「ローマ人への手紙」8章26節から30節までを朗読。
27節「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。
26節以下に「御霊」という言葉が繰り返し出てきますが、「御霊っていったい何だろう?」と思われる方もいるかもしれません。「神様」とはよく聞きますし、「イエス様」という言葉も聞きます。それに加えて更に「御霊」となると、こんがらがって、「いったい、どうなっているのだ」となります。よく世間ではキリスト教の神のことを「三位一体の神」と言います。「三位一体」とは一つのものであって三つの役割といいますか、権限、権能、そういうものを持つもの、という意味合いであります。父なる神様、私たちが言うところの天地万物の創造の神と、そのひとり子でこの世に遣(つか)わされた御子イエス・キリスト、そして、イエス様が天にお帰りになった後に私どものもとに神様が遣わしてくださった霊なる神、御霊、聖霊、この三つのものを指して三位一体と言います。聖書にはどこにも「三位一体」という言葉は出てまいりません。しかし、イエス様の語ったお言葉にもありますが、ご自分は神様のものであって、またわたしの代わりに御霊なる神様が遣わされるのだと、神とイエス・キリストと御霊は一つであることを語っておられます。ですから、「御霊」と言おうと、「主イエス・キリスト」と言おうと、あるいは「神様」と言っても、これは一つのことです。分かりやすく言えば神様のことを全部あらわしているとも言えますし、また「神様だ」と言うとき、それはイエス・キリストのことでもあるし、御霊なる神のことでもあります。「ややこしいことをする。だったら一つにしておけばいいじゃないか」と思いますが、それぞれに大切な役割があるからです。
「神様」という言葉であらわされるものは、天地万物の創造者、全能の神、すべてのものを造り存在させておられる御方。いま私たちがこの地上に命を与えられて生きていますが、私たちの命も、生活もそうであります。この大宇宙もそうであります。そのすべてのものを造り、力ある御手でもって確実に動かしておられる。常にきちんと支配しておられる神様を「神」という言葉によってあらわしています。
では、主イエス・キリストは何かというと、神様が私たちを愛しておられる、愛の証詞、印(しるし)です。神様は私たちを造って道具にしようということではなくて、人を造られた目的は、神様の愛の対象として、愛すべきものとして造ってくださった。大切な存在として私たちを造ってくださったと聖書には記されています。創世記に人が造られたとき、神様は「ご自分のかたちにかたどって、ご自分に似たものとして造ってくださった」とあります。動物やそのほかいろいろなものを創(つく)られたのですが、神様に似る者として造られたのは人間だけです。神様がご自分にかたどって人を創るとは、取りも直さず、神様がどれほど私たちを大切なものとしておられるかをあらわすことにほかなりません。神様は私たちを掛け替えのない尊い存在として造ってくださったのです。これは私たちが自分を知るうえで大切なことです。
近ごろ聞く話ですが、「どうして、人は人を殺してはいけないのか」と問われるそうです。そうすると「自分が殺されないために人を殺してはいかん」とか、訳の分からない答えになってきます。聖書には「汝、人を殺すなかれ」という十戒、モーセを通して神様が与えられた戒めがありますから「人を殺してはいけないのだ」という説明をしますが、もっとその奥に、私たち一人一人が神様の大切な存在であるから、それを壊(こわ)す、駄目にしてしまうことは、神様に大きな罪を犯すことになる。このことがなければ人が人を殺したり、自分で自分を壊してしまう、いわゆる自死、自殺は神様の前に正しい歩みではないことがはっきりしてきます。
最近、心を痛めるニュースを度々聞きます。先日も家内が「まぁ、またひどいことがあって……」と言う。私は何の事かと思った。「三歳ぐらいになる子供をお母さんが突き飛ばして、骨折をさせた」とか、あるいは「自分の息子を10日間以上もトイレに閉じ込めて、殴る、ける、暴行のかぎりを尽くして虐待(ぎゃくたい)する」とか、次から次にそういうニュースが続きます。皆さんも聞いているとおりであります。「どうしてそんなことになるのだろうか?」と理解できませんが、いちばん根本の所で、自分がどんなに大切な存在であるかを忘れているのです。神様が私たちを大切な存在として造ってくださった。造り主である神様を忘れて勝手なことをし始めて、いま私たちの見る悲惨な現状が造り出されているのです。「いや、あの人たちが特殊であって、私はそんなことはしない」と思っているかもしれませんが、決してそうじゃありません。人の心の中にある悪の力、いうならば、「罪」と聖書でいわれていますが、罪の力が人を支配したときに、自分で想像もしない悪が姿を現してきます。それが具体的な行動になってきます。私たちは自分がそういう存在であるということを絶えず自覚しておかなければ、とんでもない失敗をするに違いないと思います。聖書には神様が私たちを造って、私たちを愛する対象としてくださった。だから、ご自分の愛を表すために、ひとり子イエス・キリストをあえてこの世に遣わしてくださった。そして十字架に命を捨ててくださった。何のためにイエス様は十字架におかかりになられたのか?それは私たちを愛してくださるからです。神様は限りない大きな御愛を私たちにあらわそうとしてイエス・キリスト、ご自分のひとり子を遣わしたのです。ですから、私たちの本来死ぬべき、神様から呪(のろ)われて刑罰として滅ぼされるべき身代わりとして、主イエス・キリストが十字架にかかってくださった。その大きなご犠牲を払った御方としてイエス・キリストという名前を用いているのです。いうならば、神様の愛の姿がイエス・キリストです。私たちはそんなにまで大きな御愛をもって愛されているのです。人からではない、家族からでもない。それどころか、もっともっと大きな万物の創造者でいらっしゃる神様が、ひとり子を賜ったほどに限りなき愛をもって、私を、あなたを愛しているよ、と告白しています。
