いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(338)「罪咎を赦され」

2014年10月01日 | 聖書からのメッセージ
 「イザヤ書」40章1節から5節までを朗読。

 2節「ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役(ふくえき)の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

 ここに「エルサレムに語り、これに呼ばわれ」と言われていますが、神様が私たちに宣言してくださったお言葉でもあります。その内容は、「その服役(ふくえき)の期は終り」とあります。「服役」という言葉は犯罪を犯(おか)して、懲役(ちょうえき)何年とか、終身刑とか無期懲役とかで、刑の宣告を受け、その期間を拘束(こうそく)され、刑務所に服役をすることです。ところが、その刑期が終わるといいますか、定められた刑務所での時が終わって「そのとがはすでにゆるされ」たとあります。聖書を通して語られている幾つかのことがありますが、そのなかの一つで、大切なことは「ゆるす」ということです。

聖書には旧約聖書のいちばん最初に「創世記」という記事がありますが、そこから始まって分厚い一冊の本になっている聖書を読むわけでありますが、聖書を通して何が語られているか? 詳(くわ)しく言えばいくらでも語ることはたくさんあります。しかし、いちばん分かりやすく言うと「ゆるし」についてです。いちばん最初は天地創造の記事であります。神様が森羅万象(しんらばんしょう)のすべてのものを6日間にわたってお造りになられたこと、その最後に人を創(つく)られたことが語られています。ところが、造られた人が神様に対して罪を犯して、エデンの園を追放(ついほう)される。神様のお言葉に従わなかった人間に対して神様が「お前たちはゆるせん」と追放した、という記事があります。しかし、既(すで)にその時神様は、アダムとエバをエデンの園から追放するにあたって、「皮の着物を造って、彼らに着せられた」(創世 3:21)とあります。裸でいた彼らに神様が着る物を与えてくださった。その着る物とは何か? これは、その後実現することになる主イエス・キリストご自身です。神様はエデンの園から人を追放して厳しく罰せられる御方のように思いますが、実はその背後(はいご)に人を憐(あわ)れんでくださる神様のご愛が隠(かく)されている。そのことを語っているのが聖書です。神様のご愛は、どこにあるかというと、私たちの罪を赦(ゆる)してくださるところにあるのです。

 2節に「その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ」とあり、木曜会で教えられたように「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである」(詩篇 32:1)。本当にそうだと思います。罪を赦されるのは、どんなにうれしいことか。皆さんもご存じのようにある人が冤罪(えんざい)という、身に覚えのない罪を着せられて、死刑の判決を受け服役した「足利(あしかが)事件」というのがありました。犯人とされた人が20年近くでしたか、刑務所で労役に服(ふく)していました。ところが、最近の科学技術の進歩で、どうもその時の科学的な捜査(そうさ)の裏付け、証拠(しょうこ)があやふやというか、間違っていた。真犯人はほかにいて、その人は全く罪のない人だと分かりました。だから、もう一度裁判がやり直されていますが、その方にとっては大変うれしいことであります。自分が無罪であることが証明されるのですから。時々、関連したニュースが報道されるたびに、その方の満面笑(え)みを浮かべた写真が公開されます。うれしそうな表情をしておられます。確かに、罪を赦される、それどころか、その人は罪なき者が罪人とされたという、過酷(かこく)な試練のなかにあってそこから救い出される、罪が赦(ゆる)されることは、どんなに大きな喜びであろうかと思います。

