いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(465)「お言葉を下さい」

2015年02月09日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」8章5節から13節までを朗読。

 8節「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。

 この記事は一人の百卒長、恐らく当時ユダヤの地に駐留していたローマの軍隊の百卒長、100人の部下を持つ隊長ということでしょうか。1000人の部下を持つ千卒長という言葉も使徒行伝に出てきます。この百卒長は部下が100人ぐらいですから、小隊長か中隊長かこの辺は分かりませんけれども、皆さんの年配の方はかつての戦争時代のことでご存じかも知れませんが、一つのグループの頭であります。ここでははっきり語られていませんが、ローマから派遣された人であろうと思いますから、そもそもユダヤ人でなかったかもしれません。ですから、その後8節に「わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」と語っています。当時のユダヤ人は非常に誇り高い民族でした。もちろん旧約時代からそうです。先祖アブラハムの子孫であるという誇りがあります。また「神の選びの民」という自負心があります。彼らは他の民族、自分たちと違う民族のことを「異民族」という言葉をもって軽蔑(けいべつ)していました。だから、神の民でない者と話をすることも、また交際することも好まれなかった時代です。ましてや、ユダヤ人でない人の家に入ることもけがわらしいと思われた時代でした。そういうことをこの百卒長はよく知っていたと思います。ですから、自分はイエス様を家に迎えることは到底できない。いや、イエス様が来てくださるはずがないと。

しかし、この百卒長は大変部下思いで、イエス様の所へ癒しを求めて来たのです。 6節「わたしの僕が中風(ちゅうぶ)でひどく苦しんで、家に寝ています」と。「中風」という言葉は最近ほとんど使いません。脳溢血とか脳内出血とか、そういう言葉です。そのような病気で寝たきりの状態で苦しんでいる。「家に寝ています」とあります。可哀想でならないわけです。100人も部下がいるわけですからそのうちの一人ぐらいと思いますが、彼は部下の苦しみにジッとしておられなかったのです。心優しい人であったと思います。彼の切なる願いをイエス様はちゃんと知っていました。7節に「イエスは彼に、『わたしが行ってなおしてあげよう』と言われた」とあります。イエス様は気まぐれだなと感じることがあります。スロ・フェニキヤの女の人が「娘から悪霊を追い出してください」とお願いしたとき、イエス様は「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」とおっしゃって、つれなくしたのです。素っ気無い。ところが、ここでは「来てください」と言われないのに、イエス様は「わたしが行ってなおしてあげよう」と、えらく積極的です。理由は分かりません。百卒長は異邦人であって、自分はお願いすることすらもできないと知っていました。一方、イエス様は誇り高いユダヤ人です。だから、自分はそういう人からは軽蔑されるに違いない、嫌われるに違いない、と思っている。しかし、ジッとしておられない。しかもそれは自分のためではない。自分の部下です。彼がイエス様の所へ来た動機、その切なる願いを主はよく理解し、知っておられました。

今もそうだと思います。私たちの思いをイエス様はどんなことも知っていらっしゃる。そして時に応じてイエス様のお取り扱いは素っ気無かったり、あるいは非常に心優しく接してくださったりということがある。だから、「先生、お祈りしても、ちっとも聞いてくださらない。イエス様はどこにいらっしゃる? 一緒におられると言うのだけれども分からない」と言われる方がいる。同じ人が時には「今度は切に祈っておりましたら、神様は、間髪をいれないで祈りに答えて、思うよりも願うよりも素晴らしいことをしてくださいました」と言われる。同じ神様、同じイエス様であります。ある時はそうで、またある時はこうです。それはイエス様が心変わりしているのではなく、私たちがイエス様をどういう御方と信じているか。求める私たちの動機がどこにあるか。私たちが何を求めているかを全部ご存じだから、私たちの状態に合わせてきちんと受けとめてくださるのであります。だから、決して、イエス様が気まぐれで日替わりメニューのようにころころ心変わりするのではありません。イエス様は真実な、一貫して揺るがない御方です。ところが、不真実なのは誰か? 私たちです。私たちは不真実ですから、調子が良かったり悪かったり「イエス様……」「イエス様……」と言っているかと思ったら、コロッと忘れている。信仰と不信仰との間で非常に揺れる。だから、イエス様は変わらない御方ですが、私たちの状態に合わせて具体的なお取り扱いが変わります。その時々に必要なことを教えようと対応してくださるのです。ですから、イエス様が私たちを捨てている、無視している御方では決してありません。