先日家内が外出から帰って来て、「今日はうれしいものを見て来た」と。「何を見たの?」。私の住んでいる近くにカトリック系の幼稚園があるのです。その幼稚園の横に修道会という、修道女の方が住んでいる寮がありまして、そこの入り口に一週間ごとでしょうか、一つ言葉が書いてあるのです。時には有名な人の言葉であったり、恐らくその修道会の方の好きな言葉が書かれているのです。そこに「神様に愛されている自分だと知っている人こそ、最も幸いな人である」と書かれていたと。それで家内がそれを読んで、「幸せなのは私だ、と思った」と言うのです。厚かましいといえば厚かましい。自分はいちばん幸せだと、なぜかと、自分はいちばん神様から愛されているといつも思っている。神様が私をこんなにまで愛してくださっていると思って生きておられるから、その言葉を読んだとき、「これは私のことだ!」と思ったと言う。確かにそうだと思います。私たちは自分が誰よりも、どんな人よりも、神様から愛されている自分であることを知る、それを絶えず自覚して生きておられることは、本当に幸いな生涯ではないかと思います。私どもはそれを忘れている。今日も神様は私を愛してくださっているのだ、と自覚する。これが私たちに神様が与えてくださった福音、大きな喜びのおとずれであります。
イエス様は私たちの罪のあがないを成し遂げて、イエス・キリストを信じる者の罪をすべて赦して、神様のものとしてくださった。本来そうだったのです。神様は私たちをお造りになられたときに、私たちを神様の尊いかたちにかたどって、ご自分の所有物としてくださった。いうならば、新しい物を買ったりすると、名前を書いて「これは私の物だ」と印をつけます。そのように神様は私たちを造られたときに、神様のものであるという神のかたち、刻印(こくいん)を押してくださった。ところが、神様の所有であった私たちがその印(しるし)を消してしまって、神様の名前を消して、「おれが……」「おれが……」と、自分が神になっている。だから、もう一度、神様が取り返してくださった。主イエス・キリストという名前を私たちに与えてくださった。キリストを信じるとは、私たちが神様の持ち物、神様の所有に替わることです。そのことを聖書では「私たちを神の子供にした」と語っています。神様が私たちを神様のものとして、取り返してくださった。これはうれしい話です。
私たちはもう自分のものじゃない。聖書には繰り返して「あなた方は、もはや自分自身のものではない。代価を払って買い取られたのだ」といわれています。代価、どれほどの値段、お金を払ってか。それはひとり子イエス様の命を代償(だいしょう)として、私たちを買ってくださったのです。だから、私たちは非常に高価なのです。ところが、時々それを忘れて、「私はしようもない人間です。私は駄目です。こんな私は何の役にも立ちません。年を取って足腰も弱ったし、目もかすんでくるし、頭も悪くなるし、こんな私は生きていても何の意味もありません。価値もありません」と。それどころか、ひとり子を賜ったほどに、尊い掛け替えのない命を私たちは頂いている。それが代価です。私たちの値打ちはそこにあるのです。皆さん、ご自分を幾らだと思っていますか? 世間では生涯給与といいますか、一生涯働いて、あるいは年金も含めて80歳か90歳で死ぬまで、人はどれだけ収入を得るか。ある人にとっては2億円ぐらい、ある人にとっては3億円ぐらいでしょうか。それは個人差があるでしょうが、自分の生涯、卒業して就職をしてから結婚してこれまでの間、暇(ひま)があったら計算してご覧なさい。「あら、私はたったこれだけ?」と思うかもしれない。しかし、それは私たちの値打なんかではない。私たちの値打は神様が買い取ったとき払われた代価、それは計算できないのです。掛け替えのないひとり子、イエス・キリストの命が私たちに注がれているのです。そのことを私どもはどれほど自覚しているでしょうか。「こんな私のために、神様はひとり子という尊いご自分の大切なものをも惜しまないほどに愛してくださったのだ」と知っておきたい。それを絶えず自覚していきたいと思う。そうすると、私どもは何ができようとできまいと、そんなことは関係がないのです。たとえ寝たっきりの状態になっても、年を取って人の世話になるような状態であっても、私たちにとって大切なのは神様がひとり子を給うほどに愛してくださった、その事実であります。
イエス様は私たちのあがないを成し遂げて天にお帰りになられました。私たちの肉体をもって見ることはできません。2千年以上前に中東のガリラヤ地方で私たちと同じ人となって、33年半近く、その間だけ人の目に見える、手で触ることができ、声を聞くことができる主イエス・キリストとして、神が人となってくださった時でありますが、その主は天に帰って行かれました。いま私たちの目で見ることもその声を聞くこともできません。では、私たちは何も頼るものがないのかというと、ところが、それに対してもう一つ神様は大きな賜物を私たちに与えてくださった。それが御霊、聖霊です。神の霊を、キリストの霊を、イエス様の代わりに私たち一人一人の心の中に置いてくださった。これが聖書で言われているペンテコステ、聖霊降臨という出来事です。神様が私たち一人一人の内に住んでくださる、共にいてくださる。御霊は私たちの内に宿って、心に住んでくださって、神様が私たちと共にいるのと同じ、あるいはイエス・キリストが今も私と一緒にいることでもあります。どうしてそんなにまでするのか。それは、イエス様の命によって私たちは買い取られて、神様の所有となったのですから、私たちの所有者でいらっしゃる神様は、ご自分の思いのままに私たちを用(もち)いたい。
