いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(363)「神様のミステリー・ツアー」

2014年10月26日 | 聖書からのメッセージ
「創世記」17章1節から8節までを朗読。

 1節「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ』」。

 これは、アブラムに神様が、ご自身がどういう御方であるかを明らかにしてくださった一節であります。アブラムは、この天地万物の創造の神様とは全く縁のなかった人物であります。カルデヤのウルという土地が出身地でしたが、お父さんの時代にそこを離れて、新天新地を求めて旅に出ました。その途中ハランという所に着いて、しばらく滞在しているうちにお父さんが亡くなってしまう。ハランにおりますときに、神様がアブラムに声をかけてくださった。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世 12:1)と。

 よく言われますが「どうしてアブラハムだったのだろうか。何か神様の選ぶ理由があったのだろうか」と問われますが、分かりません。ただ一方的な神様の選びであり、召しであります。神様がそのように決めなさったのですから、理由は分かりません。私たちが今こうやってイエス様を信じる者とされ、救いに導き入れられたことも、「なぜだろうか?あの人この人でなくて、どうして私なのだろうか?」と考えても分かりません。勝手にああだから、こうだからと理屈は付けますが、「本当にそうなのか」と言われると、それだって、ただ単に自分で納得したいために言っている都合の良い理由でしかありません。神様の本意といいますか、神様が考えておられた目的は何であったか、私たちを選んだ理由は何であったか、これは分かりません。

それと同じでアブラムがどうして神様から召しを受けたのか、これは分かりません。しかし、彼にとって大変幸いなことでしたが、同時に大きな試練でもあります。私どもはアブラムの生涯の全体を見た上で話していますから、「それは良かった。神様から選ばれて、召されて、アブラムにとって最高の生涯だ」と言うのはたやすいですが、まだその先が見えない中で、自分がどのようになるのか分からないけれども、いま神様がおっしゃるからと、そこに踏み出していく。これは大きな賭(か)けです。ギャンブルです。だから、アブラムが、神様の声を聞いて「これは神様から求められたこと。神様がいらっしゃるのだ」と信じなければ、まともに受けることができなかったと思う。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れて」とは、いうならば、自分の住み慣れた、慣れ親しんだ人たちと全く切り離されて、たった一人になって「わたしが示す地に行きなさい」。「ヘブル人への手紙」には「行く先を知らないで出て行った」(11:8)とあります。どこへ行くのか自分は分からないままに出て行ったのです。これだって、私たちが自分に置き替えて考えますと、到底できないことです。

よく「ミステリーツアー」というのがあります。先日も大阪集会に行くときに新幹線に乗っておりましたら、十数名の団体が、私と同年かそれ以上の高齢者がグループで乗って来られた。それがJR主催の『ミステリーツアー』というのです。添乗員は取りあえずいます。そして、座席を振り分けて座らせ、添乗員の方が「今からミステリーツアーに行きます。どこへ行くか、場所は秘密です」と説明をしている。私はちょっと離れて聞いていました。「ただ、1時間半後に広島駅に着きますので、そこで皆さんは降りていただきます」。「はぁ、宮島にでも行くのだな」と推察できますから、「ミステリーではないな」とも言えます。添乗員は全部知っているわけです。予約がされていて、旅館も決まっていて、行き場所は決まっている。ただ、参加者だけが知らないふりをする。感のいい人は大体予測がついていると思います。値段と日数と経路を見れば、どこに行くかというぐらいは分かります。

