「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」と、信仰によって歩こうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
7節「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。
今朝はこのお言葉を通して「信仰によって生きる」とはどういうことかを教えられたいと思います。教会に来ると「信仰」という言葉をよく耳にします。「信仰」という言葉は分かりやすく言うと、神様を信じることに他なりません。神様を信じるとは、非常に短い言葉であり、また簡単なことであるはずです。しかし、よくよく考えると、そこにはいろいろなことが含まれます。神を信じるとは、神様がいらっしゃる、神様の存在を信じることが一つです。それから、神様はオールマイティー、力強い御方であり、どんなことでも成し得給う御方、と信じる。これも神を信じることです。それから、神様はいつどんなときにでも私たちと共にいてくださると信じるのも、神様を信じることです。あるいは、今日私たちが生き働いている、生かされているのは神様によるのだ、と信じる。これも神を信じることです。ですから、“信仰”という言葉は非常に奥深いわけです。
「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」とここにありますが、「信仰によって歩く」とは、見えない神様を信じて歩くことです。歩くとは生活することです。神様を信じて日々の生活を営む。ただこれだけですが、これで分かったようですが、もっとこれを掘り下げて行けば、いろいろなことが出てきます。だから、聖書の言葉は非常に奥深い。「神を信じなさい」と言われて、私どもが「分かった、信じます」と表面的に受け止めるのは単純明快ですが、しかし、本当に神を信じるというのは、どうすることなのか? どうあることが神を信じていることなのか? ともう一つ深く掘り下げてみるといいますか、自分自身の信じている事柄の内容をよく探っていただきたいと思います。そうしませんと、「神様を信じています」と言いながら、実際の歩みが、信じて生きることと、そうでない、いうならば、神様を知らないまま、信じないままで生きているのとどこがどう違うのか?そこがはっきりしません。信仰があってもなくても、実際生活が 「何の違いもないじゃないか」というならば、神を信じるとは、単なるアクセサリー的なものに終わってしまう危険が多分にあります。
私たちはいったいどのような生き方をして日々の生活を過ごしているのか?毎日、朝起きて昨日の今日、今日の明日と、いわゆるルーティンワーク、決まり切った仕事をしなければならない日常生活の営みがあります。朝起きて身支度をしたり、あるいは朝食の準備をしたり、食後の片づけ、掃除をしたり、自分のいろいろな趣味をしてみたり、一日の皆さんそれぞれのスケジュールといいますか、やるべきことをこなして一日が終わります。その一日、一日やっていることの中で、「神を信じる」ことがどのようにかかわっているのか。生活全体の動機付けといいますか、私たちの心がどんな状況に置かれているか。そのことを振り返って見ましょう。ここで「見えるものによらないで」と言われています。「見えるもの」とは、私たちが見たり聞いたりする事柄、分かりやすく言うとそういうことになります。聞くこと、見ること、あるいは経験していること。日々の生活には、選択と決断が絶えず求められます。いろいろなものを選んで、どうするか? 右にするか、左にするか、これがいちばんのポイントです。だから「歩く」というのは、生活することと申し上げましたが、生活することを、もう一つ奥を探ってみると、何をどうするか? という、選び決断することばかりです。朝起きて「今日は何をしようか。今日は何日だ。木曜、そうだ、木曜会がある。行こうか、行くまいか」まずそこからでしょう。まず選ぶのです。「選ぶことはない、木曜日は木曜会に行くものだ」と決まっている人には「今日は木曜会だ」と、次に「何を着て行こうか」と、ここでまた選ぶのです。それでちょっと外に出たら寒いから「これはやっぱりもう一枚着ようかしら」と、どれを着るかと、またここで迷うでしょう。「色のついたのにするか、白いのにするか」と、既にそこで「どっちにしようか」と、これほど左様に、ことごとくです。言われて見たら「そんなことをいちいち選んでいるわけないよ」と思うかもしれないけれども、無意識のうちに常に「右にするか、左にするか」「AかBか」と選び続けているのです。これが生活です。生活とは、何かややこしそうだけれども、実に簡単です。右にするか、左にするか、あるいは三択であるかもしれない。三つの中からABCのどれにしようか、ということもあるかもしれませんが、いずれにしても常に選んでいるのです。