そうでしょう。皆さんでも自分が買ってきた品物が一晩寝て、翌朝起きたら置いていた所と違う所に動いたら、これは困ります。「あれ、夕べ買ってきたあれはどこに置いたか?」と探さなければならない。台所のかごの中に入れていた玉ねぎが、翌朝は玄関のげた箱の中に入っていたら、これは困ります。だから、持ち主の思いのままに、神様の御心にかなうことができるように、神様の思いのままに私たちが生きることができるように、神様は常に私たちと共にいてくださる。御霊、聖霊という霊を私たちの内に置いてくださったのです。これは私たちすべての人に今注がれている。私たちに与えられている賜物です。「そんなもの、私は受けた気はない。いつそんなことを神様はしたのだろうか」と思われるかもしれませんが、それは私たちが信じるときにそのように神様は私たちに信じさせてくださる。だから、「今日は、なんだかいい話を聞いた。ただで何かもらえたらしい」、聖霊なるものが私の中にあるらしい。じゃ、ひとつその御霊を信じて、神の霊を信じてその御方に呼び掛けて「天のお父様、神様……」と祈ってください。御霊が宿っているのは、私たちが神様と一緒にいるのと同じであります。私たちのために世に来てくださったひとり子イエス様と共に生きることでもあります。だから、絶えずその御霊なる神様、聖霊が私たちと共にいてくださって、私たちと神様、イエス様に結び付けてくださる。
そのことがいま読みました26節以下に語られています。26節に「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。ここに「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが」とあります。教会に来ますとよくお祈りをします。「祈ってください」とか「お祈りしましょう」。お祈りってどうすることか? それは神様と話をすることです。
私の父が若いころ教会に行き始めた。すると、しばらくしたら牧師先生が「榎本さん、お祈りしてください」と、突然言われて、父は面食(めんく)らったのです。「いや、先生。私はお祈りができません」と言ったそうです。すると先生が「あなたは日本語がしゃべられるでしょう」「ええ、もちろん日本語はしゃべられます」「だったら、いま神様が聞いていてくださるのだから、人に話しかけるようにあなたの心にあるものを全部打ち明けてご覧、話しかけたらいい。言いなさい」「言いなさいといって、目の前に人がいるから、その人に話はできるけれども、何もいない、何もない所でどうやって話しますか?」と言ったとき、先生が「見えないから目をつぶりなさい」と。「目をつぶってお祈りをしなさい。目をつぶってそこに神様がいらっしゃると信じて、話かけてご覧。そうしたらそのようにあなたに答えてくださる。神様がいらっしゃることを信じさせてくださる」と。そのころ、父はまだ求道中で、神様のことがよく分からない。イエス様のことも分からなかったのです。それで、そのときいちばん祈らなければならないことが一つあった。それは「神様を信じさせてください。あなたがいらっしゃるのだったら、そのことを私に教えてください」。これがそのときの祈りの課題、自分の求めることだったのです。それで、そんなに先生が言うなら、それじゃお祈りしましょう、と思って目をつぶって、いるかいないか分からんけれども、いるものと、聞いているものと信じて、祈ったというのです。そのときに「神様、あなたがいらっしゃるかどうか、いま私には分かりません。しかし、神様、あなたはいらっしゃると聖書に語られていますから、そのことを私に信じることができるようにしてください」と祈った。そうして何度か繰り返し祈っているうちに、だんだんと自分の心の中に一つ一つ疑問が、まるで氷が解けるように解けていった。「ああ、本当に確かに目には見えないけれども、万物の創造者でいらっしゃる御方がおられる。そしてその御方が私を愛してひとり子を送ってくださって、命まで捨ててくださった。そしていま御霊が私のこの祈りを取り次いでくださっておられる」と確信するようになったそうです。
26節に「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが」と、恐らく皆さんもそうだと思うのです。「どう祈ったらいいのだろうか。あまり欲深いことを祈ったら嫌われやしないだろうか、と言って、あまり少しだと悪いし、季節のあいさつを入れた方がいいのか、入れない方が……、何と言って祈ったらいいんだろう」と思われるに違いない。「どう祈ったら神様は喜んでくださるだろうか?」。人と話をするときも大抵そうです。「この人は何と言ったら喜ぶだろうか。こう言ったら気を悪くしないだろうか。こう言ったら……」と常に考えている。人と話すときは、しゃべっている裏側で別のものが忙しく働いている。この言葉はやめておこう。これを言おう、これはちょっと、あの人にあたる、この人に……と、パッパ、パッパとすごいスピードでコンピューターが働いている。だから、神様に対して祈るときも、何かそういうものが働くわけです。「神様のご機嫌が悪くならないだろうか。神様に気に入られるように祈らなければ、と言って、自分の願いもあるし、これも……、どう祈ればいいやろうか」と考えていると、だんだん言葉が出なくなり、お祈りができなくなる。
