いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(86)「主は生きておられる」

2013年12月16日 | 聖書からのメッセージ
ルカによる福音書24章13節から43節までを朗読。

23節に「イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです」。
今日は主のご復活、よみがえりを記念するイースターです。つい数ヶ月前、12月には、イエス様がこの地上に来てくださったクリスマスをお祝いして喜び楽しみました。確かにクリスマスは大変恵まれた、さいわいな出来事です。罪のあがないとして、ひとり子であるイエス様を父なる神様がこの世に送ってくださった。そして、私たちのあがない主となってくださったことは、本当に感謝にたえません。また、喜びです。さらに大きな事柄がイースターです。

イエス様が十字架にかかって、死んでしまわれた。墓に葬られたが、三日目の朝、墓からよみがえったというのです。これは私たちにとっていのちと力に満たされる恵みです。クリスマスに外国の友人から手紙やメールが来ますが、「クリスマスおめでとう」というのは、英語でいうと「メリー・クリスマス」ですね。“メリー”というのは、楽しいとか愉快だとかという意味です。ところで「イースターおめでとう」というのは英語で「メリー・イースター」とは言わないで、「ハッピー・イースター」と言うのです。“ハッピー”という言葉を使います。それは幸せだということ、私たちを幸せにしてくれる事柄だ。イエス様がお生まれになったクリスマスは、楽しませてくれ、喜びを与えてくれる。しかし、イースターはもっとそれ以上に私たちを幸せなものにしてくれることです。

イエス様が死んで葬られ、弟子たちはみな失望落胆しました。今読んでいただきましたように、イエス様こそが、この世の中を造り変えて新しくしてくれる革命家と言いますか、クーデターを起こしてローマ帝国の圧制から自分たちを救い出して、イスラエルという神の国をもう一度あのダビデの時代のように盛んにしてくれる方だと期待したのです。ところが見るも無残に、あの十字架に無能無力な姿をさらけ出してしまった。多くの人々はがっかりして希望を失ったのです。そして、この二人の弟子たちはエルサレムを離れて、自分たちのふるさとに帰っていく途中でした。

彼らは、つい数日前に起こったイエス様の出来事をお互いにいろいろと語り合っていたのです。そこへ、一人の人が近づいてきまして、「いったい何を話しているのだ」と。「いや、実は、あなたは知らないのですか。こういうことがあったのですよ」と話をしました。その中で、23節に「イエスは生きておられる」と語ったのです。「イエスは生きておられる」、そう仲間の者が教えてくれた。それを聞いたイエス様は、「なんと心が鈍くて愚かな者たちか。どうして預言者が約束したことを信じられないのか」と、嘆いています。

人生には多くの問題があります。結婚であるとか、就職であるとか、あるいは子どもの教育問題であるとか、社会や世の中に問題と言われるものが沢山ありますが、一番の身近などうしても越えなければならない問題は死の問題です。死という問題が、私たちの生活のすべてに影を落としてきます。といいますのは、死んだらおしまい、“命あってのものだね”と世間では言いますが、死んだら何もかも終わりなのだ。死という大きなブラックボックス、黒い得体の知れないものの中にすべてが吸い込まれていってしまう。そして、それでおしまいになってしまう。そこでは希望を持てない、また喜びもなければ慰めるものもない。これが死というものの現実ではないでしょうか。多くの人々がその死を何とか遠ざけよう、何とかそれに目を向けまいとして生きています。

私たち自身がそうだと思います。今日か明日、死ぬことを知らないから、のんきな顔をして生きている。もし、何日後に死ぬのだと決まっていたら、これは大変なパニックです。また、正気でおれません。しかし、どんなことがあっても、自分はまだ死なない、死ぬはずがないと信じようとする。そのような思いがあるから、生きているのです。

