ガラテヤ人への手紙1章6節から10節までを朗読。
10節「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」。
6節には「違った福音に落ちていく」という言葉で、ガラテヤの人々を非難されています。聖徒パウロがガラテヤという町にイエス様の福音を携えて行きまして、そこでイエス・キリストを信じればすべての罪は赦され、神様のものとして新しいいのちに生きることができることを伝えました。それを聞いた多くの人々が「こんな有難い話はない」と、大変喜びました。「何かせよ」と言われてもできないのだし、ましてや「老後のたくわえを出せ」なんていう宗教があったりしますが、そうでもなさそうだし、「信じればいいのでしたら、こんなたやすいことはないし、有難いことだ」と喜びました。しかも、その教会に集まっていた人たちは伝統的に長い宗教的な習慣、仕来りを守ってきたユダヤ人たちが多かったのです。だから、自分たちの生まれ育った環境、その窮屈な生活、旧約聖書に語られている律法の世界ですから、「あれをしてはいけない、これをしなさい」「こうしてはいけない、これをすべきだ」と、いろいろな日常生活の一つ一つが、食べるものから一日の行動、生活の一コマ一コマが細かい規則に縛られていた。長い年月それをやっているので気がつかないうちに習慣化されて、それほど苦しいという自覚はなかったでしょう。こうするべきだとか、ああしなければいけないと常に気を配る。そのときに常に人を恐れます。こうしておかなければどうなるだろうか。人がなんと言うだろうかと。
日本の社会もどちらかというとそのような社会ですね。いろいろな習慣や、仕来りがあって、このときはこうすると世間で慣例になっていることがあります。家内の父が今年召されまして、葬式をしました。そうすると、親族や周囲の人たちは、「初七日はどうするのかね?」と尋ねてくる。「初七日って、何のことかな」と思う。「いや、一週間たったら、お坊さんを呼んで、お経を上げるのが仏教の仕来り。日本の社会は仏教社会だから、それをするのが当たり前」。普段交わりもない、音さたない親類の人に「どうなっているんだ」と言われると、信仰のない、まだ救いにあずかっていない義母は気になる。「しないといけないのじゃないだろうか」。「聖書にはどこにもそんなことは書いてない。したければすればいいし、しなければしないでもいいし……」「いや、でもしなければいけないのじゃないか」「いつがいいか」とやんや言われて、「50日ぐらいをめどにして、記念会をしましょう」と決まる。私もせっかくの機会だから伝道集会のつもりで、親類も来てもらって教会で記念会をしました。そうして終わって、帰りがけに義母が「初盆はどうすると?」と言う。日本の社会は、信仰の有る無しにかかわらずそうするものだという習慣で、生活している。だから、私たちもそうしないとおられない。それで義母に聞いて見ると、それを信じているわけではない。ただ「親類のものが何と言うか分からない」「兄弟たちから言われる」とか人を恐れる。人の手前、みんながそうしているのに、自分だけしないわけにはいかない。殊に日本の社会は“和を尊ぶ”という社会ですから、一人でも手を離したらとんでもないことになる。みんな同じように歩調を合わせなければいけない社会。ある意味で窮屈です。最近はだいぶそれが崩れてきましたが、それでも根深いところに人の目を気にする。自分の生活を考えてみると、恐らく90パーセント は人のために生きているようなものです。「こうしておかなければいけない、ああしておかなければいけない。人が何て言うか分からない」「近所の人から見られるかもしれない。ああしなければ……」、四六時中、そのような意識があります。時にはそういうことがうっとうしいときがあります。いろいろな問題を抱えて悩みの中にあるとき、そんなものを守っておられない。そういう時はうっとうしい。ではどうするか。といって、それをやめるわけにはいかないから、つい「仕方ない。仕方ない」と嫌々ながら、喜びもしない、苦しいばかりでやっている。