ところが、ここに何とあるか? 「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが」とはっきり語られています。「分かりません」、だから祈らないのではなくて「どのように祈ってもよろしい」と語られている。私たちの心を注ぎ出しなさいと。「こんなことを言ったら、神様は怒らないだろうか」とか、「神様はご機嫌を損(そこ)なわないか」と、そんなことを考えないでいい。あなたの思いのまま、心の有りのままを祈りなさい。「え!そんなのでいいやろうか」と。実はその後に「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」とあります。実は私たちの内に宿ってくださった神の霊、聖霊、御霊が私たちの言葉にならない祈りを全部知ってくださる。私は皆さんにできるだけ声を出してお祈りするようにとお勧めをしていますが、考えてみると言葉に出そうと思っても心の中にある思いは、もっと深いものがあります。言葉に出てくる部分は、心にある思いの何万分の一です。ほんの少しです。もっともっと言いたいこと、願いたいこと、心にある思いは大きく深い。言葉で祈って出てくるもの以上のものです。ところが、その言葉にならない祈りすらも、御霊、聖霊、神の霊が私たちの内に宿ってくださって、父なる神様に執(と)りなしてくださる。神様に取り次いでくださっておられる。だから、ここに「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」と言われるのです。だったらもう祈らないでいいかというと、そうじゃなくて、私たちが一言、「苦しいです」と祈るならば、その苦しみがどんな状態であるか、どんな思いであるか、もっと言いたいその苦しみの状況のすべて、心の思いを御霊は全部くみ取ってくださっている。そして、父なる神様に取り次いで、執りなしてくださる。ここに「とりなして下さる」という言葉がありますが、これは大きな慰めの言葉であり、また望みです。
その後の27節に「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる」。「人の心を探り知る」、私たちの心の思いを隅から隅まで全部知ってくださる御霊の思いを、父なる神様は知ってくださる。いうならば、神様が私たちの思いを全部知ってくださって、「御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」と。神様の御心にかなうものにと執りなしてくださる。「とりなす」というのは、仲介をするといいますか、仲立ちとなってくださる。
イエス様が語られた一つのたとえ話にぶどう園の持ち主の記事があります。ぶどう園の持ち主がその一角にいちじくの木を植えた。その人はいちじくが食べたいと思ったのです。ぶどうばかりではなくて、いちじくの木を植えていた。ところが、葉っぱばかりが茂って、なかなか実が実らない。とうとうご主人が来まして、「もう、こんないちじくの木は切ってしまえ」と管理人に言いました。ところが、その管理人が「ご主人様、ちょっと待ってください。肥料をやってみますから、あと一年たって実が実らなければこれを切り倒します。それまで猶予(ゆうよ)してください」と、ご主人をなだめる(ルカ13:6~)。これが「とりなす」ということです。ぶどう園の管理人はいちじくの側に立っている。自分がいちじくの木になったかのように、切り倒されることに対して執りなしてくださる。私たちの御霊なる神様、御霊は、聖霊は、私たちの側に立ってくださる。神様の側に立って私たちを責める御方ではなくて、私たちの側に立って執りなす。父なる神様に私たちを御心にかなう者としてささげてくださる。
最後にもう一言、読んでおきましょう。「ヘブル人への手紙」4章14節から16節までを朗読。
ここに「もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」と、イエス様が、いま神の御霊が私たちと共にいてくださる。その御方は「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」。「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われて」、そして、私たちのために執りなしてくださる御方。私たちに側に立ってくださる御方。だから、御霊なる神が私と共にいて、私たちの思いを知り、父なる神様に執りなしてくださっておられる。今日も主は、私たちの御霊、聖霊は父なる神様の前に「父よ、彼らを許したまえ」と、彼の思いはこうです、彼が願っているのはこうですよと、私たちの思いの隅から隅までを知って、父なる神様に取り次いでくださる御方です。だから、16節に「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。遠慮しないで神様を求め、神様の惠みに近づいていきたいと思う。
「ローマ人への手紙」8章27節に、「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。「聖徒のため」、聖なる人々とは誰か。私たちです。イエス様の十字架の赦しにあずかって聖なるものとされた私たちの祈る祈りに、神様は御心にかなう者として答えてくださる。
どうぞ、この約束を信じて私たちも大胆に神様の前に近づいて主を呼び求める者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