このとき、百卒長がどんな切なる思いでイエス様の所へ来たか、イエス様は重々よくご存じであった。ですからここで「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われたのです。これはうれしい話ですから「そうですか。それでは是非来てください」と言いたいところですが、百卒長は先ほど申し上げたように異邦人ですから「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」と。別の福音書の同じ記事を読みますと、他のユダヤ人が口添えをしたという説明にもなっています(ルカによる福音書7章)。「わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」と言って来たともあります。恐らくそういう仲介者がいたかもしれません。でも、彼の心根をイエス様は知っておられる。ですから、ここで「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい」と。「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。イエス様が来てくださって、手を置いて、あるいは直接その病人のために何かしてくだされば癒されるに違いない。

ナアマンというスリヤの将軍が重い皮膚病にかかってどうにもならない。自分のうちの女中さんが「私の国にはこんな病気ぐらいすぐ治す預言者がいる」と言った。それでナアマン将軍は「それじゃ、すぐその人に祈ってもらおう」と思って、王様の添書を携えてイスラエルの国の王様の所にやってくるのです。そのときイスラエルの王様はびっくりして「そんな不治の病気を癒せなんて、これは何か言い掛かりをつけるに違いない」と思った。「そんな人がいるわけがない」と。ところが神の人エリシャは「わたしの所へやりなさい」と言った。それでナアマン将軍は彼のところへ行きました。そのとき門に行ってエリシャに頼んだのです。ところが、先生は出てこなかった。部下がやって来て「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい」と言ったのです。その時にナアマン将軍は怒った。「ちゃんと先生が自分の所へ出てきて、何か厳かな祈りを直接やってくれて治ると思っておったのに、何ということだ!本人は顔も見せないで……」と言って、怒って帰ろうとした。しかも言われた川水を見ると濁(にご)ったヨルダン川の水。「こんな汚い……、わが国にはもっときれいな川がある」と言って、怒って帰ろうとしたという記事があります。その時のナアマン将軍も自分なりに「こんな風にして癒していただけるに違いない」と思っていた。

私たちもそうでしょう。何か霊験あらたかなしつらえといいますか、雰囲気が出来ていると、「有難そうだ」と思います。だから、人はそういうものに惑わされます。しかし、このとき百卒長は「ただ、お言葉を下さい」と言ったのです。イエス様が来て癒してくださる、これ程、効き目が良さそうな話は他にない。イエス様ご本人が直接来て祈ってくださるというのですから、これに勝(まさ)ることはない。ところが、彼はそれを断る。その代わり「ただ、お言葉を下さい」と言ったのです。イエス様がお言葉をくだされば僕(しもべ)は治る。9節に「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。彼は百卒長、100人の部下を持つ隊長であります。だから自分の命令一下で全てのものが動く。そのことを常日頃、普段の生活の中で知っています。だから、彼は「言葉」というのもが何であるかをはっきりと語っているのです。軍隊などで厳しい戒律といいますか、そういう規則にのっとって生活する世界では上官の命令は命です。だから、上官が「行け」と言えば行かなければいけない。「止まれ」と言われれば止まらなければならない。これは命に関わる事柄です。しかも軍隊は戦場で戦うわけです。100人の部下たちが一つの方向にピシッと一糸乱れずに行動しなければとんでもない大被害を受けることだってある。敵と相対して激しい撃ち合いの真っ最中に「伏せろ」と言われたときに全員がピシッと地面に伏せていなければならない。「私ぐらい……」と思って、首を出していて敵に見つかったらその人だけではなく他の仲間も一斉にやられてしまう。「俺一人が死んでおけばいいやないか」というわけにいかない。一人がその列を乱す、その言葉に従わなかったために部隊全部が全滅するのです。だから、軍隊での命令は厳しい。普段の訓練のときでも、「これは訓練だから」と言ってサボっている人がいたら厳しく叱(しか)られます。というのは、訓練も本番のときも、人が変わるわけではないからです。普段からきちっとそのことをたたき込まれるのです。だから、百卒長は自分が一言命じるならば、どんな事柄もそのとおりに動く。動かなければ命に関わる事柄である。言葉の重さといいますか、その大切さを百卒長は痛切に感じている。恐らくこの百卒長も一平卒、新米兵士になってからズーッと昇進して来て今の地位にあるんだと思います。その間自分がどれほど言葉の重大さといいますか、大切さを身にしみて来たのです。だから9節に「わたしも権威の下にある者」と告白しています。百卒長だからと言って自分の思いどおりにできません。自分の上には千卒長がいるでしょう。もっとその上には指揮官や将軍がいる。だからその命令一下、いちばん上の権威ある人の言葉は一平卒にまできちっと通らなければ軍隊として役立ちません。言ったのだが、どこかで途切れて消えてしまうのでは役に立ちません。伝言ゲームのように「止まれ」と言った話が最後は「行け」に変わっていたのでは、戦いにならない。負けます。だから、命令、すなわち言葉が徹底して重んじられる。軍隊で用いられる言葉の重さ、これを彼は十分知っていたのです。

