いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(202)「憐みに生かされる幸い」

2014年05月18日 | 聖書からのメッセージ

 哀歌3章21節から33節までを朗読。

 

 22,23節「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。

 今年も早、一ヶ月の旅路がアッという間に過ぎてしまい、2月になりました。考えてみると、教会の場合は、12月、1月は多忙を極める、と同時に大変うれしい時でもあります。忙しくはありますが、次にあれをしよう、次はこのようなことがあると、毎日、するべきことがあります。「忙しい、忙しい、何でこんなに忙しいのだろうか」とつぶやく方がいますが、何もすることがなくなってご覧なさい、自分は何のために生きているのだろうかと思うに違いない。

 

 友人と電話で話をしたのですが、彼も私と同年で、今は現役を退き悠々自適の日々です。現役のときは銀行マンで随分活躍しておったので、役職を退いて暇になったと言えば暇になった。「何をしているの」と尋ねましたら、「いや、サンデー毎日だ」と。「何か楽しみがあるの」と聞くと「最近は、アメリカン・フットボールにこっている」と。アメフトは非常に面白いという話をして、「君がそんなのが好きだとは知らなかったね。いつからそうなったの?」と言いましたら、「自分は前から好きだった。だから今は夜中にテレビでアメフトの放映があるときに見ている」と。「そんなに夜遅く見るの」、「いや、どっちみち翌朝いつ起きたって同じことだから……」と。それを聞いてびっくりしまして、「そんな生活ってあるのかな」と思いました。私は、明日は何時に起きなければ……、その次の日は何時に起きてとスケジュールがたっていますから、好きなだけ思いっきりテレビを見て夜更かしをするなんて、したくてもできない。ところが聞いてみると、それしかしようがないのです。テレビを見て夜中を過ごす以外に望みがない、死を待つだけ。考えて見たら気の毒な話だと思います。それで、私に「君はどうしているのだ?」と言うので、一週間の予定を話しました。「忙しいね、いつまでそんなに働くの」「いや、死ぬまでかもしれない」と言いましたら、「それは気の毒な」と言われましたが、私は逆に彼は気の毒だな、と思う。

 

 生きるには絶えず何かの望みを持たなければ生きられません。次に何をしようかというのも一つの小さな望みです。皆さん、明日何もすることがない、と言ったら、朝起きる気力もでません。たまにそのような日があるのはうれしいですよ。忙しい中に、2,3日、何もスケジュールがない。何をしようかな。のんびり気晴らしでもしようとなりますが、「死ぬまで何もないよ」と言われてご覧なさい。どうやって生きますか。少なくとも、死んでから先に望みがあるならば、生きがいもわいてくるでしょうが、それも無ければどうにもしようがない。そうなると、何とか自分に望みを持って生きる生活を取り戻そうとして、いろいろ考える。いろんな行事を立てる。来週は何をして、その次は何をしてと、自分を忙しいスケジュールに置きたい。そして次が済んだらその次はこれ、あれがあるから、次はこれがあるから、そう言って、私たちは何かに希望をつなぎながら一日一日を送る。若い頃は子供の成長に合わせて、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学だ、就職だ、結婚だと、それがスケジュールになって望みとなります。ところが、子供たちも成長して、自立し、出て行ってしまう。結婚する。親も年を取って、老夫婦の老人ホームになる。そうして希望がなくなると、今度は孫に賭ける。孫が幼稚園に入った、小学校に入る、高校に入る。それが生きがいとなりますが、それも終わると、いい加減、物忘れもひどくなってタイミングよく何も考えないでも生きていけるようになるのかもしれません。しかし、それにしても、何が人を生かすのでしょうか。

 

 ある哲学者が『死に至る病』という本を書きました。時々、医学書と間違えて、読んだら全然違っていたと言われます。『死に至る病』とは、どの病気で死ぬかという、そのような医学書ではない。哲学書です。そこには人を死に至らせるものは病気ではないと言います。「死に至る病」は絶望だという。望みが絶たれたとき、人は生きることができなくなる。肉体的に生活を営むことができなくて、絶望するばかりでなく、死に対しての望みを持ち得なくなる。絶望というのはそういうものだと。皆さんは今何を望んで生きていますか?何が慰めとなり、望みを与えてくれるものとなっていますか。

 