27節「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。
26節以下に「御霊」という言葉が繰り返し出てきますが、「御霊っていったい何だろう?」と思われる方もいるかもしれません。「神様」とはよく聞きますし、「イエス様」という言葉も聞きます。それに加えて更に「御霊」となると、こんがらがって、「いったい、どうなっているのだ」となります。よく世間ではキリスト教の神のことを「三位一体の神」と言います。「三位一体」とは一つのものであって三つの役割といいますか、権限、権能、そういうものを持つもの、という意味合いであります。父なる神様、私たちが言うところの天地万物の創造の神と、そのひとり子でこの世に遣(つか)わされた御子イエス・キリスト、そして、イエス様が天にお帰りになった後に私どものもとに神様が遣わしてくださった霊なる神、御霊、聖霊、この三つのものを指して三位一体と言います。聖書にはどこにも「三位一体」という言葉は出てまいりません。しかし、イエス様の語ったお言葉にもありますが、ご自分は神様のものであって、またわたしの代わりに御霊なる神様が遣わされるのだと、神とイエス・キリストと御霊は一つであることを語っておられます。ですから、「御霊」と言おうと、「主イエス・キリスト」と言おうと、あるいは「神様」と言っても、これは一つのことです。分かりやすく言えば神様のことを全部あらわしているとも言えますし、また「神様だ」と言うとき、それはイエス・キリストのことでもあるし、御霊なる神のことでもあります。「ややこしいことをする。だったら一つにしておけばいいじゃないか」と思いますが、それぞれに大切な役割があるからです。
「神様」という言葉であらわされるものは、天地万物の創造者、全能の神、すべてのものを造り存在させておられる御方。いま私たちがこの地上に命を与えられて生きていますが、私たちの命も、生活もそうであります。この大宇宙もそうであります。そのすべてのものを造り、力ある御手でもって確実に動かしておられる。常にきちんと支配しておられる神様を「神」という言葉によってあらわしています。
では、主イエス・キリストは何かというと、神様が私たちを愛しておられる、愛の証詞、印(しるし)です。神様は私たちを造って道具にしようということではなくて、人を造られた目的は、神様の愛の対象として、愛すべきものとして造ってくださった。大切な存在として私たちを造ってくださったと聖書には記されています。創世記に人が造られたとき、神様は「ご自分のかたちにかたどって、ご自分に似たものとして造ってくださった」とあります。動物やそのほかいろいろなものを創(つく)られたのですが、神様に似る者として造られたのは人間だけです。神様がご自分にかたどって人を創るとは、取りも直さず、神様がどれほど私たちを大切なものとしておられるかをあらわすことにほかなりません。神様は私たちを掛け替えのない尊い存在として造ってくださったのです。これは私たちが自分を知るうえで大切なことです。
近ごろ聞く話ですが、「どうして、人は人を殺してはいけないのか」と問われるそうです。そうすると「自分が殺されないために人を殺してはいかん」とか、訳の分からない答えになってきます。聖書には「汝、人を殺すなかれ」という十戒、モーセを通して神様が与えられた戒めがありますから「人を殺してはいけないのだ」という説明をしますが、もっとその奥に、私たち一人一人が神様の大切な存在であるから、それを壊(こわ)す、駄目にしてしまうことは、神様に大きな罪を犯すことになる。このことがなければ人が人を殺したり、自分で自分を壊してしまう、いわゆる自死、自殺は神様の前に正しい歩みではないことがはっきりしてきます。
最近、心を痛めるニュースを度々聞きます。先日も家内が「まぁ、またひどいことがあって……」と言う。私は何の事かと思った。「三歳ぐらいになる子供をお母さんが突き飛ばして、骨折をさせた」とか、あるいは「自分の息子を10日間以上もトイレに閉じ込めて、殴る、ける、暴行のかぎりを尽くして虐待(ぎゃくたい)する」とか、次から次にそういうニュースが続きます。皆さんも聞いているとおりであります。「どうしてそんなことになるのだろうか?」と理解できませんが、いちばん根本の所で、自分がどんなに大切な存在であるかを忘れているのです。神様が私たちを大切な存在として造ってくださった。造り主である神様を忘れて勝手なことをし始めて、いま私たちの見る悲惨な現状が造り出されているのです。「いや、あの人たちが特殊であって、私はそんなことはしない」と思っているかもしれませんが、決してそうじゃありません。人の心の中にある悪の力、いうならば、「罪」と聖書でいわれていますが、罪の力が人を支配したときに、自分で想像もしない悪が姿を現してきます。それが具体的な行動になってきます。私たちは自分がそういう存在であるということを絶えず自覚しておかなければ、とんでもない失敗をするに違いないと思います。聖書には神様が私たちを造って、私たちを愛する対象としてくださった。だから、ご自分の愛を表すために、ひとり子イエス・キリストをあえてこの世に遣わしてくださった。そして十字架に命を捨ててくださった。何のためにイエス様は十字架におかかりになられたのか?それは私たちを愛してくださるからです。神様は限りない大きな御愛を私たちにあらわそうとしてイエス・キリスト、ご自分のひとり子を遣わしたのです。ですから、私たちの本来死ぬべき、神様から呪(のろ)われて刑罰として滅ぼされるべき身代わりとして、主イエス・キリストが十字架にかかってくださった。その大きなご犠牲を払った御方としてイエス・キリストという名前を用いているのです。いうならば、神様の愛の姿がイエス・キリストです。私たちはそんなにまで大きな御愛をもって愛されているのです。人からではない、家族からでもない。それどころか、もっともっと大きな万物の創造者でいらっしゃる神様が、ひとり子を賜ったほどに限りなき愛をもって、私を、あなたを愛しているよ、と告白しています。