このガラテヤの教会も、集まった人たちは長年、そういうユダヤ教の習慣の中に生きていた。だから、そのような生活をしていた。ところが、パウロを通して「そうではない。神様の前に義とされるには、自分の力や努力は何にも役に立たない。ただ、私たちの罪のために死んでくださったイエス様を信じて、よみがえったイエス様に従って生きる生涯、これがすべてです。世の中で先祖がこう言ったとか、こういう仕来りがある、こういう習慣があるからこうしなければ、ああしなければと、そんなことは何の心配もない」と聞いた途端、ガラテヤの人々は喜んだ。「そうか。イエス様の救いは信じれば神様に義とせられる。イエス様を信じていれば、天国に行けるのだ。こんないい話はない」。信じればいいのですからこんなたやすい話はないのだが、私たちはどういうわけか信じない。いい話なのだが信じない。ガラテヤの人々はそれを信じたのです。「良かった。これで古いものに惑わされないで、神様のものとなって生きるのだ」と、喜びにあふれて、感謝賛美していた。ところが、新しい生き方をしていると、「でも、何にもしないというのは悪いのではないだろうか。ひょっとしたら世間の人はなんと言うだろうか」と、ガラテヤの教会にそういう思いが次第にわいてくる。あるいは良い思いからも出てくる。「神様に救われた。何もしないでいいというなら、これは有難い話。でも感謝ぐらいしてもいいのではないか。あれもしておいたらどうだろうか」と、一つの決まり、ルール、あるいは約束事のようなものが、善意から生まれます。
これは、日本の教会もそうです。クリスチャンは本来イエス・キリストの救いにあずかってまことに自由なのです。だから、私どもの教会ではルールというものはありません。あるのは一人一人が神様に従っていただくこと。なぜならば、私たちはイエス・キリストを信じて神の僕、神様に仕える者となったのです。
私たちは神の僕だから礼拝に来ている、教会に来ているときは神様に仕えている。でも、いったん教会の外に出る、わが家に帰ると、そこは私の世界、神なき世界になってしまう。私は私だとなる。これは間違いです。イエス様は私の救い主であると信じて、神様に仕える生涯へかえられている。それは教会で礼拝をしていようと、家庭にいようと、どこにいようと、常に24時間、365日、いつも神様に仕えていく生涯。なぜならば、神様の求めるところ、神様の願っておられること、神様の喜ばれることを知り、神様のご命令に、御心に従うのが私たちのすべてです。これが私たちの救われた生涯であります。教会という公同の集まりがありますが、これは、普段神様に仕えている私たちが共に集まって心を整えて、神様に仕える自分の仕え方がずれていやしないか、軌道が曲がっていないか、点検すること。そして、神様に感謝して、もう一度新しい力に満たされて、自分の生活を整えて、また新しい一週間の旅路へ出て行く。出て行くからといって、神様と縁が切れたのではなく、私たちはどこにいても、そこで神様に仕えていく。ところが、世の中は神様を恐れませんから、私たちの生活は伝統や仕来り、習慣とか、様々な人の世、この世の生活に遣わされて行きますから、教会にいると「感謝ですね。神様はこんなに恵んでくださって、イエス様が……」とお証詞をして、周囲を見てもみんながクリスチャンだから安心と思いますが、いったん外へ出たらそこの世界は違います。会社に行ったら会社の方針もあるし、やり方もある。だから、会社によっては必ず始業前に神棚に礼拝する会社もあったりする。日本の社会はそういうところですから、気がつかないうちにだんだんと神様から心が離れて、人を見、世の中を見、みんなのやり方を眺めて、考えて、「ああしなければいけない」「こうしなければ……」「こうしたらどうしよう」「ああしたらどうしよう」と思い煩います。そして、疲れて、一週間たって、「礼拝だ」となる。教会での礼拝は、私たちにとってクリスチャン生活の力の源泉です。もちろん、普段の生活でも聖書を読み、祈り、賛美をしますが、一人でしているとどうしても弱いですから、こうやって公同の礼拝が守られる。これは神様が与えてくださった恵みのときです。だから「私と神様の関係だったら、教会に行かなくてもいいだろう。私は家で礼拝すれば……」と思う。アメリカではそういう人が多い。テレビで礼拝をする。テレビに大衆伝道者が出て説教をする。そして最後に「献金は銀行の何々口座に振り込んでください」。