「さぁ、木曜会が終わったらお昼は何を食べようか」と、もう考えているでしょう? そうすると、「うどんにしようか、ご飯にしようかな」と、それは既に選択です。そういうときに何を基準にして選んでいくか、これが「歩く」ことです。「見えるものに」とは、自分の経験、あるいはその時その時の自分の感情、そういうものに引き廻されるというか、流されて行く。自分の見ている状態や事柄で選び決定している。これが私たちの常にすることです。今申し上げたように「何を食べるか」とか「何を着るか」とか「どうするか」とか、それは実に些細なことで、大した問題ではないかもしれませんが、時にはもっと重大な、あるいは自分の人生を決するような事態や事柄ももちろんそこに生まれてきます。そういうときに何を自分のより所として選んで決断しているか? これが私たちに問われる大切な事柄です。パンにするか、ご飯にするかぐらいはどちらに間違えたって、それほど問題はないと思いますが、人生に関(かか)わる、あるいは重大な何かを選ばなければならない、人生を変えるような出来事の場合に、何をより所にしているか? そういうとき「見えるものによる」、いろいろな人の経験、情報、様々な知識、そういうものに頼る。これはいちばん手っ取り早いことです。すぐに聞いてみる。「ねぇ、今こんな問題があるんだけれども、これはどうしたらいいと思う? 」「右と左、どちらを選んだらいいだろうか。あなただったらどうする? 」と人に聞きますか。あるいは同じような経験をした人に問い合わせをする、尋ねてみます。今ですと、インターネットでいろいろな情報があふれるくらいにありますから、その中から選ぶ。
病気したときなど思います。私が「前立腺がん」と言われたといいますか、検査結果が悪かった。今でも思い出しますが、ホームドクターに検査してもらったら、次の朝8時ぐらいに先生から電話があったのです。「ちょっとご相談したいことがありますから」と。「ご相談する段階かな」と思いましたが、「非常に思わしくない状況だからもっと精密な検査、あるいはそれから先の治療が必要と思われるから、どこの病院にしますか? 」と言われても、こちらは今まで掛ったことのない病気ですから、「どうしようかしら」と、つらつらと考えて「どこがありますか?」と、なんだかレストランでも聞いているような話です。こちらは何の情報もない。ただそこで即座に選ばなければならない。どうするかと、いろいろな聞いた病院を頭に思い浮かべて「あそこがきれいな感じや」とか「あそこは古いしなぁ」と、建物で選ぶのです。というのは、自分に決定する手掛かりがない。「これでいいです」と言ってもらえる、何かそういう……、「見えるもの」というのは、そういうものです。だから、経験した人に聞いて「ここの病院がいいですよ」と言ってくれたら、それですぐに飛びつけるのです。「じゃ、ここにしよう」と「あの人も経験している、あの人もそこで治療してもらって良かったと、だったら、そこにしておこう」という話になります。そういう人の経験、あるいは専門家なりの話を聞く。そのとき私は結局何を選んだか、「近いほうがいいですね」と、近いのと病気とは何の関係もないのに、選んでいる時は、大抵そうでしょう。「見えるものによる」とは、そういうことです。私は「近い所にしてください」と言ったら「近いほうがいいですね」と先生も言われる。何のことはない、病気の治療をするのに、家から距離が近いか遠いかという……、それも重要な要素だとは思いますが、治療そのものとはあまり関係がない。私たちの見えるものによる生き方とは、実にそういう曖昧(あいまい)な、あまり根拠のないものを手がかりに生きているものであります。そうではありますが、それすらもないと私たちはお手上げです。どうしたらいいか分からない。「どうしよう」「どうしよう」と狼狽えます。だから、つい見えるものにより、また「これはこうすべきだ」と人が言ってくれること、あるいは社会の仕来たりや習慣。だから「こういうときどうする? どうする?」と人に聞きます。「ねぇ、今度こういうことがあるのだけど、あなたどうする?」「あなたの所はどうしている?」。葬式なんかがそうでしょう。大抵普通のお宅では一生涯に一度や二度ぐらいしかないでしょう。親の死に目に会うぐらいですから、葬式を出すなんてそうざらにはない。ところが、教会では年に何回かありますから、私はもう何十回としていますけれども、そうすると、皆さんから聞かれるのです。「先生、棺桶は幾らぐらいの物にしましょうか? 」と「それは葬儀屋に聞いていください」と。やはり何か手がかりが欲しい。結局、仕来たりや習慣に頼る。そういう見えるもの、これがいちばん私たちに分かりやすいし、また安心に思えます。