先日家内が外出から帰って来て、「今日はうれしいものを見て来た」と。「何を見たの?」。私の住んでいる近くにカトリック系の幼稚園があるのです。その幼稚園の横に修道会という、修道女の方が住んでいる寮がありまして、そこの入り口に一週間ごとでしょうか、一つ言葉が書いてあるのです。時には有名な人の言葉であったり、恐らくその修道会の方の好きな言葉が書かれているのです。そこに「神様に愛されている自分だと知っている人こそ、最も幸いな人である」と書かれていたと。それで家内がそれを読んで、「幸せなのは私だ、と思った」と言うのです。厚かましいといえば厚かましい。自分はいちばん幸せだと、なぜかと、自分はいちばん神様から愛されているといつも思っている。神様が私をこんなにまで愛してくださっていると思って生きておられるから、その言葉を読んだとき、「これは私のことだ!」と思ったと言う。確かにそうだと思います。私たちは自分が誰よりも、どんな人よりも、神様から愛されている自分であることを知る、それを絶えず自覚して生きておられることは、本当に幸いな生涯ではないかと思います。私どもはそれを忘れている。今日も神様は私を愛してくださっているのだ、と自覚する。これが私たちに神様が与えてくださった福音、大きな喜びのおとずれであります。
イエス様は私たちの罪のあがないを成し遂げて、イエス・キリストを信じる者の罪をすべて赦して、神様のものとしてくださった。本来そうだったのです。神様は私たちをお造りになられたときに、私たちを神様の尊いかたちにかたどって、ご自分の所有物としてくださった。いうならば、新しい物を買ったりすると、名前を書いて「これは私の物だ」と印をつけます。そのように神様は私たちを造られたときに、神様のものであるという神のかたち、刻印(こくいん)を押してくださった。ところが、神様の所有であった私たちがその印(しるし)を消してしまって、神様の名前を消して、「おれが……」「おれが……」と、自分が神になっている。だから、もう一度、神様が取り返してくださった。主イエス・キリストという名前を私たちに与えてくださった。キリストを信じるとは、私たちが神様の持ち物、神様の所有に替わることです。そのことを聖書では「私たちを神の子供にした」と語っています。神様が私たちを神様のものとして、取り返してくださった。これはうれしい話です。
私たちはもう自分のものじゃない。聖書には繰り返して「あなた方は、もはや自分自身のものではない。代価を払って買い取られたのだ」といわれています。代価、どれほどの値段、お金を払ってか。それはひとり子イエス様の命を代償(だいしょう)として、私たちを買ってくださったのです。だから、私たちは非常に高価なのです。ところが、時々それを忘れて、「私はしようもない人間です。私は駄目です。こんな私は何の役にも立ちません。年を取って足腰も弱ったし、目もかすんでくるし、頭も悪くなるし、こんな私は生きていても何の意味もありません。価値もありません」と。それどころか、ひとり子を賜ったほどに、尊い掛け替えのない命を私たちは頂いている。それが代価です。私たちの値打ちはそこにあるのです。皆さん、ご自分を幾らだと思っていますか? 世間では生涯給与といいますか、一生涯働いて、あるいは年金も含めて80歳か90歳で死ぬまで、人はどれだけ収入を得るか。ある人にとっては2億円ぐらい、ある人にとっては3億円ぐらいでしょうか。それは個人差があるでしょうが、自分の生涯、卒業して就職をしてから結婚してこれまでの間、暇(ひま)があったら計算してご覧なさい。「あら、私はたったこれだけ?」と思うかもしれない。しかし、それは私たちの値打なんかではない。私たちの値打は神様が買い取ったとき払われた代価、それは計算できないのです。掛け替えのないひとり子、イエス・キリストの命が私たちに注がれているのです。そのことを私どもはどれほど自覚しているでしょうか。「こんな私のために、神様はひとり子という尊いご自分の大切なものをも惜しまないほどに愛してくださったのだ」と知っておきたい。それを絶えず自覚していきたいと思う。そうすると、私どもは何ができようとできまいと、そんなことは関係がないのです。たとえ寝たっきりの状態になっても、年を取って人の世話になるような状態であっても、私たちにとって大切なのは神様がひとり子を給うほどに愛してくださった、その事実であります。
イエス様は私たちのあがないを成し遂げて天にお帰りになられました。私たちの肉体をもって見ることはできません。2千年以上前に中東のガリラヤ地方で私たちと同じ人となって、33年半近く、その間だけ人の目に見える、手で触ることができ、声を聞くことができる主イエス・キリストとして、神が人となってくださった時でありますが、その主は天に帰って行かれました。いま私たちの目で見ることもその声を聞くこともできません。では、私たちは何も頼るものがないのかというと、ところが、それに対してもう一つ神様は大きな賜物を私たちに与えてくださった。それが御霊、聖霊です。神の霊を、キリストの霊を、イエス様の代わりに私たち一人一人の心の中に置いてくださった。これが聖書で言われているペンテコステ、聖霊降臨という出来事です。神様が私たち一人一人の内に住んでくださる、共にいてくださる。御霊は私たちの内に宿って、心に住んでくださって、神様が私たちと共にいるのと同じ、あるいはイエス・キリストが今も私と一緒にいることでもあります。どうしてそんなにまでするのか。それは、イエス様の命によって私たちは買い取られて、神様の所有となったのですから、私たちの所有者でいらっしゃる神様は、ご自分の思いのままに私たちを用(もち)いたい。
