いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(258)「神の子の誕生」

2014年07月13日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書1章9節から13節までを朗読。

 

 12節「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。

 この御言葉に先立って、4節に「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ1:4)とあります。光となって、主が私たちの所へ来て、闇を照らし、取り除いてくださった。この9節にも同じく「すべての人を照すまことの光があって」と、もう一度そのことを言い換えています。

 

イエス様が光となってくださったことは誠に幸いなことですが、ただその光をどこに置くか?私たちの外側、周辺を照らして「明るくなった」ということである限り、私たちの内なる闇は消えません。外側をいくら明るくしても、内側にその光が宿らなければいつまでも闇に閉ざされます。イエス様が来られて「ああ、うれしい」と言って、感謝賛美します。私たちの思いの中に、生活の中にイエス様が入り込む、人と人との間にイエス様が立ってくださる。あるいは病気、経済的な問題、仕事の上でのトラブルだとか、そういうところに主が来てくださって、事柄を照らして明らかにしてくださる。それはそのとおりです。私たちの行く道筋を照らしてくださるイエス様の光であることは確かです。ところが、そうである限り、私たちの内なる闇は消えません。いろいろな問題にある時、悩みの中にある時、人との関係、いろいろな中にあって、そこでイエス様が光となって私たちに事の善し悪し、何が大切であるかを照らしてくださる。これは幸いなのですが、イエス様の救いはもう一つ、私たちの内なるものの救いです。人のことではない、誰のことでもない。イエス様は自分の内を照らす光なのです。人は、自分の内側のことにはあまり気がつきません。自分の内側にあるもの、それが闇であることにも気がつかない。暗いのは外側が問題、こういう悩みがある、こういうことがあるから暗闇になっている。だから「イエス様来てください、照らしてください」。と。イエス様の救いを求めて教会に来られて、何十年たっても変わらない。その人にとって、イエス様はいつも外側ばかりを照らしているのです。「イエス様の救いにあずかって感謝しています」「良かったですね。何があったのですか?」「いや、こういう問題の中で、こうして神様に祈っておったら、主がこういう道を開いてくださって、こういう問題を解決してくださった。家庭の中で問題があったけれども、イエス様がこうしてくださって、相手が変わってこうなって、ああなって……」と言われる。「それで、イエス様はあなたのどこにいらっしゃるの?」自分の内部を照らすお方となっているか?ということです。長年イエス様の救いにあずかったと言いながらも、何か問題があると、原因はあの人であり、この人であり、この息子であり、この娘であり、あのことであり、このことである。「では、あなたは?」と問われると、「いえ、私は別に悪い所はありません」と。問題は私たちの内に光がないからです。イエス様が来てくださったのは「すべての人を照す」と9節にあります。「照す」という言葉から思わされるのは、外側からサーチライトか、何か明かりを自分が浴びる姿です。まるで写真を撮る時、フラッシュが光って自分を照らしてくれる。そのような明かりのあり方を考えるならば、これはまだ不十分、イエス様の救いの真髄を取り逃がしてしまいます。イエス様は「すべての人を照すまことの光」、「照す」とは、私たちの内側を照らすのです。私たちの中に入り込んでくださる光です。だから、イエス様に出会うと自分がよく見えます。イエス様が内にあって照らしてくださるからです。夜帰ってくる時、外灯が明るくても、家の中に入ったら真っ暗です。最近は町が明るくなっていますから、家の中のほうが暗いでしょう。外が明るいから家の中も明るいかというと、そうではありません。家に入ったら、すぐスイッチを入れて明かりをつける。そうすると、家は明るくなって「あら、朝から出かけて片付いてないわ」と、いろんなものが見える。台所に洗い物が山になっていても、明かりをつけないで暗いままだったら気がつかない。イエス様が私たちのところへ来てくださったのは、外側を照らす方としてではなくて、内側から私たちのすべてを明らかにし、私たちを新しく造り替えるためです。