そのような喜びを神様は私たちに与えてくださる。ところが、私どもは自分が赦されなければならない罪人であることを、あまり自覚していません。むしろ自分は正しい人間、どこにも非の打ち所のない人間、どこにもとは言わないまでも人並みの人間であると。粗(あら)を探せばいくらでも出てくるけれども、少し大目に見ればほとんどなしと、そのような思いで生活しています。確かに、普段の生活においては、そのように罪を自覚しません。罪という言葉が非常に強い言葉ですから、何かカチンととげが刺(さ)さるような感じの言葉ですから、罪と言われると違和感があるに違いありません。しかし、神様は人を初めから罪びととして造られたのではありません。むしろ、神様に愛される者として、大切な存在として造られ、エデンの園での平安な生活であったのです。ところが、罪の結果、暗黒の地に住むものとなりました。世間でも“貧すれば鈍する„と言いますが、ある境遇(きょうぐう)に慣(な)れ親しんでしまうと、そういうものだと思い込んでしまいます。だんだん私どものように年を取ってきますと、新しいこととか新しい生活の様式にはなじみにくい。つい今までやってきた昨日の今日、今日の明日と、変わらないでやっていこうとします。

家内の両親もそうですが、だんだん年を取って生活が不自由になってくる。足腰が弱る、目もしょぼくれるし耳も遠くなる。そうすると、普段やっていた生活にいろいろと支障(ししょう)が出てくる。あそこが不便だとか、ここが不便だと。私どもはそのたびに「今はもっと便利な道具があるから、こうしたらどうだ」と言う。いろいろなことを勧(すす)めます。庭の洗濯竿に洗濯物を掛ける。「年を取ってくると腰が伸びない、そのたびによろける、困ったものだ」と言うから、「それじゃ、こけないうちに早く乾燥機を買ったら?」と言ったら、「いや、そんなぜいたくなものは……」と嫌がります。冬になると「台所仕事が大変だ。水は冷たいし……」と言う。「それじゃ、食洗機(しょくせんき)があるから、それを付けたら」と言う。「いや、そんな高いものはわしらは使えん。いつまで生きるか分からんから」と言う。自分の慣れた生活があると、新しい生活がどんなに便利かが分からない。80歳近くで独り暮らしをしている家内のおばがいますが、冷暖房機を新しくしたいと言う。ところがなかなか替えようとしない。とうとう私どもが勧めて新しいものに替えさせた。取り替えてこのひと冬過ごすと「とても快適だった」と、しかも「電気代が昔ほどかからなかった」と言って大変喜びました。「だから、言ったじゃないの」と言うのですが、本人がそれを経験しないと分かりません。恐らく皆さんのお子さん方は嘆(なげ)いておられるに違いない。「うちの親は頑固(がんこ)で、最近新しい物があるのに何とも受け入れようとしない」と。