 前にもお話しましたけれども、私の友人にそのような人がいまして、しょっちゅう何か望みを持たないと生きておられない。常に楽しみの行事を作る。来月はお花見に行こう、その次はどこどこに旅行をしよう。その次はここへ映画を観に行って、その次はこうしてと、スケジュールがあると元気が出る。その日が近づくとうれしくてたまらない。しかし、それが終わると、何かシュンとしている。次に望みがない。私はその人に“行事追っかけ症候群„という病名をつけたのです。常に何かそのような行事がないと、言うならば、広い意味での希望を持ちたい、望みをもって生きたいと願っているのです。ところが、何かできる間はそれを望みにすることができます。しかし、何かしていてもどうしても望みを持ち得ない事態や事柄が世の中にいくらでもあります。

 

 今読みました哀歌3章1節から20節までを読みますと、とんでもない悩みにあった人の苦しみが語られています。ちょっと拾い読みしてみますと、1節以下に「わたしは彼の怒りのむちによって、悩みにあった人である。2 彼はわたしをかり立てて、光のない暗い中を歩かせ、3 まことにその手をしばしばかえて、ひねもすわたしを攻められた。4 彼はわが肉と皮を衰えさせ、わが骨を砕き、5 苦しみと悩みをもって、わたしを囲み、わたしを閉じこめ、6 遠い昔に死んだ者のように、暗い所に住まわせられた」と。具体的にどのような悩みであったか、どのような苦しみであったのか分かりません。とんでもない病気になったのかもしれません。あるいは政治的な陰謀にあって犯罪人とされたのかもしれません。決して、自分のとがのために苦しめられたわけでもないようです。そして7節「彼はわたしのまわりに、かきをめぐらして、出ることのできないようにし、重い鎖でわたしをつながれた」とあります。言うならば牢屋に鎖でつながれて、逃げ道がない、出口がない、希望がない。8節以下「わたしは叫んで助けを求めたが、彼はわたしの祈をしりぞけ、9 切り石をもって、わたしの行く道をふさぎ、わたしの道筋を曲げられた。10 彼はわたしに対して待ち伏せするくまのように、潜み隠れるししのように、11 わが道を離れさせ、わたしを引き裂いて、見るかげもないみじめな者とし、12 その弓を張って、わたしを矢の的のようにされた」。「矢の的」とは、弓を射る練習のための的でしょうから、的に幾つでも矢が飛んでくる。まるで弓の練習場の的のように、神様から次から次へと苦しみ、悩みが私に押し寄せてくる。そして、一時として心が休まる時がない。14節以下に「わたしはすべての民の物笑いとなり、ひねもす彼らの歌となった。15 彼はわたしを苦い物で飽かせ、にがよもぎをわたしに飲ませられた。16 彼は小石をもって、わたしの歯を砕き、灰の中にわたしをころがされた。17 わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた」。まるでヨブのような苦しみですね。どうしてこのような悩みに遭うのだろうか、見えるところ、聞くところ、自分の置かれた状況や事柄からは望みがない、絶望の中に置かれているのです。17節に「わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた」と。自分の辞書には「幸福」という文字がない。また「平和」、心に平安がなくなってしまった。18節以下に「そこでわたしは言った、『わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った』と。19 どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。20 わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」と。次から次へと思いもかけない、肉体的、精神的に、心身ともに大変な苦しみに遭って希望が持てない、望みがない中にこの人は置かれている。もし、私どもがこのような目に遭ったら、世を呪い、人を呪い、憤りのもとに死んでしまうかもしれません。ところが、この人は20節に「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」と。望みのない、逃げ道のない、出口のない悩みの中、苦しみの中にあって、魂はうなだれてしまう。

 

では、それで終わりかと言うと、21節に「しかし」とあります。よく申し上げるように、聖書の中で「しかし」という言葉は大変力のある言葉です。望みがない、行き所がない、出口がない絶望の真っ只中で「しかし」と言うのです。その後に「わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく」。なんと、一つの事を思うとき、望みがわいてくると言うのです。見えるところ、聞くところ、一切のものの中に何一つ希望がない。けれども、ある一つの事だけを心に思うときに、私の内に望みがわいてくると言う。

 