そうでしょう。皆さんでも自分が買ってきた品物が一晩寝て、翌朝起きたら置いていた所と違う所に動いたら、これは困ります。「あれ、夕べ買ってきたあれはどこに置いたか?」と探さなければならない。台所のかごの中に入れていた玉ねぎが、翌朝は玄関のげた箱の中に入っていたら、これは困ります。だから、持ち主の思いのままに、神様の御心にかなうことができるように、神様の思いのままに私たちが生きることができるように、神様は常に私たちと共にいてくださる。御霊、聖霊という霊を私たちの内に置いてくださったのです。これは私たちすべての人に今注がれている。私たちに与えられている賜物です。「そんなもの、私は受けた気はない。いつそんなことを神様はしたのだろうか」と思われるかもしれませんが、それは私たちが信じるときにそのように神様は私たちに信じさせてくださる。だから、「今日は、なんだかいい話を聞いた。ただで何かもらえたらしい」、聖霊なるものが私の中にあるらしい。じゃ、ひとつその御霊を信じて、神の霊を信じてその御方に呼び掛けて「天のお父様、神様……」と祈ってください。御霊が宿っているのは、私たちが神様と一緒にいるのと同じであります。私たちのために世に来てくださったひとり子イエス様と共に生きることでもあります。だから、絶えずその御霊なる神様、聖霊が私たちと共にいてくださって、私たちと神様、イエス様に結び付けてくださる。
そのことがいま読みました26節以下に語られています。26節に「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。ここに「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが」とあります。教会に来ますとよくお祈りをします。「祈ってください」とか「お祈りしましょう」。お祈りってどうすることか? それは神様と話をすることです。
私の父が若いころ教会に行き始めた。すると、しばらくしたら牧師先生が「榎本さん、お祈りしてください」と、突然言われて、父は面食(めんく)らったのです。「いや、先生。私はお祈りができません」と言ったそうです。すると先生が「あなたは日本語がしゃべられるでしょう」「ええ、もちろん日本語はしゃべられます」「だったら、いま神様が聞いていてくださるのだから、人に話しかけるようにあなたの心にあるものを全部打ち明けてご覧、話しかけたらいい。言いなさい」「言いなさいといって、目の前に人がいるから、その人に話はできるけれども、何もいない、何もない所でどうやって話しますか?」と言ったとき、先生が「見えないから目をつぶりなさい」と。「目をつぶってお祈りをしなさい。目をつぶってそこに神様がいらっしゃると信じて、話かけてご覧。そうしたらそのようにあなたに答えてくださる。神様がいらっしゃることを信じさせてくださる」と。そのころ、父はまだ求道中で、神様のことがよく分からない。イエス様のことも分からなかったのです。それで、そのときいちばん祈らなければならないことが一つあった。それは「神様を信じさせてください。あなたがいらっしゃるのだったら、そのことを私に教えてください」。これがそのときの祈りの課題、自分の求めることだったのです。それで、そんなに先生が言うなら、それじゃお祈りしましょう、と思って目をつぶって、いるかいないか分からんけれども、いるものと、聞いているものと信じて、祈ったというのです。そのときに「神様、あなたがいらっしゃるかどうか、いま私には分かりません。しかし、神様、あなたはいらっしゃると聖書に語られていますから、そのことを私に信じることができるようにしてください」と祈った。そうして何度か繰り返し祈っているうちに、だんだんと自分の心の中に一つ一つ疑問が、まるで氷が解けるように解けていった。「ああ、本当に確かに目には見えないけれども、万物の創造者でいらっしゃる御方がおられる。そしてその御方が私を愛してひとり子を送ってくださって、命まで捨ててくださった。そしていま御霊が私のこの祈りを取り次いでくださっておられる」と確信するようになったそうです。
26節に「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが」と、恐らく皆さんもそうだと思うのです。「どう祈ったらいいのだろうか。あまり欲深いことを祈ったら嫌われやしないだろうか、と言って、あまり少しだと悪いし、季節のあいさつを入れた方がいいのか、入れない方が……、何と言って祈ったらいいんだろう」と思われるに違いない。「どう祈ったら神様は喜んでくださるだろうか?」。人と話をするときも大抵そうです。「この人は何と言ったら喜ぶだろうか。こう言ったら気を悪くしないだろうか。こう言ったら……」と常に考えている。人と話すときは、しゃべっている裏側で別のものが忙しく働いている。この言葉はやめておこう。これを言おう、これはちょっと、あの人にあたる、この人に……と、パッパ、パッパとすごいスピードでコンピューターが働いている。だから、神様に対して祈るときも、何かそういうものが働くわけです。「神様のご機嫌が悪くならないだろうか。神様に気に入られるように祈らなければ、と言って、自分の願いもあるし、これも……、どう祈ればいいやろうか」と考えていると、だんだん言葉が出なくなり、お祈りができなくなる。