そのように自分の生活に慣れてしまうと、ほかの生活がどんなふうなのか、どんなに楽であるか、快適であるかが想像できない。体験しないと分からない。生まれてからズーッとこういう生活、この人と人との生き方に慣れていますから、「教会に行くと罪だ、罪だと言われるけれども、私のどこが悪いのやろうか」と。「言われれば、ないわけではないけれども、そんな言われるほどひどい罪を犯(おか)していません」と。事実そうだと思うのです。平和な市民として何十年か罪も犯さず、時々は交通違反(いはん)ぐらいはするけれども、それ以外にさしたる罪は犯したことはないし、自分は正しい人間、どこにも悪いところはない、と思います。ところが、聖書にあるように、「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」(黙示録 3:17)といわれています。いま自分が置かれている生活状態といいますか、外側の条件は大体均一化してきましたから、どのご家庭にいっても似たり寄ったりです。そう大きな違いはありません。鳩山首相ぐらいになるとお小遣(こづか)いが違いますが、庶民(しょみん)のわれわれは大体似たり寄ったりで、裕福そうな顔をしていますが、実際は同じです。問題は心です。神様が問われるのは、私たちの内なる人がどうなのだ、ということです。私は罪のない人間、どこにも人から責められること、とがめられるところは何もない。そのとおりです。しかし、いったん自分の心の中を探ってみると、不安や恐れや苛立(いらだ)ち、憤(いきどお)りが常にあります。私たちは神様によって造られた人間だ。しかも「神様のかたちにかたどられて尊い者として造られ、神様の命の息によって人は生きる者となった」とあるように、本当の意味で生きている自分であるか? と問う。自分のなかを見るといろいろな恐れがある。「こうなったらどうしようか」「ああなったらどうしようか」「あの人が何と言うだろうか」「この人が何と言うだろうか」「自分はこうやってきたけれども、これは良かったのだろうか、悪かったのだろうか」と。その結果、何をしているかというと、実に不自由な生涯です。皆さんが何かしようと思っても、いろいろなことを瞬時にして計算します。「もし、私がこうしたならば、あの人に当たるに違いない。こっちの人は喜ぶけれども、あっちの人は嫌がるだろう」「こうしたほうが良いに違いない」「ああしたほうが良いに違いない」、いろいろと心のなかで思う。あるいは世間を見る。世の人はこの時いったいどうするだろうか。こういうときにはどうしたらいいのかと。人から笑われないように、日本人は特に「恥」ということを気にしますから、恥ずかしくないようにするにはどうしようか、ああしようと、あちらに気遣い、こちらに気を遣い、あの人を恐れ、このことを恐れ、あの心配、この心配をしながら、生活をしている。しかし、自分の願ったように、あるいは自分が良いと思ったことができない。パウロは「ローマ人への手紙」7章に「私がしたい、これはよいことだと思いながらそれができない。そしてこれはすべきではない、これはしてはいけないと思うことをつい自分でやってしまう。ああ、われ悩める人なるかな」と言っている。ところが、生まれたときからそれに慣れ親しんでいますから、心配しない自分というのは考えられない。心配している自分でこそ自分だと思っている。あるいは人を恐れたり、事情や境遇で常に戦々恐々と身を縮(ちぢ)めるようにして「あっちにもこっちにもあの人にもこの人にも悪い。だからやめとこう」と、かたつむりのように殻(から)に閉じこもって、角も出さない、何も出さない、という状態に落ち込んでいる私たちの姿は、神様の作品にふさわしい姿でしょうか。自分の心の状態を見て、「これはわたしの愛する者。これを見てご覧、わたしの傑作(けっさく)だよ」と自慢できるものでしょうか。神様が私たちを創(つく)られたとき、「よし」と言われた私たちです。ところが、実際の自分をよくよく振り返ってみると、今申したように、あそこでも不自由、ここでも……と、いろいろなものに縛(しば)られている。

 私は牧師の家庭に生まれましたから、日曜日になると礼拝で、一日忙しい。世間では日曜日はお休みです。何という家に生まれたかと思う。自分ながら「どうしてうちはこうなのだ」、運動会は日曜日、その他遠足とか何かと度々(たびたび)引っかかる。「何と不自由な家に自分は生まれたのか。もっと自由になりたい」と、高校生くらいのとき思いました。父は「お前は本当に馬鹿なことを言う」と「神様を畏(おそ)れて、神様によらなければ人は自由が与えられない」と。「そんなことがあるか!」と反発しました。「日曜日ごとに集会や何かで縛られて、お祈りはしなければならないし、それに聖書を読むなんて、そんな時間があったらテレビが見たい。遊びに行きたい」と不満だらけでした。「何とかここから逃げ出そう。出エジプトだ」と思ったのです。それで、地元にいたらこれはたまらんと思い、といって東京まではチョット遠い。その途中で大阪あたりかなと、関西へ飛び出しました。独りになったときのうれしいこと、「晴れて自由になったぞ!」と、「何でもできる」と思いました。ところが、皆さんのご経験のとおりです。生きることは並大抵じゃない。それまでは冷蔵庫を開ければ何でも食べるものがあった、ただですよ。ところが、独り暮らしを始めたら、出るたびにお金がいる。どこかお店に入って食べようとすると、ただでは食べられませんから、わずかな小遣いから出すわけです。すると月末ぐらいになるとお金がなくなる。同宿の人の部屋に行ってラーメンの汁だけもらって飲むとか、インスタントラーメンで過ごすとか、そういう生活でした。そのとき初めて「自分は自由を求めてきたのだが、これだったのだろうか」と思った。しかも、何もかも自分でしなければいけません。自分で判断しなければいけない。そのとき初めて、なるほど、独りになる、自立する、人生を独りで生きるとはこういう不便、困難を自ら引き受けなければいけないのだ、と思ったのです。そうして、社会生活をするにあたっては、自分だけじゃないから、人のことも気になる。あの人のこと、この人のこと、あの人を恐れ、この人を恐れ、人がどのように自分を見ているだろうか、人前でどうだろうか、自分はこんなことをするけれども、人は何を言うだろうか。そんなことが気になって、一つのことをするにも手が出ない、言葉が出ない。皆さんは慣れているから適当にやっておられますが、なかなか楽にならない。もっと自分が自分らしく生きられないものかと。そのころ、私は父に「十人が十人、神様、神様と言ったら何の面白みもない。ブリキのおもちゃのように形がみな同じになる。そんな個性のない生き方は駄目、私は私でないと生きられないオリジナリティーのある人生を生きたい」と、偉そうなことを言っていました。そう言って飛び出したのはいいけれども、出てみて初めて分かったのです。世間のやり方に沿(そ)わないことには生きられない。人様がするようにする。皆がやっているからする。もし自分だけ道を外れたら、いろいろな不便を覚悟しなければならない。それが世間です。「そんなこと、へっちゃらだ」と言えればいいのだけれども、それができない。独りで生活して初めて気がついたことは「自分は自分らしく」と言いながら、ふと気がつくとあの人のまねをし、この人のまねをし、この人がこうしているから自分もそうしよう。あの人があれをしてうまくいったそうだから、こうしておこう。ほとんどが自分のものではない。借り物ばかりです。人の物まねをしながら生きている。