カードでもオーケーとか、笑い事ではない。それでは魂が神様に繋がることができない。日曜日の朝10時に礼拝へ行くのだと、心を備えて、バス賃を払い、あるいは車に乗って、その時間をとって、犠牲を払って神様の所へ来ること、これが大切です。自宅にいて、散らかった居間でテレビを見ながら、ちょっとお茶でも飲みながら「ははーん、そんな話か」と、説教を聞いているだけでは礼拝にならない。やはり、自分が時間をとって神様の前に出て行くこと。今、私たちは目に見えない神様の前に立って、自分の一週間の生活の一つ一つを省みて、御言の光に照らして、歩き方を整えて、社会に出て行く。そこで主に仕える者、僕となって神様の御心に従っていくのです。これが私たちクリスチャンの生活です。この教会では、ご存じのようにどれひとつ義務というものは課していません。「こうしなければならない」、「こうあるべきだ」ということはありません。週報には「聖書通読、一日に旧約、新約一章ずつ読みましょう」とお勧めはしますが、これは義務ではありません。一人一人が神様の前に決断してすることです。これはただ単にひとつの指標、インデックス、こういう形でもできますよという例ですから、神様に導かれたところでおやりになったらいちばんいい。何か良い事であってもそれが習慣化していくとき、私たちの信仰は死にます。だから、教会でこういう事をしましょう、ああいう事をしましょうと決めると、途端にそれが魂を縛ってしまう。命を失っていくのです。ですから、この教会では献金当番とか、受付とか一応名前を出しますけれども、嫌だったらどうぞ遠慮なく「私はしばらくしたくありません」と言ってくださっていいのですよ。「教会員だから仕方がない。そのくらいの義務は果たさなければ」というのは間違い。義務ではありません。
あるいは、教会のお掃除でもそうです。お掃除当番というのを決めていません。ところが、一度として誰も来なかったことはありません。誰も来なければ掃除をしなければいいのです。それで礼拝ができないわけではない。「私が休んだら、トイレの掃除は誰がするのかしら、誰もいないし、仕方がない。今日は忙しいけれども、私が行かなければしようがない」と来られるなら、それは間違いです。トイレが汚れていようと礼拝はできるのですから、私はいつもそう思う。神様はちゃんとそれができるように備えてくださる。ある方はご夫婦で土曜日にお掃除にやって来ました。「珍しいことがあるものだ」と思いました。「先生、大変恵まれて、神様は私たちのような者をこんなところに置いてくださったので、何か一つさせていただきたい。掃除の一つでも自分はできるかもしれんから、させていただきたいのですが、いいでしょうか」「あなたがしたいと言うなら、どうぞ遠慮しませんから」と言ったのです。お断りする理由はありません。すると、喜んで一生懸命にやってくださる。ところが、始まりはそうであっても、良いことを始めたらそれを習慣にしようとする。人の心はそうです。いったんお掃除を始めて、先週も行った、今週も行った。二週も続いたら三週目もこれは行かなければとなる。一年ぐらい続くと常連になって、自分が抜けたら困るようだからと義務的になる。それは信仰にとって良いことではない。重荷を感じるのだったらスパッとおやめになったほうがいい。そして、本当に心から喜んでできることをしていただきたい。それが私たちの命だからです。ところが、いろいろな良い事も気がつかないうちにそれが習慣化する。
ある教会で一人の方が提案をしたのです。「庭の手入れをしようではないか。園芸部を作りましょう」と。その人は園芸好きだから喜んでしたいと思ったのです。「どうぞ、やってください」。そのうち「先生、せっかくだからみんなが参加できるようにこの組織をきちんとしましょう」と。「参加者を募(つの)りましょう」。よく聞いてみたら、その人はやり始めたのだけれども、だんだん重荷になってしまった。といってやめるにやめられないから、人を巻き込もうというわけです。世間の教会はどうしてもそうなっていく。そして、規則が出来る、組織が出来る、会が出来る、会長が出来る、副会長が出来る。偉い人ばかりがたくさん出来る。何々会長、教会中が会社の重役会のようになってしまいます。どんな良い事であろうと、百人が百人もろ手を上げて賛成したことでも、気がつかないうちにそれが律法になる。ルール化する、マニュアルになったとき、命を失います。それを絶えず打ち壊して、真剣に神様と一つになって、福音の真髄(しんずい)に立っていかなければ、私たちは死んでしまいます。