でも、アブラムの場合は全くのミステリーです。添乗員はいません。旅程表もありません。日程も決まっていません。ただ、神様が今日はここまで、明日はここまで、一歩一歩です。全部見通した上で「そうなるのだったら、行きましょう」というのが人の考えるところ。神様を信頼するとは、そこが違うのです。私どもは自分のわずかな知恵を絞って、先先を見通して「こうなったら、ああなるだろう。なったらこうして、ああして」と、「そのときには、こうなって」「このときにはこうして」と、いろいろなことをシミュレーション、予測を立てて、「だったら、この道で行ってみよう。まず、8割がた大丈夫だ」と、自分で納得したところで出て行くわけですから、これはある意味では自分にとっては安心感があるけれども、しかし、考えてみたら、その安心たるや根拠(こんきょ)がありません。確かにいろいろな人や、インターネットや何かでいろいろな情報を得ます。あるいは自分自身の過去から今に至るまでの経験を通して「このときはこうなるに違いない」と大体の予測を立てますが、実際にそうなるかどうか、これは全くの未知数です。しかし、人は、何か安心を得たいから、そういうわずかな自分の浅知恵でしかない見通しですらも、「いいに違いない、これなら大丈夫に違いない」と思って、先読みしながら安心を得ている。しかし、冷静に考えたら、これ程不安定な話はない。「本当に大丈夫なの?」と言ったら、「いや、あの人がそう言ってくれたから」とか、あるいは「以前、この人がこういう体験をした結果こうだから、きっとこれならこうなるに違いない」「誰がそれを保証するの? そうなると誰が決めた?」「いや、過去にそうだったから」と。過去にどんなであっても、それがもう一度同じように繰り返すことは、まずありません。自分の考えや知恵、努力や何かで自分の先先を見通して、予測して安心を得ようとすることは無意味であると知っておきたい。自分の予想したように、思うようにいかないと、「あの人が悪い」とか、「この人が悪い」とか、「世の中が悪い」とか、「政治が悪い」とか、「あの首相があんなだから駄目だ」とか、とにかく八つ当たりする。しかし、考えてみたら、そんなことに腹を立てて見たって仕方がない。何の意味もない。いうならば、自分が悪いのですから、自分が勝手に「こうなるに違いない」「ああなるに違いない」と思い込んでいるだけのことであって、それが思うようにいかない、願ったたようにいかないからといって、周囲に八つ当たりするのは、こっけいというか、愚かしい話です。そもそも私たちには先が分からない。聖書にも「明日のことすら分からない」とはっきりと語られている。だから来年の今ごろ、どこどこに行って、商売をしようと、そんな約束をするな、と書いてあります(ヤコブ4:13~)。本当にそうです。今日はこうやって元気で皆さんいらっしゃるけれども、明日はどうなるか、これは分かりません。