ですから、イエス様に対して「ただ、お言葉を下さい」と。いうならば、彼はイエス様にその権威を認めたのです。イエス様を全てのものの上に立つ御方と彼はここで告白したのであります。自分が百卒長で100人の部下の隊長、また自分の上には更に重大な権威を持つ上官がいる。そういうきちっとした組織の中にある自分。そしてそのいちばん上の人の命令にはどんな人でも従う。その命令を与えてくれる御方としてのイエス様。あなたは私の上官、私の主ですと告白しているに等しいのです。このとき百卒長がイエス様に「ただ、お言葉を下さい。あなたのご命令で治ります」という徹底した告白だったのです。10節に「イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、『よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない』」と。ここに「これほどの信仰を見たことがない」と言われました。信仰というと、神様を信じること、「ヘブル人への手紙」にありますように「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」とあります(11:6)。これが信仰という話ですが、ここでは何のことを信仰と言っているか? 百卒長がどのようにイエス様を受け入れたかです。この百卒長はイエス様を権威ある御方と信じたのです。いうならば、全てのものがこの御方に従うものであると認めたのです。その全ての中に自分も含まれている。「私もイエス様、あなたに従って行きます。あなたの部下です」と。

私たちの信仰は、この百卒長のように「イエス様を私の主である」、しかも「権威ある、力ある御方である」と信じて行く。このことが一つです。毎日の生活の中で常に「私の主はどなたでいらっしゃるか」と、「私は誰に従うべきであるか」、このことをはっきりさせること、これが信仰です。「今日、私はイエス様に従って行きます。あなたは権威ある御方です。お言葉をください。命令を与えてください。私に命じてください。そうしたら、そのとおりに行います」。これが私たちの日々の信仰の歩みであります。まず、イエス様に従う。このイエス様をどういう御方と私たちが信じるか?これが信仰の姿であります。だから、百卒長のように、私たちは権威の下にある者、私たちは神様という権威ある御方、その御子でいらっしゃるイエス様、その御方がいま私たちの内に聖霊なる神として宿ってくださっておられる。このイエス・キリストを「私の主です」と信じる。ペテロがイエス様に告白した「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ 16:16)。「あなたは私の生ける神の御子、キリスト、救い主です」と告白いたしました。信仰です。だから、私たちがイエス様をどういう御方と信じているか。その御方にどのように従っているか。それが信仰の内実といいますか、内容でもあります。

二つ目のことですが、イエス様は「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われたのです、しかし、「いいえ、イエス様、あなたでなくてもお言葉をください」と言いました。ここでもう一つの信仰の姿として、御言葉、イエス様のお言葉はイエス様ご自身である。御言葉は神様の姿である。私どもの普段の生活でもそうですが、手紙を書いたり文章を書いたりします。そうすると、文章はその人の人柄を表します。その人の生き様とか背景とか生活感とか、いろいろなものを表すのです。文章を書くときのいろいろな書き方から書いている人の姿が見えます。本を読むと、使う言葉によって書いた人の生活環境が現れてくる。確かにそうだと思うのです。ですから、手紙などを読みますと「ああ、あのことだな」と、その雰囲気が伝わってきます。雰囲気といいますか、その人の持ち味が見えます。年賀状などでも同じです。年賀状はパソコンでいろいろな図案や言葉などを選んであてはめて、何分もしないうちに仕上がってしまいます。「それでは、あまりにも個性がない」と多くの人は思っていますが、案外そうではない。私も年賀状をたくさん頂きますが、見ていると「これはこの人だな」と大体想像がつきます。というのは、選んでいる絵柄であるとか、言葉であるとか、たくさんの選ぶ物の中からそれぞれその人の好みに応じて選んでいる。そうすると、その人の面影がその選び方のなかに入っています。ある人は非常にモダンなもので、ある人は非常に古風ものと。文章の選び方に付いても「謹賀新年」とする人もいますし「明けましておめでとうございます」とする人もいます。どれを選ぶかによって、大体毎年決まったパターンになってくる。私も何十年と皆さんから頂く年賀状を見ていますと、大体決まってくるのです。「これはあの人……」。時に差出人がないものがある。見ていると、「これはきっとあの人だな」と思う。しばらくすると「先生、ひょっとしたら私が出した賀状は差出人が書いてなかったから……」「あなただと分かっていましたよ」、「え!どうして分かりましたか」と。大体見ていると分かるのです。言葉というのはそういうものです。だから、しゃべり方でもそうです。本人が見えなくても言葉だけ聞いていたら「この話し方はあの方ではないかな」と分かります。それと同じように書いた言葉でもしゃべる言葉でもそこにその人のそのものがしみ込んでいるといいますか、ピタッとくっ付いている。

