いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(443)「神は愛である」

2015年01月16日 | 聖書からのメッセージ
  「ヨハネによる福音書」3章16節から21節までを朗読。

16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 ある方は聖書の中にこの御言葉がなかったら聖書は何の意味もないと、極端なことを言われます。そのくらいこのお言葉を通して語られている神様の御思いは、どんなに感謝しても足りません。「この世を愛する」と言われますが、この世とは、私たち一人一人のことです。ですから、よく言われるように「この世」という箇所に自分の名前を入れて読んでください。「神はそのひとり子を賜わったほどに、榎本を愛して下さった」と、私は読みます。神様が私を愛してくださっている。神様のご愛の大きさ深さ高さ、それはいかほどであるか、計り知ることができませんが、ただ一言「ひとり子を賜わったほどに」という言葉に集約されています。

神様のご愛はどうやって測ることができるか? 人の愛はよく物に換算をしやすいわけであります。「そんなに私を愛しているなら、あれを買ってくれ、これを買ってくれ」と、言われた経験があると思います。ある尺度といいますか、金銭的な評価で“愛”を表そうとします。それに慣れてしまいますから「神様が私たちを愛してくださったと言うが、どのくらいだろうか」、「どの程度の愛を私に与えてくれただろうか」と。自分のいま置かれている生活をつらつら振り返ってみると、どうもそれらしきものがない。自分の願ったように、思ったように事は行かないし、嫌なことや辛いことばかりが次から次へと起こってくるし、「いったいこれで神が愛だと言えるか」と不満に思う。

よくお証詞しますように、以前教会の入り口の所の袖看板に、『神は愛である』とのお言葉が掲げてありました。夜になるとそれに灯りも入ってどこからでも見られるようになっていました。今は教会の名前に変わりましたから、それはありません。あるとき、伝道集会の始まる前でしたが、一人の人が訪ねて来たのです。酔っぱらっておりました。酒のにおいをぷんぷんさせながら「責任者はおるか!」と言うから「はぁ、私です」と出てみると「表に何と書いてあるか」と言うから「『神は愛である』と書いてある」「だったらどうしてこんなことがある」と、それから延々と世界に戦争があるとか、飢餓があるとか、あるいは国内にこんな問題があるなどと、次々とひとしきりしゃべって「これをどうしてくれるんだ!」と。「神が愛であるなら、そんなことが起こるわけがないじゃないか。そもそもあんな物を掲げておくなんてけしからん。早く下せ!」と言われたことがありました。私はなだめまして、「あなたの気持は分かるけれども、もう一度改めて集会に出ていらっしゃい」と丁寧(ていねい)にお引き取りを願ったのであります。

世の人はやはりそのように思いますね。神様が私たちを愛してくださる。愛されるということは自分にとって都合の良いことをしてくれる。自分にとって心地よいこと、あるいは自分にとって願ったりかなったりの答えを出してくれる人は自分を愛してくれる人だ、と思う。私たちはそういう価値観の中でここまで生きてきましたから、なかなかそれが抜けきれません。ですから、世の人もそうであります。「神は愛である」、神が愛であるならばどうしてこんな嫌なことがある? 辛いことがある? それこそいろいろ言い出すと切りがないくらいに愛のない世界だと証明しようとすればいくらでもできるのかもしれません。しかし、神様が私たちに注いでくださった愛とは、そういう物に置きかえることができるものではない。対症療法のように痛いときには痛み止め、熱が出たら解熱剤というような、膏薬(こうやく)を張るがごとく、あそこを何とかしてという、そういう形のご愛ではない。では、何を愛というか。その事が「ヨハネの第一の手紙」に語られています。