今でもそうです。私は天神の雑踏(ざっとう)の中を時に歩きますが、夕方になるとオフィスレディーの方々が大勢地下街を歩いている。それを見ながら「あの人はさっき会った」、「あら、こっちにも同じ人がいる」と思うほど同じような姿です。皆自分だけは人と違う、と思いながら結局似たり寄ったり。ファッション雑誌を見て、真似しているのです。雑誌によってタイプが違いますから、これは何系だな……と。ところが、本人は自分だけが誰とも違ういちばん美(うつく)しいと思って歩いている。もっともそうでないと歩けませんから、みなそうやっている。格好を見ると表も裏も全くさっきの人と同じです。それが人の生き方、誠に自由がない、不自由なのです。そして、何が一番問題かというと、心にいつも恐れがある。人から何か言われないだろうか、自分がこうしたらどう言われるだろうか、家族を恐れ、人を恐れ、上司を恐れ……、いつも何かを恐れている。よくサラリーマンは宮仕えなどといって、自分の意に沿わないことでも会社の命令だから、上司がそう言うから、やっています。やがて定年退職、「これで会社などにおれは使われるものか。おれは自由だ」と、飛び出して、退職した、毎日がサンデー、休み、これで好きなことをしてやろうと始めますが、みな同じで、家庭菜園をやってみたり、ジョギングをしたり、スポーツジムに行ってみたり、「あなたもですか」と、やっていることはみな同じです。というのは、自分で自分の生き方を決定することができない。何かに捕らわれている。

それが罪の結果なのです。これまで何十年と生きてきた人生を振り返って「あのときあんなことをしなければよかった」「このときこのようにしなきゃよかった」「あれはうまくいったけれども、あの後こうなってしまった」「あれはあの人がいけないんだ。この人が……」と人のせいにしながら、自分の内に、無意識のうちに「やっぱり自分が間違っていたのじゃないか」と思います。だから、私たちにそのストレスが加わってくる。わたしたちは何かにとらわれて、見えない縛(しばり)りのなかにあるのです。