ところが、ここに何とあるか? 「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが」とはっきり語られています。「分かりません」、だから祈らないのではなくて「どのように祈ってもよろしい」と語られている。私たちの心を注ぎ出しなさいと。「こんなことを言ったら、神様は怒らないだろうか」とか、「神様はご機嫌を損(そこ)なわないか」と、そんなことを考えないでいい。あなたの思いのまま、心の有りのままを祈りなさい。「え!そんなのでいいやろうか」と。実はその後に「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」とあります。実は私たちの内に宿ってくださった神の霊、聖霊、御霊が私たちの言葉にならない祈りを全部知ってくださる。私は皆さんにできるだけ声を出してお祈りするようにとお勧めをしていますが、考えてみると言葉に出そうと思っても心の中にある思いは、もっと深いものがあります。言葉に出てくる部分は、心にある思いの何万分の一です。ほんの少しです。もっともっと言いたいこと、願いたいこと、心にある思いは大きく深い。言葉で祈って出てくるもの以上のものです。ところが、その言葉にならない祈りすらも、御霊、聖霊、神の霊が私たちの内に宿ってくださって、父なる神様に執(と)りなしてくださる。神様に取り次いでくださっておられる。だから、ここに「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」と言われるのです。だったらもう祈らないでいいかというと、そうじゃなくて、私たちが一言、「苦しいです」と祈るならば、その苦しみがどんな状態であるか、どんな思いであるか、もっと言いたいその苦しみの状況のすべて、心の思いを御霊は全部くみ取ってくださっている。そして、父なる神様に取り次いで、執りなしてくださる。ここに「とりなして下さる」という言葉がありますが、これは大きな慰めの言葉であり、また望みです。
その後の27節に「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる」。「人の心を探り知る」、私たちの心の思いを隅から隅まで全部知ってくださる御霊の思いを、父なる神様は知ってくださる。いうならば、神様が私たちの思いを全部知ってくださって、「御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」と。神様の御心にかなうものにと執りなしてくださる。「とりなす」というのは、仲介をするといいますか、仲立ちとなってくださる。
イエス様が語られた一つのたとえ話にぶどう園の持ち主の記事があります。ぶどう園の持ち主がその一角にいちじくの木を植えた。その人はいちじくが食べたいと思ったのです。ぶどうばかりではなくて、いちじくの木を植えていた。ところが、葉っぱばかりが茂って、なかなか実が実らない。とうとうご主人が来まして、「もう、こんないちじくの木は切ってしまえ」と管理人に言いました。ところが、その管理人が「ご主人様、ちょっと待ってください。肥料をやってみますから、あと一年たって実が実らなければこれを切り倒します。それまで猶予(ゆうよ)してください」と、ご主人をなだめる(ルカ13:6~)。これが「とりなす」ということです。ぶどう園の管理人はいちじくの側に立っている。自分がいちじくの木になったかのように、切り倒されることに対して執りなしてくださる。私たちの御霊なる神様、御霊は、聖霊は、私たちの側に立ってくださる。神様の側に立って私たちを責める御方ではなくて、私たちの側に立って執りなす。父なる神様に私たちを御心にかなう者としてささげてくださる。
最後にもう一言、読んでおきましょう。「ヘブル人への手紙」4章14節から16節までを朗読。
ここに「もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」と、イエス様が、いま神の御霊が私たちと共にいてくださる。その御方は「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」。「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われて」、そして、私たちのために執りなしてくださる御方。私たちに側に立ってくださる御方。だから、御霊なる神が私と共にいて、私たちの思いを知り、父なる神様に執りなしてくださっておられる。今日も主は、私たちの御霊、聖霊は父なる神様の前に「父よ、彼らを許したまえ」と、彼の思いはこうです、彼が願っているのはこうですよと、私たちの思いの隅から隅までを知って、父なる神様に取り次いでくださる御方です。だから、16節に「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。遠慮しないで神様を求め、神様の惠みに近づいていきたいと思う。
「ローマ人への手紙」8章27節に、「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。「聖徒のため」、聖なる人々とは誰か。私たちです。イエス様の十字架の赦しにあずかって聖なるものとされた私たちの祈る祈りに、神様は御心にかなう者として答えてくださる。
どうぞ、この約束を信じて私たちも大胆に神様の前に近づいて主を呼び求める者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。