9節以下に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」とあります。「まことの光」を誰も知らないままに、光のない中にいつまでも居続ける状態であった。11節に「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」。人は、自分の姿をまともに見ることが怖いのです。自分がどんな人間であるか、どんなに汚れた者であり、どんなにかたくなな者であるか、そういう自分、ありのままの内なる自分を赤裸々に見せることは避けたい。どこかで逃げようとするのです。ところが、イエス様はまさにそこに明かりを照らす。私たちに対して「お前はそう思っているけれども、お前のこれはこうではないか。あれはああではないか」と、きちっと光を照らしてくださる。しかも、その明かりは薄暗いローソク程度の明かりではない。強力なサーチライトのような光で、私たちの内を照らす。だから「御言葉が打ち開けると、愚かな者を悟からしめる」とあるように、愚かな者がいろいろなものを悟ることができる。「ああ、なるほど……」と。それは内側も外側もひっくるめてです。だから、イエス様を信じていく時、イエス様の救いにあずかる時、おのずから自分が変わらざるを得ないのです。これは確かです。ところが、何十年たっても自分が変わらないクリスチャンは、外側ばかりを照らしているのです。それなりに感謝はしますが、肝心なところに明かりがついていない。クリスマスを毎年迎えますが、今年は格別、イエス様はどういうお方として私に来てくださったのか?そのことをしっかりと受け止めたいと思います。

 

12節に「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々」とあります。「受けいれる」とは、私たちの内に入っていただくことです。主が、イエス様が私たちの内に宿ってくださることです。これが「彼を受けいれる」ということです。また、それは、「その名を信じた人々」、イエス・キリストを、救い主イエス様を救い主と信じる人なのです。イエス様を受け入れることは、イエス様を救い主と信じていくこと。そうしたら、「彼は神の子となる力を与えた」と。今度は、イエス様が私の救い主となって、私のうちに住んでくださる。これがクリスマスの喜びの一つです。クリスマスにはいろいろな深い意味がありますが、その一つはここです。私たちの内に主が宿ってくださることです。ベツレヘムの馬小屋にイエス様がお生まれになった。あるいはマリヤさんにイエス様が宿ってくださったと言いますが、実はそれは、私たちの内にイエス様が生まれてくださることなのです。イエス様が私たちの内に住んでくださる。それを信じるのか、信じないのか、これだけです。だから、ここに「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々」、イエス・キリストを私の救い主と信じた、そして、救い主を主として、私たちが自分の心の中心に置いていくことです。その時、「彼は神の子となる力を与えた」、「神の子」としてくださる。神と共に生きる者、神の家族、神様のものと言いますか、神様の前にはばかることなく立つことができ、神様との交わりの中に私たちを置いていただく。子供となるのですから、これは最高の恵みです。

 

13節に「それらの人は」とあります。「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」と。「生れた」とあります。だから、イエス・キリスト、イエス様を神の子、救い主と信じていく時、「その名を信じて彼を受けいれるとき」、私たちは神様によってもう一度新しく生まれた者としてくださる。イエス様のしていることを見たニコデモ先生は、イエス様の所に来て、「あなたはただ者ではない。これは神様から遣わされた者に違いない」と、その秘密を探りにやってきました。そのとき、イエス様は「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3章)と二度繰り返されたのです。ニコデモ先生は「じゃ、今からお母さんのおなかに入ってどうして生まれることができますか」と、馬鹿なことを言いましたが、イエス様が言われたのはこのことだったのです。というのは、イエス様が生まれたこと自体、「肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れた」からです。

 

 ルカによる福音書1章34節から38節までを朗読。

 