「ヨハネの第一の手紙」4章7節から11節までを朗読。

ここに「神は愛である」と繰り返して語られています。10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって」とあります。まず私たちは神を愛したことはなかった。いやそれどころか、神様すらも知らなかった。ただ人の力、自分の力、自分の知恵、自分の考え、自分の計画、これこそがいちばん幸いなものだと思っていました。私たちの造り主がおられること、私たちが何者かによって今ここに生かされていることなど一向に考えることすらなかった。ただ自我といいますか、自分の我がままな、自己中心な思いで生きていたのです。ですから、ましてや神様を愛することなどありません。それどころか、人を愛することすらもできなかったのです。私たちは自分を愛することに力いっぱいで、自己愛しかないわけであります。私たちはそのように本当の愛を知らない者であった。10節に「神がわたしたちを愛して下さって」とありますように、神様のほうがそういう私たちを愛してくださった。「ローマ人への手紙」5章には「私たちが敵であったとき」「不真実な者であったとき」、神様にとって何の益にもならない、それどころか、むしろ神様に敵対し、害悪をなす者であった私たちを、あえて愛してくださったと、語られています。まさにこの10節にありますように、神様のほうがまず私たちを愛してくださった。その愛はどこにあるか? 「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」。神様から離れて、自己中心な我がままで自分勝手な生き方しかできなかった。その結果、不平不満、つぶやき、苛立ち、憤り、失望、不安、落胆、そういう闇の中に生きておった。望みがない、喜びがない、感謝ができない。こういう状態は、私たちが神様から離れてしまった結果なのです。そもそも神様が私たちを造られたとき、決してそのような暗い闇の中を生きる者として造られたのではありません。それどころか、神様は私たちを素晴らしいエデンの園といわれる所に置いてくださって、神と共に歩む、造り主である神様と何の妨げもなく、隔てるものもなく、親しい交わり、裸の付き合いができる関係に置いてくださったのです。それは、私たちが喜び感謝して神様の恵みを褒めたたえるためです。私たちを造ってくださった神様を喜び、感謝し、主を褒めたたえるために私たちは造られたものであります。ところが、私たちが造り主である神様を離れた。いうならば、私たちの喜びであり命である御方から切り離されてしまった。

私たちの生活にはライフラインというものがあります。電気であるとか水道などです。先般の東北大地震ではそれが瞬時にして止まってしまった。そうしますと、生活に困るのです。飲む水もなければ、温まる、煮炊きするための電気も何も、ガスもストップしてしまう。まさにライフライン、いわゆる命の絆(きずな)が切れてしまう。すると、そこは闇の世界です。それでは生活に困る。様々な困難が次から次へと襲ってきます。やがて時がたって電気が復旧し、ガスが通るようになり、水が使えるようになる。そうすると人々の心がだんだんと明るくなってきます。笑いが戻ってくるでしょう。望みも湧(わ)いてくるでしょう。常日頃生活しているとき、当り前のようにスイッチ一つで電気がつくし、蛇口ひとつで水が飲める。「そんなのは当り前じゃないか」と思っていますが、これがいったん切れてしまったら完全にお手上げであります。