「ガラテヤ人への手紙」5章1節を朗読。

 ここに「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」とあります。あるとき、イエス様はユダヤ人たちの集まった所で、「わたしはあなたがたに自由を得させるであろう」とおっしゃったのです。それを聞いていたユダヤ人たちは「イエス様は私たちに自由を与えてくれると言うけれども、自分たちはそもそも奴隷なんかじゃない」と言って、イエス様に失望したという記事が、「ヨハネによる福音書」8章にありますが、私たちもそう思っている。ここに「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」。「へえー、私は何の奴隷(どれい)だったのだろうか」と。私たちは今申し上げたように、常に人を恐れたり、事情や境遇を恐れたり、何か自分のしたことに納得いかない、受け入れられないでグジュグジュといつまでも悔やみ続けていることがある。そして「私が悪かった」「私が悪かった」と、自分に言い続けているものがあるならば、それは罪の奴隷だ、とイエス様はおっしゃる。罪の結果として、私たちはどうしても自由を得られない。そこから「キリストはわたしたちを解放して下さった」と。イエス様は私たちの罪のために十字架にかかってくださったのです。十字架にかかられたイエス様、2千年前ゴルゴダの丘に両手両足を釘付けられ、頭にいばらの冠をかぶせられ、胸をやりで突かれて、一滴一滴血を流して、最後に父なる神様から罪なき御方が罪人とせられて「わが、わが、なんぞ我を見棄て給ひし」(マタイ27:46文語訳)と、父なる神様から完全に捨てられたのです。それまでイエス様は神様との交わりのなかにおられましたが、罪人として砕かれて、交わりを絶たれてしまいました。そして、黄泉(よみ)にまで下って墓に葬(ほうむ)られなさいました。それは私たちに対する「赦(ゆる)し」の宣告です。イエス様の十字架は「あなたの罪は既に赦されていますよ」という、私たちに対する判決です。だから、1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」。あなたは何を恐れるのですか。恐れることはありません。あなたは何をいつまでもくよくよと悔(く)やんでいるのですか。いつまであなたは自分のしたことが良かっただろうか、悪かっただろうかと悩むのですか。そうではない。あなたの罪は赦(ゆる)されている。「神様はそれを赦してくださったのですよ」。いま私たちは主イエス・キリストを信じ、十字架を信じることだけです。

 「イザヤ書」40章2節に「ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。私たちは神様から刑罰を受けて、その刑期が終わった。刑の処罰が終わった人間なのだと宣告されているのです。これを信じなさいとイエス様は私たちに求めておられる。私たちが罪を赦された者であることを認める。姦淫(かんいん)の現場を捕らえられた女の人がイエス様のところへ連れてこられました。そのとき、パリサイ人や律法学者たちがイエス様に「こういう人は律法の書によれば石で打ち殺せとある。どうしますか?」と、イエス様を試すために尋ねました。そのときイエス様は黙っておられた。更に彼らがしつこく言うものですから、イエス様は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」とおっしゃった。「罪なき者がまず石を投げよ」と。そうしたところ年寄りからだんだんにいなくなっていった。しばらくイエス様は地面にしゃがんで字を書いておられたが、ふと気がつくとその女の人が残っていた。「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」と「主よ、だれもございません」と独りきりになった。そのとき、イエス様が「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ8章)。「もうわたしもあなたを赦(ゆる)したよ」とおっしゃった。私たちはこのように赦されて生きている者であることを信じる。これがイエス様の十字架を信じることです。

