いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(499)「神にはできる」

2015年03月16日 | 聖書からのメッセージ
 「マルコによる福音書」10章23節から31節までを朗読。

 27節「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』」。
 
一人の人がイエス様の所へ来まして「永遠の生命(せいめい)を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。そのときにイエス様は「戒めを守りなさい」と言われました。戒めといっても、“モーセの十戒”と言われる十の戒め、しかもそのうちで人と人との関係を定めた「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え」という戒めをまず彼に求めました。「これを守りなさい」と。ところがこの人は大変立派な人物で、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」と答える。「それ以外には何をしたらいいだろうか」と。実に感心な人物であります。幼い時から律法を欠けなく守っているとはなかなか立派なことです。もし私たちにそう言われたらまず守れません。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな」、「偽証を立てるな」とは「うそをつくな」ということです。私たちは気が付かないうちに口から出まかせを言ってしまいます。そんなことを問われたら私たちは不合格です。ところが、この人は「それらの事はみな、小さい時から守っております」と言うのです。これを聞いてイエス様は大変感心されました。確かにそうだと思います。その時代の人でもこれほどの人は他(ほか)にいなかったでしょう。そこでイエス様がもう一つ言われたのです。「あなたに足りないことが一つある」と。何か? 「帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と21節にあります。それを聞いて、この人は「できない」と思ったのです。「そんなことは到底できない」。22節に「たくさんの資産を持っていたからである」といわれています。
「僅(わず)かな物だったら捨てられるかもしれない」と私たちは思います。ところが、そうでもないのです。私たちは僅かな物でもなかなか捨てきれない。それでいてたくさん持っている人に「あの人はたくさん持っているから少しぐらい捨てたって何ということはないだろう」と、人のことは言いますが、自分は「少しだからこれは到底捨てられない」と握り込みます。いずれにしても人は自分の考え、自分が安心できる世界にとどまろうとしやすい。これが「富んでいる」、「資産を持つ」ということです。自分の不安や恐れを取り除くために、あれを持ち、これを備え、こういう手立てを加え、あの人この人に頼ってと、いろいろなものを心の中に持ちます。
確かに、私たちは年金生活をしていますから、物はないし、捨ててよさそうな物ばかりですが、それだってやはり「惜しい」と思う。私たちはそのように神様に対して富んだ者といいますか、「神様がいなくても自分で何とかできる」と思う。「私が頑張ればこのことは何とか道が付く」、あるいは「私が努力すればこれは上手くいくに違いない」、「あの人に頼めばこういう風になるに違いない」と、神様以外に自分が頼ろうとするものを心に持っている。これが「富んだ者」「資産」なのです。それに対してイエス様が「そんな物は売り払って……」と言われる。そして「わたしに従ってきなさい」と。イエス様に従うことです。ところがこの人はできませんでした。イエス様に従うことこそが、まさに永遠のいのちです。イエス様は「わたしはよみがえりであり、命である」(ヨハネ11:25)とおっしゃる。イエス様を信じることが、実はその人の命なのです。永遠の命です。だからイエス様に従うことが永遠の命に生きる秘けつ、ただ一つの道です。この人はそこが分からなかった。だから「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」と。