旧約聖書にもあるのですが、ご存じのように民数記を読むと、イスラエルの民がエジプトを出立(しゅったつ)して、カナンの地を目指しました。その途中で神様につぶやきました。「こんな苦しい、食べるものはいつもマナばかり」と、「うずらばかり」とか「水がない!」とか、そのために自分たちの指導者を悪く言ったのです。そのとき神様は火のへびを彼らに送った。毒蛇だったのです。そのためにたくさんの人が死にました。民はびっくりして、「神様、赦してください」とモーセに執り成しを頼み、モーセがお祈りをしたところ、神様は「青銅のへびを造ってそれをさおの上に掲げなさい」と命じました。馬鹿みたいな話です。青銅のへびを形作って掲げる。それを仰いだならば、それを見上げるならば、その人の罪は赦され、病は消えるという。これは青銅のへびが何か特殊な光線を発するとか、御利益があるというのではありません。ここが大切なのですが、そのように馬鹿げたことだけれども、神様がそうおっしゃるならばと、そこで自分が馬鹿になる、愚かになって、へりくだって仰いだ人は事実、赦されたのです。ところが「そんな馬鹿なものを見たって仕様がない。こっちの薬のほうがいい」と言って、それを仰がなかった人は死んだのです。それは後のイエス・キリストの十字架の予表、預言でもあります。私たちが考えると、イエス様が十字架におかかりになられて、二千年前の一人の人が死んだぐらいで罪を赦されるはずがない、二千年もたって効力が切れている、有効期限はいつまでやと、そんなことを考えて信じようとしない人は滅びです。でも、馬鹿な話かもしれない、荒唐無稽(こうとうむけい)と思われることだけれども、これは神様がそう言われたのだから、「はい。信じます」と信じた人は「仰ぎ觀(み)たれば生きたり」(民数記21:9文語訳)と、見た人は癒えた。これは素晴らしい恵みです。ところが、その青銅のへびが、その後、イスラエルの民にとって偶像になったのです。ネホシタンという神様になってしまった。さおにつけた青銅のへびが、霊験あらたかな神様になってそれを大切に拝むようになった。その後、それを取り除くように命じられました。
私たちの生活の中にでも、気がつかないうちに良い事であっても、世間でみんなが良い事と言われることであっても、それが習慣化し、ルールになり、規則になってきたとき、いのちを失います。ガラテヤの教会はまさにそうだったのです。救いにあずかって、「こんな者がイエス様を信じるだけで永遠のいのち、天国の生涯へ変えられる。神様に仕える者としていただいた、何と感謝か」と喜んで、感謝した。そのうち、これはしなければいけない、あれもしなければいけないのじゃないだろうか、何もしないというわけにはいかないから、みんなでひとつ決めようではないか、ああしようではないかと、だんだんと彼らは福音から離れて、旧来のユダヤ教の律法へ帰っていく。私たちもその事を警戒していきたい。
ですから、1章6節に「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない」と。私たちも違った福音へ落ちていく。絶えず原点、救いの原点である主イエス・キリストを信じる信仰、罪の奴隷から解放された私たちは自由なのです。けれども、その自由が必ずしも私たちの益となるわけではない。その自由を神様に従う自由として受け止めていく。だから、私たちは自由であるからこそ、することの自由と同時にしないことの自由もあるのです。自分でしたいからするのではなくて、したいけれどもそれをやめる自由がある。あるいは、行きたくないけれども、したくないけれども、これは喜んでしようという自由も私たちにはある。これがキリストの福音です。イエス様を信じていくとき、自分の思いに縛られず、世間の仕来りや習慣にも縛られず、ただ、イエス・キリストが私たちに何を求めているか、主が私に何を今日せよと言われるか、御霊に導かれること、主の御霊の御声に従うこと、これがすべてです。