それと同じように、もう一つの内なるもの、私たちの中にある命、これは私たちが造られたとき、「神様が命の息を吹き入れて人は生きる者となった」(創世 2:7)とあるように、神様からの命の息を絶えず受けて行かなければ生きることができない。命綱です。最初に人が創られたとき、そうやって人は神様と交わり、神様からの命を頂いて生きていた。ところが、神様が「してはいけません」という、その言い付けを破ってしまって、罪を犯した。そのときから人は神様からの恵みと祝福を受けることができなくなった。いうならば、ライフラインが切れてしまった。その結果、エデンの園から人が追放されてしまった。しかし、神様は「こんなやつはわたしは知らない」と捨てられたのではない。何といっても神様は私たちをご自分のかたちに似た者として、尊い者として造ってくださったのです。私たちが滅びることを願っておられないのであります。何とかして神様の許(もと)に立ち返らなければ私たちの内に命がない。そのために神様は私たちを追い求めてくださる。滅びに向かって闇の中に生きていた私たちをそこから救い出してくださるために、ご自分の尊いひとり子を世に遣わしてくださいました。その動機は何であったか? それは愛です。そのことが10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」と。「あがないの供え物」、私たちの罪を清めてもう一度神様の命に私たちをつないでくださる。途切れてしまった命のきずなをもう一度つないでくださるために、尊いひとり子を私たちの所へ送ってくださった。「神様はそんなややこしいことをしなくても、ちょっと切れた所をつないでさえくれたらいいじゃないか。わざわざそんなひとり子を、神様の子供まで巻き込んで、そんなことまでしないといかんのかな」と思う。それは私たちが人と神様との関係がどんなものであるか、もうひとつ理解しない結果であります。神様はあくまでも義なる御方、聖なる御方、「一点の曇りもない光のような御方である」と聖書に語られています。その神様は私たちをとっくの昔に捨てて当然であります。ただ、神様のご愛のゆえに、憐れみのゆえに、何とかして私たちの罪を赦して救いにあずからせる。神様の前に罪を犯したことは、「ごめんなさい、しまった、あの時悪かった。許してね」と軽くすませることはできない。その程度で許される関係ではないのです。神様はあくまでも万物の創造者、造り主です。それに対して私たちは、神様に造られた低いものです。被造物である私たちがいくらどんなことをしても、私たちの側の努力や何かで神様に犯した罪は、償(つぐな)うことができないのです。造り主と被造物との関係はこのようなものです。

電気器具をよく使いますが、新しい電気器具を買ってきてスイッチを入れたら動作しない。そういうときどうするか。機械に向かって「お前、壊れているから早く自分で直せ」と、その電気器具に命じません。造られたものは壊れた所を自分では修復できないのです。どんな物でも壊れてしばらくしたら自分で直ってきたぞ、という話は聞いたことがない。車に乗って調子良く走っていて、あるときトトト、ストンとストップしてしまったら「あら、どうして? 」と、腹立ちまぎれに車を蹴飛ばしてみたって、「早く動け!」と言っても、「ちょっと待ってくれ、もう少し休んだら動くから」とは言わないでしょう。これは造り手の所へ持って行く以外に仕方がないのです。そして、それを修理してもらう。神様と人との関係はそういう関係です。だから私たちが神様に犯した罪の償いはどうやってできるか? 私たちがいくら功績を積もうとそれは無駄です。役に立たない。それでは追い付かないのです。では、どうするか? 造り主である神様に造り替えてもらわなければ、私たちではできない。このことを聖書は語っているのです。これが神と人との根本的な関係です。だから、神様はあえてご自分のほうから私たちに近づいてくださった。そのことが10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」と。しかも神様に対して罪を犯した者が償うには何をもって償うのか? 何か高価なブランド品でも持ってご機嫌伺いに行こうかと。そんなことではありません。聖書には命をもってその代償とするように求められています。私たちが死んでおわびをする、その命を求められる。しかし、いくら私たちが死んでも、私たちの命は、そもそも神様にとって何の役にも立たない。では、神様は「仕方がないから、チャラにしてやる。お前たちの罪はもう無かったことにしてやる」というわけにはいかない。なぜなら、神様は義なる御方、正しい御方ですから罪については一分一厘、たとえ毛筋ほどの汚れであっても、それは許せない。光なる御方、曇りのない御方でありますから、神様の前に全く潔い者とならなければならない。しかし、私たちはできない。そこで神様が与えてくださったのがご自分の罪無き御方、神と全く等しい御方が肉体をとって人となり、人の世に下って私たちと同じ様になりきってくださった。「罪は犯されなかったが」とあるように(へブル 4:15)、私たちと全く同じであって[弱さを知り、病を知り、悲しみの人であった]といわれています(イザヤ書53章)。しかし、決して罪を犯したことのない御方、完全なる御方です。これは神様が備えてくださらなければあり得ないことです。そのひとり子・御子を、私たちの罪のあがないとして、私たちが死ぬべき身代わりとして十字架に釘づけたのです。その命を絶ってくださった。私たちが受けるべき呪いと刑罰を一身にイエス様が十字架で受けてくださった。しかも罪無き御方、汚れ無き御方が罪人とされて、私のため命を捨ててくださった。これによって神様の義が全うされる。義なる御方、聖なる御方としての神様の力と権威が十字架によって完成するのであります。全うされるのです。それと同時に、私たちに対する神様の消すことのできない愛の御思い、愛なる思いがそこで成就し、完成するのです。だから、私たちにとってこの十字架は何と感謝してよいか分からない、大きな恵みであります。ですから、10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と。神様はご愛をその十字架を通してあらわしてくださった。私たちの罪のあがないとしてひとり子をすらもこの世に送って、私のために身代わりとしてくださった。これが私たちを愛してくださった神様のご愛です。