その様子を見ていてイエス様が弟子たちに一つの感想を述べられたのです。23節に「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。「財産のある者」、いわゆる「富んでいる者」は神様に頼らなくても何とかできると思う、そういう人にとって「神の国にはいるのはなかなか難しい」とイエス様はおっしゃいます。更に引き続いて24節に「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」と語っておられます。永遠の命の生涯、神様の備えてくださる御国に私たちが入らせていただくことは、これはなかなか難しい。25節に「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。「針の穴」というと、縫い針の糸を通す小さな穴、そこをらくだは到底通りえない。「針の穴」は、一説によると、エルサレムの町を守っている城壁に開いている一つの門であるといわれていますが、それは本当に小さな門で、らくだは通ることはできないという説もありますが、いずれにしてもそういう不可能、できないということの象徴(しょうちょう)であります。だから「富んでいる人が神の国にはいるのはとてもむつかしい」と聞いて、弟子たちが26節「それでは、だれが救われることができるのだろう」と、そうなると誰も救われないじゃないか。救われる人はいないとつぶやきました。それに対して27節「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』」。
まず「人にはできない」と言われる。人が自分の力で神の国に入ることは不可能だと。ではどうするか? 神様がそれを導いてくださる、してくださるのでなければ人にはできない、というのです。まず「人にはできない」、私たちは無能無力、力のない者であることをまず認める。これはそのとおりであります。私たちは神様に造られた被造物にすぎません。ですから、自分の力だけではどうにもならない、動きません。神様からの力を受けて「初めて人は生きる者となった」(創世2:7)とあるように、私たち自身では何にもできない。まずこれを認めること、これは大前提です。私たちはいろいろな問題に遭うとき「もうお手上げ」、「何もできない」と嘆きます。まさにそこが物事の出発点です。何にもできない、自分は無能無力、力がないことを徹底して認める。これが全てのことの前提であります。

そして「神にはできる」と続いています。「神にはできる。神はなんでもできるからである」。神様は不可能なことのない御方、「なんでもできる」と。ここが私たちにとってうれしい話で、「神様は何でもできる御方、もちろん私は何にもできないけれども、神様ならできる」。この言葉は「神様は何でもできる。何でもしてくださる」と理解されやすい。「神様はおできになる。では、私の願いどおりにしてくれるに違いない。私の願いを実現してくれるに違いない。何でもしてくださるのだ」と受け止めますが、実はこのお言葉はそういう意味ではありません。「神にはできる。神はなんでもできるからである」という、これは別の言葉で言うと、「全能の神である」という意味です。「全能の神」と聞いて思い起こすのはアブラハムに対して言われた言葉です。

「創世記」17章1、2節を朗読。

1節に「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と、神様はアブラムに言われました。ご存じのようにアブラムは75才のときハランという町に住んでいました。あるとき、神様はアブラムに声を掛けてくださって「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世 12:1)とお命じになりました。その代わり「あなたを祝福し、多くの国民の父としてあげよう」と約束を与えてくださいました。そこでアブラムは神様の約束を信じて旅立ってきました。最初は行く先を知らないで、どこへ行くべきか分からないままに出掛けて行きました。行き着いたところがカナンの地でありました。では、「行け」と言われたから、行ってみたらすぐに神様は祝福を与えて、後は悩みもなく、困難もなく、万々歳かというと、そうではありません。その地に飢きんもある、戦いもある、また親族との争いもある。いろいろな悩みの中に置かれます。その度に神様は時々ご自分をあらわしてくださって「大丈夫、わたしはあなたに約束を与えた。あなたを多くの国民の父とする」(創世 17:4)と、口先ばかりです、神様は。アブラムはだんだん不信感になる。「神様はいったい何を考えているのだろうか」。この創世記15章に、このときもアブラムに神様は「恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と言われますが、何か思わせぶりな神様です。「……らしい」ことを言われる。そのときアブラムは我慢ならなくなった。「神様、いったいあなたは祝福すると言うけれども、いくら祝福を受けたって、私一代で終わってしまう。自分の跡を取る者は、法定相続人であるエリエゼルという遠縁の者である。そんな者に祝福が行くぐらいだったら、もう何もいらない」と、その位彼は神様に対して憤慨していたのです。そのとき神様は「夜の天幕から外に出て空を仰ぎなさい」と、アブラムを招きました。アブラムは外へ出て天を仰いで、満天の星空を眺め、「あの星を数えることができるか」と神様から言われて、何にも答えられない。神様がどういう御方でいらっしゃるか。夜空の満天にまたたく星の全てを創造してくださった御方です。神様の偉大な力、その力に圧倒されたのです、彼は。そこで「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世 15:6)といわれています。そのとき初めて彼は神様の尊厳といいますか、偉大さといいますか、その力に圧倒されるわけです。そして「まことに神様、あなたは主です」と初めて神様を信じるといいますか、もうひとつ神様の世界に深く踏み込むのです。