しかし、アブラムは神様から言われたように出て行きました。やがてカナンの地に彼らは導かれて来たわけであります。そして、その地で神様が約束してくださったのは「あなたを多くの国民の父とする」、あなたの子孫が空の星のように、浜辺の砂のように多くなる、と神様が祝福の証詞、幻(まぼろし)を与えてくださった。ところが、彼らには子供がいなかったのです。二人とも高齢になっていましたし、最初に神様から声を掛けられたのは75歳でありました。その時既に高齢でありますから、子供が得られる見込みがない状態です。しかも、奥さんのサライは不妊の胎(たい)であったと言われています。でも神様はそのようにおっしゃるが、いったいどうなるか分からない。しかし、神様は約束してくださった。「祝福を与える」と。それで取りあえず言われるままに彼らは信仰を抱いて、神様を信頼して出て行きました。カナンの地へ行きましが、一向に具体化しない。いつまでたっても二人っきりです。子供が与えられる見込みがない。その間にあれやこれやといろいろなことがあって、神様に背(そむ)いたり、あるいは勝手な道を歩んで、とうとうハガルによってイシマエルという子をもうけたりしますが、神様は「その子はあなたの跡継ぎではない」と、「あなたの体から出る者があなたの跡を取るものだ」とおっしゃる。「では、早くその結果を見せてくれ」と言いたいのですが、神様は一向にうんともすんとも答えを出さない。彼はとうとう失望して、「どうするか」と思ったときに神様は、またアブラムに「空の星を仰いでご覧」と、夜天幕の外へ連れ出して、「あの星空を見て、あなたは星を数えることができるか」と。「我は全能の神だよ」とおっしゃった。それから彼は信仰をもって歩み始めたのですが、この17章では99歳ですから、彼が神様に導かれてハランを出立(しゅったつ)してカナンに着いたときは、まだ75歳ですから、既に24年近くたっている。その時、神様は「わたしは全能の神である」とおっしゃいました。「わたしは全能の神」、アブラムは神様を信じていました。信じていましたが、いつまでたっても事態が変わらない、事柄が動かない。そうなると、いったい神様は、いらっしゃるだろうけれども、これはできないのではないのではないだろうか。これは無理じゃないのだろうか。あれはどうなのだろうか、これはどうなのだろうか。だんだんと神様を小さなものにしていくといいますか、ある意味では神様の形骸化(けいがいか)といいますか、形だけのものになってしまう。心から本当に神様を信頼できたか?と言われると、そうはいかなくなる。これはアブラムばかりではなくて、私たちもそうです。私たちも神様を信じているつもりです。けれども、では、現実に神様を信頼しているか、というと、「このことはお祈りしておこう」、しかし「これは神様とてもちょっと無理だろう」と、どこかで事柄を選別しているのです。「神様はまぁ、このくらいのことはできるかもしれないが、これは無理だろう」と、あるいは日常茶飯の事は「これは私がやるけれども、でもこの問題はちょっと手に負えないから一つ神様に頼もうか」と、そのように私たちが神様を小さなもの、あるいは「自分よりも少しは力ある御方ではあろうけれども、それ以上のものではない」という、そういう思いが気がつかないうちに積み重なっていく。この時のアブラムもそうではなかったかと思います。

というのは、その前の16章はハガルによってイシマエルが与えられた記事が語られています。いうならば、神様がアブラムに「その身の子供を与える」と約束されながら、彼は奥さんサライの言葉に従って勝手にハガルによって子供をもうけるわけです。だから、明らかに彼は神様を信じていながら、神様を信頼していない。神様を知ってはいるけれども、自分のやり方、自分の知恵で納得できる方法を選ぼうとしていたのです。だから、86歳の時、ハガルがイシマエルを生んだのですけれども、それから後13年ほどしてアブラムに神様はご自分をあらわされた。「わたしは全能の神である」と。わたしは神、全能の神、オールマイティー、どんなことでもできる。わたしは全能の神なのだ。この「全能」という言葉は、よくお話しますように「万能」とは違うのです。どのように違うかというと、「全能」とは、すべてのものをご自分の意思をもって支配しておられる。そして、あらゆるものを御心のままに導き給う御方だ、ということです。「万能」というと、何でもできる。でも自分で支配するとか、あるいはある意図(いと)をもって、ある意思をもって何かを遂行(すいこう)する、それを成し遂げて行く、そのようなものではありません。道具としてあれもできる、これもできる。切ることもできれば、打つこともできるという物があります。そういう意味ではなく、全能の神とは、言い換えると、私たちを造り生かし、また御心のままにすべてのものを統(す)べ治(おさ)めておられる御方でいらっしゃる、と語っている。だから、ただに子供のできないアブラムに子供を与えることができる、だから全能者だ、というのではなくて、その子供を与えるべき時も、またどのようにするかのその方法についても、ことごとくを神様が「わたしが決める」とおっしゃる。これが全能者ということです。私たちはどこか自分が決め、自分が予定し、自分が計画をしたことを「神様、ひとつ手助けしてください」「神様、私がこうしたいから助けてください」「知恵がないから知恵を与えてください」「ここは私の力が足りないから力を与えてください」と便利屋的に神様を利用するのではないのです。「全能の神である」ということを信じるということは、「この神様はすべてのことを支配し、また御心のままに今も一つ一つ導いておってくださる」ということを信じる。これが「神を信じる」ということです。私たちはそこにいつも立たなければ救いがないといいますか、望みも喜びも平安もありません。私たちは日々の生活の中でいろいろな問題、事柄に会います。思いがけないこと、考えもしないこと、それは神様が支配しておられるからです。