「ヨハネによる福音書」3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。神様は私たちを愛するがゆえに、何としても私たちを滅ぼしたくない。そのためにどうするか? 神様は驚くべき知恵を働かせて、ご自分のひとり子を汚れ無き神の羔羊(こひつじ)として、私たちの罪のあがないとして、この世に遣わしてくださいました。この驚くべきことをして「わたしはあなたを愛しているよ」と語り掛けてくださったのです。神様は全ての人がイエス・キリストのあがないによって、ご犠牲によって救いにあずかる道を完全に完成してくださった。もうこれに付け加えることは何もないのであります。これ以上のものももちろんありません。ただ一つ条件がある。それは「御子を信じる者」とあります。全ての人に対してこの救いの道が開かれ与えられているのですが、しかし「そんなもの、俺は信じんよ」と言う人にはその恵みは届かない。

皆さんのうちに、みな同じように宅急便が届いたとします。どこから? 神様からの宅急便が届く。「これは神様からの宅急便が私に与えられたもの」と、感謝して開ける人はもらえます。「差出人が分からん、これはどこから来たの? 」私も何年か前にそういうケースがあったのです。クリスマス時分にプレゼントが贈られてきた。見ると一度も聞いたことがない人の住所と思って「これ、開けて大丈夫? 」と家内と2,3日眺めたまま手を付けなかった。すると、ある方から電話がありまして「先生、申し訳ないことをしてしまった。実はそれは別の人の物でした」と。開けなくて良かった。