ところがそれで事終りかと思いきや、その後、奥さんのサライが跡取りについて「自分のつかえめハガルによって、あなたの子供をもうけなさい」とアドバイスをします。彼は「なるほど、これは神様の導きだ」と、渡りに舟、乗かってしまう。それからまた悩みが始まる。家庭騒動になりまして、とうとうハガルは追い出されます。しかし、ハガルが身ごもった子はあくまでもアブラムの血を分けた子供ですから、神様はハガルをも祝福してくださいました。やがてイシマエルが生まれました。17章1節に「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ』」とあります。この「全能の神である」とは、神様がどういうものであるかを明らかにしたお言葉です。“全能”というのは「どんなことでもできる」という意味ばかりでなくて、もう一つ大きな意味があります。それは全てのことをご自分の意のままに成し得る権威、主権者としての力です。だからアブラムの願いを聞いてくださる、祈りに応えてくださると、ただ単に打ち出の小づちのように、あるいはアラジンの魔法のランプのように、言えばすぐに答えてくれる、何でもしてくれる、という意味の神ではなくて、全能の神とは、私たちを造り、生かし、私たちの人生を御心のままにいま導いてくださる御方、私たちが今日ここに生きているのも自分の計画や自分の努力や自分の業によるのではなくて、神様がこのことを起こし、それを実現に至らせておられる。1から10まで徹底して全部神様のわざであることを明らかにする。これが全能の神という意味です。私たちは神様に対して、古来日本にも多くの神々もそうですが、自分の不安や恐れ、心配などを取り除こうと、様々な仕組みを人は考えつきます。

昨日、K君が福岡に泊まり掛けで遊びに来ました。「せっかく来ているからどこかへ連れて行ってあげよう」と思って、福岡市立博物館に行きました。そこの常設展に福岡市のいろいろな歴史、あるいは習慣や風俗などが展示されています。それぞれの地域ごとに氏神様というものがある。生まれて八日目ぐらいに氏子になるのだという説明がありました。そして年間で事あるごとに、こういうことをするのだと決まっている。収穫の時はこういうことを、種まきの時はこうする。あるいは、村で男の子が生まれて成人したら、その時はこういうお祝いをする。厄年になったらこういうことをすると、年間を通じて一連の宗教行事といいますか、習慣化された風習が展示されている。それを見て、日本人の中に根強く、神との関わりがあると知りました。そこで解説されていたのですが、「人生、人が生きて行く上でいろいろな時に応じて悩みや不安や心配、恐れが生じて来る。それを何とか柔(やわ)らげるものとして、こういう神々にすがるという、素朴な信仰が広がって来た」と、説明をしている。それを聞きながら「なるほど、神々とはそういうスタイルで生まれて来る」。だから人の悩みの分だけ神様がいるのです。お金の心配にはお金の神様でしょう。病気の人には病気の神様、その中でも脳卒中の神様もあれば、認知症の神様もいるかもしれない。自分の心配なところに関する神様を作って拝む。何とか自分の思いどおり願いどおりやってもらいたい。神とはそういう何でもできる神を多くの人々が求めている。つい私たちも聖書の世界にそれを求めやすいのです。だから「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」というと、そういう世間一般の神に対する期待感が先立ちますから、「神様、いいことを言ってくれた。何でもしてくれるのだ」と。「では、あのことも、このことも頼もう」とお祈りをする。だんだん要求が増えてきます。「先生、私は欲深いのでしょうか。あれもこれも頼んでしまいましたが、良いでしょうか」と心配になって来る。嫌われやしないかと思う。そんなことはない、もちろん神様はどんなことでも聞いてくださる御方でありますが、それよりも何よりも、もっと大切なのは「わたしは全能の神である」ということです。良いことも悪いことも、うれしいことも悲しいことも、どんなことも、この神様が握っておられることを認める。これが全能の神を信じることです。