そのとき、しない自由、する自由、どんな自由にも私たちは生きることができる。だから、今、私たちは何物にも支配されない。しかし、パウロはキリストの奴隷であると言っています。キリストにだけは従う。なぜならば、キリストに従うところにこそ自由があるからです。自分に従って自分の思いのまま、自分の欲望の欲するままをすることが自由だと思いやすいけれども、そうではない。それは誠に不自由な姿です。自分がしたいから、自分がしたくないから、自分の感情に任せきるならば、それはまことに惨めな不自由な世界です。しかし、いったんその自分を捨てて、主イエス・キリストを信じて、主に従う自由の中に置かれたとき、人を恐れません。事情、境遇、事柄を恐れません。何物にも縛られない。それでいて、どんなことでもすることができると同時に、どんなことでもやめることができる。それをしないでおくことのできる自由をキリストによって私たちは握っているのです。
その先10節に「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか」。これはクリスチャンとして、イエス様の救いにあずかった者の生きる一つの基準、何をもって善しとするか、どれによって自分を計るかに尽きるのです。私たちが何かするにしても、今私は神様に喜ばれようとしているのだろうか、それともあの人を恐れ、この人を恐れ、誰かから何か言われそうだからしているのか、あるいは、自分が感情に任せて、自分の情欲に従ってしようとしているのか、自分を喜ばせようとしているのか。だから、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神様に今喜ばれようとしているのか、絶えず自らを問わなければならない。クリスチャンは楽です。「ああせよ」「こうせよ」というような、ややこしい手引書はどこにもありません。入門書もありません。あるのは、ただ一つだけ、「人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか」。そこが私たちの福音の根幹、根元です。神様が今、私に許してこのことをさせようとしてくださっているのか、ただこれだけを自分の判断にする。あの人が言うから、この人が言うからとか、世間でこうしているとか、人がこうしているとか、それは駄目。神様が喜んでくださるからこのことをしているのだという信仰が私たちのうちに有るのか無いのか、これが大切です。では、人のためにしないほうが良いのか、人を喜ばせるのがいけないのだったら、家内に買ってやろうと思ったけれどもやめておこうとか、そのような話ではありません。形として人を喜ばせる結果になるとしても、動機を問われます。神様の御心に従うゆえに、今このことをしているのかどうか、大切なのはそこです。結果ではありません。神様の前に喜ばれる道を歩んでいると、あなたが信仰をもって言えるかどうかです。人が見て判断するものではない。「ちょっと聞くけれども、私のしていることを神様は喜んでいると思う?」と尋ねたって、誰も分からない。時々、尋ねられます。「先生、私のしていることはこれでいいでしょうか?」と。「良いでしょうし、良くないでしょうし」と言う。「どっちですか?」、「いや、あなたが決めなさい」と。一人一人が神様の前に、これをしようとしているが、これは、神様、あなたの御心と信じてさせていただきますという信仰に立って決断しているかどうか。どこかで「あの人がそう言うから、これをしておかないと、何か言われやしないか、口やかましいあの主人がまた何か言うかもしれないからしておこう」と。これは駄目です。
使徒行伝5章1節から5節の前半までを朗読。