戦争中、特攻隊の兵士が飛行機に乗って、敵の潜水艦に突入していく。その出発のときに、若い航空兵が並んで最後の別れの杯をする。それで、自分たちはこれで出発したら、死んでおしまいだと知っていながら、平気ということはないでしょうが、常軌をはずさないで少なくとも平静を装っておれるのはなぜでしょうか? 確実に死ぬのだとわかっている。これから飛行機に乗って飛び出せば、爆弾と共に敵にぶつかっておしまいになることを知っています。それを考えただけで恐らく足がすくむどころか、平常心ではおれない。なのに、彼らはなぜそういうことができるのだろうか。ある精神科医がいろいろと調べました。その結果、10人並んで今から飛び立つときでも、きっとこの中の一人くらいは生き残るに違いない。それは自分ではないかと思っている。100パーセント死ぬとは思うけれども、しかし、間違いがあるかもしれない。ひょっとしたら飛行機が途中で海水に不時着して自分だけ命を長らえるかもしれない。そういう、はかない糸のような、小さなことに望みを掛けているから平常心が保たれていると読んだことがあります。確かに、人間はどこかでまだ死なない、まだ死なないという思いを持ちたがると言いますか、それを持たなければ生きていけない。それほどに、死というものが私たちにとっては絶対な力をもって迫ってきます。

いつでしたか、一人の姉妹の告別式を教会でいたしました。その姉妹がお召されになって、記念会をしたいから来てくれと言われまして参りました。まだ葬儀の直後でしたから皆さんに記憶があるわけです。そのとき、召された姉妹のご主人が、「先生、今度の葬儀で私は大変感銘を受けました」とおっしゃいます。はぁ、何に感銘を受けたのかなと思っていましたら、「葬儀で先生が、人は自分がいつ死ぬのか知らないからこそ生きているのだ。もし、それを知ったならば、到底生きておられないに違いない」と話したと言うのです。それから、近所の人たちが弔問に来られる度ごとに、葬儀で聞いた話を皆に話していると言うのです。その方が言われるには、「確かにそうだと思う。もし、あと10日しか自分の命がないとなったら、まずもって、銀行がお金を貸してくれないと思います」とおっしゃる。それはそうだなと思います。皆さんが、銀行に行って「お金を貸してください。返済は10年返済です」と、平気で貸してくれるのは、まだ10年は生きるだろうと見ているからです。「私は末期ガンであと10日の命です。できれば百万円ほど貸してください」、「いつ返済しますか? 」、「10年後に返済します」、そんなのは貸すはずがないですね。もうすぐになくなるのですから。彼は愉快な方です。いろいろなケースで、もし、死がはっきりしたならばどういう事態になるかをシミュレーション、想定をする。それを具体的に話してくれました。私もなるほどそうだな、と気づかなかったことを教えられました。

確かに、死はこれでおしまい、これが私たちの通り相場であります。死んだらおしまい、死んだらおしまいと世の中の人は必ず言います。ところが、イエス様のよみがえりは、まさにすべての希望を失わせ、不安と恐怖に投げ入れる死を打ち破って、「イエスは生きておられる」と、勇気と力、大きな慰めを与えてくれる事態でした。

ヨハネによる福音書20章19,20節を朗読。

これも同じくイエス様がよみがえられた日の夕方のことです。弟子たちはイエス様の事件がありましたから、その仲間だと思われただけで憎まれ、怒りを受ける危険がありました。それこそ命がなくなるかもしれない恐れの中にありました。不安と恐れに囲まれて、生きた心地がしない。彼らは一つの家に身を潜めて隠れていた。その夕暮れ時にイエス様が彼らの中に入ってきてくださいました。そして「『安かれ』と言われた」。安心しなさい、心配することは要らない。「そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった」。そう言ってイエス様は、御自分の十字架の釘のあと、またやりで突かれた胸の傷のあとを見せて、私はこのように生きているではないか。死を打ち破った、死を乗り越えた姿を見せてくださいました。弟子たちは、ひょっとしてユダヤ人たちに見つかったら、自分たちもイエス様と同じように殺されるかもしれない。十字架につけられるに違いない。そういう恐れ、死の恐れがありました。また杖とも頼みともしていたイエス様がいなくなって、自分たちはどうしたらいいのだろうかと、途方にくれる思いがありました。そこにイエス様は現れてくださったのです。お前たちはなぜ死を恐れるのか。私を見てご覧なさい。私は死に打ち勝ってここにいるではないか。ですから20節に「そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった」。イエス様が見せられたのは十字架にかかる前のイエス様ではなくて、よみがえってくださった、死を乗り越えて生きる、永遠の命の望みを与える姿でした。弟子たちはどうしたかといいますと、その後に「弟子たちは主を見て喜んだ」。イエス様を目の当たりにして、「ああ、そうだ」と。これが、私たちの今も変わることのない神様の恵みです。よみがえりのいのちです。私たちに主が今も生きていることを教えてくださいます。そのイエス様に目を留めることがいのちです。