75才の時、25年ぐらい前、ハランの地にいたとき、神様がアブラムに声を掛けてカナンの地まで導き出してくださいました。その神様のことを知っていました。しかし、それから様々な悩みの中を通ることによって、彼はだんだんと深く神様に触れる。ついに神様はアブラムにご自分がどういうものであるかを明らかにしてくださいました。と同時に、アブラムの神様に対する信仰、信頼といいますか、神様をどういう御方と見るか、神様に対する思いを全く新しくするために、99歳の時にあらわれてくださいました。「わたしは全能の神である」と。「わたしはお前を造り、生かし、そして全てのものをわたしの心のままに成し得る者であるよ」と明らかにされたのです。ところがその前に、ハガルによってひとりの子イシマエルをもうけました。それも神様のわざではあるが、そのとき神様の力というよりは、自分の知恵でやってしまいました。そこで神様はもう一度「お前は誰を神としているか? あなたを生かしておるものは何なのか? あなたをこうして導くものは誰であるか? 」と、ご自身を明らかにされた。この後、アブラハムのところに神の使いがやって来て「来年の今頃あなたに男の子を与える」と言われ、イサクが与えられる。神様はアブラハムの思い、願いとは違う。その時は外れているが、神様はご計画の中に徹底して一つのことを貫いておられるのです。アブラハムは神様の手先といいますか、道具として握られ、持ち運ばれているにすぎません。

これはアブラハムの話だけではなくて、実は私たちの話でもあります。私たちは自分だけの人生、自分一人が生まれて死ぬまで生かされている自分、「自分で何とかしなければいけない」「何とか自分で生きて行かなければ」、生活を立て、身の回りのことを「何とか自分でやって行かないかん」と思っているが、実はそうではない。「我は全能のなり」(文語訳)とおっしゃる神様が、私たちにそれぞれの生きる道を与えておられる。そして、私たちの人生はもっと大きな神様のご計画のほんの小さな一コマにすぎません。アブラハムは彼個人の立場から言えば「自分の跡取りがないから、何とか跡取りをもらって、功なり名を遂げて、自分の財産を血を分けた子に譲り渡して、生涯を終われば万々歳だ」と彼は思ったでしょうが、神様のご計画はそうではなかった。実はイスラエルという民族をそこから造り出して、後々に至るまで何千年にもわたって神の神たることを証ししようとされる神様の壮大な御業の中の一つだった。アブラハムはそんなこととはつゆだに知りません。アブラハムはとっくの昔に死んでいますから、自分の子孫がどのようになったのか、その民族から人類の救い主イエス様が神様によって遣わされるなど、アブラハムは想像だにしない。いや、そんなことを考えもしないうちに神様はアブラハムを用いてくださいました。全能の神を信じるとは、まさにこのことです。

私たちは自分の思いや考えや計画や業によって今日あるのではなくて、自分を超えた大きな力を持ち給う神様がこの世に置いてくださった。そして死ぬまでの人生、いつ死ぬか分からない、どんな死に方をするか分からない、分からないだらけですが、しかし、全能の神でいらっしゃる御方は全てを知っておられる。そして、神様の力によって、その御方の御心によって、私たちの救いが備えられている。この全能の神を信じて、その御方に全く従う者となれ、と神様はアブラハムに求められた。彼はこの神を信じて、その結果イサクが与えられました。

しかし、イサクが少し大きくなったとき、神様は「その子をわたしにささげなさい」と要求しました。アブラハムは疑いなく即座に神様に従ったのです。というのは、神様はご自分のご計画の中に全てを備えて導かれるのだ、とアブラムは全能の神を信じたのです。神様はひとり子イサクを与えてくださって、「それを神様にささげよ」とおっしゃる以上、それはまた神様が責任を持って最後まで約束を全うしてくださると彼は信じたのです。
いま私たちに求められている信仰はまさにこれです。だからヨブもそうであります。