どうでしょうか、皆さん、このような素晴らしい望み、絶望の中にも望みを与えてくれるものがあるならば、それを放っておくわけにはいかない。これを握っていきたいと思う。22節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。文語訳聖書を読みますと、「われらの尚ほろびざるはエホバの仁愛(いつくしみ)によりその憐憫(あわれみ)の尽ざるに因(よ)」とあります。今、私が滅びないで生きているのは、一重に神様の憐れみがあり、慈しみがあればこそ、私はこうして生きているのだ。これが望みなのです。「主」とは神様です。神様は慈しみ、慈愛豊かで、私に憐れみを注いでくださる、その憐れみや慈しみは決して消えることがないと言うのです。今、私がどんな絶望のふちに立とうと、あるいは見えるところ、聞くところ、内側も外側も、どこを取っても何一つ希望が持てない状況であるけれども、なお今、私がこのように生かされている。今ここに生きていること自体、実は神様の憐れみであり、また神様が慈しみ、慈愛をもって顧みてくださっているからではないかと。その神様がこの絶望の中にある私をも、決して捨てることをなさらない、いや、それどころか、神様はご愛のゆえに私どもに善をなしてくださる。神が愛であること、神様のご愛に思いを向けること、これが望みだと哀歌を歌った人は語っているのです。それはまた私たちも同じです。この地上の生活、日々の歩み、どこを取っても神様によらないものはない。まずこの地上に命を与えられ、ここに生きているのは、誰の力でもない。人の力ではないのです。神様が私たちを造り、この地上に置いてくださっている。そして、神様を知らないでいた私たちのために、ひとり子イエス様を遣わして「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり」(エレミヤ31:3)と、かぎりないご愛をもって「お前を愛しているではないか」と、十字架を立ててくださった。払うべき罪の代償、受けるべき神様の呪いと罰をひとり子イエス・キリストが受けてくださった。その事を通して神様が、あなたをこのように愛しているじゃないかと。「それはその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり」(ヨハネ3:16)と。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちを「永遠の命」に引き入れるために、神様はひとり子を遣わし、十字架を立ててくださった。この十字架を仰いでご覧なさい。神様は愛なる御方だよと語り続けている。たとえ絶望のふちにあろうと、問題や悩みの中に置かれようとも、神様はそれを知らない方ではない。神様の支配から離れて存在するものはどこにもありません。私たちは、こんな苦しい、こんな悩み、こんなつらいことの中に、どうして神様が……と不信をいだきますが、私たちには神様の意図が分かりません。しかし、神様はご愛をもって私たちをその中に置いてくださっている。

 

 ヘブル人への手紙12章5節から7節までを朗読。

 

 5節の後半に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない」と記されています。神様が私たちを訓練し、取り扱ってくださるプロセス、事柄の中に私たちが置かれている。どうしてこのような苦しい目に遭うのだろうか、なぜこのようなつらい思いをしなければいけないのだろうか、私には望みがないと絶望のふちに置かれた。実はそのこと自体を神様が起こしていらっしゃる。しかも、ひとり子を賜うほどの大きなご愛をもって愛してくださる御方があえて、そのような悩みや苦しみや困難の中に、あるいは絶望の中にまで置いておられる。ですから、6節に「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」と、「愛する者を」と語られています。神様は愛しているがゆえに、私たちを少しでも新しく造り変え、神様のみ心にかなう者になそうとしてくださる。言うならば、永遠の命の生涯、望みの中に私たちを立ち返らせるために、何とかしようとしているのです。私たちは、神様の深いみ思いを全部知り尽くすことができません。だから、いったいどうしてだろうか、なぜだろうか、なにゆえこうなったのだろうか、私は死ぬほかはない、と言ってつぶやき、悲しみ、嘆きます。しかし、決してそうではない。私たちが絶えず立ち返るべきところは、神様のご愛、慈しみ豊かな、憐れみの尽きざる御方であること。私どもを憐れんで、ご愛をもって取り扱ってくださっている神様に目を留めていくこと。目の前の事態や事柄、あるいは状況が変わったら望みがある、そのような見えるところ、聞くところで希望を持とうとするとき、必ず失望します。必ず裏切られます。ところが、神様のご愛に心を留めて、見える現実がどうであれ、今置かれている状況が何であれ、今はこのような状態であっても、神様は私を愛してくださってやまない。私のためにひとり子をも惜しまないで、十字架に命を捨ててくださった。神様は決してへまなことをするわけがない。そこまで神様に自分を委ね、主のご愛に自分を置いていくことです。

 