だから、よく言われます。「先生、今度こういうことがありまして、とんでもないこと、予定していなかったこと、考えもしないことが起こりました」と。それはそのとおりです。考えもしないことが起こるのが当然です。どこかで私たちは「私の知らないことが起こるはずがない」「私が何でも知っていなければおさまらん。世間はどうであれ、私の家庭、私の家の中は私が王様だ、私の知らない何か事が起こるなど許せん」という思いが強いから、自分の計画しなかったこと、願わなかったこと、思いもしなかったことが起こると、大慌(おおあわ)てをする。慌てる必要はないのです。「我は全能のなり」(文語訳)、神様が事を起こしていらっしゃるのです。だから、どうぞ皆さん、自分の想像もつかない、自分が考えられないことが起こった。そういう時、これは神様でしかあり得ないでしょう。予定したとおり、人が考えたとおりに行くのだったら、「これは人間が神様だ」と言える。だから、私たちの人生の中、日々の生活の中に予定しないこと、考えなかったこと、思いもしなかった事態や事柄が起こったときには、「いま神様が事を起こしていらっしゃるのだ」と、そう信じること。これが、神様を全能者として認めて行く道なのです。だから「ありゃ、大変なことになったぞ」。またうれしいことももちろんあります。「え!こんな楽しいこと、こんなうれしいこと。まぁ、こんなことになったのか」と言って大喜びをする。宝くじでも当たろうものなら「ラッキー」と言うでしょう。それも神様が……、全能の神、神様が何か意図するところがあって、私たちを楽しませ、喜ばせてくださる。また同時に神様は私たちを悲しみの中に、不安と恐れの中に置かれるに違いない。でもその時にも「我は全能の」、そうでした、神様、あなたがこのことを起こしていらっしゃる。このことを導かれる御方。まさにそれを認めていくことが全能の神を信じることです。

 この時、アブラムに対して神様は17章1節に「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ』」と。「全き者」というのは、完全無欠なという意味ではありません。ここでは全能の神でいらっしゃる御方に全く従う者となりなさい。言い換えると、神様が全能者であって、その方が一つ一つのことを導かれることに委ねきっていくこと、自分を空け渡してしまうこと。これを神様は求めていらっしゃる。だから、この神様に対して「主よ、あなたは全能の神です」と言い得るように私たちの心を整えていきたい。何か事がある、思いがけないことが起こってくる、心配なことがある。その時でも、確かに心配にはなるけれども「しかし、これも神様、あなたがご存じですから……」と、そこで神を信じていく。しかも全能者としての神を信じる。自分自身を神様のご支配の中に置かなければ、それは言えません。「私も、神様、あなたのご支配の中に置かれて生かされている者です」と。これを信じるのです。