神様がゆるしてくださっているのですから、まず自分自身を許さなければなりません。私のあそこがどうだとか、こんなところが駄目だからと、心のどこかでいちばん憎(にく)んでいるものは、自分なのです。「私がもっとこうだったら……、私はもっと違った人生が歩めたはずだ。もっと私は今とは違っていたはずだ」と、後悔(こうかい)する思い、悔(く)やむものが常にあるから、いきおい人を憎むのです。自分のいちばん嫌なものが自分のなかにあって、それに似たものを人に見るから、人を受け入れられないのであります。皆さんがいちばん心に引っ掛かって、嫌だと思っている人が恐らく一人や二人どころか10人はいると思いますが、大抵その人の中に自分を見ているのです。「あの性質、あれは私だ」、でも私と認めたくないのです。だから「あんなことをして!」「こんなことをして!」と言って人をとがめる。許せないでいるのは、自分がまさに嫌いなのです。本当に自分を愛するには、自分をまず受け入れること、そのためにイエス様が「そのとがはすでにゆるされ」とおっしゃる。もうあなたのその思いをイエス様は取り除いてくださったのだから、十字架に取り除かれ、悔やむことはいらない、あなたは私の愛する者。「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ 43:4)、「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(イザヤ 43:1)と神様はおっしゃる。イエス様の十字架は私を赦(ゆる)して、私の有りのままの自分でよろしいと神様が宣言してくださった。それが十字架です。だから、人を恐れることはいらないのです。人が何と言おうと、誰が何と言おうと、もう神様が赦してくださった私なのですから、人が「お前、そんなの駄目だ」と言うなら、「ええ、駄目で結構です」と。神様が十字架を立てて、私を「よし」とおっしゃってくださった。主のゆるしのなかに絶えず生きていくこと、これがここに宣言されています。「その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ」と、嘆(なげ)くことはいらないのです。悲しむことはいらない。自分を神様が最高のものとして、よきものとして許して愛してくださる。この十字架のあがない、主のゆるしを一日一日感謝していく。そうしていきますと、私どもは人をまねることがいらなくなる。人を恐れることがいらなくなる。神様が私を「よし」としてくださる。神様が赦してくださって、今日もこのことをさせていただく。だから、何をするにしても、後になって「あんなことをしなきゃよかった」とか、「こんなことをしなきゃよかった」と、悔やむことはいらない。なぜならば、主がゆるして、そのことをさせてくださっているのですから、感謝こそすれ、悔やむことも「ごめんなさい」と言うこともいらない。

 前にもお話したと思いますが、福音の世界は有難うの世界、律法の罪の世界はごめんなさいの世界です。だから、一日を振り返って布団をかぶって寝るとき、「あれをごめんなさい」「これもごめんなさい」「悪かったなぁ。あの人に悪かったなぁ」と言っている間は、それはまだ十字架がない。良いも悪いもない。一日が終わったとき、「有難うございました」と、全部感謝、これが福音に生きることです。主の赦しにあずかって生きる。だから、私たちはいつも晴れやかで、何も恐れることはいらない。また自分のことも、神様がひとり子を賜うほどに愛してくださって、赦して「お前のそれでよろしいよ」といってくださるから、堂々と胸を張って、人のまねをしなくてもいいのです。人と違ったって、同じであったって、そんなことはどちらでもいいことです。ここに「その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ」、「すでに」とありますから、「これからゆるすよ」ということじゃない。条件もない。もうすでにゆるされ、しかも「そのもろもろの罪」、すべての罪です。過去現在未来、これから私たちが失敗するであろうことも、犯(おか)すであろうとがも罪も、もう「二倍の刑罰を主の手から受けた」。誰が? イエス様が受けてくださった。その主のゆるしにあずかって、今日も私たちは新しいいのちに生きる者となる。私どもはいつもそのことを心にしっかりととどめておいていただきたい。「私は今日も主に赦されて、生かされて……」、ですから、一日一日、主のために主のものとなりきって与えられた務(つと)めを、なすべきことがあるならばそれを果たしていく。それがうまくいこうと失敗しようと、人がいいと言おうとけなそうと、どちらでもいいのです。主が私を赦してくださって、このことをさせてくださる。できる限りのことをしたのですから、悔やむことは何もない。人の力をあてにすることもいらない。「私はできんから、あんた頼むよ、あんたやって」と、人に頼みまわるから失望するのです。「何で頼んだのにできない」と、自分もできないのに人のせいにする。できないのは当たり前なので、人に頼ることはいらない。自分がなしえたことを感謝して一日を終わる。毎日、赦され生かされて、感謝して一日を終わってご覧なさい。皆さんの顔は今よりももっと輝きます。喜んで感謝して福音に生きる生涯、罪を赦(ゆる)されて生きる生涯を歩みぬきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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