 35節に「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう」とみ使いガブリエルが伝えました。マリヤさんにイエス様が宿ったのは、結婚したからとか、夫婦であったからという、そういう「肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず」、神の霊、神の力によって宿ったのです。それと同じ事が、私たちにも起っているのです。私たちは肉にあるものであり、罪の汚れの中に生まれた者ですが、私たちが「その名を信じた者」「彼を受けいれた者」となるとき、マリヤさんのおなかの中にイエス様が宿ったごとくに、神の御霊の力によって、霊によって新しく生まれた者としてくださる。だから、イエス様が処女マリヤから生まれた。そうでなければならない神様の必然的な理由があったのです。それは、イエス様をして、人の力ではない、誰のわざによるのでもない、神様の力によって、神の子たるものが人に宿ってくださる。言い換えると、既に人である私たちがイエス・キリストを信じることによって、イエス様がマリヤさんに宿ったごとくに、私たちも御霊によって、神の霊の力によって造り替えられて、神の子となるのだと証詞するためです。もし、イエス様がマリヤさんとヨセフさんが結婚したあとに出来た子供であるなら、肉の力で、人の力で生まれた者であるならば、私たちが御霊によって神の子とされるという、神様のわざは信じられません。

 

だから、よくキリスト教の「つまずきの石」があるという。その一つは「結婚しない女性から、イエス様が生まれたということは、せっかく信じようと思う人の心を砕いてしまう」と。それからもう一つは「死んだイエス様が墓の中からよみがえったと。これに至ってはもう荒唐無けい、そんなことを言うからキリスト教は伸びない!」と、ある方がそのようなことを言われたのを聞いたことがあります。しかし、逆にそれがなかったら、私たちは救いがない。私は殊にそのことを教えられます。だから、クリスマスにイエス様がおとめマリヤから生まれてくださった時に、御使が語ったように「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおう」、言い換えると、聖霊によって身ごもって、聖霊によってイエス・キリストが生まれた。神なるお方が肉体を持った人となって、人の内に宿ることを実証されたのです。それは取りも直さず、私たちがこの肉体に生きていながらも、神と共に生きることができる者に造り替えられることの証しです。クリスマスの出来事を深く味わっていただきたいのは、そこです。私たちは肉体を持ってこの地上に生きていて、本来到底「神の子」あるいは「神の家族」なんて呼ばれる者ではありません。神様から遠くへだたった者、次元が違う者です。神様の前に立つことすらもできない、汚れた、滅ぼされるべき、呪われた者であります。そのような私たちが神の家族にしていただけるとは、これはただ一重に神様の一方的なご計画とわざ、御心によるのです。そして、その具体的な証しがイエス・キリストです。神の位にいらっしゃったイエス様が被造物の私たちと同じ者となり、汚れたもっとも低い者として、馬小屋に肉体をもって生まれてくださった。神が人となってくださった。このことを通して、罪に汚れ、滅びの中に、闇の中に、黄泉の中に死んでいた私たちを神の子供に変えてくださった。イエス様は上から下へと来てくださいました。今度は私たちを黄泉のどん底から、神の民、神の子として引き上げてくださる。この下る力と登る力、これが一つなのです。ここにイエス様がおとめマリヤから生まれてくださった大切なメッセージが秘められているのです。だから、私たちは本当に感謝したいと思う。本来、神様の前に立つことも、神様を呼び求めることも、祈ることすらもできない、滅ぼされて当然、闇の中に失われていた者であります。それが今こうやって神様を信じる者としていただいた。それは人の力によってではなく、35節に「聖霊があなたに臨み」とありますように、言うならば、私たちにキリストの霊、御霊が私たちに臨んでくださったから、いま私たちは「その名を信じる」ことができるのです。イエスをキリストと告白する者となりました。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(Ⅰコリント 12:3)とありますが、私たちが今こうやって神様を「天のお父様」と呼ぶことができ、信頼する者としていただいたのは、ただ一重に御霊が私たちの内に働いてくださったからです。

 