「ヨブ記」42章1節から6節までを朗読。

2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」と。これがまさにヨブが初めて神の何たるかを知った時です。それまでヨブは神様を知っていました。一生懸命に神様に守ってもらおうと願い、子供たちのひょっとしたら犯したかもしれない罪のために燔祭を備えたり、欠かさず祈りをささげて神様の前に忠実に身を慎んで信仰に立って歩んでいたはずです。ところが、財産を失い、家族を失い、また奥さんに逃げられ、自分の健康を失ったとき、彼は「何でだろうか? 」「どうしてだろうか? 」と、悶々(もんもん)とした悩みの中にあった。「何が悪くてこうなったのだろうか? 」「神様がいらっしゃって、どうしてこんなことになったのだろうか? 私は神様に何か罪を犯したのだろうか? 」、その悩みたるや、深刻でありました。やがて、神様はヨブに問われました。「お前は、どうして? どうして? と言うけれども、ではお前は何もかも知っているのか? 」と、神様はヨブに次々と質問しました。彼は何にも知らない、無知もうまいといいますか、神様の問いに答えられないのです。「それでもお前は、どうしてと問うのか」と、神様から言われたとき、ただ手を口に当てるのみ。「もう何も言うことができません」と、自分の弱さを認めました。まさに「人にはできないが」と。「そうです。私は何もできません」と、これがヨブの出発点だったのです。それまでヨブは「自分は神様を信じている。神様にお祈りをしている。こんなこともしている、あんなこともしている。だから守られるはずだ」と。私たちの信仰のレベルもそこにとどまるかぎり、必ず行き詰ります。そこからもう一つ脱皮して、私そのものが神様の手に握られていることを徹底して認める。「私の思いではない、計画ではない、私の願いを超えた神様の御思いがあって生かされている」と。だから「いまこんな状態だが、これが何でか? どうしてか? 分からないけれども、全てをご存じの神様がおられる。神にはできないことがありません。あなたはどんなことでもおできになる御方です」と、自分を徹底して明け渡してしまうことが、神様と人との正しい関係です。ヨブは2節にあるように「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」と。「どんなことでも神様、あなたはおできになります」と神様の前に全面的に降伏する。お手上げになる、これがヨブの最終的な結論です。早くそこに立つことが幸いです。

日々の生活でどんなことが起こっても「我は全能のなり」、神様が良し、と思うことをしてくださると、そこに自分を徹底して解放するといいますか、委ねる、明け渡す。これが私たちの力です。信仰に立つとはこれです。「どうしてこんなことになったのだろうか? 」と、つい思いますが、どうしてもこうしてもない。神様がなさるのですから、感謝する。これ以外にないのです。「これも神様がご計画をもって、大きなみわざの中においてくださっているに違いない」と信じる。アブラムに対して神様は「我は全能のなり汝わが前に行(あゆ)みて完全(まった)かれ」(創世記17:1文語訳)。私の前に歩んで全き者であれ、とおっしゃいます。「全き者」とは、完全無欠ということではなくて、徹底して神様に委ね従うということです。いま与えられている問題、この病の中に神様が引き入れてくださった。この中にも神様が共にいてくださる。その先どういう結果に導かれるか、これも神様の手の中です。人や病院や医者や薬が決めるのではない。ここに立ったときに初めて人は安心を得ることができ、力を得ることができる。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。神はなんでもできるのです。その御方に全てをささげる、委ねる、明け渡すことが私たちの成し得る最善の事であります。

「マルコによる福音書」10章27節に「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』」。どんなことが起こっても「大丈夫、これは神様がなさることです」と、はっきり信じきって行こうではありませんか。「いや、どうしようか。どうなるやろうか? 」「どうしてこんなになった? あの人だろうか、この人だろうか? 」と、そんな詮索をするから、いよいよ泥沼に、闇の中に陥(おちい)ってしまいます。そうではない、どんなことでもできる、とおっしゃる神様が、今ここに置いておられる。与えられたこの事の中で、神様は何をしてくださるのか、私たちが期待するべきは神様に望みを持つこと、これ以外にありません。

私たちは「何でもできる」とおっしゃる神様によって、今日もここに生かされている。私たちが明日どうなるか、それも神様の手の中にあることです。このことを信じて感謝しようではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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