 7節に「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか」と。私たちの命の始まりとなってくださった御方は、同時に私たちの生涯を導いて最後まで責任を持って生かしてくださる方です。その間、どんなに絶望的、望みを持ち得ない闇の中に置かれようとも、なお「下には永遠の腕あり」と、神様は私たちを絶えず支えていてくださる。「もう生きる望みはありません」と言いつつも、「われらの尚ほろびざるはエホバの仁愛(いつくしみ)によりその憐憫(あわれみ)の尽ざるに因(よ)」と、今も滅びないでなおここに生きていること自体が、神様の憐れみであり、恵みであり、またご愛のゆえです。そこを信じて、目を留めていくならば、必ず望みがわいてきます。

 

 ローマ人への手紙5章3節から5節までを朗読。

 

 3節に「患難をも喜んでいる」と語っています。患難、苦しいことをどうして喜べるだろうか、これは私たちの常識です。世間の考え方としてはそうです。苦しいことを喜ぶわけがない、悲しいことを喜べるわけがない。「患難をも喜んでいる」なんて、そのようなことは到底できないと思います。患難の中にあるとき、望みがないから、つぶやいたり、嘆いたり、あるいは失望落胆して落ち込んでしまいます。ところが、ここでは「患難をも喜んでいる」と語っています。これは誠に驚くべき事態ではないでしょうか。もし私たちの人生で患難を喜ぶことができるならば、喜びに満ち溢れた人生です。喜びがあるときは、勿論喜びますが、患難のときも喜びます。となると、喜ばないときはありません。だから、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:16、17)と言われているのです。私たちは朝から晩まで喜んでおれるのですが、私たちはなぜか喜べない。患難や苦しいこと、つらいこと、いやなことは喜ぶまいとする、喜べないと思っている。ところが、ここに「患難をも喜んでいる」と。「なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」。患難、それは決してマイナスでもなければ、捨てるべきものでもなく、患難は忍耐を生む。耐え忍ぶ力を与え、「錬達」とは練られた品性、私たちの性情性格を造り変えて、その中から希望を生み出してくる。患難を耐え忍んで、その中で神様の恵みにあずかって望みを与えられる。最後に「そして、希望は失望に終ることはない」と、うれしいですね。大抵希望は失望に終わるものですが、失望に終わらない希望があるという。なぜか?その後に「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。神様の御霊によって、聖霊によって、私たちの心に神様は愛であると絶えず信じさせてくださる。ここに立つとき、「希望は失望に終ることはない」。先ほどの哀歌で歌われたように、「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく」と。あの苦しみの中で、絶望のふちにあっても、なお一つのこと、神様が慈しみ豊かな御方で、憐れみ豊かな御方、神様はご愛をもって私をあしらってくださる、握ってくださっていることに目が留まるとき、たとえどのような状況、事柄の中に置かれても大丈夫、ここから神様はどのようなことでもなし得給う御方であると信じることができる。望みがわいてくる。これは確かにそのとおりです。私どもも日ごとにそのことを絶えず経験いたします。

 