 先ほどのヨハネによる福音書1章12節に「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」とあるように、神の子となる力を与えてくださった。だから、私たちは神の子としていただいたのです。「彼は神の子となる力を与えたのである」と、「神の子」ではなくて「力を与えられたので」、まだ神の子ではないのかと、へ理屈を述べる人がいますが、「神の子となる力」によって、神様の力によって、私たちを神の子と造り替えてくださる。だから、ヨハネの第一の手紙3章1節にありますように「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」。もうあなたがたは神の子ではないか。イエス様が神の子であられたように、私たちも今は神の子なのです。そして、キリストと共に神の家族として生きる者としていただいた。これは私たちの大いなる特権であります。私たちは今与えられた恵み、それがどんなに尊いものであり、また大きな大きな恵みであるかをしっかりと自覚していきたい。

 

12節以下にありますように「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」。ただ神様によって私たちも生み出された者とあります。私たちの内に神の子としての性質、イエス・キリストが宿ってくださるのです。だから、イエス様が具体的におとめマリヤの中に御霊によって生まれてくださったように、いま私たちは肉体にあるけれども、御霊によって神の子としてくださった。そして、私たちが神の子としての性状性格を受け継ぐ者となるために、イエス・キリストが私たちの内に宿ってくださる。ですから、処女降誕とは「イエス様がおとめマリヤに生まれた」ことが、肉体にありながら、そこにキリストを宿すことができることの前例と言いますか、お手本でもあるのです。だから、私たち一人一人が実はマリヤさんでもあります。そして、御霊によって主イエス・キリストを私たちの内に宿すことができる。主が私たちの内に宿ってくださる、その意味が一つと、もう一つは、イエス様がマリヤさんから生まれたように、私たちを神の子として、神様は新しく生んでくださったのだということです。

 

だから、私たちは肉によれば、ご両親のもとに生まれたわけです。戸籍抄本を見れば父何とか、母何とか、とちゃんと何がしという名前の下で、長男何々、長女何々という記録がありますが、それとは別の全く違う、キリストがマリヤさんの内に宿ってくださったように今度はキリストが私たちの内に宿ってくださる。それで、宿っていただくには、そこにありますように「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々」、「イエス・キリストを私の救い主」と本当に信じてそれを受け入れることです。へりくだることです。

先ほどのルカによる福音書1章37,38節に戻りますが、「『神には、なんでもできないことはありません』。38 そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った」。イエス様がマリヤさんのうちに宿ってくださる出発点はどこにあったかというと、まさにここです。御使ガブリエルがマリヤさんの所へ来た時、まだこのような状態ではなかった。26節から38節までにまとめて書かれていますから、一日のうちにバタバタと行ったように思いますが、恐らく私はそうではないと思います。私たちはなかなか鈍いですから、すぐには悟らない。マリヤさんも似たり寄ったりだと思います。初めは「嫌です、もうどうしてこんなことがありましょうか、わたしは結婚してないのに……」と、御使が何度となくマリヤさんに迫ってくださったのを、マリヤさんは拒みながら、拒みながら、そのうちに御霊によってだんだんと思いが変わっていく。そして、ついに「神には、なんでもできないことはありません」と、心から全能の力でいらっしゃる神様の前に、自分がいかに小さなものであるかを認めるようになります。そして最後に38節に「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。これがまさに「彼を受けいれる」ということです。マリヤさんがここで「お言葉どおりこの身に成りますように」、言い換えると、「そのとおりにしてください」と、受け入れたのです。だから、「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」と言われるのです。私たちがマリヤさんと同じように、「彼を」、イエス・キリストを「私の主です。救い主です」と信じて、「どうぞ、私の内に、主が私を占領して、私を握ってくださる。私はあなたに一切をささげます」と、心を開いてへりくだって、砕けた思いになって、神様の前に全面的に降伏すると、神の子として新しいキリストが私たちの内に住んでくださる。私たちの手のわざ、足のわざ、語る言葉、すべての中に神の子として、私たちを造り替えてくださる。「神われらと共にいます」、神様が共にいる神の民としての生活にかえてくださる。だから、マリヤさんのように常に「わたしは主のはしためです」、「イエス様、あなたは私の主です」と、その名を受け入れる者となりたい。いろいろな事の中で、「そうだ。主がいま私の内に宿ってくださっている」と確信する。そして、イエス様に私たちが聞く者となりたい。なぜならば、主を宿すことは取りも直さず、神様が私たちと共にいてくださることだからです。