確かに、私たちの生活には弟子たちと同じように恐れがあります、不安があります、望みがありません。さまざまなことで心配します。思い煩います。そのとき、私たちはイエス様から目が離れてしまっています。弟子たちもイエス様がいないと思って、一つの家に隠れ潜んでいました。そこに、イエス様が現れてくださったので、初めて喜びにあふれるのです。イエス様は死を打ち滅ぼしてくださった方です。このイエス様にできないことがない。神様はできないことがないお方です。私たちが不安になっている、心配している事、到底手に負えないとあきらめようとしている事柄、それらは死を乗り越える力以上に手強いものでしょうか。私たちが絶望だと悲観している事柄は死を前にした恐れ以上に怖いものでしょうか?死の恐怖以上の怖いものはどこにもありません。イエス様はその一番大きな恐れの源、死を打ち破ってくださった方です。その方は、悩み、心配、不安、恐れをどのようにでもできる方ではないでしょうか。私たちはそれを忘れている。「イエスは生きておられる」。この言葉は、私たちの望みがどこにあるのか、誰を見るべきなのかを語っています。

私ののどが先週から少し悪くなりまして、気管支炎だろうと思うのですが、なかなかすっきりしないでおります。先週も調子が悪かったのですが、イースターにはいい声になって、美声を聞かせようと思っておったのです。で、月曜、火曜と、さきの木曜会のときも随分調子が良くなりまして、やれやれこれで大丈夫と思いました。ところが金曜、土曜と日が迫るにつけて一向に改善しない。どうなるだろう、ひょっとして声が出ないといけない。声が出なかったら、あれが困る、これが困る。どうしようかと、家内に相談します。「声がでているかね?」と言いましたら、「いや、ひどいよ」と言うのですね。ガクッとなります。そして、追い討ちをかけるのです。「これはちょっと大変よ。八幡の礼拝に行って咳き込んで、以前のお父さんみたいに講壇の上で大変なことになったらどうするね」と言うのです。そう言われたら、なんだかそうなりそうな気がしてきます。

そのときに、この礼拝のために、どのように神様は導いてくださるか祈って、待ち望んでおりましたときに与えられたのが、「イエスは生きておられる」。そのとき頭をガツンと神様から殴られたようでした。ああそうでした。私が生きているのではなく、イエス様が生きていらっしゃるから、私は生かされている。イエス様がよみがえって生きていらっしゃるのは、何のため? 私の主となるためです。そのイエス様が声が出なくてよろしいと言うのなら、それでいいではないか。お前はこれで止めとけと言われたら、そこで止めればいい。家内は「初めは良くても、途中で声が出なくなって咳き込んでばかりになり、皆さん、嫌な思いをするよ」と言います。そうだな、と思います。

そのように見える状態や事柄のほうに心がいってしまう。それで心配になる。ところが、イエス様はもっと大きな心配である死を打ち破って、望みとなってくださった。よみがえって「イエスは生きておられる」。そのときに、「そうでした。私がするのではありません。イエス様、あなたは生きていらっしゃいます」。御言葉を通して、もう一度主に触れることができました。そうしますと安心があるのです。心に平安があります。「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。私はそこで喜びました。イエス様、そうでした。あなたが生きていらっしゃる。あなたにお任せしますから、どんなにでもしてください。与えられたところ、いけるところまでいきますから……。それで思い出したのですが、父がよく「人は死ぬまで生きている。いけるところまでいけ。倒れたらそれでよろしい」と言っていました。こちらは、倒れる前から倒れたらどうしようかと心配する。どうぞ皆さん、今日、「イエスは生きておられる」と、皆さんの主となって、私たちが肉体の命を超えて生きる者であることを、イエス様は明らかにしてくださいました。そして、イエス様は不安や恐れを取り除くことができない方、無力な方ではない。すべての望みや喜びや平安を奪い取っていく死、それすらも乗り越えられたイエス様が、私たちの抱いている不安や恐れをどうして取り去る事が出来ないでしょうか。いや、それどころか、もっと大きなことをしてくださるのです。