聖書の言葉もそうです。神様の御思い、神様の姿、そういうものが聖書のお言葉にはピシッとしみ込んでいる。だから「ただ、お言葉を下さい」ということは、取りも直さず、イエス様を自分のものとして、間近にその人自身と共にいることです。だから、いま私たちはイエス様を目に見ることはできませんし、手で触ることもその声を聞くこともできませんが、御言葉、イエス様の語ってくださった、神様が語ってくださった聖書のお言葉によって、私たちはイエス様に触れる。これが私たちの信仰であります。だから、聖書の言葉は神のお言葉であって、それが神様ご自身、キリストご自身をあらわしているものであると信じること。これが信仰です。ですから百卒長が「ただ、お言葉を下さい」と言ったとき、「イエス様、あなたを私のものにしたい。あなたを頂きたい」と言っていることでもあります。だから、イエス様は「これほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。多くの人々がイエス様を遠巻きにし、イエス様を眺めるだけでそれを自分のものにしたいと願った人はいなかった。いま私たちはイエス様を目に見ることができない、手で触ることもできませんが、御言葉をしっかりと握って行くとき、イエス様と一緒に生きているのです。イエス様が共にいてくださるのです。だから、御言葉を抜きにして信仰はあり得ないのです。

「ローマ人への手紙」10章14節から17節までを朗読。

17節に「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」と。私たちの信仰はどこから来るか。「信仰は聞くことによるのだ」と。確かにイエス様の話を聞くこと、ここから信仰が始まります。そして、いちばん聞かなければならない言葉は何か? キリストの言葉です。私たちがキリストの言葉を聞くことは、イエス・キリストに触れることに他なりません。イエス様に結び付く秘けつはキリストの言葉を心にしっかり信じてそれに従い行くこと。これが信仰の姿であります。だから、キリストの言葉によらない信仰はあり得ない。キリストの言葉を、聖書のお言葉、神の御言葉をしっかりと心に抱いて、そしてそれに従って行く。それが取りも直さずキリストが私と共におられることに他なりません。また、神様が私たちと共にいてくださることでもあります。だから、いつも勧められますように、み言葉を絶えず味わう。聖書のお言葉を繰り返し、繰り返し読んで、その中からお言葉を心に豊かに蓄えて持って行きますと、この御言葉はイエス様ご自身でもあって、キリストの力、イエス様の持てる全てが私たちの内に注がれ、満たされるのです。ですからここにありますように「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」。キリストの言葉を聞くこと、これが私たちの信仰の具体的な歩みです。