 「マルコによる福音書」5章35節から37節までを朗読。

 これは会堂司ヤイロという人の娘が死にかかった、危篤(きとく)状態になったときです。「何とか、イエス様、助けてやってください。祈ってやってください」とイエス様の所へ訪ねて来ました。それでイエス様は「よし、それじゃ、行ってあげよう」というわけで出かけました。ところが、行く途中で突然問題が起こった。それは、12年間も長血を患(わずら)った女の人が、イエス様の衣のすそに触ったのです。その時、イエス様はそこで立ち止まって「誰かがわたしを触った」と言って動かない。弟子たちはハラハラしまして「こんなにたくさんの人たちが押し合っているのだから、誰かが触るでしょう。先へ行かなければ」と思ったのです。でもイエス様は「誰かが私を触った。私の体から力が出て行った」とおっしゃって見回し、とうとういたたまれなくなって、その女の人は「私です」と言って、申し出ました。それまでの一部始終有りのまま全部イエス様に打ち明けました。その間どのくらい時間がたったか分かりません。小1時間あったでしょうか。そのうち会堂司の家から遣いがやって来る。「もう、娘さんは亡くなりました」。35節に「イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、『あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩(わずら)わすには及びますまい』」。「もう、娘は死んでしまったのだから、今更先生に来てもらったって仕方がない。もうお断りして」という話になりました。ところが36節に「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた」。「確かに娘は死んでしまった。もう今更、イエス様が行ったって仕方がなかろう」、これは人が考える考え方、生きているうちにイエス様に祈ってもらえば病気が治って、また元気になるだろうが、死んでしまったらもう生き返るはずがないと。ところが、イエス様は「言葉を聞き流して」と。そして会堂司に言われたのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」。「ただ信じなさい」、これは何を信じるかと、「神を信じなさい」ということです。神様が全能者でいらっしゃる。あなたの娘を生かすのも殺すのも神様の手の中にある。また、彼らをしてその時に間に合うか間に合わないか、そんなことはお構いなく、神様のなさるわざがあることを信じていく。私はいつもこの言葉を思うとき、大変安心になります。「神を信じなさい」、いま私は何を信じているのか。どうぞ、自分に問いかけていただきたい。いろいろなことで不安になったり、恐れを感じるとき、また、失望落胆するとき、「恐れることはない。ただ信じなさい」。「いや、いったい私は何を信じているのか?」。事情を信じ、事柄を信じ、目の前の人を信じ、人の言葉に心を留めて「ああなったらどうしようか」「こうなったらこうしよう」「ああ、これだからもう、駄目や」と、そこへ頭を突っ込んで、なにも見えなくなってしまう。そのときに「ただ神を信じなさい」でしょう。神様の何を信じるのか。全能者でいらっしゃる、神様がすべてのものの主であって、すべてのことを御心のままに今もご支配くださっている。私たちは神様の大いなる力ある御手の中に握られているのです。そして、今この事が目の前に起こっている。これは神様がしておられる。そこに目を留めますならば、瞬時に私たちの心に大きな安らぎがある、平安が来ます。「ああ、そうでした。神様、あなたがこの事をご存じで」「神様、あなたがこれをどのようにでもなし得給う御方です」と、神を信じようではありませんか。きっと神様は、私たち信じる者にそのように応えてくださる御方でいらっしゃいます。私どもはそこに目を開きますと、「どうして、こんな馬鹿な、小さなことを悩んでいたのだろう」「何をくよくよ言っているのだろうか」「何をこんなことで苛立(いらだ)っているのだろうか」と、馬鹿馬鹿しくなってきます。神様に目を留める、しかも、神様が全能者でいらっしゃることを信じる。それが分からないと、小さなしようもないことに一生懸命になって、自分の人生がそれに懸(か)かっているかのように思う。「これがうまく行かなかったら、世界は終りだ」と言わんばかりに嘆いたりします。そんな馬鹿なことはないでしょう、神様がいらっしゃるのですから。しかも神様は全能の神です。この神を信じる信仰に立って、イエス様がおっしゃるように「恐れることはない。ただ信じなさい」。

 創世記17章1節に「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『わたしは全能の神である』」。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と。全能の神に信頼しきって、「自分の今もこれからも、将来のことも何もかも、神様、あなたが握っていてくださる。もうどうなろうと、こうなろうと、『我もし死ぬべきは死ぬべし』(エステル記4:16)、神様、あなたに命をささげます」と、神様に賭(か)けようではありませんか。命懸けというのは、そうですよ。そのとき、神様は思いもかけない、想像のつかない大いなる御業をあらわしてくださるからです。絶えず「わたしは全能の神である」と、私たちの前に立ってくださる主を見上げて、その御前に全く従い抜いて、勝利を得させていただこうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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