列王紀上17章以下のところを読みますと、預言者エリヤの記事が記されています。その当時アハブ王様は真(まこと)の神様を離れて、偶像を拝むようになってしまいました。とうとう、神様はイスラエルの国を、三年間雨が一滴も降らない大変な事態に追い込まれました。そのときに預言者エリヤに対して、神様は「ケリテ川へ行け」と言われました。そこを読みましょう。

列王紀上17章1節から5節までを朗読。

神様はエリヤに対して、「あなたを養うからケリテ川へ行きなさい」。この川だけはかろうじてまだ水が残っていました。そこで、神様はからすをもってエリヤを養ってくださいました。からすというのはどん欲な鳥ですから、人に物を運ぶような愛に満ちた鳥とは思えません。でも、神様がなさるとき具体化しました。素晴らしい神様の業を体験する秘けつは、5節です。「エリヤは行って、主の言葉のとおりにした」。ここです。1節に「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます」。神様は、主は生きていらっしゃる。その神様の言葉をエリヤは言葉のとおりに信頼しました。そのとき驚くべき神様の不思議な業に出会います。神様ご自身に触れるのです。事実、ケリテ川の川水がかれ果てるまで、彼はそこで神様に養われました。そして、川水がなくなったとき、8節以下に「その時、主の言葉が彼に臨んで言った、9 『立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう』。10 そこで彼は立ってザレパテへ行った」。ここでも、もう一度エリヤに対して神様は、さらにザレパテに行き、やもめの女の人のところで養ってくださったのです。息子とお母さんはこれが最後とパンを焼いて、食べて死のうとしていたのです。そこへエリヤがやって来て、その最後のパンを私にくれと横取りしました。食べ終わって、さぁ、あなたたちも食べなさいと言う。食べなさいと言われても、もうない。もう一度「かめ」の中を見ると、もう少し粉があった。なんとかそれを集めてパンを焼いた。それからずっと、「かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」。神様は彼らをちゃんと養ってくださいました。それは「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます」と、エリヤは生きている神様の言葉を信頼したのです。

今もイエス様は生きていらっしゃることを体験するただ一つの道は、わかろうとわかるまいと、納得しようと、しまいと、聖書にこうあります、イエス様はこう語っていますと、御言葉を信じること、そしてそれにお従いする以外にないのです。エリヤがそうであったように、今も主は変わりません。何千年昔の話であろうと、神様は永遠から永遠に、過去から現在、未来にわたって変わることのない方です。私たちは、この地上の生涯で、日々の生活の中で、直面する問題や事柄の中で、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます」と信じるのです。「そうです、主よ、あなたは生きていらっしゃいます」と、心から主に触れることができるように御言葉をしっかりと握って信じていきましょう。

12年の長きにわたって病気であった女の人が、イエス様が来られると聞いて、何とかして癒されたいと願い、衣のすそにでも触ろうと出てまいりました。そのとき、イエス様に触れた彼女はその病がすっかり癒された。それはイエス様に触れたからです。イエス様の話を聞いたから、ニュースを聞いたから治ったのではない。彼女が直接出て行って、イエス様を信頼して、信じて御衣に触れる。ただ一つ聖書の御言葉を通して、イエス様は私たちに近づいてくださる。主の御言葉を信じて、与えられた問題や事柄の中で、「主よ、あなたは生きておられる。信じます」と信じて従ったとき、よみがえってくださったイエス様が、今も生きていることを体験する。それは昨日、今日、明日と永遠に変わることのない主の力が、私たちのうちに注がれるからです。

最初の「ルカによる福音書」24章23節に「イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです」。「イエスは生きておられる」。いろいろな問題に会うときに、いろいろな事柄で失望し、落胆し、不安と恐れの中にあるときに、「イエスは生きておられる」と信じて告白していく。主よ、あなたは生きていらっしゃる。その方に心を向けること、思いを向けていこうではありませんか。目に見える状態や事柄ではなくて、イエス様に私たちの思いを、「そうだ、主は生きていらっしゃる。主の手にかかってできないことは何もない」と。神様が今も生きていらっしゃることを、私たちも体験し、生きる者となりたいと思います。

神様は、私たちがこの地上にあって悩みと悲しみと嘆きの中に過ごすことを喜ばれない。私たちを喜び歌わせ、感謝、賛美させてくださいます。そのただ一つの道はイエス様に触れること。今、よみがえって生きてくださっているイエス様に絶えず目を注いでいくとき、喜ぶことができるからです。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。































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