私たちは聞くところとか、あるいは慣れ親しんでいることなど、あるいは、自分の経験に基(もと)づいて、昔こうしたとか、こういう似たような経験をしたとか、そういう経験則というものがあったり、人からの情報、世の中のそういう決まった事柄、既にこうあるべきだという固定概念といいますか、そういうものに私たちは頼る。だから、世間でもよく言います。“羹(あつもの)に懲(こ)りて鱠(なます)を吹く”という言い方がありますが、何か知らないで食べた物が熱かった。そういう経験をすると、今度は冷たいなますですらも吹きながら食べるという、一度の失敗に懲(こ)りて無用な用心をすることを言いますが、人というのはそういうおかしなことをする。というのは、自分が経験していますから、熱い思いをした、痛い思いをしたから、もうそれはやめようという。ところが、そうでないものまで拒んでしまう、人の姿を語った言葉であります。また“石橋をたたいて渡る”という、失敗を恐れる、失敗はしたくない思いがそういう言葉になってあらわれているのです。人はそうやって自分が寄り掛る、つかんで安心するものを求めます。それを手放せないのです。既成概念であるとか、あるいは固定観念というものがあります。「これはこうするべきだ」「これはこうあるべきものだ」と、子供のときから培(つちか)われてきたそういう決まった考え方、そういうものにしがみつく。これが見えるものによって生きるということです。見えるものに頼って行く。
ところが、7節には「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」と。イエス様の救いにあずかって、神様を信じて生きる者、信仰によって生きる私たちは、そういう見えるものによらないのだ。「信仰によって」とは、神様を信じて、いうならば、神様の全てを信じることです。神様について信ずべきことの一つは、神様がオールマイティーな御方であること、何でもおできになる御方であると信じる。「わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」(エレミヤ 32:27)。神様に成し得ないことはない。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ 10:27)と、神様の力を信じて行く。これが「信仰によって歩く」。そのときに、ぶつかるのは、見えるものと神様の力です。いま申し上げたように、自分の固定観念とか、あるいは社会の習慣や仕来たり、いろいろな人の経験した事柄、あるいは自分自身の経験を信じていますから、神様がしてくださる、神様はオールマイティーである、と信じながらも、つい、これはできないに違いない。これは無理だ。これはこうなのだから駄目だ。自分はこういう年になったから、これは無理だ、あるいは自分はこれくらいの経済力しかないから、これはもうできないと。あるいは、世の中はこうなのだから、これしか駄目だ、というような、いろいろな固定観念のようなものが、私たちのなかに根強くあります。そこにオールマイティーといわれる神様を信じて生きようとすると、ぶつかるのです。「無理だよ」と囁く声に対して、「神様にできない事はない」とみ言葉が迫ってきます。ここが信仰の戦いです。私たちはどちらの側に立つのか? 神様を信じるのか、それとも自分の経験に立つのか。長年生きてくると、甲羅(こうら)にこけが生えてカチカチになってくる。思いも記憶もあまり定かでないぐらいですから、思考力も固まってしまって、考えきれないことがあると思います。しかし、神様を信じて、神様はどんなことでもおできになる、と信じるとき、前方が明るくなります。
「ヨハネによる福音書」5章1節から9節までを朗読。
城壁に囲まれたエルサレムの町にある門の近くに「ベテスダと呼ばれる池があった」というのです。「そこには五つの廊があった」、「廊」といいますから、渡り廊下のようなもの、簡単な屋根の付いた長屋風のものかもしれませんが、そういうものがあった。そこには「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺(まひ)した人などが、大勢横たわっていた」。病気の人たちが皆集まっていた。そこに寝ていた。ちょっとした病院と言えば病院かもしれないけれども、異様な光景であります。そこに集まったのは、「主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがある」というのです。水が動くって、渦巻が起こるのか、あるいはさざ波が立つのか、どういう現象が起こってくるのか、具体的なことは分かりませんが、いずれにしても、水が動くときがあって、そのとき池に真っ先に入った人の病気は癒されると信じられていました。5節に「そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった」とあります。38年です。考えてみたら長い期間です。恐らく、普通だったら治らないと諦(あきら)めます。でもこの人はそこでなお水の動くのを待っていたのです。