 私もいろいろな事を通して絶えずそこに立ち返らせていただきます。牧会伝道をしていますと、いろいろな問題の中に置かれます。自分自身の生活上の問題があります。殊に健康上の問題もあります。病気もします、どうなるか分からないなと不安に襲われることもあります。しかし、そのような中にあるとき、聖書のお言葉を通して神様のご愛に触れるのです。神様がこんな者をここまで生かしてくださっておられる。自分のこれまでの人生をもう一度振り返ってみてご覧なさい。私はそう思います。神様のご愛が分からない。神様は私をどのように愛してくださったのだと言われますが、ご自分が今まで生きてきた生涯を振り返ってご覧なさい。神様がどんなに恵んでくださったか、いろいろな中を今に至るまで顧みてくださったか、はっきりと知ることができます。自分がこうしてイエス様のご愛に触れて、献身の道に導かれ、伝道者としての道を歩むようになった時、いちばん大きかったのはこの事です。神様のご愛に触れ、圧倒されたのです。それまでも神様の愛のことを知っていたし、聞いていましたが、自分は神様に愛されて当たり前だ、このくらい恵まれて当然だと思っていたのです。ところが、実はそうではない。自分を振り返ってみますと、神様が私を造り、生かしてくださったご目的に、どれほどかなった人間だろうか、自分のことだけしか考えない、人をねたんだり恨んだり、心の中を見ますと到底人には見せられないような悪と憤りとねたみでいっぱいになって、感謝がない、喜べない不平不満の中にいた。しかし、そのような私に対して、神様はどのような取り扱いをしてくださったか。祈りに答えて見えるところの生活、条件、事柄を豊かに顧みてくださる。そのようなことを一晩のうちに思い返した時に、では、私は神様に何をしたのだろうか?神様は私をこんなにまで愛してくださっているのに、いったい何をしてきたのだろうか。その時、大きく主の十字架をはっきりと示されたのです。神様は、「わたしはあなたのためにこのように命を捨てたではないか。あなたはわたしのために何をしたのか」。何もしていない。ただ自分の楽しみのために、自分の欲望のために、自分の夢を実現する、自分の計画を追い求めてきた人生だ。ところが、そのようなわがままな生き方をしている私をも、神様は憐れんでくださった。滅ぼすことをなさらないで、今なお生かしてくださっている。その主のご愛に触れたとき、どうでもいいと言いますか、無責任な話ですが「後はどうぞ、神様、あなたのみ心のままに」と言うほかない。主のご愛に触れるとき、神様がどんなに大きなご愛で私を愛してくださったかを知るとき、あれがいいとか、これが悪いとか、ああなりたいとか、そのようなものはどうでもいい、どちらでもいい。ただ主が喜ばれることは何であるか、神様が私のために何を求めているか。ただみ心に沿うこと、神様の御旨にかなう者となりたいという切なる思いがあふれてきます。これは今も変わらない私の力です。だから、生きる望みを失って、どうしてこんな人生なのだろうか、もう少しましな人生を生きられたはずなのに、この年になったら仕方がないと、あきらめているなら大間違いです。もう一度、主がどんな大きな事を私のためにしてくださったか、つぶさに、事細かく、ご自分のこれまでの生涯を振り返ってご覧なさい。何か文句が言えますか。おれはもう絶望した、望みがないなんて言えるでしょうか。神様は死ぬかもしれない、これでおしまいだと思われるような中をも憐れんでくださったではありませんか。

 

 哀歌3章22節以下に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。誠に神様は私たちを愛し、いつくしんで、絶えず臨んでくださっています。「そのあわれみは尽きることがない」。神様の憐れみは尽きることなく、私どもに注がれている。しかも、それは昔一度だけではない。古びてほこりまみれになって蔵の中にしまわれているようなものではなくて、23節に「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。朝ごとに、毎朝新しいご愛と憐れみを注いでくださっている。これに目を留める、これに思いを向けるとき「わたしは望みをいだく」と、この記者は歌っているのです。それはまた、私たちの望みでもあります。

 

年を重ねていくにつれ、いろいろなことが消えていきます。力を失います。具体的に生活も不自由をきたしてきます。そうすると、生きる望みを失って「どうしてこんなにまでして生きなければいけない」とつぶやく。「早く死んだほうがいい」。私の家内の父などはそのように言います。「早く死にたい」「早く死にたい」と言いながら、「風邪をひいたらいけない」と言って心配しますが、私どもはそのようにとんでもないごう慢なのですね。神様に対して罪を犯しやすい。「死にたい」とか「もうこんなのはやっておられん!」なんて、なぜ言わなければいけない。それは自分が何かできる、神様のように思っているからでしょう。私たちは罪の塊、ただイエス様の十字架があればこそ、「父よ、彼らをゆるし給え」と今日も主が執り成してくださって、赦され、生かされる一日です。生活にどんな苦しみがあり、悩みがあり、困難があろうとも、神様の知らないことはないのであります。神様は全部ご承知のうえで、なお「お前はここを通れ」と言われる。「この中を生きよ」とおっしゃるのでしたら、どうしてそれを逃げることがあるでしょうか。

 

神様のご愛を信じて、神様は私にいちばんよいことをしてくださるに違いないと委ねましょう。理由や訳は分からないけれども、神様のみ思いは深く、知り尽くすことはできないけれども、私のためにきっと善をなし給う、善き事をしてくださる御方です。私を愛している方を絶えず心に留めていきたい。そこに望みを得たいと思います。「これは朝ごとに新しく」と、毎朝、新しい、新鮮なご愛と憐れみを受けるのです。朝起きると、このことを先ず心に置いて、「主よ、私はこんな悩みの中、こういう苦しみがありますが、あなたが生かしてくださいますから信じてお従いしてまいります」と、神様のご愛のみ手を握って、問題や事柄の中に失望落胆することなく、主の愛に望みを抱いて生きる者でありたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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