イエス様の救いにあずかって、喜んで多くの人々がクリスチャンになりました。集まった人たちは感謝して、喜んで自分の持っているものをみなささげて、共同生活のような状況になったのです。みんなが資産を売ったものを使徒たちの足元に置く。右の手のすることを左の手に知らせず、黙ってささげたのです。それを見ていたアナニヤさんは「おれも何かしなければいけないな」と思ったのです。みんなもしているのに自分だけしないわけにはいかない。といっても惜しいし、どうしようかと。それで今読みましたように、アナニヤとサッピラという夫婦は共謀して地所を売った代金、これを持って行って、使徒の足元に「これはこの土地を売ったものです」とささげた。それでペテロが「これは全部か」と言ったら「はい、そうです。もう全部感謝してささげました」。ところが、誤魔化しておったのです。アナニヤは売ったものの一部分を持って来て「これは全部です」と言ったのです。神様はちゃんとご存じで、ペテロがそのとき2節に「共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。3 そこで、ペテロが言った、『アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか』」。問題はここです。物をささげるとかささげないというのは、そんなことはどちらでもいい。大切なのは、今していることが本当に神様に喜ばれることとして、信仰を持って、それをしているのか?と。神様は私たちの外側を見給う御方ではなく、心を見給う御方と記されている。私たちの思いの隅まで全部ご存じです。神様の前に裸になって、「私はこれだけしかできません。でも感謝してこれをささげます」と言えばいい。だから、あとでペテロは4節に「売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか」。どんなにでもあなたの好きなようにしたら良かったのに、ただ人の目を気にした。人を喜ばせる、あるいは、自分の名誉のために、みんなから評判を取ろうとする。私たちも気がつかないうちに、そのような動きになる。そればかりでなく、時には親として、子供として、そういう気持ちで、神様から離れていくのです。いや、だって親孝行は神様が喜ばれるのではないかと。もちろん、「汝の父母を敬へ」(出エジプト20:12文語訳)とありますから、両親を大切にすることを喜ばれますが、具体的に何をどうするべきかは、一人一人が神様の前に導かれるべきことであって、あの人もしたのだから、この人も……、この人もあの人も……によるのではありません。
このときのアナニヤとサッピラは神様をだましてしまった。私たちもひょっとしたらそういうことをしている。「私はそんな冒とく的なことはしません」と言いますが、似たようなものですよ。いつも神様の前に、今私は誰に喜ばれよう、誰を喜ばせようとしているのか。これは私たちのクリスチャンとしての歩み方の尺度です。これに従ってさえおれば間違いない。ただ、時々それに従えないときがありますから、そのときは悔い改めて、絶えず神様の前に姿勢を整えていきたいと思います。
ガラテヤ人への手紙1章10節に「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか」。よくあることですよ。つい人前を飾る、人にどう思われるか、人からどのように自分が評価されるだろうかと、そんなことばかりを考える。その結果、神様の御心を離れて、福音からそれていってしまう。これは大切な命を失います。そうならないために自分の心を探って、御言の光に照らされて、いつも神に喜ばれる歩みをしていきたい。一日を終わって、夜休むとき、振り返ってみて「今日も神様、あなたの御心に従うことができまして感謝です」と心から言える人は誠に幸いな人です。そうではなくて「振り返ってみると、今日もおれのしたいことばかりをやってしまったな」と、悔やむ思いでは夜が眠れません。だから、いつもどんな小さなことも祈りつつ「主が喜ばれることは何でしょうか。神様、あなたが私に求めていらっしゃることは何でしょうか」と問う。そのとき、「これは主の御心だ」と心に思わされる。神様が私たちの心に置いてくださる思いをしっかり受け止めて、「このことは私がさせていただこう。これは、神様、あなたのためにこのことをさせていただきます」と、自らが決めることが大切です。人が決めるのではない。神様に祈って、はっきりと決断して歩んでいただきたい。これがクリスチャンの生き方、そこには自由があり、喜びがあり、満足があり、そして感謝にあふれてきます。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。