周囲にいる人たちがイエス様に彼のことを詳細に話したのでしょう。イエス様はその人に声を掛けて「なおりたいのか」と言われた。彼は治りたいからそこにいたのです。でも38年も病気でそこにいて、7節に「この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』」。それはそうです。38年間もそこに寝ていて動けるわけがないでしょう。たくさんの人たちがいて水が動き始めると、「動いたぞ!」と、皆が飛び込むのです。病気の軽い人のほうが元気がありますから、先に飛び込むでしょう。入れなかったら、次に水が動くまでまたなければならない。彼はズーッと待ち続けて「水が動いて真っ先に入れば私の病気が治る」と信じていた。まさにこのベテスダの池にいる人たちとは、私たちのことです。3節に「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」と、いろいろな問題を抱えている。悩みの中にある。そして、その悩みは「これがあれば解決する」「こうなれば解決する」「これはこうなる」と、それぞれ信じて、それを求め、待っている。まさに、これが見えるものによることです。この人も寝たきりで、自分の病気はこの水が動いたときに最初に入れば治るのだと信じて、その他のことは考えられないのです。その他に治る方法はない、と彼は思い込んでいる。これが見えるものによる生き方、固定観念です。いま自分の悩みと思っていることを考えてみてください。「あれがなければこの問題は解決する」「この子がこうなってくれたらいいんだ」「この問題はこう変わってくれれば、私は今晩から安らかに寝ることができる」「こうでないから」とか「ああでないから」と、自分で決めたシナリオ、ストーリーを握って手放さない。これは見えるものによっているのです。聖書にはそういう人がたくさん出てきます。自分がこうあったらいい。だから、この人は38年も一つのことにしがみついていた。このベテスダの水が動いて最初に入れば治る。そうでないかぎり私の病気は治らない。そう思い込んでいる。
だから、イエス様は8節に「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と命じました。「床」というのは、彼が38年間身近にその上に休んでいた薄っぺらい敷き布団か何かでしょうが、私たちにとって「床」とは、そこに自分がいつもなじんでいる場所です。見えるものとは、その「床」です。自分がいちばん親しい、そこに横たわっている、そして、水の動くのを待ち続けている。自分の考えている「こうなったら治るのだ」「こうなったら、私は安心なのだ」と思いながら、自分の固定観念、自分の考えにしがみついている。私たちはそこから離れようとしない。だから、イエス様はここで「床を取りあげて」と、あなたが寝ているその床をもう捨ててしまいなさいと。信仰に立つとはこのことです。自分の考えていること、「これが良いに違いない」と思い込んでいる事柄をひとまずご破算にする。床を取りあげる。そして、今度はイエス様の言葉に従って行くのです。これはまさにそうでしょう。「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と。彼は「水も動かないのに歩けるわけがない。私の病気が治るわけがない」。これはこの人の固定観念です。思い込みです。私たちのいちばん信仰の妨げになるものはそこです。私たちの思い込み、あるいは自分の固定観念、「こうしかならない」。そのために「これはやめておく」「これはもう駄目」というように決めてしまっている。そうではない、神様はどんなことでもおできになる。だから、「床を取りあげ、そして歩きなさい」。
「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。「信仰によって」、いうならば、「これは無理だ」とか「これは駄目だ」とか、「こうしかならない」という思いを捨てる。それを離れて、神を信じる信仰によって生きる。「神様にはできないことはありません」と信じて行く。条件を全部取り払う。私どもは「こうしかならない」とか、「こうである」とか決めて掛っているそういうものを取り払って「神様はおできになります」「神様、あなたにはできます」と信じる。信じると言いつつ、つい無条件ではない。どこか条件を付けます。「神様、必ずおできになります。私の考えたようにきっとなるに違いない」と、「私の思うとおりに行くに違いない」と。だから、時々「先生、私は神様を信じて来たけれども、こうならないのですが?」と。「だから、神様じゃないのですか。あなたの思いどおりに行かないというのは、神様がなさるということです」「そうでしょうか? 」と。あなたが神様だったらあなたの思うとおりにしたらいい。神様がなさるのだから私どもは神様に委ねる。ここが大切です。