 

マタイによる福音書1章18節から25節までを朗読。

 

これはヨセフさんのことです。御使がヨセフさんの所にも来てくださった。というのは、ヨセフは正しい真面目な青年でしたから「婚約者が身重になったなんて、そんな不道徳なことは許されん」と思ったのです。だから「ひそかに離縁しようと決心した」と。この婚約は解消という決心をしていたところに、御使が来て、20節「彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである』」と言った。ここでも御使はヨセフに「お前のいいなずけであるマリヤさんの内に宿った胎の実はこれは聖霊によるものだよ」と言っています。神のいと高き力が彼女を覆って、その御霊によって生まれる者がキリストである。それと同じように、私たちも神の御霊によって生み出され、もう一度新しく造り替えられる。それが神の子となるということです。イエス・キリストが神の子であられたように、私たちもイエス様に倣(なら)う者として、イエス様と同じように神の子としていただける。そして、イエス様が私たちの内に聖霊によって宿ってくださることによって、肉体にはありますが、キリストの、イエス様の性状性格に似る者へと造り替えられていくのです。これが、このクリスマスの出来事です。

 

そして、22節以下に「すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、23 『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である」。私はこのお言葉を深く味わされるのですが、イエス様が「神われらと共にいます」という意味だと言われます。イエス様がこの世に来てくださった使命、ご目的はまさにここなのです。ほかにもありますが、その一つはこれです。イエス様が私たちの内に宿ってくださるとき、私たちもまた神と共にあるのだということです。私たちは目に見えません、手で触ることもできません。声も聞こえないけれども、絶えず私たちの内に、主が、イエス様が宿ってくださること、即ち創造者であり、全能者でいらっしゃる神と共に生きる者、神と共にある者としてくださっているのです。このことを、しっかり自覚したい。「そういう話か」と、スーッと右から左に過ぎ去るのではなく、そのことをいつも、絶えず自覚して「そうだ。今日もイエス様を信じる私は神様が共にいてくださって、朝から夕べまで一つ一つのわざを神様が備えて導いてくださるのだから、私は神の子なんだ」と、自分にはっきりと言い聞かせてください。「神の子というのはうれしいけれども、自分を見るとそんな神の子らしいところはどこにもないし、ちょっと口幅ったい。そんなことを言ったら、恐れ多く私の口が裂けそうで……」と。そんな遠慮はいりません。「あなたを生んだ」と言われる。私はあの両親から生まれただけでは駄目です。「私を生んでくださった神様、神の霊によって私は生まれて、今は神の子とせられた」。これが私たちの確信です。これを日々決して忘れてはならない。努めて自分で自覚していかないと、身につかない。私どもは、毎朝起きたら「今日も神様は私と共にいてくださる」。イエス様が私の内に宿ってくださる。「今日も神の子として力を与えてくださって、私にわざをさせてくださる。一日を生きる者としてくださるのだ」と信じていただきたい。そして「今日も神の子として、あなたの子供らしい生き方をさせてください」と求めるのです。そうすると、気がつかないうちに、今までの自分と変わって、全く造り替えられて、キリストの姿かたち、身丈にまで成長させてくださる。私たちの内側を光が照らして、清めて、神の子にふさわしいものへと造り替えてくださる。周囲の者や人ではなくて、自分自身が、キリストの栄光の姿へと変えられる。

 

 ヨハネによる福音書1章12節、「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。神の子としての力を日々与えて、私たちをして神の子に名実共に造り替えようと、神様は日々御霊を注いでおられます。どうぞ、このお言葉を信じて、どんな時にも「私は神の子である」と自覚してください。神の子にふさわしい歩みを神様が実現してくださるのです。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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