「マタイによる福音書」8章8節に「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。「ただ、お言葉を下さい」。私はいつもそう思うのですが、人の心は、ある種のマグネット、磁石のようなものです。皆さんも使われると思いますが、冷蔵庫などにメモを貼(は)り付けるとき、パチッと付ける磁石があるでしょう。あの磁石は木の床には付きませんが、鉄製の机の足であるとか、そういう鉄の所へピチッとくっ付きます。私たちの心に言葉が付くのです。いろいろな人の言葉が磁石のようにピチャッと付く。引き寄せるのです。だから、余程聞くことに注意をしておかなければなりません。殊に病気をしたり、何か問題の中にいると、人が言う言葉、「そんなことをしたら駄目よ。ああしたほうがいいよ」と言われると、それが瞬時に心にくっつく。あるいは「これを飲んだほうがいいんじゃない。これは効いたよ」と言われると「そうか」と。あるいは誰かが何かを言う。「あの人はああだったね。こうだったね」と、批判がましいことを言われると、そういう言葉はピシャッと付く。そして取っても、取ってもくっ付いてくる。外したはずなのに夜中にくっ付いてきて、目が覚めると思い出す。惜しいことにキリストの言葉はついポロッと忘れてしまう。キリストの言葉をくっ付けなければいけない。だから、8節の「ただ、お言葉を下さい」と。キリストの言葉を心にいつもピタッと磁石のように吸いつけておくと、人が何と言おうと、見える状態や事柄が何であろうと、心にいろいろな思いが湧(わ)いてこようと、お言葉が心にピタッとくっ付いて心が揺れない。そうしないと、「ああなったらどうしようか」「こうなったらどうしようか」とそちらのことばかり常に心に湧いてきて、気が付くとイエス様の言葉はポロッと落ちてしまってどこへ行ったか消えてしまい、見失うのです。そうでなくて、いつも「ただ、お言葉を下さい」と、イエス様のお言葉によらなければいのちがない。なぜならば、イエス様のお言葉、聖書のお言葉、御言葉は命だからです。先のご礼拝でも教えられましたように「命を選ばなければならない」(申命記30:19) 。私たちが歩む道は「ただ、お言葉をください」と。なぜならばイエス様がおっしゃったように「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)と。その前には「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」とあります。私たちにとっての命は、「わたしの語った言葉だ」とイエス様はおっしゃる。イエス様のお言葉には命があり、そこには権威があり、力があり、私たちの魂を生きるものと変えてくださる。だから、百卒長が「ただ、お言葉をください」と言った。私たちの信仰は何か? 御言葉を信じること、そしてお言葉を心にピタッとくっ付けて、いつもそのお言葉と共に生きること。そうしますと、気が付かないうちに私たちの内に新しい力が湧いてくる。私たちの心の思いを造り替えてくださる。不安と恐れと心配に凝(こ)り固まっていた心を解きほぐして、望みと喜びと感謝に変えてくださる。これは御言葉の力です。私たちをいのちに生きる者としてくださる。だから、私たちはこの御言葉をしっかりと握って行こうではありませんか。

どんな時にもイエス様はそうおっしゃるでしょう。ペテロがガリラヤ湖で漁を終えて仕事仕舞いをしていたとき、イエス様が「乗せてくれ」と言われて、岸に居る人々にお話をなさいました。その後「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。その時にペテロは「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と。「やめよう」と言ってもよかったのですが、「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と、イエス様の言葉を信じたのです。「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」、どうなるか分からないけれども、「踏み出せ」と言われたとき、ペテロはそのイエス様の言葉を信じたのです。「お言葉ですから」と、そして踏み出して行った。

 私たちもどんなことの中にも御言葉を握って「主がこのことを進めてくださる」。そのことをしっかりと心に置いて行く。これが私たちの信仰です。また、イエス様がカナの婚宴の席でマリヤさんが「ぶどう酒がなくなりました」と言って来ました。そのときイエス様は「わたしの時は、まだきていません」とえらい素っ気無く断りました。ところが、マリヤさんはイエス様のことをよく知っていましたから「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言って、その場をイエス様に任せてしまう。そこにいた僕たちに「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでも」、いうならば、「イエス様の言葉にはどんなことでも従いなさい」とマリヤさんは僕たちに命じたのです。なぜならば、イエス様のお言葉こそがいのちであり、力であることをマリヤさんも知っていたのです。

 いま私たちもそうです。どうぞ、この地上にあるかぎり、もちろん、いつまでもいるわけではありませんが、ここに残されて置かれている間、「お言葉をください」と常にこの百卒長のようにキリストの言葉を心に抱いて、お言葉にピタッとくっ付いて命令に従って行きたいと思います。この権威の下にある百卒長、「行け」と言えば行き、「来い」と言えば来る。苦しいときでもどんなにつらいと思う時であっても「行け」と言われたら、この上官の命令は命懸けで守らなければならない。私たちもイエス様には命を懸けて従う。このくらい覚悟をしようではありませんか。そして御言葉にしっかりと根差して、そのお言葉を握って、絶えず心を主に向けてこの信仰に立って歩む者となりたいと思う。ここにあるように「これほどの信仰を見たことがない」とイエス様が感心されたのは、み言葉に立つことだったのです。私たちも今この素晴らしい宝、キリストのお言葉を頂いている者であります。これを本当に味わって、その力と恵みといのちをくみ取って行きたいと思う。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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