「コリント人への第二の手紙」5章7節に「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。「信仰によって歩いている」。だから、「どんなときにも神様はおできになる」「神様はここで何をしてくださるでしょうか」と、白紙になるということです。自分の持っている「これはこうで……」「これはこうだ……」という固定観念、あるいは、自分が握っている思いを手放す。それをゼロにする。その上で今度は「神様が私のために何をどうしてくださるだろうか」。神様が開いてくださる、備えてくださることがあるに違いない。これを信じて行く。そのときに神様は私たちの想像を超えた、思いを超えたことをなさるのです。先ほどの38年も病気であったベテスダの池の病人も、自分の考えていたことと全く違うことでありましたが、イエス様がしてくださったことは、彼が願っていた以上のことです。見えるものによるかぎり38年間変わらないのであります。しかし、それを離れて「床を取りあげて、立ちて歩め」。私たちも神様を信じて「私はこれしかできません」「これは無理です。あれも無理です」「そんなのはできません」「これもできません」「あれもできません」。そうではなくて「いや、主が許してくださればどんなことでもできます」と、神様に自分を委ねる、投げかけて行く。これが神様の恵みを受ける、神様のわざを体験する秘けつです。
「使徒行伝」の3章にもありますが、生まれながら足のきかない男が「美しの門」のそばで物ごいをしておりました。そのときにペテロとヨハネが通りかかって、ペテロは立ち止まって彼を見た。彼は何かもらえると思って期待した。そのときに「金銀はわたしには無い」と、彼はがっかりした。「自分はこういう者でこれしかできない。これが自分の生活。これ以外にない」と思い、諦(あきら)めていた。だから、通りがかりの宮もうでをする人たちのお情けにすがって、恵みを求めて生活していた。だから、ペテロがそういう物をくれるに違いないと思ったけれども、何のことはない。「金銀はわたしには無い」と言う。「しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。そう言って手を引き上げられたときに、一瞬にして彼の体は新しく変わる。まさに神わざです。見えるものによっている間は、それはあり得ないのです。それを離れて、神様を信じて「神様にはできないことはない」と、その人はペテロの思わない言葉で気が付かないうちに立ちあがっておった。その瞬間、彼は喜びに変わりました。神様を褒めたたえ、立ち踊り、賛美して、ペテロたちと一緒に宮に入って行ったと。今までは宮の外にいた者が、今度は宮の中に入って行くのです。
私どももこの神様を信じて行くときに、何を失望することもない。どんなことでも神様は成し得る御方でいらっしゃいます。ここで大切なのは、「どんなことでも」ということは「あなた様に任せる」ということです。「私の思いどおりにしてもらえる」というのは間違いです。私の思いではなくて、神様は私の願いを知っていらっしゃる。私たちの思いを知って、その願い、思いをかなえてくださる御方です。どんな風にか、そこまで私たちは神様に注文付けるわけにはいかないのです。「いや、どんな風にするのか。前もって私に相談して欲しい」と。そんな相談する神様ではない。神様にお任せする。一任です。これがここに言われている「信仰によって歩いているのである」。8節に「それで、わたしたちは心強い」。何をも恐れない強いものとなれる。ところが、見えるものによると、いつも不安と恐れです。「大丈夫だろうか。これで本当にいいのだろうか」「これしかない。諦めようか」という世界。それに対して信仰によって歩くとき、私たちは心強いのです。「どんな風に神様はわざをしてくださるだろうか」。闇が暗ければ暗いほど、谷が深ければ深いほど、神様の恵みは更にもっと大きく、もっと輝いたものと変わっていくのです。 だから、失望しないで信仰によって歩く。神様を信じて心の全てを空け渡して、何の前提条件も設(もう)けない。何があっても当然のこと、神様のなさることを計り知ることはできません。そのことを認めて行こうではありませんか。神様が私たちのために備えてくださる一つ一つどんなことも「これは主がしてくださったことです」と。「どうしてこんなことになったのだろう」と思うことでも、そこからもっと大きな驚くことで私たちを喜ばせ楽しませ、神様を褒めたたえさせてくださる。感謝があふれて神様の栄光へと私たちを導き入れてくださるのです。
どうぞ、この7節のお言葉にありますように「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」と、信仰によって歩こうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。