神様からだったら早く開けたほうが良い。神様は全ての人にイエス様をプレゼントとして与えなさったのです。「私は今だに喜びも楽しいことも望みもなければ感謝もないし、見るところ聞くところつぶやきの種、しゃくの種ばかりで何の楽しいこともない」。そう思っている方は、自分が滅びに向かっているのだ、神様の命が私には来ていないと悟ってください。ライフラインがストップしてしまっている。そこをもう一度つないでくださるのはただお一人、イエス様を信じることです。イエス様を信じるとは、イエス様が私のために命を捨ててまで罪を赦してくださる。神様の前に私を罪なき者としてくださる。私の罪を全て消し去ってくださって、今は赦していてくださる。
私もそのことが初めは分からなかったのです。「神様は信じるけれども、どうしてイエス様を信じなければいけないのだ。神様と私だけあれば良いじゃないか」。ところが、それは間違いだと初めて気がついた。私と神様はそもそも遠い存在、交われないもの、全く違った世界にある者だ。イエス様が私のために十字架に命を捨ててくださった。私の罪を赦して「父よ、彼らを赦し給へ」(ルカ23:34文語訳)と執り成して、十字架にご自分の命を捨ててくださった。それが誰のためでもない、私のためであった。これを知ったとき、本当に肩の荷が下りるといいますか、風船がシューッとしぼむような思いがしました。それまでは自分の義を「私は正しい人間」「私はどこにも悪い所はない。悪いのは世の中が悪い、あいつが悪い、これが悪い。あんな人は世の害悪である」と、まるで山嵐のようにツンツンして、心の中が休まるときがない。それでいて「私はどこにも悪い所がない」「私は立派な人間」「私は神様を信じている」と自慢する。これがいちばん厄介なのです。そのように思っていました。ところがいろいろなことがあり、初めて「父よ、彼らを赦し給へ」と、イエス様が赦してくださったのは誰か? 自分ではないか、いま私がこうやって生かされているのは、神様が私のためにひとり子を与えてくださったからである。私は赦されていま生きている。自分が生きているのではない。それまであいつが悪い、こいつが悪いと、何もかも自分の身の不幸を人のせいにしていたのですが、それっきりパタッと心が変わりました。私がそのように赦されているのですから、人を許さないことはあり得ない。その人のことも神様が赦してくださっている。「彼のためにもキリストが命を捨てられたのである」。ただその人はまだ気がつかないだけなのです。まだイエス様を信じないご家族の方がいると「うちの主人は神様のこともイエス様のことも知らないなんて、こんなのは駄目だわ。私のようにならなきゃ」と、私がズッと高くなりそうですが、それは間違いです。私も赦された者にすぎない。この人たちはまだイエス様を知らないけれども、実はこの人も私以上に神様が愛していらっしゃる。そしてこの人のためにもイエス様が死んでくださったのだから……。「自分のためにイエス様が死んでくださって有難い」と言いながら「あの人のためにはまさか死んでないでしょう」と、これはないですよ。自分のためにイエス様は命を捨ててくださったならば、それを信じるのですから、ましてやあの人のためにもこの人のためにも、みな神様は愛していらっしゃるのであって、ただそのご愛にまだ気がつかない。プレゼントが届いていながらまだ開いていないから喜べないでいるだけのこと。だから、そのことに早く気付いてほしい。それは私たちの願いではあります。また、それは神様が願っていらっしゃることですから、私たちが神様に求め祈っていくことは幸いな恵みであります。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで」とここにありますように、全ての人が救いにあずかる。何のために? 「永遠の命を得るためである」。これはいつまでも死なない不老長寿という意味ではないのです。「永遠の命」とは、私たちの生きる命です、力です。「では、私は死んでいるのか」と思われるでしょうが、実はまさに死んでいるのです。私たちは生きる屍(しかばね)であります。確かに肉体的な意味での命、健康に恵まれて心臓が鼓動して血圧が正常値にあって、脈拍も順調に拍動している。だから、私は生きているから命があると言いますが、これはあくまでも肉体の命であります。これは肉体でありますから、どんどんとちびれて行きます。使えば減って行くものであります。弱ってきます。それが証拠に、年をとるごとにどんどん弱ってくるじゃないですか。足腰も弱ってくるし、傷んでくるし、目もしょぼくれて頭の記憶も悪くなるし、それと同時にいろいろなことができなくなり、毎日溜息をつくじゃないですか。「まだ生きているのか」とガッカリするようになる。だんだんと生きる喜びがなくなる。それは、ただ単に肉体の命だけが生きていると思っているからです。それはどんどん減って行くものですから、今年よりも来年はもっと悪くなりますよ。だから、それでは駄目です。「コリント人への第二の手紙」にありますように「たといわたしたちの外なる人は滅びても」(Ⅱコリント 4:16)と、「外なる人」、私たちの肉体の命は欠けて行きます。それはやむをえません。ところが、もう一つ命を神様は与えておられる。その永遠の命は、分かりやすく言うと、いつも喜んでいることができる。望みに輝いている。感謝することができる。平安でおることができる。これは永遠の命のある人の姿であります。どうですか? 皆さん、病気になろうと、あるいはどこかが痛かろうと、何をしようとどんな中にあっても、いつも穏やかに平安でおられるか。そういう心が私にあるだろうか。また家族の思いがけない事故や病気や様々な問題を聞いても失望しないでなお望みをもつことができるか。希望がある、失望することがないとおっしゃる方は命があるからです。「永遠の命」とは、あのエデンの園に人が創られたときに神様が注いでくださった命、その永遠の命に満たされる。その命を注いでいただくとき、私たちはどんな事情や境遇、問題、事柄の中に置かれても平安でおることができ、喜んでおることができ、感謝することができる。また望みを持って生きる者となることができるのです。だから16節に「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と。「滅びないで」とあります。滅びるとは、私たちが死んでから地獄に投げ込まれる、永遠の滅びに定められたという意味でもありますが、もう一つ、もっと身近なところで、いま既に私たちが滅びの中に置かれてしまった、という意味でもあります。「御子を信じる者がひとりも滅びないで」とありますが、永遠の滅び、すなわち世の終わり、終末の時に神様が裁かれる裁きによって永遠の滅びに落とされることばかりでなく、今この所にあって既に私たちは滅びの中に置かれてしまう。「え!私はそんな滅びなんかではない。私は生きているし、借金があるわけではないし、不治の病で明日生きるか死ぬかでいるわけでもないから、私は滅びていない。将来は分からんけれども」と思うでしょう。ところが、私たちの心に平安、喜び、望み、感謝、そういう輝いた心がない。まさにそれは滅びの状態です。

だから、その後17節に「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」と。ここにも「この世」と繰り返されていますが、これは私たち一人一人のことであります。「神が御子を世につかわされた」、私たちのために遣わしてくださったのは「救われるためである」と。そして18節に「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている」という。信じない、救い主でいらっしゃるイエス様が来てくださって、私たちのために命を捨てて十字架を立てて「あなたの罪は赦されたよ」と宣言されている。それを「そうですか。感謝します。有難うございます」と信じる人は、その時救われる。「そんなものはあるか。夢みたいなそんな馬鹿な話はあるか」と拒んだ人は、その瞬間既に滅びの中にある。そのことがそこに書かれている。だから、イエス様が来られたということは、救いと滅びとはっきりと切り分けるために来てくださった。いま私たちは幸いにも、神様の憐れみをもってイエス・キリストを信じる救いにあずからせていただいている。ところが、まだイエス様を信じないでいる人たちは、いま滅びの中にあるのです。だから、その先に「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」と。本当にそう思います。イエス様を信じないがゆえにしなくてもよい苦労をし、悩まなくてもよい悩みを悩んで楽しんでおられる方がよくおられます。私どもは幸いにこうしてイエス様を信じ、イエス様が私たちの命となってくださる。ですから、問題があろうと、悲しいことがあろうと、辛いことがあろうと、困難があろうと、どんな事態や境遇に置かれてもイエス様を信じる私たちの内には命が燃え続けている。そこに喜びがあり感謝があり望みがあり、平安があるところです。

どうぞ、私たちは「いま私は永遠の命なる神様の命に生きているだろうか」と自分に問いかけてください。皆さんが「喜んでいるだろうか」と鏡を見てください。ただこれだけです。険しい顔をしているとき「私はイエス様を信じていない。裁かれている」と。これは非常に分かりやすいのです。感謝ができていない。表向き人の前ではニコニコしているけれども目が笑わない。険しいのです。そういうとき人を恨んでいたり批判していたり裁いている心があるから、心が死んでいるのです。今日神様が永遠の命を私たちに与えてくださる。イエス・キリスト、この御方こそが永遠の命です。そして、イエス様を信じて行くとき、慰めが与えられ、喜びが与えられ、感謝が湧(わ)いてきて何があっても平安でおられるのです。このためにイエス様は神様によって私たちの所へ遣わされたのです。

どうぞ、今日もう一度、神様が私たちにどんな大きなご愛を注いでくださったか、深く思いめぐらし主のご愛を確信しましょう。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。「永遠の命」とは何か? これは主イエス・キリストを信じること、イエス・キリストを私たちの内にしっかりと頂くことであります。私たちの内に住んでくださったイエス様と共に歩む者となりたい。これは神様が私たちを愛してくださった証詞だからです。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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